「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2007・09・16

2007-09-16 09:11:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昭和61年8月の文章です。

 「むかし私は『鴛鴦(えんおう)』という題でおよそ以下のような文章を書いたことがある。
 ――私の妻は私の理解者ではないのに二十三のとき私のところへおしかけてきた。何用あって来たのだろう。私は妻とは反対の性質で、私が眠れない人なら妻は眠る人で、私がいかさま師なら妻はまっ正直な人である。こうした二人が共に暮して十なん年になる。私は古人のいわゆる残燈焰なくして影幢々(とうとう)たるころ、何ものかに驚いて俄破(がば)とはねおきることがしばしばある。見ると妻は一心不乱に眠っている。以前はいまいましく思ったが、今は眠るものは快く眠らせておく。
 けれどもこの人は何者だろうと思わずにはいられない。つくづくみると見知らぬ人である。あかの他人が横たわっているのである。彼女は私の『作り話』がきらいである。それなら彼女は私の sex アピールに迷って来たのだろうか。
 アハハハ。いくら私が自惚が強くても、そんなものの持主だと言いはりはしない。あるいは妻は永久就職とやらのつもりで来たのだろうか。否々断じて否。彼女はそれほど卑しくはないと私は弁じなければならない。
 どんな画家の妻も自分の亭主の画だけは理解するという。その理解さえしないのを実は私は徳としている。いま漫画の多くは面白くないというより分らない。編集子が分らないと言うと画家は色をなして女房は分って笑ったぞと言う。女房はその話の経緯を知って補って笑ったので、ここは女房の出る幕ではない。補う材料を持たぬ全読者は分らぬと言ってもきかないから、そのまま載せて漫画の大半は次第に分らなくなったのである。
 だから私は理解なき女房のほうがいいと思っている。もしそれが芸術なら『毒』を含む。毒は婦女子の喜ばないところのものである。
 文句を言えばきりがないが妻は家事なら大過なくしている。私がメモに妻の悪口を書いておくと、ほかのものは発見しないがこれだけは発見する。妻の想像力は亭主のポケットには及んでもそれ以上に及ばない。
 それなら別れるかというと別れない。読者はあるいはわが年来の孤独を憐れむかもしれない。また私が妻を描いて冷たいと思うかもしれない。けれども三十年もたってみてごらん二人は依然として夫婦だから。そして世間は鴛鴦のちぎり浅からぬ夫婦だと言うにちがいないからというほどのことをもう少し長く委曲を尽して書いた。(中公文庫『日常茶飯事』)

 読んで妻はにが笑いした。以来三十年に近い歳月はたった。おお二人は依然として夫婦である。妻は二月二十七日赤坂の前田外科に入院して五月十一日力尽きて死んだ。ガンと知って七年リウマチを併発して四年、この病院に入院して七十四日めである。妻は入院する前の日まで買物をして洗濯をして自分の勤めをはたした。」

   (山本夏彦著「生きている人と死んだ人」文春文庫 所収)

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