今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「男女を問わず、私は子供が成年に達したら、親は口だしすべきではないと思っている。いつまで親子が同棲して
世話をやけば、子供は一人前にならない。」
「木の葉が落ちたあとを見ると、次に生える若葉の用意ができている。落花いずくんぞ惜しむに足らん、
枝葉すでに参差(しんし)たり、という。
木々には木々の命のサイクルがある。人には人のそれがある。子供がはたちになったということは、その用意が
できたということである。すなわち、前の葉っぱは落ちるべきである。
人間五十年とはよく言った。遅く三十で結婚しても、五十になれば子は成年に達する。してみれば五十は人間の
サイクルか。
落ちよと前の葉っぱに言っても、寿命が尽きないこともあろう。そのとき昔は隠居した。現役を去ったのである。
今も昔も、人間は五十年なのではないか。歯が抜け、目はかすみ、髪がぬけるから、古人はいやでも老年が来た
ことを思い知ったが、今人は思い知らない。また知りたがらない。眼鏡をかけ、入歯して、かつらでもかぶれば、
自他をあざむくことは容易である。
けれども、その眼鏡と入歯を去った寝姿を見よ。選手交代する時期は来ているのである。
近ごろ寿命はのびるばかりだと、喜ぶものがある。平均年齢六十なん歳が、七十なん歳になったと喜ぶものがある。
あれは赤ん坊が死ななくなったからで、赤ん坊が死ななければ、平均寿命はみるみる高くなる。べつに栄養がよく
なったから、五年や六年なら本当にのびているのかもしれない。
けれども老年の上に、さらに十年、二十年を加えて何になろう。人は年をとればとるほど、利口になると思うのは、
むろん間違いである。我々の肉体は、二十歳を越えれば下り坂に向う。脳みその如きは十なん歳で発育がとまる。
なまじ栄養がよいと、一部分はすでに死んだのに、他の部分が生きているために、なお生き続けて、自他の迷惑になる。」
(山本夏彦著「変痴気論」中公文庫 所収)
「男女を問わず、私は子供が成年に達したら、親は口だしすべきではないと思っている。いつまで親子が同棲して
世話をやけば、子供は一人前にならない。」
「木の葉が落ちたあとを見ると、次に生える若葉の用意ができている。落花いずくんぞ惜しむに足らん、
枝葉すでに参差(しんし)たり、という。
木々には木々の命のサイクルがある。人には人のそれがある。子供がはたちになったということは、その用意が
できたということである。すなわち、前の葉っぱは落ちるべきである。
人間五十年とはよく言った。遅く三十で結婚しても、五十になれば子は成年に達する。してみれば五十は人間の
サイクルか。
落ちよと前の葉っぱに言っても、寿命が尽きないこともあろう。そのとき昔は隠居した。現役を去ったのである。
今も昔も、人間は五十年なのではないか。歯が抜け、目はかすみ、髪がぬけるから、古人はいやでも老年が来た
ことを思い知ったが、今人は思い知らない。また知りたがらない。眼鏡をかけ、入歯して、かつらでもかぶれば、
自他をあざむくことは容易である。
けれども、その眼鏡と入歯を去った寝姿を見よ。選手交代する時期は来ているのである。
近ごろ寿命はのびるばかりだと、喜ぶものがある。平均年齢六十なん歳が、七十なん歳になったと喜ぶものがある。
あれは赤ん坊が死ななくなったからで、赤ん坊が死ななければ、平均寿命はみるみる高くなる。べつに栄養がよく
なったから、五年や六年なら本当にのびているのかもしれない。
けれども老年の上に、さらに十年、二十年を加えて何になろう。人は年をとればとるほど、利口になると思うのは、
むろん間違いである。我々の肉体は、二十歳を越えれば下り坂に向う。脳みその如きは十なん歳で発育がとまる。
なまじ栄養がよいと、一部分はすでに死んだのに、他の部分が生きているために、なお生き続けて、自他の迷惑になる。」
(山本夏彦著「変痴気論」中公文庫 所収)