「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

落花いずくんぞ惜しむに足らん 2007・09・29

2007-09-29 07:50:00 | Weblog
  今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

  「男女を問わず、私は子供が成年に達したら、親は口だしすべきではないと思っている。いつまで親子が同棲して

  世話をやけば、子供は一人前にならない。」

  「木の葉が落ちたあとを見ると、次に生える若葉の用意ができている。落花いずくんぞ惜しむに足らん、

  枝葉すでに参差(しんし)たり
、という。

   木々には木々の命のサイクルがある。人には人のそれがある。子供がはたちになったということは、その用意が

  できたということである。すなわち、前の葉っぱは落ちるべきである。

   人間五十年とはよく言った。遅く三十で結婚しても、五十になれば子は成年に達する。してみれば五十は人間の

  サイクルか。

   落ちよと前の葉っぱに言っても、寿命が尽きないこともあろう。そのとき昔は隠居した。現役を去ったのである。

   今も昔も、人間は五十年なのではないか。歯が抜け、目はかすみ、髪がぬけるから、古人はいやでも老年が来た

  ことを思い知ったが、今人は思い知らない。また知りたがらない。眼鏡をかけ、入歯して、かつらでもかぶれば、

  自他をあざむくことは容易である。

   けれども、その眼鏡と入歯を去った寝姿を見よ。選手交代する時期は来ているのである。

   近ごろ寿命はのびるばかりだと、喜ぶものがある。平均年齢六十なん歳が、七十なん歳になったと喜ぶものがある。

   あれは赤ん坊が死ななくなったからで、赤ん坊が死ななければ、平均寿命はみるみる高くなる。べつに栄養がよく

  なったから、五年や六年なら本当にのびているのかもしれない。

   けれども老年の上に、さらに十年、二十年を加えて何になろう。人は年をとればとるほど、利口になると思うのは、

  むろん間違いである。我々の肉体は、二十歳を越えれば下り坂に向う。脳みその如きは十なん歳で発育がとまる。

  なまじ栄養がよいと、一部分はすでに死んだのに、他の部分が生きているために、なお生き続けて、自他の迷惑になる。」

      (山本夏彦著「変痴気論」中公文庫 所収)



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