今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続きです。
「彼女はガンと知って以来手帳にメモをつけるようになった。主として医師に問われたとき答える病歴を書いた。ついでにいつ畳がえをしたかいつ植木屋がはいったかを書いた。毎年正月二日には子供たちが来る。この正月二日にも来た。
『二日(木)はれ。苦しい。皆々来る。たのしかった。そのせいか少しラク』とある。このときすでに両肺はおかされていたのである。国立国府台病院には定期的に通っている。二月になってもこの呼吸困難に注目してくれる医師はいなかったのである。私はとがめているのではない。ガンにはこういうことがありがちなのを嘆いているのである。
注目してくれたのは古いなじみのホームドクターで事務所に危急の電話があったので、私は奔走してその日二度ころんだ。頭は急いでいるのに足が頭の命令をきいてくれないのである。幸い平ぐものように上手にころんだので大けがしないですんだ。
入院したてのころ妻は私が朝晩何を食べているのかを案じた。試みに二度ころんだと言ったらホームドクターにみてもらえ、ついでに採血して他の病気の有無も調べてもらえ、それからこの個室は一日いくらか、金ばかりつかわせてとすまながった。またこないだ買ってくれた寝巻のがらを女の見舞客にほめられた、云々。
これらの多くは枕もとの電話で語った。三月いっぱいはまだ長電話する力があった。四月半ばからは受話器を持つに耐えなくなった。このころから言うことがとげとげしくなった。
二度ところばぬようにこのごろ私は竹ふみを試みている。はじめ百回すぐ二百回できるようになったと言うと、丈夫な人は結構なこととそっぽを向いた。炊事場にオーブンがあると言うとあれはパン焼きにすぎない。その区別もつかないのかと言った。はじめ喜んだ見舞客をいやがるようになった。ことに客同士が話すのをいやがった。あれは生きてさかんな人たちの死んでいく人そっちのけの話である。病室から外にかける電話もうるさがった。私は察してロビーの公衆電話を利用するようにした。
回診の若い医者に『あたし帰れるのでしょうか』と難題を吹きかけた。『帰れるとも、蒲団がしめっていたから乾しておいたぞ』と私は助け舟をだした。
この時期が去るとおだやかになった。手帳のメモは五月二日で終っている。五月八日もう口がきけなくなった。『オレの言うことだけ聞いていろ、答えなくていい』と言うとうなずくから頭ははっきりしているのである。けれども言うべき何があろう。私は手のひらから二の腕までさすりあげさすりおろして、あらぬ作り話をした。何日か繰返したころ妻は全身がまだ生きていて、肺だけで死ぬもののながい苦しみを苦しんだあげく死んだ。
堀の内の天台山真盛寺で告別式をしてもらった。その時の挨拶状を以下に載せることを許してもらう。私は古くは鈴木三重吉桐生悠々、近くは吉川幸次郎田中美知太郎の追悼文を書いて戯れに追悼文作家と称したことがあるが、かくの如きを書こうとは思わなかった。
妻すみ子はひとくせあって 私の書いたコラムを認めませんでした いわゆる理解なき妻で 私はおかげできたえられたと言って ふたりは笑うにいたりました 名高いうたの文句に おらが女房をほめるじゃないが ままをたいたり水しごと というのがあります 彼女はそれを畢生(ひつせい)のしごとにして 世間には自分が認めないものを 認めるひとがあるのに満足していました
本日はありがとうございました」
(山本夏彦著「生きている人と死んだ人」文春文庫 所収)
「彼女はガンと知って以来手帳にメモをつけるようになった。主として医師に問われたとき答える病歴を書いた。ついでにいつ畳がえをしたかいつ植木屋がはいったかを書いた。毎年正月二日には子供たちが来る。この正月二日にも来た。
『二日(木)はれ。苦しい。皆々来る。たのしかった。そのせいか少しラク』とある。このときすでに両肺はおかされていたのである。国立国府台病院には定期的に通っている。二月になってもこの呼吸困難に注目してくれる医師はいなかったのである。私はとがめているのではない。ガンにはこういうことがありがちなのを嘆いているのである。
注目してくれたのは古いなじみのホームドクターで事務所に危急の電話があったので、私は奔走してその日二度ころんだ。頭は急いでいるのに足が頭の命令をきいてくれないのである。幸い平ぐものように上手にころんだので大けがしないですんだ。
入院したてのころ妻は私が朝晩何を食べているのかを案じた。試みに二度ころんだと言ったらホームドクターにみてもらえ、ついでに採血して他の病気の有無も調べてもらえ、それからこの個室は一日いくらか、金ばかりつかわせてとすまながった。またこないだ買ってくれた寝巻のがらを女の見舞客にほめられた、云々。
これらの多くは枕もとの電話で語った。三月いっぱいはまだ長電話する力があった。四月半ばからは受話器を持つに耐えなくなった。このころから言うことがとげとげしくなった。
二度ところばぬようにこのごろ私は竹ふみを試みている。はじめ百回すぐ二百回できるようになったと言うと、丈夫な人は結構なこととそっぽを向いた。炊事場にオーブンがあると言うとあれはパン焼きにすぎない。その区別もつかないのかと言った。はじめ喜んだ見舞客をいやがるようになった。ことに客同士が話すのをいやがった。あれは生きてさかんな人たちの死んでいく人そっちのけの話である。病室から外にかける電話もうるさがった。私は察してロビーの公衆電話を利用するようにした。
回診の若い医者に『あたし帰れるのでしょうか』と難題を吹きかけた。『帰れるとも、蒲団がしめっていたから乾しておいたぞ』と私は助け舟をだした。
この時期が去るとおだやかになった。手帳のメモは五月二日で終っている。五月八日もう口がきけなくなった。『オレの言うことだけ聞いていろ、答えなくていい』と言うとうなずくから頭ははっきりしているのである。けれども言うべき何があろう。私は手のひらから二の腕までさすりあげさすりおろして、あらぬ作り話をした。何日か繰返したころ妻は全身がまだ生きていて、肺だけで死ぬもののながい苦しみを苦しんだあげく死んだ。
堀の内の天台山真盛寺で告別式をしてもらった。その時の挨拶状を以下に載せることを許してもらう。私は古くは鈴木三重吉桐生悠々、近くは吉川幸次郎田中美知太郎の追悼文を書いて戯れに追悼文作家と称したことがあるが、かくの如きを書こうとは思わなかった。
妻すみ子はひとくせあって 私の書いたコラムを認めませんでした いわゆる理解なき妻で 私はおかげできたえられたと言って ふたりは笑うにいたりました 名高いうたの文句に おらが女房をほめるじゃないが ままをたいたり水しごと というのがあります 彼女はそれを畢生(ひつせい)のしごとにして 世間には自分が認めないものを 認めるひとがあるのに満足していました
本日はありがとうございました」
(山本夏彦著「生きている人と死んだ人」文春文庫 所収)