今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続きです。
「妻は私の書くものを読むと頭が痛くなると言った。自分が痛くなるばかりでなくたいていの人は痛くなると言って譲らなかった。彼女は理屈を言うのは得意でないから私がかわって言うと、いつも同じ例で恐縮ながらこうである。
―老人のいない家庭は家庭ではないと言えば老人は喜ぶ。若者はいやな顔をする。けれども今の老人は老人ではない。迎合して若者の口まねをする。老人と共にいても若者は得(う)るところがない。追いだされるのはもっともである。
以上あら筋だけなら百字に足りない。肉をつけても八百字(二枚)で言える。妻がきらうのはこのたぐいで、老人がいない家庭は家庭ではないという話だけならいい。そのつもりで読んでいると話は一転し再転して応接にいとまがない。
けれども私が私であるゆえんはこういう発言にある。変痴気論にある。それを認めなければ妻は私のところへ来た甲斐がないと言ってもむかし彼女は勝手に来て私は来るにまかせたのだから仕方がない。世間には何度も妻をとりかえる人があるが、あれはくせである。とりかえたって同じことだと知るから私はとりかえない。とりかえようと思ったこともない。」
(山本夏彦著「生きている人と死んだ人」文春文庫 所収)
「妻は私の書くものを読むと頭が痛くなると言った。自分が痛くなるばかりでなくたいていの人は痛くなると言って譲らなかった。彼女は理屈を言うのは得意でないから私がかわって言うと、いつも同じ例で恐縮ながらこうである。
―老人のいない家庭は家庭ではないと言えば老人は喜ぶ。若者はいやな顔をする。けれども今の老人は老人ではない。迎合して若者の口まねをする。老人と共にいても若者は得(う)るところがない。追いだされるのはもっともである。
以上あら筋だけなら百字に足りない。肉をつけても八百字(二枚)で言える。妻がきらうのはこのたぐいで、老人がいない家庭は家庭ではないという話だけならいい。そのつもりで読んでいると話は一転し再転して応接にいとまがない。
けれども私が私であるゆえんはこういう発言にある。変痴気論にある。それを認めなければ妻は私のところへ来た甲斐がないと言ってもむかし彼女は勝手に来て私は来るにまかせたのだから仕方がない。世間には何度も妻をとりかえる人があるが、あれはくせである。とりかえたって同じことだと知るから私はとりかえない。とりかえようと思ったこともない。」
(山本夏彦著「生きている人と死んだ人」文春文庫 所収)