「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2013・08・05

2013-08-05 14:50:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「日記を書いた日」より。

「このごろになって、日記を書いておけばよかったと思うことがよくある。たとえば、こうやって古い日のことを書こうとするとき、あのとき誰といっしょだったのか、何という映画を観たのか、それだけでも判ればずいぶん助かるのだが、私には若いころから日記を書く習慣がない。と言って、向田邦子さんみたいに記憶力がよくないので、十年もたつと余程のことでもない限り、すべてはぼんやり夕靄の中である。
 しかし、仮に自分の人生の毎日を克明に記録し続けた日記帳が、何十冊も目の前に積み上げられているとしたら、これまた困ったことになる。それも長いこと忘れていたのを物置の隅から持ち出してきたというのではなく、いつも傍らにあって繰り返し読みつづけたりしていたら、いったいどういうことになるだろう。つまり、どんなに古いことでも、長い年月の間、絶えず反復することによって、記憶は現在との間の断絶のないまま、いつも鮮明なままでいるかもしれない。人間の脳の中には、記憶の部屋というものがあって、そのキャパシティーは限られているのではないかとは思うのだが、たとえば一年ぐらい前のことだったら、その日の出来事について書いた自分の文章を読めば、ほぼ正しく、そのときいっしょにいた人の顔も、会話も情景も、思い出すことができるのだから、それが十年、二十年以前であっても、反復して読み返し、思い出してさえいれば、〈記憶〉は限りなく〈記録〉に近づくように思えるのである。
 怖いことだと思う。楽しく嬉しかったことだけなら、まだいい。二度と思い出したくないことだって、記録ならば正確に記してあるわけである。たとえばある日、これ以上好きになれないくらい好きになった人を失くしたとしよう。忘れたくても忘れられないほどの傷を負ったわけである。でも、人はいつかそれを忘れて行くものなのだ。都合よくと言えば確かにそうなのだが、無意識に忘れようと努めることで、人はなんとか自分を庇い、守っていくしかないのだ。けれど、そこにあまりに正しい記録があって、尚且つ、それを反復しなければならないとしたなら、多分その人は生きていけない。いいことも悪いことも、おなじように夕靄の向こうに置いてきて、だんだんそこから遠ざかり、悔やみながら、嘆きながら、なんとかその日その日のささやかな幸せを手に入れているのだ。

 でも、そう言いながらも、日記を書いておけばよかったと思ったことが、いままで何度もある。ただ闇雲に走ってきたような自分の人生が、急に不安になったりするとき、せめて日記をよすがに昨日までの道を辿り、ちょっと迷っただけで駈け抜けてきた幾つかの曲がり角だけでも思い出してみたいと思うからである。だから明日からどうなるものでもあるまいが、それが人間のあきらめの悪さというものである。夕靄の向こうに置いてきたものを、取りに戻ったって見つかるはずがないのに、そんなこと百も承知しているのに、潤んだ目で薄闇をすかしてみる。――あれは忘れ物だったのではなく、捨ててきた物だったのだ。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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