今日の「お気に入り」は、大森荘蔵(1921-1997)著「流れとよどみ」より。
「過ぎ去った日々や亡くなった人々のことが時折思いもかけず心によみがえる。そのときそうした思い出や面影は何か過去の形見が残されたもののように思われる。それらの日々や人々はもはや二度と戻らないが何かその影のようなものがわれわれの手元に残されている、といったように。ただその影によってわれわれはかろうじて過ぎ去り失われた時とつながっているのだ、と。
つまり今われわれに残されているのは、過去そのものではなくその過去の写しなのだと感じるのである。過去はひとたび去れば再び還らない、ただそのいささかの記憶が残留しているだけなのである、と。この、記憶とは過去の出来事や人々の『写し』である、という思いはわれわれの心に深く根づいている。われわれの言葉遣いにもそれは明らかであろう。『記憶に焼き付いている』、『眼に焼き付いている』、『いまだにあざやかな記憶』、『記憶に新しい』『記憶がうすらぐ』、『淡い記憶』『旧い記憶』等々、これらの言い廻しにはまぎれもなく『写真』の比喩が下敷きになっている。その時々の印象や体験が人間カメラで写されて頭の中にしまいこまれる、そのアルバムからあの写真この写真がふいと浮かび上がる、新しい写真は概して鮮明だが昔のものになるにつれ色はあせ形はぼけてくる。しばしば、あったはずの写真がいくら探しても見つからない、それなのに時には思いもかけなかった写真浮かび出てわれわれをなつかしがらせる。こういった『写真』の比喩がある。心理学者もまたこの比喩の下に、記憶心像(イメージ)だとか記憶痕跡(エングラム)などを語るのである。
脳生理学者がこの痕跡を大脳その他の何らかの機構や物質だと考えたくなるのも無理からぬところであろう。だいぶ昔、といっても戦後であったが、面白い実験が話題になったことがある。プラナリア(渦虫)という小さな下等水中動物に条件付け訓練によって電気ショックの方を避け、餌のある方に行かせるようにする。そう訓練したプラナリアを、今度は未訓練の別のプラナリアに食べさせたところ食べた未教育のプラナリアもちゃんと電気を避けて餌に向かった、というのである。この実験はその後確認されなかったようであるが、もしそういうことがあるならば人の爪の垢を煎じて飲んで利口になるといったことも不可能ではあるまい。それはさておいても、失語症その他記憶障害の研究から脳が記憶の保持や再生に強い関連をもっていることは今日疑う人はいないだろう。
しかし、脳が記憶に密接な関係をもっているということと、『写し』の比喩が正しいということとは別のことである。私には『写し』の比喩には基本的な誤解があるように思える。
ある風景の『写し』、例えば写真であるとか絵である場合それは元の風景と同様に眼で見ることのできるものである。それは見えるものとして、見える細部をもっていなければならない。例えばそれが写真であるならばそのどの小部分といえども定まった黒白の濃淡なり色調なりをもっている。つまり、その小部分に着目することができるし、その着目した小部分は特定の濃度なり色調なりをもっている。ところがわれわれが何かの風景を記憶の中に思い浮かべるとき、それがどんなに熟知した風景の場合でもそのように見つめることのできる細部をもっているだろうか。自分の部屋の机の右隅の一点とか、母親の顔の唇の端とかを記憶の中で見つめることができるだろうか。できまい。また、その記憶の中の机や母親の顔を忠実に写生しようとしてみてほしい。それもできないことがわかるだろう。絵の上手な人ならば、それらの記憶から、あるいはそれらの記憶に頼ってその机や母親の顔を画くことはできよう。しかしそこで画かれた机や顔は本物の机や本物の顔に似せた絵であって、記憶の中に浮かんだ机や顔の写生ではないことは明らかであろう。
記憶に浮かんだ風景は眼に見える映像ではないのである。眼でここあそこと見つめることのできる映像ではないのである。残像だとか幻だとか、あるいはイエンシュの言う直観像はその種の映像であるが、記憶に思い浮かべられた風景はそうではない。それは記憶の中の音が今耳に聞こえる音ではないのと同様である。また、昨日の激しい歯の痛みは今なお生々しく思い出されるにせよ幸いなことに今は少しも痛くないのと同様である。痛みの記憶は痛くなく、悲しみの記憶は悲しくはない(その記憶でまた新たな悲しみが誘発されない限りは)。御馳走の記憶で舌鼓をうつことはできないし、快楽の記憶が快楽であるわけではない。それと同様に、思い出された旋律は今耳で聞こえるものではなく、思い出された風景は今眼に見えるものではないのである。
一つの風景を『思い出す』ということは、その風景の薄ぼけた映像を眼で見ることではない。もしそれが眼で見える映像であるのならば、私はそれをとにかく私の眼の前のどこかに見ているはずであるが、私が今眼の前に見ているのは机や紙であってそのどこにもそれとダブって昨日の会合の影のような姿が見えていはしない。『思い出す』ということは見たり聞いたり味わったりというような『知覚する』こととは根本的に別ものなのである。」
(大森荘蔵著「流れとよどみ-哲学断章-」産業図書刊 所収)
「過ぎ去った日々や亡くなった人々のことが時折思いもかけず心によみがえる。そのときそうした思い出や面影は何か過去の形見が残されたもののように思われる。それらの日々や人々はもはや二度と戻らないが何かその影のようなものがわれわれの手元に残されている、といったように。ただその影によってわれわれはかろうじて過ぎ去り失われた時とつながっているのだ、と。
つまり今われわれに残されているのは、過去そのものではなくその過去の写しなのだと感じるのである。過去はひとたび去れば再び還らない、ただそのいささかの記憶が残留しているだけなのである、と。この、記憶とは過去の出来事や人々の『写し』である、という思いはわれわれの心に深く根づいている。われわれの言葉遣いにもそれは明らかであろう。『記憶に焼き付いている』、『眼に焼き付いている』、『いまだにあざやかな記憶』、『記憶に新しい』『記憶がうすらぐ』、『淡い記憶』『旧い記憶』等々、これらの言い廻しにはまぎれもなく『写真』の比喩が下敷きになっている。その時々の印象や体験が人間カメラで写されて頭の中にしまいこまれる、そのアルバムからあの写真この写真がふいと浮かび上がる、新しい写真は概して鮮明だが昔のものになるにつれ色はあせ形はぼけてくる。しばしば、あったはずの写真がいくら探しても見つからない、それなのに時には思いもかけなかった写真浮かび出てわれわれをなつかしがらせる。こういった『写真』の比喩がある。心理学者もまたこの比喩の下に、記憶心像(イメージ)だとか記憶痕跡(エングラム)などを語るのである。
脳生理学者がこの痕跡を大脳その他の何らかの機構や物質だと考えたくなるのも無理からぬところであろう。だいぶ昔、といっても戦後であったが、面白い実験が話題になったことがある。プラナリア(渦虫)という小さな下等水中動物に条件付け訓練によって電気ショックの方を避け、餌のある方に行かせるようにする。そう訓練したプラナリアを、今度は未訓練の別のプラナリアに食べさせたところ食べた未教育のプラナリアもちゃんと電気を避けて餌に向かった、というのである。この実験はその後確認されなかったようであるが、もしそういうことがあるならば人の爪の垢を煎じて飲んで利口になるといったことも不可能ではあるまい。それはさておいても、失語症その他記憶障害の研究から脳が記憶の保持や再生に強い関連をもっていることは今日疑う人はいないだろう。
しかし、脳が記憶に密接な関係をもっているということと、『写し』の比喩が正しいということとは別のことである。私には『写し』の比喩には基本的な誤解があるように思える。
ある風景の『写し』、例えば写真であるとか絵である場合それは元の風景と同様に眼で見ることのできるものである。それは見えるものとして、見える細部をもっていなければならない。例えばそれが写真であるならばそのどの小部分といえども定まった黒白の濃淡なり色調なりをもっている。つまり、その小部分に着目することができるし、その着目した小部分は特定の濃度なり色調なりをもっている。ところがわれわれが何かの風景を記憶の中に思い浮かべるとき、それがどんなに熟知した風景の場合でもそのように見つめることのできる細部をもっているだろうか。自分の部屋の机の右隅の一点とか、母親の顔の唇の端とかを記憶の中で見つめることができるだろうか。できまい。また、その記憶の中の机や母親の顔を忠実に写生しようとしてみてほしい。それもできないことがわかるだろう。絵の上手な人ならば、それらの記憶から、あるいはそれらの記憶に頼ってその机や母親の顔を画くことはできよう。しかしそこで画かれた机や顔は本物の机や本物の顔に似せた絵であって、記憶の中に浮かんだ机や顔の写生ではないことは明らかであろう。
記憶に浮かんだ風景は眼に見える映像ではないのである。眼でここあそこと見つめることのできる映像ではないのである。残像だとか幻だとか、あるいはイエンシュの言う直観像はその種の映像であるが、記憶に思い浮かべられた風景はそうではない。それは記憶の中の音が今耳に聞こえる音ではないのと同様である。また、昨日の激しい歯の痛みは今なお生々しく思い出されるにせよ幸いなことに今は少しも痛くないのと同様である。痛みの記憶は痛くなく、悲しみの記憶は悲しくはない(その記憶でまた新たな悲しみが誘発されない限りは)。御馳走の記憶で舌鼓をうつことはできないし、快楽の記憶が快楽であるわけではない。それと同様に、思い出された旋律は今耳で聞こえるものではなく、思い出された風景は今眼に見えるものではないのである。
一つの風景を『思い出す』ということは、その風景の薄ぼけた映像を眼で見ることではない。もしそれが眼で見える映像であるのならば、私はそれをとにかく私の眼の前のどこかに見ているはずであるが、私が今眼の前に見ているのは机や紙であってそのどこにもそれとダブって昨日の会合の影のような姿が見えていはしない。『思い出す』ということは見たり聞いたり味わったりというような『知覚する』こととは根本的に別ものなのである。」
(大森荘蔵著「流れとよどみ-哲学断章-」産業図書刊 所収)