「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2013・08・21

2013-08-21 10:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「家のあちこちにあった薄明り」より。

「そんな哀しい、瞬く間の薄明りを、白秋はちゃんと書き遺している。

  時は逝く、赤き蒸汽の
  船腹(ふなばら)の過ぎゆくごとく。
  穀倉(こくぐら)の夕日のほめき、
  黒猫の美しき耳鳴りのごと、
  時は逝く、何時(いつ)しらず
  柔らかに陰影(かげ)してぞゆく。
  時は逝く、赤き蒸汽の
  船腹の過ぎゆくごとく。

《ほめく》は、《熱く》あるいは《火めく》と書くらしい。微かに震えながら火照るという意味だと、私は思っている。こんないい言葉は、わが国にしかない。これが人の命であり、白秋の切ない吐息であり、私たちが、夕暮れ、とぼとぼ還る道の果ての薄明りである。――白い船腹に鋭く赤い線の入った蒸気船が、嘘みたいにすぐ目の先を滑っていく。辺りはしんとして、世界は静寂の中にある。船上にも、埠頭にも、人影はない。見ている者も、乗っている者もいないのに、船だけが行く。いま、命の刻(とき)、船だけが滑るように行く。――こんな光景を、たとえ数秒でも撮れたら、私は死んでもいい。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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