今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「家のあちこちにあった薄明り」より。
「そんな哀しい、瞬く間の薄明りを、白秋はちゃんと書き遺している。
時は逝く、赤き蒸汽の
船腹(ふなばら)の過ぎゆくごとく。
穀倉(こくぐら)の夕日のほめき、
黒猫の美しき耳鳴りのごと、
時は逝く、何時(いつ)しらず
柔らかに陰影(かげ)してぞゆく。
時は逝く、赤き蒸汽の
船腹の過ぎゆくごとく。
《ほめく》は、《熱く》あるいは《火めく》と書くらしい。微かに震えながら火照るという意味だと、私は思っている。こんないい言葉は、わが国にしかない。これが人の命であり、白秋の切ない吐息であり、私たちが、夕暮れ、とぼとぼ還る道の果ての薄明りである。――白い船腹に鋭く赤い線の入った蒸気船が、嘘みたいにすぐ目の先を滑っていく。辺りはしんとして、世界は静寂の中にある。船上にも、埠頭にも、人影はない。見ている者も、乗っている者もいないのに、船だけが行く。いま、命の刻(とき)、船だけが滑るように行く。――こんな光景を、たとえ数秒でも撮れたら、私は死んでもいい。」
(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)
「そんな哀しい、瞬く間の薄明りを、白秋はちゃんと書き遺している。
時は逝く、赤き蒸汽の
船腹(ふなばら)の過ぎゆくごとく。
穀倉(こくぐら)の夕日のほめき、
黒猫の美しき耳鳴りのごと、
時は逝く、何時(いつ)しらず
柔らかに陰影(かげ)してぞゆく。
時は逝く、赤き蒸汽の
船腹の過ぎゆくごとく。
《ほめく》は、《熱く》あるいは《火めく》と書くらしい。微かに震えながら火照るという意味だと、私は思っている。こんないい言葉は、わが国にしかない。これが人の命であり、白秋の切ない吐息であり、私たちが、夕暮れ、とぼとぼ還る道の果ての薄明りである。――白い船腹に鋭く赤い線の入った蒸気船が、嘘みたいにすぐ目の先を滑っていく。辺りはしんとして、世界は静寂の中にある。船上にも、埠頭にも、人影はない。見ている者も、乗っている者もいないのに、船だけが行く。いま、命の刻(とき)、船だけが滑るように行く。――こんな光景を、たとえ数秒でも撮れたら、私は死んでもいい。」
(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)