今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「家のあちこちにあった薄明り」より。
「白秋の『雪と花火』の中に、『薄あかり』という小さな詩がある。
銀の時計のつめたさは
薄らあかりのⅦ(しち)の字に、
君がこころのつめたさは
河岸の月夜の薄あかり。
空の光のさみしさは
薄らあかりのねこやなぎ、
歩むこころのさみしさは
雪と瓦斯(ガス)との薄あかり。
かるい背広を身につけて
じっと凝視(みつ)むる薄あかり。
薄い涙につまされて、
けふもほのかに来は来たが。
昼が明るく、夜が暗いのは、いまも昔もおなじである。けれどあのころは、その間(あわい)に薄明りがあった。曖昧で心細く、仄かに揺れて不安げで、泣きたくなるような薄明りがあった。そんな中に、私たち子供はじっと身を竦(すく)めていた。そうして、何かが通り過ぎるのを待っていた。私がもし昔に還りたいと願うとするならば、それはあの薄明りの中である。おなじように、白秋も、朔太郎も、伊東静雄も、大木惇夫も、すべてのときめく詩は、薄明りの中に生れたのだと思う。だから、いまは詩が生れない時代である。そしていま、私たちが詩を忘れているのは、あの薄明りを忘れてしまったからである。」
(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)
「白秋の『雪と花火』の中に、『薄あかり』という小さな詩がある。
銀の時計のつめたさは
薄らあかりのⅦ(しち)の字に、
君がこころのつめたさは
河岸の月夜の薄あかり。
空の光のさみしさは
薄らあかりのねこやなぎ、
歩むこころのさみしさは
雪と瓦斯(ガス)との薄あかり。
かるい背広を身につけて
じっと凝視(みつ)むる薄あかり。
薄い涙につまされて、
けふもほのかに来は来たが。
昼が明るく、夜が暗いのは、いまも昔もおなじである。けれどあのころは、その間(あわい)に薄明りがあった。曖昧で心細く、仄かに揺れて不安げで、泣きたくなるような薄明りがあった。そんな中に、私たち子供はじっと身を竦(すく)めていた。そうして、何かが通り過ぎるのを待っていた。私がもし昔に還りたいと願うとするならば、それはあの薄明りの中である。おなじように、白秋も、朔太郎も、伊東静雄も、大木惇夫も、すべてのときめく詩は、薄明りの中に生れたのだと思う。だから、いまは詩が生れない時代である。そしていま、私たちが詩を忘れているのは、あの薄明りを忘れてしまったからである。」
(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)