「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2013・08・02

2013-08-02 10:20:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、大森荘蔵(1921-1997)著「流れとよどみ」より、昨日の続き。

「しかし、風景の思い出はたとえ眼で見ることのできる映像ではないにせよ、とにかくその風景そのものではなく、それがわれわれに与えた何ものか、形見であれ痕跡であれ何か今もなお残留している何ものかなのではないか。他のことはともかく、その風景自体は過ぎ去って今は亡きものだからである。このように考えるならばそれもまた一つの誤解であると思う。
かりにこの考えにしたがって、われわれが思い出すのは過去の風景そのものではなく、その痕跡様のものだとしてみよう。例えば今私の記憶にあらわれているのは東京駅そのものではなく東京駅の影、東京駅の痕跡だとしてみよう。ここで大切なのは、この場合私は何ものの影ともわからぬ姿を思い浮かべているのではなく、まさに東京駅の痕跡があらわれていることである。それがたとえ痕跡であろうともその痕跡は東京駅の痕跡として思い浮かべられているのである。だとすれば、『東京駅の痕跡』というときの『東京駅』は東京駅自体でなければならない。さもないと、東京駅の痕跡の痕跡の痕跡の……といったことになってしまうからである。だがそうならば私の思い出の中にはすでに痕跡ならざる東京駅自体があらわれているではないか。そうならば東京駅を思い出すのにいまさら東京駅の痕跡などは不必要ではないか。

 この事情を普通の写真の場合から説明してみよう。ここにAさんの写真がある。それが『Aさんの写真』であることを私が承知しているためには私は写真ではないAさん自身を知っておらねばならない。それと同時に、ある記憶痕跡が『何々の痕跡』だと承知しているのならばそれはすでにその『何々』を承知していることである。そしてその『何々』自体をすでに承知しているのであれば、それを承知するために今さらその『痕跡』を必要としないのである。だから私が東京駅を思い出しているとき、私は東京駅の痕跡を通じて東京駅を思い出しているのではない。私は東京駅それ自身をじかに思い出しているのである。
 しかし、では死んで久しい亡友を思い出すときもその人をじかに思い出しているのか、と問われよう。私はその通りであると思う。生前の友人のそのありし日のままをじかに思い出しているのである。その友人は今は生きては存在しない。しかし生前の友人は今なおじかに私の思い出にあらわれるのである。その友人を今私の眼や肌でじかに『知覚する』ことはできないが、私は彼をじかに『思い出す』のである。そのとき、彼の影のような『写し』とか『痕跡』とかがあらわれるのではなく、生前の彼がそのままじかにあらわれるのである。『彼の思い出』がかろうじて今残されているのではなく、『思い出』の中に今彼自身が居るのである。ある意味では、過去は過ぎ去りはしないのである。だから『痕跡』などを残す必要はさらさらないのである。
 それならばわれわれの脳の中に刻まれた『痕跡様のもの』とは一体何なのだろうか。記憶は脳に『蓄えられる』ものではないのか。そうではないだろうと私には思われる。亡友を思い出すには私の脳の何かの機構が必要だろうし、その機構が破壊されれば私は恐らく彼を思い出すことはできないだろう。しかしそれは、何かを見るには眼球や網膜が必要なのと同じだと言えまいか。つまり、眼球は見るための器官であって今眼前に見えている机の姿が眼球の中にあるわけではない(網膜上の小さな倒立像は今私が眼前に見ているものではない)、それと同じ様に、脳の機構は何かを思い出すための不可欠な器官ではあるが、その思い出されたものがその機構の中に『蓄えられている』わけではない。だが、思い出すための器官である脳の機構が古びたり損傷をうけたりすれば、当然『思い出し』にも障害がおきよう。老眼や乱視で物が見にくくなるのと同じである。そして、記憶がうすれ、記憶が失われることになる。」


(大森荘蔵著「流れとよどみ-哲学断章-」産業図書刊 所収)

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