「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2013・08・15

2013-08-15 13:40:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「五歳で漱石をそらんじる」より。

「四、五歳のころの私を、いまの私が見たら、きっと眉をひそめて苦々しく思うことだろう。ということは、そのころだって、心ある大人たちは、私のことを嫌な子供だと顔には出さなくても思っていたに違いない。つまり、まだ学校へも上がっていないのに、私はやたらに字の読める子だったのである。読めるだけなら罪はないのだが、それをあまり素直ではないやり方で誇示する向きがあったらしい。大人の前でわざと小声で呟いてみせたりするのである。たとえば来客の傍で漱石を開いて、《マーカス・オーレリアスは、女子は制御し難き点に於て船舶に似たりと云い、プロータスは女子が綺羅を飾るの性癖を以てその天稟(てんぴん)の醜を蔽うの陋策に本(もと)づくものとせり。……》などと、四つ、五つの小童(こわっぱ)が小首を傾げながら呟いているのを見たら、誰だってびっくりする。意図的につっかえつっかえ読むのだから性質(たち)が悪い。実は全文、ソクラテスからヴァレリアスのくだりまで暗記しているのだが、ときにはつっかえる方がリアリティがあることを承知しているのである。
 まんまと引っ掛かって感心した客を、母といっしょに駅まで送る。その道筋にいろんな立て札、看板、それに貼り紙などがある。こんどは、それを読んでみせる。《ヨウモトニックは、先ず以て頭皮と毛根を清浄殺菌ならしめた後、新研究の強力毛髪栄養料を楽々と吸収させて、其の機能を旺盛ならしめ、烈しい雲脂(ふけ)、脱毛を抑え、病的異常を是正して初期禿頭病の……》、そして程よいところで『お母さん、これはフケでいいの?』と可愛らしい台詞(せりふ)を挟む。これで、たいていの大人は仰天する。実は、母親にくっついて毎日出かける買物の道だから、それまでにちゃんと教わってある。そ知らぬ顔で私の芝居に付き合う母も母だが、こんな子供がいまいたら私はとても好きにはなれないだろう。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)


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