今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「家のあちこちにあった薄明り」より。
「 一すじの草にも
われはすがらむ、
風のごとく。
かぼそき蜘蛛の絲にも
われはかからむ、
木の葉のごとく。
蜻蛉のうすき羽にも、
われは透き入らむ、
光のごとく。
風、光、
木の葉とならむ、
心むなしく。
白秋を師と仰いでいた大木惇夫が、大正の終りごろに書いた『風・光・木の葉』である。ここにも、冷え冷えとした薄明りの世界がある。人の命のはじまりと、終わりが仄見える。私にはこの詩句が、反乱軍の若い将校たちの、低い呟きに聞こえるのだ。軍靴の響きに埋もれて、ともすれば消えがちになりながら、薄明りの歌はだんだん遠ざかっていくのだった。――大木惇夫は十数年後のニ・ニ六の朝を、予知していたのだろうか。」
(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)
「 一すじの草にも
われはすがらむ、
風のごとく。
かぼそき蜘蛛の絲にも
われはかからむ、
木の葉のごとく。
蜻蛉のうすき羽にも、
われは透き入らむ、
光のごとく。
風、光、
木の葉とならむ、
心むなしく。
白秋を師と仰いでいた大木惇夫が、大正の終りごろに書いた『風・光・木の葉』である。ここにも、冷え冷えとした薄明りの世界がある。人の命のはじまりと、終わりが仄見える。私にはこの詩句が、反乱軍の若い将校たちの、低い呟きに聞こえるのだ。軍靴の響きに埋もれて、ともすれば消えがちになりながら、薄明りの歌はだんだん遠ざかっていくのだった。――大木惇夫は十数年後のニ・ニ六の朝を、予知していたのだろうか。」
(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)