今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「布団の上で跳びはねる」より。
「 春の朝の縁側でふっくらと広がっている布団は幸せだが、水に濡れた布団ほど惨めな
ものはない。昭和二十年夏、助かるために疎開したはずの富山で、母と姉と私は戦災に
遭って何もかもなくした。夜の八時ころ警戒警報が鳴ったと思ったら、五分もしないうち
にそれが空襲警報に変わった。防空演習では何度も聞いていたが、本物の空襲警報ははじ
めてだった。足元から急き立てられるような、病人の荒い呼吸みたいなサイレンである。
予定どおり非常食を背負い、ゲートルを巻き、庭へ駆け出した。母が仏壇の脇の押入から、
ふだん見たことのない赤い布団を引っ張り出している。たぶん客用の高価なものなのだろ
う。せめてその一枚だけでも助けたいと、母は考えたのかもしれない。真っ暗な中を、人
の群れが走っていく。よく映画なんかでは、叫んだり泣いたりしているが、ああいうとき、
人は声を出さないものである。変に静かに、足音さえひそめるように、人が走っていく。
家の裏は八月の田圃である。私たち三人は、とにかく走った。畦道を辿って逃げるつもり
が、私が足を滑らせて水を張ったどろどろの田圃に落ちた。それまで決心のつきかねてい
た母が、いきなり抱えていた布団を田圃の水に漬けた。防空演習で教わった通り、濡れた
布団を三人でかぶって逃げるのである。泥水をいっぱいに吸った布団は、女二人と十歳の
私とで、ようやく持ち上げられるくらい重かった。ふと気がつくと、空は敵機でいっぱい
だった。爆音と町の燃える音で耳鳴りがしているようだった。田圃に足を取られながら、
私たちは走った。いちばん背の小さい母が先頭、左後ろに姉、右後ろが私だった。母の蔭
になって視界はまったく見えない。ただ母の背を見て走っていく。」
(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)
「 春の朝の縁側でふっくらと広がっている布団は幸せだが、水に濡れた布団ほど惨めな
ものはない。昭和二十年夏、助かるために疎開したはずの富山で、母と姉と私は戦災に
遭って何もかもなくした。夜の八時ころ警戒警報が鳴ったと思ったら、五分もしないうち
にそれが空襲警報に変わった。防空演習では何度も聞いていたが、本物の空襲警報ははじ
めてだった。足元から急き立てられるような、病人の荒い呼吸みたいなサイレンである。
予定どおり非常食を背負い、ゲートルを巻き、庭へ駆け出した。母が仏壇の脇の押入から、
ふだん見たことのない赤い布団を引っ張り出している。たぶん客用の高価なものなのだろ
う。せめてその一枚だけでも助けたいと、母は考えたのかもしれない。真っ暗な中を、人
の群れが走っていく。よく映画なんかでは、叫んだり泣いたりしているが、ああいうとき、
人は声を出さないものである。変に静かに、足音さえひそめるように、人が走っていく。
家の裏は八月の田圃である。私たち三人は、とにかく走った。畦道を辿って逃げるつもり
が、私が足を滑らせて水を張ったどろどろの田圃に落ちた。それまで決心のつきかねてい
た母が、いきなり抱えていた布団を田圃の水に漬けた。防空演習で教わった通り、濡れた
布団を三人でかぶって逃げるのである。泥水をいっぱいに吸った布団は、女二人と十歳の
私とで、ようやく持ち上げられるくらい重かった。ふと気がつくと、空は敵機でいっぱい
だった。爆音と町の燃える音で耳鳴りがしているようだった。田圃に足を取られながら、
私たちは走った。いちばん背の小さい母が先頭、左後ろに姉、右後ろが私だった。母の蔭
になって視界はまったく見えない。ただ母の背を見て走っていく。」
(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)