「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2013・09・25

2013-09-25 07:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「布団の上で跳びはねる」より。

 「 逃げる私たちを掠(かす)めて、油脂焼夷弾が斜めに降る。あれは、投下されたときは、
  箍(たが)で括られているが、数秒後にそれが外れ、中の四十八発の焼夷弾が空中にばら
  撒かれる仕掛けになっているそうである。何千メートルの上空から落ちてくる焼夷弾の
  音は、鋭い笛の音に似ている。それが、私たちから数メートルも離れていない田圃の上
  に、重い音を立てて突き刺さる。いったいあの赤い布団は、何のためにかぶっていたの
  だろう。直撃されたら、濡れ布団ぐらいでは何の役にも立たない。振り返ると、町は何
  十メートルの高さの炎を上げて燃えていたが、私たちの周囲に火はなかった。それなら
  少しでも身軽になって、つまり布団など捨てて逃げればいいものを、私たちは律儀にそ
  れをかぶりつづけた。
   その布団は、戦争が終わっても、しばらくの間、私の家にあった。母がいくら洗って
  も、こびり着いた焼夷弾の脂はとれなかった。何度干しても水気が抜けず、黒ずんだそ
  の布団は、いつまでもあの夜とおなじように重かった。それでも母は、捨てようとしな
  かった。天気のいい朝、未練がましく物干し竿に干してあるその布団の傍を通ると、焦
  げ臭い匂いがした。私は、空襲のあくる朝、道路に並べられていたたくさんの死体を思
  い出した。一つの死体に、一つの濡れた布団が掛けられていた。それは、死者たちがそ
  れぞれに持っていた自前の布団だったに違いない。」

   (久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)


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