今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「夕暮れの町にたたずんで」より。
「次に聞こえないのは、夕飯の支度の音である。水道の蛇口から勢いよく水が流れる音、その水を使う音、食器の触れ合う音――どうしたことか聞こえないのである。そう言えば、道を歩いていて台所の窓が見えることが、ほとんどない。黄色い電灯が点り、湯気で曇った台所の窓がない。窓を通る割烹着の影もない。昔もいまも、時分時(じぶんどき)はおなじはずである。それなのに、主婦たちはどこでどうやって支度をしているのか、影も形も音もない。しかし、この風景がなくなったとしたら、私なんかとても困ってしまう。これくらい感傷的な風景は他にないのだ。自分は一応ちゃんとした家庭を持ち、家族もいるというのに、男は湯気でよく見えない窓の向うの幸福を想って、涙ぐむものなのだ。そんな思いを呼び覚ますのが、夕暮れの台所の音なのだ。自分だって、少し努めれば、その中に棲むことのできる家庭の団欒に、意味のない片意地張って背を向け、よその家の湯気に曇った窓を羨むのが男というものなのだ。私は、若いころからずっとそうだった。金木犀の匂う坂道を下りながら、いつも情けなく泣いていた。」
(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)
「次に聞こえないのは、夕飯の支度の音である。水道の蛇口から勢いよく水が流れる音、その水を使う音、食器の触れ合う音――どうしたことか聞こえないのである。そう言えば、道を歩いていて台所の窓が見えることが、ほとんどない。黄色い電灯が点り、湯気で曇った台所の窓がない。窓を通る割烹着の影もない。昔もいまも、時分時(じぶんどき)はおなじはずである。それなのに、主婦たちはどこでどうやって支度をしているのか、影も形も音もない。しかし、この風景がなくなったとしたら、私なんかとても困ってしまう。これくらい感傷的な風景は他にないのだ。自分は一応ちゃんとした家庭を持ち、家族もいるというのに、男は湯気でよく見えない窓の向うの幸福を想って、涙ぐむものなのだ。そんな思いを呼び覚ますのが、夕暮れの台所の音なのだ。自分だって、少し努めれば、その中に棲むことのできる家庭の団欒に、意味のない片意地張って背を向け、よその家の湯気に曇った窓を羨むのが男というものなのだ。私は、若いころからずっとそうだった。金木犀の匂う坂道を下りながら、いつも情けなく泣いていた。」
(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)