今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「本棚からつぶやきが聞こえる」より。
「本には声がある。書架から取り出して読み、また元へ戻し、しばらくたって必要になり、また読む。こういうことを繰り返しているうちに、その本が声を出しはじめるのである。虫のような、小さな啼き声である。たとえば、ビアズリーの画集には、ビアズリーの声がある。それは一段上にあるエドガー・ポーの声とは、似ているようで微妙に違う。漱石と鷗外とでは、声が全然違うし、乱歩の声は横溝正史とはまた違う。怪談じみていて気持ちが悪いだろうが、これはほんとうなのである。その証拠に、つい最近、古書店で見つけてきて、まだテーブルの上に置いたままの、保田与重郎の『冰魂記(ひょうこんき)』には声がない。ところがこれを書架に以前からある、おなじ著者の『近代の終焉』の隣りに並べてやると、その夜からこの本は、虫のように啼きはじめるのである。と言うと、本というよりは、人が啼くように思われるが、『ランプ』という、百年前のランプの写真を集めた本も、啼くのである。これは、人ではなくランプが啼いているとしか思えない。――私は、深夜の書斎で耳を澄ます。いろんな本が啼いている。つぶやくような声もある。歌っているような声もある。ときには、嘆いている声もある。これが書斎の愉しみである。」
(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)
「本には声がある。書架から取り出して読み、また元へ戻し、しばらくたって必要になり、また読む。こういうことを繰り返しているうちに、その本が声を出しはじめるのである。虫のような、小さな啼き声である。たとえば、ビアズリーの画集には、ビアズリーの声がある。それは一段上にあるエドガー・ポーの声とは、似ているようで微妙に違う。漱石と鷗外とでは、声が全然違うし、乱歩の声は横溝正史とはまた違う。怪談じみていて気持ちが悪いだろうが、これはほんとうなのである。その証拠に、つい最近、古書店で見つけてきて、まだテーブルの上に置いたままの、保田与重郎の『冰魂記(ひょうこんき)』には声がない。ところがこれを書架に以前からある、おなじ著者の『近代の終焉』の隣りに並べてやると、その夜からこの本は、虫のように啼きはじめるのである。と言うと、本というよりは、人が啼くように思われるが、『ランプ』という、百年前のランプの写真を集めた本も、啼くのである。これは、人ではなくランプが啼いているとしか思えない。――私は、深夜の書斎で耳を澄ます。いろんな本が啼いている。つぶやくような声もある。歌っているような声もある。ときには、嘆いている声もある。これが書斎の愉しみである。」
(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)