「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2013・09・03

2013-09-03 07:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「願わくば畳の上で」より。

「正月早々縁起でもないと叱られそうだが、昔の人は死に場所にこだわった。特に男は、三十過ぎればしょっちゅうそんなことばかり考えていたらしい。人の一生、どこで息を引き取ろうとたいして変わりはなさそうだが、生れたときが人委せだっただけに、いろいろと運や事情もあろうけど、死ぬときぐらい少しは自分の意志で時や場所を選びたいと思うのも人情である。花の盛りに死にたいと願い、その如月(きさらぎ)の望月(もちづき)のころと、ずいぶん細かく指定して、その通りに死ねた御仁(ごじん)もあるのだから、願ってみて損はないのかもしれないが、やっぱりそんな運のいい人は稀で。大方は、ここじゃない、こんな死にざまじゃないと、内心千々に乱れながら、それでも最後の見栄を張り、ぎごちなく笑ったりして死んでいく。
 〈畳の上では死ねない〉という言葉もいまでは死語である。ろくな死に方はしないという比喩としての意味は生きていても、実際畳の上で死ぬ人なんて、いまどきめったにいやしない。毎日の新聞の死亡記事を拾ってみたって、病院以外の場所で死んでいるのは十人に一人もいない。どの人も、この人も、申し合わせたように〈心不全のため……都内の病院で〉である。どんな病気だって最後は心不全に決まっているし、都内の病院という言い方も、白々(しらじら)と乾いた風景だけが思い浮かんで淋しくなる。だから、たまに〈杉並区の自宅で〉などと書いてあると、余計なお世話だがホッとする。よかったですねと言いたくなる。しかし、そんな死に方もいまや僥倖のようなもので、本人がいくら自分の家の畳の上で死にたいと言い張っても、周りが放って置かない。倒れれば、ものの五分で救急車が飛んでくる。嫌でも病院へ運ばれる。助からないことが目に見えていたって、家で死なれては迷惑とばかりに、とにかく病院へ運び込む。家は健康に住むための場所で、死に場所ではなくなってしまったのである。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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