「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2007・09・20

2007-09-20 09:40:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「おくみさんは私の祖父の権妻(ごんさい)だった。祖父は明治四十二年六十五で死んだ。祖母はその三年前に死んでいる。祖母なきあと祖父はめかけのおくみを家にいれて、身の回りの世話をさせた。長男の嫁である私の母はめかけをはなはだしく差別しなかった。父はむろん若者らしくめかけの存在を快く思っていなかった。それでも祖父の死水をとったひとである。
 権妻には正妻に準ずるもの、次ぐものというほどの意味がある。べつに権の兵衛(ひょうえ)、権の僧正などがある。正妻に子がなくて権妻に子があると、その子に家を継がせた名残である。明治初年まで権妻は法で保護されていた。
 大正生れの私はこれらは皆あとで知った。戸籍しらべの巡査は町田くみとは何者かねと聞いて、女中が口ごもると『ははあ、おさすりだな』と言ったという。おさすりの意味を私はこの時知った。祖父の莫大な遺産を継いだ父は、四年あまり連日吉原で大尽遊びをした。おくみには所帯道具一式を持たせ上野御徒町(おかちまち)に貸家の一軒と、月々の手当の六割を与えた。法事には必ず呼んで、末席ではあるが家族に次ぐものとして遇した。家族で芝居見物に行くときも誘った。
 明治のめかけと昭和の二号はどうちがうか、一方は権妻で一方はインスタントである。その仲がいつ絶えたか知らない。父は財産が尽きる前に道楽をやめ昭和三年満四十九で死んだ。父は三十代の時女ひとり囲っていた。大正デモクラシーだから愛人と思っていたが、世間ではまだめかけと言った。
 それでも父が死んでからおくみさんは改めて家へ出はいりするようになった。おくみさんはもと柳橋の芸者で、柳橋なら新橋をしのぐ由緒(ゆいしょ)ある土地である。母はおくみさんに出げいこしてもらった。月謝をあげていくらか助けるつもりだったのにおくみさんにはいま旦那がいると聞いた。少年の私は何年か三味線と歌を聞いて育ったがなあーんだと思った。芸ごとなら何でも出来るのを五もくの師匠という。一芸に秀でていないのである。
 おくみさんは六十前後だったのだろうが、少年の目にはおばあさんに見えた。週に何度か来て、稽古は二の次、おしゃべりは表情が豊かで、思い入れだくさんでいきいきして面白かった。私の語彙のなかにはおくみさんがすこしまじっている。いまだにおぼえているのは弥次郎兵衛と喜多八赤坂の段である。弥次喜多が宿場にさしかかると客引の女中が声はりあげて、”お風呂もどんどんわいている、障子もこのごろ張りかえた、云々。
 泊り泊りの旅籠屋ではこういって客を引いたのか。障子を張りかえたのが広告になるのかと私は一つ学問した。
 もう二十年も前私はある葬式で一老人にこう言われた。『私たち親類が、こうして集まるのは法事のときだけになりました。ですから必ず集まりましょうね』
 そういえばこの五月十一日は亡妻の十三回忌である。集まるものは十人になった。」

 (山本夏彦著阿川佐和子編「『夏彦の写真コラム』傑作選2」新潮文庫 所収)
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みれん 2007・09・19

2007-09-19 08:30:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昭和六十二年三月の「みれん」

  と題した文章の一部です。

  「このごろ私はひとりごとを言うようになった。生きている人は死んだ人の話を聞いてくれない。一度は聞くふりをするが

  それは『義理』で、二度とは聞いてくれないから私は死んだ妻の話ができない。

   妻はガンをわずらって七年、去年五月十一日力尽きて死んだ。ガンはもう珍しくないから話題にならない。この七年の

  あいだ毎年のように入退院をくりかえした。入院すれば私はひとり置きざりにされる。妻は出勤前に必ず見よとポスター

  の裏にマジックで書いた諸注意を壁に張って行くのが常である。戸締り。台所・風呂場のガス元栓。ストーブ・アイロン。

  燃えるゴミの日、燃えないゴミの日などと大書してある。私は毎朝それを仰ぎ見て十なん枚の雨戸をしめ、片手に靴、片

  手にカバンを持って泥棒のように勝手口から出るのである。そのときはひと月で退院したが、去年入院するときは改めて

  書いて貼った。そして七十一日目に死んだ。私はにわか独身者になったのである。今もそのポスターを妻が生きていた日

  と同じく仰ぎ見て私は家を出る。私は死んだ人のさし図をうけている。

   天気のいい日には蒲団をほす。もう着ることのない蒲団ではあるけれど、しめったままにしておきたくない。まだ箪笥

  の引出しには衣類がぎっしりつまっている。ふだん着にはみな見おぼえがある。手を通すつもりで通せなかった晴着があ

  る。茶の間の薬箱には医院の薬袋が夥しく残っている。日付を見るとああこのときはまだ歩いて通院できたのだな、この

  とき肺ガンを発見してくれさえすればとみれんは尽きないのである。下駄箱には履物が揃っている。いつ帰ってもその日

  からもとの暮しができる。

   私は二年間毎朝病人の背をなでさすった。七時にめざめたときは三十分、五時にめざめたときは二時間なでてやった。

  スキンシップは多く子供にすると書いてあるが、最もこれを欲するのは病人と老人で妻はその一人である。私は五つ六つ

  のころ父の肩をたたかされて一時間たっても倦きなかった。たぶんほかのことを考えていたのだろう。妻ははじめ恐縮し

  たがしまいにはなすにまかせた。志が『芸』にあるものがよき夫であるはずがない。せめてもの罪ほろぼしのつもりであ

  るが、子どもぐらいには言えと命じたのに恥ずかしかったのだろう。ときどき十五分ぐらいと言って二時間とは言わなか

  ったようだ。

   私は自分の衣類がどこにあるかさがしてこれもマジックで書いてあるのを発見した。いつまでも私は死んだ人のさし図

  に従ってそれが嬉しくないことはないのである。こうして人は死ぬのだなとそれを甘受する気になるのである。

   私は夜ふけてまっくらな家へ帰る。カバンのなかに懐中電灯を二つ用意して手さぐりでどちらか触れたほうで勝手口の

  ドアのカギ穴を照らして常のごとく忍びこむうちにひとりごとを言うようになったのである。『いま帰ったぞ』『晩めし

  は食ってきたぞ』『雨の晩はいやだな。両手がふさがってカギをあけるのに手間どって』。

   子供たちは怪しんで私をこの家からひき離そうとする。この家は形見のかたまりである。ここにいるかぎり死んだ人の

  支配はまぬかれない。『雨月物語』にこれに似た話があったような気がする。妻と語って私はなかば死んだ人なのだなと

  分って声を出して言うのである。

  『おお待ってろ、すぐ行くぞ』 」


             (山本夏彦著「生きている人と死んだ人」文春文庫 所収)
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2007・09・18

2007-09-18 08:50:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昭和六十三年秋の文章です。

 「昭和六十一年五月私は妻を死なせた。むろん私はよき夫ではなかったし妻もまた『理解なき妻』ではあったけれど、なが年の伴侶というものはまた格別である。ガンが骨にきてそれでも『不思議に命ながらえて』二人だけで二年近く食卓をかこむことができた。
 それはいつもどこかに死のかげがさしている尋常でない日々であった。何事もないのがありがたい日々であった。
 妻が死んだ今も私は日常の些事は妻のさし図に従っている。それが必ずしもいやでないことは『みれん』のなかにすこしく書いた。」

 「『みれん』は少年のころ私が愛読おかなかったシュニッツレル作森鷗外訳の小説の題である。その題だけ借りた。」

   (山本夏彦著「生きている人と死んだ人」文春文庫 所収)
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2007・09・17

2007-09-17 08:44:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続きです。

 「彼女はガンと知って以来手帳にメモをつけるようになった。主として医師に問われたとき答える病歴を書いた。ついでにいつ畳がえをしたかいつ植木屋がはいったかを書いた。毎年正月二日には子供たちが来る。この正月二日にも来た。
『二日(木)はれ。苦しい。皆々来る。たのしかった。そのせいか少しラク』とある。このときすでに両肺はおかされていたのである。国立国府台病院には定期的に通っている。二月になってもこの呼吸困難に注目してくれる医師はいなかったのである。私はとがめているのではない。ガンにはこういうことがありがちなのを嘆いているのである。
 注目してくれたのは古いなじみのホームドクターで事務所に危急の電話があったので、私は奔走してその日二度ころんだ。頭は急いでいるのに足が頭の命令をきいてくれないのである。幸い平ぐものように上手にころんだので大けがしないですんだ。
 入院したてのころ妻は私が朝晩何を食べているのかを案じた。試みに二度ころんだと言ったらホームドクターにみてもらえ、ついでに採血して他の病気の有無も調べてもらえ、それからこの個室は一日いくらか、金ばかりつかわせてとすまながった。またこないだ買ってくれた寝巻のがらを女の見舞客にほめられた、云々。
 これらの多くは枕もとの電話で語った。三月いっぱいはまだ長電話する力があった。四月半ばからは受話器を持つに耐えなくなった。このころから言うことがとげとげしくなった。
 二度ところばぬようにこのごろ私は竹ふみを試みている。はじめ百回すぐ二百回できるようになったと言うと、丈夫な人は結構なこととそっぽを向いた。炊事場にオーブンがあると言うとあれはパン焼きにすぎない。その区別もつかないのかと言った。はじめ喜んだ見舞客をいやがるようになった。ことに客同士が話すのをいやがった。あれは生きてさかんな人たちの死んでいく人そっちのけの話である。病室から外にかける電話もうるさがった。私は察してロビーの公衆電話を利用するようにした。
 回診の若い医者に『あたし帰れるのでしょうか』と難題を吹きかけた。『帰れるとも、蒲団がしめっていたから乾しておいたぞ』と私は助け舟をだした。
 この時期が去るとおだやかになった。手帳のメモは五月二日で終っている。五月八日もう口がきけなくなった。『オレの言うことだけ聞いていろ、答えなくていい』と言うとうなずくから頭ははっきりしているのである。けれども言うべき何があろう。私は手のひらから二の腕までさすりあげさすりおろして、あらぬ作り話をした。何日か繰返したころ妻は全身がまだ生きていて、肺だけで死ぬもののながい苦しみを苦しんだあげく死んだ。
 堀の内の天台山真盛寺で告別式をしてもらった。その時の挨拶状を以下に載せることを許してもらう。私は古くは鈴木三重吉桐生悠々、近くは吉川幸次郎田中美知太郎の追悼文を書いて戯れに追悼文作家と称したことがあるが、かくの如きを書こうとは思わなかった。

 妻すみ子はひとくせあって 私の書いたコラムを認めませんでした いわゆる理解なき妻で 私はおかげできたえられたと言って ふたりは笑うにいたりました 名高いうたの文句に おらが女房をほめるじゃないが ままをたいたり水しごと というのがあります 彼女はそれを畢生(ひつせい)のしごとにして 世間には自分が認めないものを 認めるひとがあるのに満足していました
 本日はありがとうございました」

   (山本夏彦著「生きている人と死んだ人」文春文庫 所収)
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2007・09・16

2007-09-16 09:11:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昭和61年8月の文章です。

 「むかし私は『鴛鴦(えんおう)』という題でおよそ以下のような文章を書いたことがある。
 ――私の妻は私の理解者ではないのに二十三のとき私のところへおしかけてきた。何用あって来たのだろう。私は妻とは反対の性質で、私が眠れない人なら妻は眠る人で、私がいかさま師なら妻はまっ正直な人である。こうした二人が共に暮して十なん年になる。私は古人のいわゆる残燈焰なくして影幢々(とうとう)たるころ、何ものかに驚いて俄破(がば)とはねおきることがしばしばある。見ると妻は一心不乱に眠っている。以前はいまいましく思ったが、今は眠るものは快く眠らせておく。
 けれどもこの人は何者だろうと思わずにはいられない。つくづくみると見知らぬ人である。あかの他人が横たわっているのである。彼女は私の『作り話』がきらいである。それなら彼女は私の sex アピールに迷って来たのだろうか。
 アハハハ。いくら私が自惚が強くても、そんなものの持主だと言いはりはしない。あるいは妻は永久就職とやらのつもりで来たのだろうか。否々断じて否。彼女はそれほど卑しくはないと私は弁じなければならない。
 どんな画家の妻も自分の亭主の画だけは理解するという。その理解さえしないのを実は私は徳としている。いま漫画の多くは面白くないというより分らない。編集子が分らないと言うと画家は色をなして女房は分って笑ったぞと言う。女房はその話の経緯を知って補って笑ったので、ここは女房の出る幕ではない。補う材料を持たぬ全読者は分らぬと言ってもきかないから、そのまま載せて漫画の大半は次第に分らなくなったのである。
 だから私は理解なき女房のほうがいいと思っている。もしそれが芸術なら『毒』を含む。毒は婦女子の喜ばないところのものである。
 文句を言えばきりがないが妻は家事なら大過なくしている。私がメモに妻の悪口を書いておくと、ほかのものは発見しないがこれだけは発見する。妻の想像力は亭主のポケットには及んでもそれ以上に及ばない。
 それなら別れるかというと別れない。読者はあるいはわが年来の孤独を憐れむかもしれない。また私が妻を描いて冷たいと思うかもしれない。けれども三十年もたってみてごらん二人は依然として夫婦だから。そして世間は鴛鴦のちぎり浅からぬ夫婦だと言うにちがいないからというほどのことをもう少し長く委曲を尽して書いた。(中公文庫『日常茶飯事』)

 読んで妻はにが笑いした。以来三十年に近い歳月はたった。おお二人は依然として夫婦である。妻は二月二十七日赤坂の前田外科に入院して五月十一日力尽きて死んだ。ガンと知って七年リウマチを併発して四年、この病院に入院して七十四日めである。妻は入院する前の日まで買物をして洗濯をして自分の勤めをはたした。」

   (山本夏彦著「生きている人と死んだ人」文春文庫 所収)

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みれん 2007・09・15

2007-09-15 08:45:00 | Weblog
  今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昭和59年7月の文章です。

  「フェリックス『お前は綺麗だなあ。そして底の底まで健康なやうだ。お前のやうな人間は人生に対して十分の権利を持つて

  ゐるのだ。どうぞ己(おれ)に構はないで、別れてしまつてくれい。』

   どういうわけか私は二十(はたち)のころ読んだシュニッツレル作森鷗外訳の『みれん』という小説をしきりに思いだす。

  フェリックスは肺をわずらってあと一年の命だと医者に言われて、その医者のことをあんなに体がよくて若いんだから、まだ

  四十年ぐらい生きられるだろうと恋人に言う。

   二人は往来へ出た。その周囲(まわり)には歩いたり、しやべつたり、笑つたりして生きてゐて、死ぬることなんぞは考へない

  人がうようよしてゐた。(略)

  『だつてあなたなんぞこそ健康になるたちの人ですわ。』

   男は声を出して笑つた。『お前。己が運命といふものが分らないでゐると思ふのかい。今ちよつと工合が好くなつたからと

  いつて、己がそれに騙(だま)されてゐると思ふのかい。己は偶然自分の前途を知ることが出来て、死ぬる日の近いのが分つて、

  外のえらい奴のやうに、哲学者になつて了(しま)つたのだ。』

   そして男はこう言うのである。『ちよつとこれを見い。ここに何と書いてある』男はそこにあった新聞を手にとって、日附の

  ところを指さして、来年のこの日には自分はもうこの世にいないのだと女に分らせようとするのである。

   ところがフェリックスの死を宣告した医師は、ある日突然死ぬのである。それを聞くと同時に、フェリックスは心の底でひど

  くあの医師を憎んでいたことに気がつくのである。

   『みれん』は佳作で、いつまでも引用したいがきりがないからやめる。私は妻が何を言ってもつとめて笑って答えることにし

  た。二人一緒に失望落胆するよりよかろうと思うだけで、それは妻にも分らないではないが、時には何を笑うかとむっとするこ

  とがないではない。それは私の笑い声のなかに、死ぬことなんぞ考えないものの響きがあるからだろうと私は察するが、それは

  如何ともできない。」


         (山本夏彦著「冷暖房ナシ」文春文庫 所収)
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2007・09・14

2007-09-14 08:40:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続きです。

 「それなら妻は私を全く認めないかというと、認めるものがないではない。桜かざして今日もくらしたというように優にやさしい話なら大好きである。風流またはセンチメンタルな話も好きである。むかし『あれ鈴虫がないている』というコラムを『週刊朝日』に書いたときは珍しく喜んでくれた。
 ―農薬のおかげでとんぼも蝉も死にたえた。虫の声もきかれなくなったと前回この欄に書いたら、東京を去ることわずか十里の町から一少女が電話をくれて、ここではいま虫の声が降るようです。聞かせてあげましょうホラと受話器を庭に近づけたが、いくら感度がよくても虫の声ははいらない。それを言うにしのびないので私は聞えたふりをして礼を述べそっと受話器を置いた云々。
 こういうものが書けるのになぜ変なことばかり書くかと彼女は残念がるのである。『松竹梅で痛さを言う』というのも気にいったほうである。妻は健康な人がきらいになった。生きている人には死んでいく人の気持は分らないと人間を見る目がかわって、しばしば言葉じりをとらえてからむようになった。
 私はつとめてそれを笑うようにした。二人とも失望落胆するよりそのほうがいいからである。けれども妻は何を笑うかという目で見ることがあった。私の笑いのなかに死ぬことなんぞ考えていないものの響きがあったからである。私は思わず口をつぐんだ。
 妻はけなげに気をとり直して私にからむのは朝だけにすると言った。私は病状を松竹梅で言えと命じた。天丼うな丼のように今日の痛みは『梅』だなどと言うように頼んだのである。
 怪しや今朝は『松』だと言う日がありはしないかと、ひそかに私は願っている――と結んだときは妻は顔をあげなかった。いっぽう『他人の目にはただのお多福』というたぐいの小文は題を見ただけで病気を忘れて哄笑した。
 それまで入退院を繰返してはいたが、病院生活はながくて一カ月でうちへ帰ることができた。死ぬと思ったことはなかった。今度はちがう。けれども一縷の望みがないではない。骨にきて五年も生きてきたのだから奇蹟はもう一度おこるかもしれない。
 医師は肋膜と称している。当人は肺ガンだと知りながら今度は肋膜だという。そう思いたいのだろう。肋膜なら水をとればらくになる。はじめ二リットル(一升強)次いで一リットルとったがあとはゼリー状になってもうとれないという。二リットルとったときに呼吸が少しはよくなるはずなのにならなかったから万事は休したのである。
 帰ってうちで死にたいと言いだしたのはこのときからである。それにはせめて車に乗れるだけの体力がなければならないと妻は病院の廊下をさまよい歩いた。階上と階下をあがったりおりたりして足をたしかめていた。病院は治すこともできないくせに退院を許さない。足袋はだしでも脱走するぞとまだ意気さかんなところを示したが、それもはやふた月の昔になった。

 いちはつの花咲きいでてわが目には 今年ばかりの春行かんとす  子規

 妻が入院したときはまだ冬だった。それから七十日、春はすでに行こうとしている。私は口にだしては言えないけれど、この歌を思いださずにはいられなかった。」

   (山本夏彦著「生きている人と死んだ人」文春文庫 所収)
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2007・09・13

2007-09-13 09:20:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続きです。

 「妻は私の書くものを読むと頭が痛くなると言った。自分が痛くなるばかりでなくたいていの人は痛くなると言って譲らなかった。彼女は理屈を言うのは得意でないから私がかわって言うと、いつも同じ例で恐縮ながらこうである。
 ―老人のいない家庭は家庭ではないと言えば老人は喜ぶ。若者はいやな顔をする。けれども今の老人は老人ではない。迎合して若者の口まねをする。老人と共にいても若者は得(う)るところがない。追いだされるのはもっともである。
 以上あら筋だけなら百字に足りない。肉をつけても八百字(二枚)で言える。妻がきらうのはこのたぐいで、老人がいない家庭は家庭ではないという話だけならいい。そのつもりで読んでいると話は一転し再転して応接にいとまがない。
 けれども私が私であるゆえんはこういう発言にある。変痴気論にある。それを認めなければ妻は私のところへ来た甲斐がないと言ってもむかし彼女は勝手に来て私は来るにまかせたのだから仕方がない。世間には何度も妻をとりかえる人があるが、あれはくせである。とりかえたって同じことだと知るから私はとりかえない。とりかえようと思ったこともない。」

  (山本夏彦著「生きている人と死んだ人」文春文庫 所収)
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理解なき妻 2007・09・12

2007-09-12 08:40:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昭和61年7月の文章です。

 「昔の病人は自分のうちで死ぬことができたが、今はできなくなった。ひとが病院で死ぬよりほか死ねなくなったのは現代の不幸である。
 どんなに善美をつくした病院でも、ながくいることを強いられたらそれは牢屋である。妻は今度は帰れないと知っていた。妻のガンははじめ乳ガンでやがて骨にきて、骨にきたらもうおしまいなのによく耐えて、丸山ワクチンのおかげか五年もガンを飼いならした。ひょっとしたら助かるかと自分も思いまた人にも思わせたが、去年から随所に皮膚ガンが発生して皮膚ガンは切ればいいのだから切ることを繰返して、それに気をとられているうち両肺が侵されて去る二月二十七日入院した。
 妻は私の書くもののよき読者ではなかった。理解なき妻と言ってよかった。理解ある妻とない妻をくらべたら、ある妻のほうがいいにきまっていると思うだろうが必ずしもそうでない。妻が私のコラムを認めないのには十分な理由があるから、私はそれを不承しないわけにはいかなかった。」

 (山本夏彦著「生きている人と死んだ人」文春文庫 所収)

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2007・09・11

2007-09-11 09:20:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、古今和歌集から。

   題しらず              読人しらず

  世の中はなにか常なる あすか川昨日の淵ぞ今日は瀬になる

  世の中は夢かうつゝか うつゝとも夢とも知らず ありてなければ

  
   山の法師のもとへつかはしける    凡河内みつね

  世をすてて山に入る人 山にてもなほうき時はいづち行くらん
   

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