瀬戸内寂聴さんが11月9日、京都市内の病院で心不全で亡くなられた。99歳の大往生。90代は死の上にはった薄氷の上にいるようなもの、いつお迎えがきてもおかしくはないと著書に。想うがままに生きられた悔いなき生涯であったのだろう。唯一の悔いは3歳、物言えぬ幼児を残して自らの欲望のおもむくまま、家を飛びだしたこと。しかし70をすぎたその娘も寂庵を尋ねてきてくれるようになったと著書などにかかれている。
(南天の実や雨露もらひて赤を増し)
私が般若心経にであったのは大学2年のおわり、いきさつは覚えていないが奈良、生駒、信貴山の断食道場に2週間入った時に毎朝、写経が日課としてかせられていた。その頃から内省的な面があったのかもしれない。
それから何十年後、「痛快!寂聴仏教塾」という本にであったのが瀬戸内寂聴と言う女流作家が私の意識したに住み着いたきっかけであった。この本はわかりやすく、お盆、お彼岸、仏事などのおりおりに読み返し、氏の他の著書にも目を通すようになった。
1922年生まれ、58年、36歳の時に新潮社から出した「花芯」が評論家から「ポルノ小説」だと酷評され、新潮社に反駁文を載せたいと直談判に及んだ時に、編集長から「甘えるのもいい加減にしなさい。小説家と言うのは自分の恥を書き散らして銭をとるもんだ」と一蹴された。それで目が覚めて肚が座った。5年間、文壇からほされたがそれ以降、己の信ずるまま生き抜く彼女の人生哲学、行動哲学が決まったという。51歳で得度、出家をし、文字通り「一身二生」を見事実践された。
かく言うわたくし、まあ76歳、自分史などつくりながら、あの時、あの場面で、なぜ決断しなかったのか、反対に何故こんな決断をしたのかと不思議におもえる箇所はいくつかある。おのが性格がなした結果であり誰のせいでもない。それゆえ瀬戸内寂聴という愛と革命に生き抜いた姿に敬服したのかもしれない。たいした女性でしたね
今頃、なつかしい面々が彼女を出迎え、冥界で歓迎パーティが開かれ、好きな肉をたべワインを傾けているに違いない。寂庵にもいかず、直接お会いしたことはないが、いろいろありがとうございました・・・・