明日は敬老の日。わが住宅団地も自治会役員がお祝いをもって、80歳以上の世帯を訪問する。私は79だから対象外。人生100年時代だとか言われはじめ、100歳以上の超高齢者が9.5万人くらいいるとか。100まで生きたいなどとは思いませんがね。
岡山の息子夫婦からおいしそうなシャインマスカットが届いた。敬老の日ということで贈ってくれたのかも。岡山はブドウの一大名産地のようですね。
シャインマスカットは近くのディスカウントストアでも店頭に並んでいるがひと房2~3千円している。高級果実のようですね。スイカや巨峰など種アリは出すのが面倒で苦手。その点、このマスカットは皮ごとたべられて私むき。
数年前に贈ってくれたニュービオーネも確か超美味だったね。
昨夜は骨とりサバのみぞれ煮という冷凍食品を妻が大手のドラッグストで調達してきたのを食したが大根おろしの入ったさっぱりしょうゆ味とかで大変美味でした。農産、漁業、各産地が知恵をしぼった開発商品、すごいですね
ところで瀬戸内寂聴さんが3年前99歳で亡くなったが佐藤愛子さんはもう100歳、五木寛之さんも92歳、曽野綾子さん93歳。作家というのは小説や随筆を頭をつかっていつも書き続けているからボケないのかもしれませんね。昔は作家などというと売れるか売れないのかわかりもしない小説など書いて浮き草稼業のように思われていた時代もあったようですね。やっとこさ直木賞や芥川賞などとって脚光をあびても、受賞後の第二作や書き続けるということが大変。
たまたま図書館で「寂聴残された日々」朝日新聞でずっと連載されていたらしい死去1か月前くらいまでの随筆集。あからさまに,あけすけに、反骨的に表現されている文が面白い。小説家というのは己の恥や失敗がネタになるあり難い商売。言いたい放題が長生きの秘密かもね。「痛快、寂聴仏教塾」仏教のなんたるか実にわかりやすい。さすがの筆力ですね。五木寛之さんも終戦時、北朝鮮からの引き上げの原体験がのちの作家人生の根幹になる。(やさしい善人は帰還できない)歎異抄、悪人正機説、林住期、遊行期。他力の思想。わたしの人生、生き方指針になった。クリスチャンの曽野綾子さん、世界をまたに歩いてきた才人。人間の分際、老いの才覚などうなずけるか所多し。聖書も人間には善人などいないというのが前提。出世したのは自らの才と努力だとうぬぼれてはいけない、すべては神の恩寵によるものだ・・・
微小の受精卵の中に一人一人の人間の成長因子が書き込まれている。毎月1回、なぜ女性に月経がおこるのか、寝ていても心臓は動き続け、呼吸は止まらない。人間の誕生が進化論でどこまで説明がつくのか、やはり万物の創造主がいたと考えざるをえないのか?人は死ぬと火葬され灰になる。そんなのをみていると聖書をおもいうかべる。旧約聖書創世記には神は土くれから男をつくり、男の骨から女を作った。禁じられた実を蛇にそそのかされて食べてしまったイブとアダム。爾来男は食べるために汗水たらし、女は産みの苦しみをあたえられ、約束されていた永遠の命がきえうせ、男も女もやがては死に、土に戻ると・・
(ホーム玉ねぎうえつけ、12月末収穫予定)
一緒に借りてきた曽野綾子さんの「こころに迫るパウロの言葉」の次のような文が。
- 主は私たちをどのように造るべきか知っておられた。私たちが塵にすぎないことを御心に留めておられる。人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上を吹けば消え失せ、生えていたところを知るものもなくなる。詩編103章14~16節、ダビデの詩・・・後は野となれ山となれ!私たちはこの地球に生まれ合わせ何億人の中から知り合い、迷惑もかけたが多少は手助けもした、まさにそれは一つの驚異である!
- 太陽のもと、人は労苦するがすべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり、永遠に耐えるのは大地。日はのぼり日は沈み、喘ぎ戻りまた昇る・・コヘレトの言葉、伝道の書、1章3^5節・・私たちは死を重く見るが誰が死んでも生きても大地は何も動揺しない!できれば自分の生死というものを重く見すぎないこと。人間に決められることは晩飯のお菜くらいのもの、今私の存在はどれ一つ見ても自分の意志ではなかった。人間は死ぬ以上、流されることが自然。堂々と流されればよいのだ
- 定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世のことにかかわっている人はかかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです・・若い世代にみせてやれるのは人間がいかに死ぬかというその姿である。
私のブログもだんだんとウイークリーブログになりつつあるが、ボケ防止になるのかしらね?!おやすみなさい