東京や福岡で開花宣言。宇美公園でも桜が咲いていた。
24節気では春分の次候、25~29日、「桜はじめて開く」頃となってい入る。ソメイヨシノは江戸時代につくられ、それ以前は山桜であったとか。吉野山のヤマザクラは素晴らしいようだ。さくらえび、桜餅、アスパラガス、こぶし、吉野花会式などが季節のキーワード。
(宇美公園)
新聞に「成功している人はなぜ神社にいくのか?」という本が25万部突破したとか、ほんとかね。日本人は神仏の存在を肯定する人はすくなかろうが正月は神社に参詣し、お盆には墓参りし、葬儀はほとんどが仏式、クリスマスは大いににぎわい、まったく宗教へのこだわりがない。しかし家に神棚や仏壇があるのは2割くらいだとか。
アメリカ人は信仰をもっている人が85%、神のために死ねるというのが70%、毎週教会にいくというのが2割、神の存在を90%は信じているとか。大統領就任式では聖書に手をおいて誓いを立てる。進化論は半数が否定、人は神がつくりたもうたというわけだ。日本の首相は般若心経に手をおいて就任式などしないね。天皇に出席していただいてそこで認証式をやっているのが日本人だ
さて、表題の神社まいりや神棚の件だがあらゆる失敗や問題の根源は人間の執着やこだわり、思い上がり、欲望など煩悩のなせる業。したがって社内に神棚を置くということが
1. 会社の中にパワースポットができる
2. 自分(社長)よりも上の存在ができ、どれだけ成功しても謙虚になれる
3. 銀行や取引先など、他者からも信頼される
4. 感謝の念が増え、仕事の効率がよくなる
5. 社員の意識も高くなる という理屈になる
神棚は、昔は学校や役場、各家庭どこにでもあり、普通に日本人の生活に馴染んでいた。
しかし戦後GHQの「公的機関の神棚の禁止」令により、役所や学校、そして家庭からも神棚はどんどん消えていった。
経営の神様といわれた松下幸之助さんは学校に行ってなかったので、分からないことは何でも聞き、病弱だったので体力のある人に頼り、工場に行くと工員に何をやっているのか尋ねたそうだ。
尋ねられた本人はチェックを入れられていると緊張し、空気が張り詰めたと言う。
しかし、本当に何をやっているのか知りたくて聞いていただけだったという。また、有名な「水道哲学」ができるまでは理念もなく、ただ儲かる事だけに集中していた。また、企業は人なりということで、人と人との結びつきについて学ぶために、様々な宗教団体へ足を運び学んだという。しかし、実家は浄土真宗だったが、どの宗教団体にも入信しなかったそうだ。
どうであろう?日本を代表する経営者が宗教団体にも足を運び学ぶ姿勢。これこそが日本人が無意識に身につけている仏教思想である。多くの人は知らないことを知ってるふりしてやり過ごす。しかし、松下幸之助は知らない事は知らないと多くの人の知恵を借りたそうた。つまり、知らないことは知らないと素直に認め、まずは受け入れる。そして耳を傾け学ぶ。これは日本人が対立することなく様々な宗教や文化を受け入れ、発展を遂げて来たことそのものである。松下幸之助さんを経営の神様と言う人がいるが、まさに神の道を歩んでいた人なのかもしれない
正しい宗教というものは、人間の幸せに資するものでなくてはならない。過去に幾多見られた宗教戦争のように、宗教のために人間同士が争い、人間が犠牲になるというようなことでは、宗教の意義はない。宗教は永遠の真理に立脚し、しかもその時代時代にふさわしい説き方、教え方がなされなければならないだろう。
さて前のブログで無明、煩悩のない浄土の世界にゆくには普段どのような心掛けでいるべきと瀬戸内寂聴さんが述べているのかということに触れた。
先般、梅宮辰夫さんは盟友、松方弘樹さんの死に直面、如何に豪快な人生を送ろうが死んでしまえば骨となって骨壺に収まってしまう。人間、死んだらおしまいだね、今、懸命に生きるだけだとご本人も去年12時間のがん手術で生き延びた実感から述懐されたようだ。ではどんな生きざまをするのかということになる。
今時の日本人、死んだらどうなるのかや、浄土とやらにいきたい、地獄にはいきたくない、ではどうしたらよいかなど考える人間はほとんどいないだろう。食わんがため、生きんがために、日々追われ、過ごしている。自らを謙虚にさせる対象、信ずるものをもてていないということだろう。この件についてはまた次回・・・・