7/27
「吉野宮行幸するときあらかじめ作れる歌と短歌なり
(芳野の離宮トツミヤに幸行イデマさむ時の為、儲アラカジめよめる歌一首、また、短歌)」
「名誉かけお仕えします永遠にそんな歌だがさほどでなきか
(高御座天の日継と天の下知らしめしけるすめろきの神の命の畏くも始め賜ひて貴くも定め賜へるみ吉野のこの大宮にあり通ひ見ミしたまふらしもののふの八十伴の男もおのが負へるおのが名名負ひ大王の任マケのまにまにこの川の絶ゆることなくこの山のいや継ぎ継ぎにかくしこそ仕へまつらめいや遠長に)」
「高御座 天の日継と 天の下 知らしめしける すめろきの 神の命の 畏くも 始め賜ひて 貴くも 定め賜へる み吉野の この大宮に あり通ひ 見ミしたまふらし もののふの 八十伴の男も おのが負へる おのが名名負ひ 大王の 任マケのまにまに この川の 絶ゆることなく この山の いや継ぎ継ぎに かくしこそ 仕へまつらめ いや遠長に( #18.4098)」
「古を思ほすらしも我ご大王吉野の宮をあり通ひ見メす(反し歌 #18.4099)」
「いにしえを思い出すらしわが大王は吉野の宮に通ひ見られる()」
「もののふの八十氏人も吉野川絶ゆることなく仕へつつ見む(反し歌 #18.4100)」
「もののふの八十氏人も吉野川絶えることなく仕へつつ見よう()」
※この歌は、長歌と反歌の構造がくっきりとでた歌である。長歌も二つのメッセージからなり、反歌も2つの歌に分かれている。
作品としてあまり手が込んでいなくて、いい加減といえば言えなくもない。池主との贈答歌の熱気のようなものは伝わってこない。
7/27
[概略]
1998.7.22に「万葉集について考える」というテーマのメモがある。このメモのなかにも俵万智さんのように万葉集を口語訳をしようというアイデアがある。このメモが引き金になったか、いまもこの作業が続いている。いま18巻まで来ているのでもうすぐ満願成就である。当時は外からの思いであったがいまは突っ込んだ話ができるかもかもしれない。ちょっと言いすぎかもしれないがわたしの調べが万葉調に近づいたかもしれない。
[万葉集って]
万葉集は古事記・日本書紀に続く膨大な書き物である。物語とか歴史書のように書かれたのではなくその時代にあった宮廷歌集や旧家に伝わる歌集等を編纂したものである。誰かから命じられたわけでもないようだ。藤原定家のように歌の家に生まれたわけでもないが、たぶん父の旅人や叔母の坂上郎女が基礎を教え自分自身で開花させたのであろう。勝手な憶測だが大伴家・佐伯家は王家に破れて服従を強いられたらしい。大王を讃える言葉が薄っぺらで紋切り型で何か奥歯にものが挟まっている感がある。
最初は小さくまとめるつもりが東歌になり、同時代人の歌集や家持歌集へと拡大させていった。もし、家持が天皇家に対して反逆のメッセージを込めたとしたら歌の並べ方とか歌のテーマについてだろう。直接的には、わからないので更なる深読みが必要になってくる。もし浮かんでくるとしたらどんなメッセージを込めたのか知りたいものである。。
[万葉秀歌]
斎藤茂吉が岩波新書に上・下巻で万葉秀から歌を取り出し、論評を加えている。茂吉は当代きっての歌読みであり、歌の調べとか解釈では叶わない。自分の好きな歌くらいだったら選べそうだ。歌にまつわるものがたり、時代背景等を考えるのも楽しそうだ。
[道具からみた万葉集]
渡辺茂氏が歌の中にある〈モノ〉を引っ張りだし、道具の時代考証をしているが、同じような視点で花とか歴史そのものを引くのも面白いかも。