がじゅまるの樹の下で。

*琉球歴女による、琉球の歴史文化を楽しむブログ*

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北山2年目の決意表明

2012年10月05日 | ・徒然日記

今のポジションでシゴトをするようになって早5年目。
今年も年に1度の大仕事の日がやってきた。

去年みたいな不完全燃焼だけは嫌だ!


去年で北山の文化や雰囲気の違いも分かったから
今年はうまく立ち回りつつ、楽しんでやる!(`・ω・´)=3

 


‘一生懸命がかっこいい’なのは大人も一緒。
あなたが最近「完全燃焼」したのはいつですか?

 


でも、明日名護市民会館である
沖縄芝居「アカインコが行く」(与並岳生脚本)
観に行きたかったけど……

やっぱり時間的に無理そうだ…

こればかりはちょい残念。



興味ある方は是非。
(原作「アカインコが行く」レビューはこちらから)

 

沖縄芝居 「琉球吟遊詩人 アカインコが行く」

2012年10月6日(土)
開演18:00(開場 17:30)
名護市民会館大ホール
チケット 2000円(当日)

コメント (4)
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お茶と鬼大城と百十踏揚。

2012年10月04日 | ・琉球史散策/第一尚氏

抹茶の入った新・伊右衛門。

お供はうちな~てんぷら(1個40円♪)

 

伊右衛門、思ってたよりはスッキリ味でした。
もうちょっと抹茶味が濃いほうが好みだな~。

うちなーてんぷらは衣にもほのかに味がついているので
本当においしいです♪

時々無性に食べたくなる沖縄のソウルフードです

 

 

さて、お茶つながりで今日は
「お茶と鬼大城と百十踏揚」の話。

 

沖縄では、来客にお茶を2杯飲んでいただく
という風習があるそうです。

あるそうです、と書いたのは
ワタシ自身は馴染みのない風習で最近知ったので(^^;
(地域とか世代にもよるのかな~?)

で、この「お茶二杯」の風習の由来は、
実は鬼大城と百十踏揚にあったというのです。

 

1458年、護佐丸を討伐した阿麻和利は、
いよいよ次は首里に攻めのぼろうとしていた。

しかし、そのたくらみを事前に察知した鬼大城(大城賢雄)は
百十踏揚と共に勝連グスクを脱出。

二人の脱出を知った阿麻和利は
急いで追手を差し向かわせた。

首里までの逃亡の途中、暗くなったので
二人は灯りのともっていた百姓の家に入れてもらい
お茶を一杯飲んだ。

お礼を言って立ち去ろうとした時、
主人に「もう一杯どうぞ」とすすめられた。

追われている身であるため
すぐに立ち去りたいと気が急いたが
心を落ち着かせて二杯飲んだ。

すると、まさにその時、
追手の蹄の音が家の前をかけていった。

 

つまり、お茶を二杯飲むため家にとどまっていたため
命拾いした、という話。

お茶を二杯飲むくらいの心の余裕をもてば事故に遭わない、
という戒めによるもののようです。

 

でもこの話、実は同じストーリーで主人公を変えて
色々あるんですけどね。

別の本によると
勝連が王軍に攻められたときに脱出した阿麻和利が
同じく逃避行の途中、茶を2杯飲んで助かった、
という説を紹介しています。

 

参/「真説 阿麻和利考」高宮城宏著(2000)
参/「ほんとうの琉球の歴史」渡久地十美子著(2011)

 


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【補足】鬼大城、最期の謎

2012年10月03日 | ・琉球史散策/第一尚氏

昨日UPした記事「鬼大城、最期の謎」に書いた、説【3】の

越来按司が賢雄の不品行を国王に訴え破滅を早めた

という説の補足。

 

この説に出てくる越来按司について。

阿麻和利討伐の際、
賢雄率いる王軍はいったん越来グスクに駐屯したらしいです。

その際越来按司も勝連討伐への王府軍に加わるよう言われますが、

 

なんと、妻の懐妊を理由に参戦を断った

というツワモノ(笑)

 

…え、その理由アリ…?

 

…まぁ、今の感覚からいえばなかなかの愛妻家ですが。

 

で、この越来按司。

おそらく阿麻和利を討伐したあと越来親方(※城主=按司)に出世した賢雄に
結果、追い出されたという形になったのでしょうか。

なるほど、それなら賢雄に恨みも芽生えたことでしょう。

王女・百十踏揚とも結婚を果たし、
どんどんと力を増していく賢雄をねたみ、
何とかして陥れてやろうと機会を狙っていたとのこと。

で、賢雄が宮里村石城家の娘を妾にしたのをとらえて
これを不品行だと尚円王に大げさに訴えた。

王はこれを聞いて懲罰の大軍を差し向けた、とのこと。

 

…色々とツッコミどころ満載の口碑ですね(^^;

 

とまぁ、賢雄の最期については諸説あるのですが、
でも「知花グスクで火攻めにあった」という点では共通しているようですよ。

 


なお、今日の記事は

「沖縄史文化財調査報告書第2集 鬼大城の墓」
(沖縄市教育委員会/1980))

を参考にしていますが、
同資料から、諸説ある賢雄の最期についてのまとめをついでにご紹介。

 

口碑伝説はさておいて、第一尚氏の功臣であり姻戚である賢雄が
第二尚氏の軍隊から攻められるのは不可避である。
また、第一尚氏の時代から既に進展しつつあったと思われる社会情勢への変化
(地方按司たちによる土地の割拠的領有制から首里王府への一円的領有制へ)
をすくいあげ、意図的に自らへの土地と人民の集中を制度化しようとする第二尚氏の根本方針に、
古い型の地方士豪である賢雄が相反する存在であった。
そういう第二尚氏の基本方針が根本にあって賢雄が殺されたと見たい。

 

うん。
表面的な理由や討伐のきっかけはどうあれ
根元にはこのようなもっと深いものがあっただろうね。
(金丸派のクーデターなんかもそうだろうし)

ちなみに賢雄の家系は4代にわたって平民に落とされたとも。

なるほど、だから門中事典とかで調べてみても
初期メンバーが載ってなかったのか…。


また、子孫は百十踏揚との子ども経由ということになっているそうです。
(そう言いきっているネタ元はやっぱり伊波普猷の阿麻和利考なのかなぁ…?)


 


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 尚泰久が越来グスクから首里に移って、
賢雄が越来按司になるまでの空白の数年間。
誰が越来按司だったんだろうね…。
記録はないのかな?


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新・伊右衛門

2012年10月03日 | ・徒然日記


↑クリックするとジャンプします

 

時々登場する、「サントリー伊右衛門のまわし者」和々です(笑)

抹茶入り伊右衛門が登場したらしいです♪

CMも、いつもの久石さんのテーマソングも一新するとは
攻めたなサントリー(笑)
(CMはこちらから)

明日にでも買ってみようっと。

 

そういえば
また秋の茶会限定瓶バージョン出ないかなぁ~。
(2009年版はコチラ

 


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伊右衛門は~ん


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鬼大城、最期の謎

2012年10月02日 | ・琉球史散策/第一尚氏

鬼大城こと、大城賢雄の最期は
実はハッキリしていないようです。

一応現在有力なのが、
第二尚氏(金丸派)によるクーデターの際に‘新王府軍’に討伐された、というもの。

その時、
諸按司を集めて北谷間切に国直(くになおし)グスクを築いたとも。

賢雄の旧王朝(第一尚氏)への篤い忠誠心が垣間見える
武将らしいエピソードです。

 

でも、実は賢雄の最期については「夏姓太宗由来記」や「球陽」などの正史には
阿麻和利を討伐し、褒美をもらい越来按司になった、という所まではあるものの
その後の記述は一切ない。

というわけで、諸説ある賢雄の最期についてご紹介。

 

【1】
反尚円の按司を集め新王朝に立ち向かい殺された。
(コザ市史、辺土名朝雄)

現在一般的な説ね。

 

【2】
なんらかの不都合で、尚泰久の兵に消された
(伊波普猷、山里永吉)

でた!黒幕尚泰久!

 

【3】
越来按司が賢雄の不品行を国王に訴え破滅を早めた
(伝承)

ふ、不品行…!?何した賢雄!!

 

【4】
美女狩りをおこない知花の村民に追われて殺された
(口碑)

美女狩り!?Σ(゜д゜;)

 

 

…嗚呼、賢雄……

 

 

賢雄はなかなかの女好きだったとか、淫乱の人だった、
とかいう口碑もあるようで(BY「阿麻和利考」伊波普猷)
そこからつながる「最期」の説なのでしょうか…。

賢雄と百十踏揚がラブラブだったかどうかも
さて、どうなのでしょう。


どれを信じるかはみなさんそれぞれで!

ワタシは是非とも【1】か【2】で!!
(切望

 

とりあえず、“逆賊阿麻和利”を討伐した英雄のはずが
阿麻和利討伐以降の記録がないことや、
賢雄から数代は日の目を見ていないということは
賢雄の最期に何か秘密が隠されているような気はしますね。


護佐丸・阿麻和利・大城賢雄、
やっぱりこの3名は面白い。

 

参/「真説 阿麻和利考 歴史と伝承を探る」(高宮城宏著/2000)


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尚宣威じゃない金丸の弟

2012年10月01日 | ・琉球史散策/第二尚氏

今帰仁(なきじん)に「赤墓」という史跡墓があります。

この赤墓、言い伝えによると金丸の弟の墓だというのです。

金丸の弟、と言えば尚宣威(しょう せんい)

尚宣威は金丸(尚円)の死んだ後、王位をつぎますが
金丸の妻であるオギヤカの策略によって半年で退位に追い込まれた、あの弟。

でもこの赤墓は、尚宣威の墓ではありません。
(尚宣威のお墓→

では、「今帰仁グスクを学ぶ会会誌 今帰仁上り(2010)」
「門中拝所巡りの手引き(1986)」を参考に
この赤墓にまつわる話をご紹介。

 

赤墓は本部町具志堅の上間家の子孫・上間大親を葬った墓である。

彼は尚円(金丸)の弟であり。
壮年のころ、伊是名島から今帰仁
に移り住んだ。

ある日、尚真王(※金丸の息子)が国頭地方を船で行幸した際
暴風に遭った。

これを見た上間大親は二人の息子たちと小舟を出して
我が身の危険も顧みずに助けに行き、王の船を岸に入れた。

その行いにいたく感心した尚真王が素性を尋ねると、
金丸の弟だということが分かった。

尚真は恩人が自分の叔父であることに驚き、また感激し、
上間村(本部町具志堅)と地頭職を与え、後に墓も与えた。

 

また、なぜ「赤墓」と呼ばれているのかというと、

石棺が赤く塗られていることから、らしいです。
(赤は高貴な色ですからね)

また、遺言により故郷である伊是名島がよく見えるところに
墓を設置したとも。

赤墓から振り返るとこう。

よく晴れた日は伊是名が見えるようです。

この上間大親のエピソードは王府の正史「球陽」の尚円のページにも掲載されています。

しかし金丸の弟とか赤墓という記述はナッシング。

でも尚真ではなく尚円のページに掲載されているということは
やっぱり金丸にゆかりある人、ということでしょうか。

 

金丸の弟が、尚宣威の他にもいた。

 

さてさて、これってどういうこと…!?

ちなみに金丸の両親は尚宣威が5歳の時に死んでます(BY球陽)。

……金丸の従兄とか言うなら分かるけどなー。

 

本当に弟かどうか、金丸・尚宣威・尚真などの年齢から推定推理してみると……

…また長くなりそうなので止めときますか

「赤墓」の案内表示が浜に落ちていました。

台風で飛んだのか…?

トホホ

こっちにも。


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