運命的な出会いで結ばれた男女が,人生で一度きりの劇的な高揚から,一見平坦で果てしなく続くように見える日常にその舞台を移した時に,一体何が起こるのか。
観るものの大多数は,「タイタニック」で海に沈んだジャック(レオナルド・ディカプリオ)がもしも助かって,ローズ(ケイト・ウィンスレット)と二人で結婚生活を営んだとしたら,という仮定の延長上で起こるドラマを想像するはずだ。
御丁寧に同作でジャックを助けた貴婦人役のキャシー・ベイツまでもを,役柄をひねった上で登場させるという念の入れ様は,ウィンスレットの夫でもある監督のサム・メンデスの趣味だろうが,結果はやはり純愛スペクタクル巨編の裏返しと言えるような,深い諦念が支配する異色のホームドラマとなった。
しかし約10年という月日を挟んで作られた今回の「2部作」と同じような試みは,今から溯ること約40年前に,アメリカン・ニューシネマの代表作であるマイク・ニコルズの「卒業」と,その6年後にエレイン・メイが監督した,二人の後日譚とも言える「ふたり自身」の2作において企てられている。「卒業」のラストで興奮が冷めた後の不安に満ちた二人の表情が示唆したものを,ドライなコメディとして描き出した「ふたり自身」は,今となってはもう誰も語るものがない幻の作品と化してしまったようだが,そこで綴られた結婚と運命についての考察は,現在の目で観ても決して古びてはいないはずだ。
しかし夫の側の視点が主だった「ふたり自身」と異なるのは,本作における視点が専ら妻の側から動かず,夫の思考や行動の殆どが,妻の感情の動きに対する受動的な反応として描かれるという点だ。視点=物語の主導権は,常に生きる実感を求め続ける「妻」の側にある。
ただ地に足を着けて現実の障害の間を立ち回り続けざるを得ない夫の苛立ちを,周到な配慮をもって肯定的に描くことを避けたことによって,夫婦の感情の衝突は,思い詰めた妻の暴走のみに起因するものではなく,二人の不器用な人間が懸命にコミュニケートしようとした結果としてリアルに立体化されている。終盤,ケイトが堕胎を決行する朝の食卓のシークエンスに,並のホラー映画は裸足で逃げ出すくらいの緊迫感が宿っていることは,そのことの何よりの証明になっている。
妻となり母となった後も,過去に体感した精神的な高揚を忘れられずに,やがて内側から瓦解していく妻の姿を,サム・メンデスはこれまでの諸作と同様の端正な画面作りで,的確に捉え続ける。撮影現場で監督が装着していたであろうヘッドホンは,おそらく録音機のメーターが振り切れるような二人の罵り声を遮る耳栓の役目を果たしていたに違いない。
諦念が深く刻み込まれたラストショット以外に,ユーモアが顔を覗かせる隙がないのが惜しまれるが,冷静な筆致は最後まで揺るぎなく,メンデス夫婦初の共同作業は,暗く熱いエネルギーに満ちた傑作を生みだした。ただ観るものに要求するエネルギーのレヴェルが高いことも,付け加えておかねばなるまい。
どうでも良いことだが,私の前の列にいた中年のペアのうち,男性の方は途中で大きな溜息をついて退席してしまったのだが,残された女性の方は最後まで鑑賞していた。彼らは上映終了後にどんな会話を交わしたのだろうか?
観るものの大多数は,「タイタニック」で海に沈んだジャック(レオナルド・ディカプリオ)がもしも助かって,ローズ(ケイト・ウィンスレット)と二人で結婚生活を営んだとしたら,という仮定の延長上で起こるドラマを想像するはずだ。
御丁寧に同作でジャックを助けた貴婦人役のキャシー・ベイツまでもを,役柄をひねった上で登場させるという念の入れ様は,ウィンスレットの夫でもある監督のサム・メンデスの趣味だろうが,結果はやはり純愛スペクタクル巨編の裏返しと言えるような,深い諦念が支配する異色のホームドラマとなった。
しかし約10年という月日を挟んで作られた今回の「2部作」と同じような試みは,今から溯ること約40年前に,アメリカン・ニューシネマの代表作であるマイク・ニコルズの「卒業」と,その6年後にエレイン・メイが監督した,二人の後日譚とも言える「ふたり自身」の2作において企てられている。「卒業」のラストで興奮が冷めた後の不安に満ちた二人の表情が示唆したものを,ドライなコメディとして描き出した「ふたり自身」は,今となってはもう誰も語るものがない幻の作品と化してしまったようだが,そこで綴られた結婚と運命についての考察は,現在の目で観ても決して古びてはいないはずだ。
しかし夫の側の視点が主だった「ふたり自身」と異なるのは,本作における視点が専ら妻の側から動かず,夫の思考や行動の殆どが,妻の感情の動きに対する受動的な反応として描かれるという点だ。視点=物語の主導権は,常に生きる実感を求め続ける「妻」の側にある。
ただ地に足を着けて現実の障害の間を立ち回り続けざるを得ない夫の苛立ちを,周到な配慮をもって肯定的に描くことを避けたことによって,夫婦の感情の衝突は,思い詰めた妻の暴走のみに起因するものではなく,二人の不器用な人間が懸命にコミュニケートしようとした結果としてリアルに立体化されている。終盤,ケイトが堕胎を決行する朝の食卓のシークエンスに,並のホラー映画は裸足で逃げ出すくらいの緊迫感が宿っていることは,そのことの何よりの証明になっている。
妻となり母となった後も,過去に体感した精神的な高揚を忘れられずに,やがて内側から瓦解していく妻の姿を,サム・メンデスはこれまでの諸作と同様の端正な画面作りで,的確に捉え続ける。撮影現場で監督が装着していたであろうヘッドホンは,おそらく録音機のメーターが振り切れるような二人の罵り声を遮る耳栓の役目を果たしていたに違いない。
諦念が深く刻み込まれたラストショット以外に,ユーモアが顔を覗かせる隙がないのが惜しまれるが,冷静な筆致は最後まで揺るぎなく,メンデス夫婦初の共同作業は,暗く熱いエネルギーに満ちた傑作を生みだした。ただ観るものに要求するエネルギーのレヴェルが高いことも,付け加えておかねばなるまい。
どうでも良いことだが,私の前の列にいた中年のペアのうち,男性の方は途中で大きな溜息をついて退席してしまったのだが,残された女性の方は最後まで鑑賞していた。彼らは上映終了後にどんな会話を交わしたのだろうか?