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映画「ラースと,その彼女」:こんな町に住みたいと思う

自分の出生と同時に母を亡くすという悲劇を引きずりながら,優しい心で静かに日々を過ごす青年ラースが,リアルドール(等身大の女性の人形)に恋をする。ひとつタッチが違えば,現代人の孤独が行き着いた先にあった狂気,というテーマでセンセーショナルなカルト・ムービーが1本出来上がって終わり,ということになっていたかもしれない。
しかしそんな物語はやがて,生命が持つ尊さと,人間が現代の社会で生きていくことの意味という大きな問題へと繋がっていく。ラースの性格に似た静かな語り口で物語を紡ぐのは,ナンシー・オリヴァーの繊細で巧みな脚本と,米国の田舎のシネマテークで小津安二郎の洗礼を受けたかのようなクレイグ・ギレスピーの演出のコンビネーションだ。お正月映画としての華には少し欠けるかもしれないが,真冬に温かい気持ちになれる,という効能は,保証出来る。

「小津」を連想した一番の理由は,ショットの「動き」が少ないことだ。それはキャメラ自体の動きにも,またフレームの中における役者の動きにも当てはまる。
人形が準主役なのだから,まぁ当たり前と言ってしまえばそれまでなのだが,ショットに映った瞬間の被写体が持つ意味がしっかりと考えられているため,どの「動かない」ショットも実に効果的だ。
それが印象的なのは,冒頭でビアンカ(リアルドール)が兄夫婦に紹介されるシーン。最初にビアンカを見て驚く兄夫婦のショットが映され,次に自慢げなラースとビアンカを捉えたショットが来る。どちらも全く動き(キャメラも役者も)がないショットにも拘わらず,3人の心情が実に雄弁に表現されているおかげで,観客は即座にこの不条理の中に座るべきポジションを見つけられるのだ。

更に,小津の映画で良く言及される「視線のずれ」=話したり,見つめ合う登場人物の視線を同一直線上に置かない演出,も形を変えて何度か使われる。例えば,最初にラースが兄夫婦の夕食に招かれ,義姉が席を立った後に兄弟で話し合う場面で,はす向かいに座って(嫌々)交わされる二人の会話を交互に撮ったショット。更には,何度か出てくる教会の場面で,ラースを斜め後方から見つめる会社の同僚マーゴを捉えたショットなど,登場人物の関係を構図とショットの組み合わせで表現するという演出が,まるでラースを愛する町中の人々の気持ちのように,さりげなく密やかにちりばめられているのだ。

主役のライアン・ゴズリングは終盤,演技を越えた表情で圧倒する。脇では,義姉役のエミリー・モーティマーの明るさが光るが,やはり医師役のパトリシア・クラークソンの落ち着きと思慮を湛えた演技が,この作品の成功の鍵となっている。
また音楽監督なのか,ギレスピー監督なのかは分からないが,お懐かしやのトム・トム・クラブ,更には重要なダンスシーンで名曲「This must be the place」を使うというところから見て,どちらかが筋金入りのトーキング・ヘッズ・フリークであること(多分)も嬉しかった。

「僕らの未来へ逆回転」もそうだったが,グローバリゼーションや経済不況に翻弄されるかの国で,原点に立ち戻って人間を描こうと思った時には,舞台が大都市であろうと地方であろうと,個人と地域コミュニティの関係への洞察が重要である,という空気が,徐々に生まれつつあるのかもしれない。
日本映画でも,キネマ旬報で昨年の邦画ベスト1に選ばれた「おくりびと」における,主人公と銭湯を営む吉行和子の関係に,その萌芽が見られた。有望な「鉱脈」は至る所に存在しているはずだ。あとは,この作品の作り手のような,大胆かつ細心な「山師」の登場を期待したいが,どうだろう。
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