今日は愛知県の安城市と碧南市境にある河川に行ってきました。
このあたりは、麦畑がたくさんあります。珍しいです。その間に、れんげ畑がありました。きれいです。春の平和ないい景色です。
昔は私の住んでいた名古屋郊外でもれんげ畑だらけだった。坂の上から見下ろすと一面のれんげ色できれいだった。どうしてれんげを作らなくなったのでしょう。化学肥料で済ませてしまうのか。
田んぼのあとには麦を作りたいけれど、麦をつくるとれんげが作れなくなってしまいます。やっぱりれんげも作りたい。坂折棚田にはれんげ畑がありません。
景観もすべて消費者がつくっている。もうかるからと拡大造林したヒノキ林も、生産者が消費者のニーズに合わせてつくり、ニーズ(のなさ)にあわせて放置されている。
たけのこを採らなくなったモウソウチク林の拡大。
中国たけのこが安いし。
トマトもキュウリも、生産の時期の調整と「きれい」な作物づくりのため、ハウスで栽培。
みんな消費者が糸を引いています。
安いものが売れるから、国産のものは売れず、景観はどんどん壊れていく。
しかし、河川の護岸工事は消費者?の都合ではありませんね。作る人のために作っている?
土木工事は、仕事を作るためになるべく回数を(無駄を)多くしているとか。
美しい景観はそこで働く人が作っている。
日本の美しい景観を愛でる人は、そこに何かを還元しなければなりません。
しかし、どうしてここに護岸工事が必要なのか、あるいは、どうしてこんな形で工事しなければならないのか理解できないものが多々あるのも事実です。また、すべてを完璧に整備しきるのではなく、越流が起こってもいい部分を作って折り合いをつけることが必要だと思います。日本ではこの辺りの考え方が遅れていると聞きます。土砂崩れ、山腹崩壊も、起こっても人の暮らしに支障がないところでは仕方ないとみなさないといけないし、人間の歓びのためにそれを完璧に止めようと莫大な手間や費用をかけ続けることは驕りだと思います。
日本など先進国の人間は、もっと自然を畏れ、自然を改変して生きることではなく、自然をできるだけ改変しなくても生きられるよう知恵を絞り努力すべきだと私は考えます。近代になって、また化石燃料を手に入れて、力づくで何でもできるようになり、逆に知恵を絞ることを忘れてしまいつつあるのではないでしょうか。
また、環境教育の場でも同じことですが、主催者(実施主体)の責任を問われないようにするため、過剰な手当てや警告を行うということによって、失うものもまた多いと思います。
岐阜より西の大垣はかつてれんげはちみつの産地でした。最近大分減ったようですが、まだ名残があるのではないでしょうか。岐阜市内のことはあまりよく判りませんが、西濃や南濃では「はつしも」という、霜が降りる頃(11月)に収穫するお米を多く作っています。そのため田植えも遅いと思います。