回想記・その7、駒づくりプロ宣言展
開催場所にこだわった「個展」は、東京は銀座大通りと決めて、場所探しから始めることにしました。目指す銀座大通りには、大小、多くのギャラリーがある中で、明るくて健康的なところで開催するのが希望でした。
ある日上京して、3丁目あたりから一軒々々を尋ね歩いたのですが、明るくて健康的なギャラリーは、なかなか見つかりらないでいました。15軒目ほど巡って7丁目辺りまで行くと、理想的なギャラリーが見つかりました。資生堂ギャラリーです。勢い込んで係員に聞くと「3年先まで予約済み」とのことで、やむなく断念。もう少し探すことにしました。
やがて8丁目で、天井が高くて広くて明るくて健康的なところが見つかりました。銀座書廊です。天井が高いのは、大書した条幅などの書画を掲げるため。オープンしたばかりで、運よく翌年5月の金土日3日間を押さえることができました。
でも、ちょっと気がかりなことが頭をよぎりました。42坪もある広い展示場に、ちっぽけな駒を30組40組並べても見劣ること甚だしく格好がつかない。何か良い方法は無いものかと思ったところ、閃くものがありました。
「そうだ原田先生。原田先生にお願いしよう。先生には夕刻にはお会いできる。そこでお願いしよう」でした。浮かんだ妙案は、原田先生に協力いただいて、広い壁面には、大書した作品をたくさん掲げてもらう。駒は下の展示台に並べればよい。原田先生の書作と私の駒とを組み合わせると、サマになるというアイデアでした。
予約をすませ、原田先生が来られるホテルの祝賀会会場に移動し待っことしばし。やがて、いつもの羽織袴姿の原田先生に「かくかくしかじか」とお願いしたところ、「わかりました。貴男は信用がある。やりましょう」と、快諾いただいたことは何にもまして嬉しく、順調満帆な門出を予感させるものでした。
原田先生の支援により具体化した展示会は、8か月かけて準備し、翌年の平成8年に「プロ宣言・駒づくり展」として東京と大阪で開くことにしました。時に53歳。映像は、その案内ハガキ(原稿ゲラ)です。
最大のエポックは、展示会直前に原田先生が「 勲4等旭日小綬章」を受賞されたこと。そのため、当日の会場はテレビ新聞など大勢の報道関係者でいっぱい、おかげさまで、私めも大いなる余禄、恩恵を授かったのでした。
大阪での展は、心斎橋筋・大丸百貨店前で半月遅れての開催でした。
そのある日のことです。来場された谷川浩司九段が、20分ぐらいでしたか、展示している「原田泰夫書の駒」を無言でジーっと見つめておられたのです。因みに「原田泰夫書の駒」は、この展のために原田先生にお願いして作った新発表の駒。
その日はそのままお帰りになって、二日後のことです。電話があって「私の字で駒ができますか」というお尋ねでした。その後のことについては、谷川先生著「復活」(毎日新聞社)にも詳しく触れられていますので、章を改めて書くことにします。