浦安中年期外伝

カミさんを師匠に修行中の週末の料理やポタリング、読み散らしてている本の事など

ようこそ、おいでいただきました。

歳をとると日々が過ぎて行くのがどんどん早くなっていきます。ブログの更新がやや散漫になりつつありますが、しっかり元気でやっております。
いろいろなジャンルの本を読み漁り書き散らしてきたウェブサイトは今年で20年を迎えました。これからもどうぞよろしくお願いいたします。 浦安中年期外伝(読書編)
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今日のいろいろ

2010-04-24 19:26:00 | 出来事
打ち合わせに継ぐ打ち合わせの日々で合間にこなすべき課題を進めている暇がとうとうなくなってきた。仕方ないので作業は週末に押し込むことにしてお持ち帰りしてきたんだけど、今日は久々の好天。ここんとこずっと雨だ真冬日だと春らしい日が少ない。夜もとても歩く時間が作れずフラストレーションが溜まってきており、このまま指をくわえて仕事をしてもろくな成果が上げられない(と云う言い訳)。

今日は北西の風。迷わず西を目指す。

今日の狙いは木場から大横川を南西に下り隅田川に出、そこから北上して清澄から仙台掘川を東へ戻ると云うコース。

ここにはちょっと行ってみたい場所が沢山ある。

まずは洲崎球場跡

送信者 文化財部


ここは1936年から水道橋に後楽園球場ができるまでの3年間プロ野球の試合が行われていた球場だったのだそうだ。ここを本拠地としていたのは大東京軍と云う球団だったそうだ。


洲崎神社

送信者 文化財部


洲崎神社には、津波警告の碑がある。

送信者 文化財部


1791年。深川洲崎一帯に高潮が押し寄せ、多数の死者や行方不明者を出した事により、この一帯を幕府が買い上げ、人が住むことを禁じた。その起点となる場所に波除碑を建てたのだと云う。この波除碑の東の端がここ洲崎神社の碑。そして西側にあるのが平久橋の袂にある碑だ。

送信者 文化財部



大島川水門。この先は隅田川。

送信者 水門と橋その2



そして、旧東京市深川食堂

送信者 文化財部


現在は深川モダン館と云う観光案内所となっており、なかを見学したりお茶を飲んだりする事が可能だが、建った当時(昭和7年)は、開発著しい東京へ流入する労働者のための食堂だったと云う。都内には同様の食堂が16・7箇所あったらしい。

本日の目玉はここだった。一休みできれば丁度良いだろうぐらいな気持ちでお邪魔したんですが、出迎えてくださった初老のスタッフの方は丁寧に僕に由来や当時の様子などを説明して案内して下りとてもありがたかったです。

営業時間外にもかかわらず、喫茶部ではハーブティを出していただき、お茶を飲みながら江戸の歴史や水運、そして船に関わるお話など興味の尽きないお話を伺う事ができました。

当時の活気のすごさを物語るものとして、食堂に通じる階段がある。ちょっとモダンな感じに折れ曲がった階段のステップはなんと人の行き来で、中央部分が目に見える程摩耗していると云う。

みせてもらうと本当に石出てきた踏み板が端と真ん中では全く厚さが違っているのでした。それだけ大勢の人がここに通い、食事をしそして働いたということですね。いやはや。

送信者 文化財部


ますますこの辺りの散策が楽しくなるようなお話をありがとうございました。ハーブティーとあわせて体力も回復し、目的のコースを元気に走る事ができました。


そして巽橋から大島川西支川を北上。

送信者 水門と橋その2


中の掘川樋門

これこれ。ここに樋門があるのは前から知っていたのだよ。名前を調べても解らないヤツだったので、ずっと気になっていたんだよ。

送信者 水門と橋その2


そして清澄水門の脇から隅田川を望む。

送信者 水門と橋その2


清洲橋

送信者 水門と橋その2


すると目の前を運河クルーズの方々が!
もしかして運河好き、橋脚ファンのツイッターのお仲間がここにいるかも!

みんなしてカメラを同じ方向に構えていたのがなんとも微笑ましかったです。

送信者 ドロップ ボックス



仙台掘川では、かつてあったと云う尾高水門の碑がありました。


尾高水門マスターゲートの心臓部

送信者 水門と橋その2


他にも芭蕉の採茶庵跡やコンクリート工場発祥の地の碑などに立ち寄りつつ、運河にかかる橋を一つ一つ写真に撮りながらの自転車の旅。日の光をたっぷり浴びて、すっかりストレス解消できたとてもいい一日でした。