浦安中年期外伝

カミさんを師匠に修行中の週末の料理やポタリング、読み散らしてている本の事など

ようこそ、おいでいただきました。

歳をとると日々が過ぎて行くのがどんどん早くなっていきます。ブログの更新がやや散漫になりつつありますが、しっかり元気でやっております。
いろいろなジャンルの本を読み漁り書き散らしてきたウェブサイトは今年で20年を迎えました。これからもどうぞよろしくお願いいたします。 浦安中年期外伝(読書編)
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七夕

2006-07-05 21:29:13 | 出来事
今週はじめから、七夕飾りがあちこちで目に付くようになってきた。前にも書いたが僕が生まれ育った仙台の七夕祭は8月。染み付いた育ちは根深いようで、この時期に七夕飾りが目に入る度にどうしても時期外れであると驚いてしまうのだ。

JRや東京メトロの駅では、笹を用意して地元の人や通りすがりの人が短冊に願い事を書いて飾れるようになっている所があちこちに見られる。

みんなどんなお願いしているんだろうな~。通りがてらに読ませてもらうのも面白いものだ。

田町駅では、地元の幼稚園の児童が書いた短冊が沢山かざってあった。

『「ボウケンジャー・レッド」になりたい。』

ゴレンジャー・シリーズは現在「ボウケンジャー」なんだね。
うん、うん。
しかし、ボウケンジャーって「冒険じゃ」か

『シナモロールのシフォンになりたい』

ってか、人間じゃないし~(笑)

有楽町ビックカメラ出口前の七夕
何故か

『宝くじ当たれ』

系がすごい沢山。なんで?

『出来れば一等で』

そりゃそうだろ。

こちらとしては面白系を探してた訳だが、つまらんな。
夢がない。
そんななか、やや光っていたのが、これ。

『テポドンが落ちてきませんように』

落ちてくると云う表現が、なんとも正しくていい感じだ。
どこに飛んでいくか、先方がちゃんと確信しているとは到底思えないからだ。北京とかモスクワに行ったらどうするんだろうね。

浦安に落ちてきて、「ガチャ」と扉を開けてディズニーファッションの息子の家族が慌しく出かけていくというのはどうだろうか。

大きさはきっと体型だぞ。乗る人の。

今現在7発目だが、息子家族は何人家族だっけ。

ってブラック杉?



(無題)

2006-07-04 22:48:41 | 出来事
今朝になっても右手の親指の痺れが取れない。これにはさすがに慌てたオヤジは会社の近所にある整形外科に診てもらう事にした。

昨日ぐりぐり回したのが悪かったのは自明で、余計なことをした事が悔やまれる。

学生時代には運動で首と腰を故障、バイクの事故で足を傷め、関節系の古傷は多い。

特に首は万年症的なムチウチだとされた程で、それは地震のように度々襲ってくるのだ。

なので、その古傷は腐れ縁の古い知り合と同じで、その都度適当にあしらう方が楽なのだ。間が開きすぎるとかえって大きいのがやってくる事になる。

思い起こせば、確かにここ数年はおとなしくしてくれてたと言える。たまには、面倒みてくれよと云う事なのだろう。

まったく、しょうがないヤツだ。ほんと。

なんでこんな事をだらだら書いているのかと云うと、会社から病院に向かう際に本を持って出るのを忘れてしまったのである。

こんなに待たされるのなら本を持って出てくりゃ良かったよ。

昨日はドン・デリーロの「ボディ・アーティスト」を読了、今朝からR.L・スティーブンスンの「難破船」に取り掛かった。R.L・スティーブンスンは「宝島」の作者ね。

デリーロは、近々レビューする事になる予定だが、内容的にはかなり重い感じ。

一方、スティーブンスンは冒頭から冒険小説の醍醐味全開。雰囲気は抜群に良い!つくづく持ってこなかったのが残念である。

なんて携帯で暇潰ししていて、漸く診察をしてもらえた。レントゲンを撮って貰って診察だ。

結果、首の骨は問題がないそうだ。無理な姿勢をした時に鎖骨の下をくぐっている神経に障ったのではないかという。しかも背中の肩甲骨とは関係ないんだってよ。お~。びっくり。

うーむ鎖骨の下ね。押されると確かに腕全体が痺れる。人間の体はつくづく驚異であるな。数日様子をみようと云う事となって診療は完了。

とりあえず大事でもなく、普通にしてろと云う事。

台風接近のニュースもある事で、今日は早めに退けて、普段と反対側にかばんを提げて、有楽町まで歩いてみた。

写真は地下鉄日比谷駅交差点付近。

しかし、親指はまだ痺れてる。



恐怖の報酬

2006-07-03 23:44:02 | 映画な日々
数字があわなくって今日は帰りが遅くなってしまった。

先般から肩の具合があまり良くない。右腕を回すと肩甲骨の内側がひどくグキグキと鳴る。

更に回したりしてると腕全体と指先までが痺れてしまう。指先の痺れは長時間たっても取れなかったりするのだが、こりゃ、単なる老化なのか、それとも何か対策を打つべきなのか、深く悩んでいる、今日この頃である。

ところで先程、弟からのメールで連絡があった。仙台で映画を自主上映する企画を進めているらしい。

その一環で映写技師の方を探していたら、かなり高齢の方を紹介されたんだそうだ。メールの本題はその人と話をしていたら、その昔、戦災復興記念館で「恐怖の報酬」のフィルムを回した人だったと云うのだ。

「恐怖の報酬」?

そうそう観に行った、行ったね。勿論それは、1953年にアンリ=ジョルジュ・クルーゾー(Henri-Georges Clouzot)が撮った方ね。

記憶では、そのちょっと前にウィリアム・フリードキンがリメイク(こっちは1977年の作品だ。)を観てた。

シャンパンゴールドのポルシェとか、強盗のシーンとか、印象の強い映画でもあった。そしてトラックの顔。これが夢に出てくる程強烈な顔をしてた。

更にすげ~のは音楽。「タンジェリン・ドリーム」でしたからね。「タンジェリン・ドリーム」だよ。「タンジェリン・ドリーム」。
おどろおどろしい事、この上ない。ジャケットの絵を拾ったのでここに紹介しよう。どうゆう訳かヘッドライトが片目でボンネットの脇についているその具合がなんとも気色悪い事。訳もなく。趣味悪いのだ。只管。

さすが「エクソシスト」の監督だけあって全編に渡り、何か画面には映らない何者かに対する目線というか、なんか「居る」感じが満ちている感じだった。そうそう、これ、面白かったんよ。とても。

そんな訳で、どうしても大本が観たいと思っていたのだった。そしたら、これがまた、なんと映画の方が自分の方にやって来た。というのが戦災復興記念館でのリバイバル上映だったのだ。この機会を逃してどうする。

あの白黒のフィルムの銀幕での映画上映を暗闇で「観る」機会を得たという事ははっきり言って「自慢」である。そしてそれはやはり素晴らしい体験であった。

アンリ=ジョルジュ・クルーゾーの作品の方はあくまで「人」。実際本当に恐ろしいのは人間であるという前提がそこにはあって、これがもの凄く怖い訳。

金に目がくらんで、それこそ欲望に突き動かされて行く人の怖さだったね。

リメイクはリメイクとして、それなりに健闘したハズだったが、やはり大本の影に回る運命なのは仕方ない。それぐらいの出来であったんよ。

で、なんでこんな話しかと云うとメールで弟はこの映画には僕が連れて行ってくれたと云うような事を言ってくれた。彼は僕と一緒に行った「恐怖の報酬」をはじめとするマニアックな映画によって、人生が変わったと思ってくれているのだ。

僕の方はそもそも自分が観たくて行ってた訳なので、誰かに何かをしてあげたなんて意識はまるでなかったし、一緒に行った事自体も言われるまで忘れてた。

思い返すと確かに二人で一緒に行ったよね。開館早々の戦災復興記念館に。場所も良く判らないまま二人で歩いた記憶があるよ。

そして学んだ事、映画はそれを理解し、楽しむ事、雰囲気、匂いを記憶する事、それが人生だよな。学んだのは僕も一緒だったのだ。

貰ったメールにはほんと正直個人的には非常に「感動したっ!」の一言。それにつきる。ありがとう。

しかし、弟の人生を変えたもの、それは僕の力ではなく。映画が本来持っている力であろう。本来、映画は人の人生を変える力を持ってるものだ。

何より人生の楽しみを映画に見出した事について、おめでとう。
そして自主上映会の成功を陰ながら応援させて頂きます。

そして数十年前の思い出をポンと出して来た映写技師のおじいさん。すげーぞ。じいさん!じーさんにもありがとう。いつまでも元気でね。

これぞ、映画の力じゃない?!って思うけど、如何でしょうか~。皆さん~。



m:i:Ⅲ

2006-07-02 21:35:04 | 映画な日々
二日連続で天気予報ドはずれじゃないか!家から出たとたんに雨。
お陰で昨日は公園で遊びそこねじゃ。しかも、今日なんかはいきなり土砂降りの勢いだ。

インターネットで座席指定を取ったので、ゆっくり何処かでお昼ご飯を食べてから映画館へ向かう予定でいたが、この雨と折からの道交法改定の関係で、駐車場のあるレストランはどこも一杯、「うわ~、どうしよう..」なんて言っているうちに目的地に着いてしまったぞ。

辛うじて駐車場に車を停められたもののレストランは何処も行列。もう何でもいいじゃんと、それでも小奇麗なうどん屋さんに入った。

そして出てきた「うどん」をくちにしたカミさんは固まった。そのうどんは茹で過ぎ?なのか温度低すぎ?なのか、べたべたな上にうどん同士が固まってる状態だった。

これって....これが普通なんだろうか。
周囲の人は普通に食べてるぞ。
なんて、ひそひそと話していると

僕のも届いた。これも食べてみると。
全く同じ状態。

どうもこのお店の標準的な調理法らしい。理解する事も食べる事も「ミッション・インポッシブル」な食感。

母の躾が厳しかったので、外食して出されたものを残すなんて事を過去した記憶が僕には「ない。」のだが、今日はギブしました。ごめんよ。お母さん。僕もカミさんも頑張ったんだけど、力付きました。orz

カミさんの分析によれば、少ないお湯にいっぺんに沢山うどんを入れて、中火でじっとかき混ぜたりしないでそっとしといて、茹で過ぎると、こうなるのではないか。という分析をしていた。

それはもしかして新しい調理法だという事だな。「茹でる」とか「煮る」ではなく、「う゛ぢる」とか「ぁじょ゛る」とか別な呼び名も必要だわな。

しかし、ついてない時は何もかも総崩れになってくるように見えるのが最近の傾向だな、なんて、分析してる場合じゃない。

まぁこんな事もアトラクションの一つと考えりゃ、まぁね。と云う事で観て来ましたよ~「m:i:Ⅲ」。面白かった~。家族全員で体固くしまくって観ました。もう只管勢いですね。難しい事は言っちゃいけない。想像以上に盛り沢山で、満足、満足。

おっと言い忘れてたが、この映画どうしても行きたいと思っていた理由があった。前作「m:i:Ⅱ」は、娘を連れて初めて行った映画だったのだ。僕の両親の相次ぐ病気で実家を頼る事もなかなか儘ならない状態で二人の子供を育てて、漸く一段落したと云う事で家族4人で初めて映画にいったのだった。

当時、シネコンは出来たてで、システムが把握できてない僕たちには何もかもが新鮮。

夢中になって画面を食い入るように観てたのは親の僕たちの方だったね。気付くとマルちゃんは、座席のシートに丸くなって眠ってたっけ。

そんな彼女も今では字幕を読んでストーリーを理解する程大きくなったと云う事だね。今回は彼女が一番前のめりで映画を観てたかもしれないな。



越境するネットワーク

2006-07-02 12:16:25 | 読書
「海のアジア〈5〉越境するネットワーク」尾本惠市、濱下武志、村井吉敬、家島彦一編集委員シリーズ6冊を成す「海のアジア」の5冊目である。島嶼地域で暮らす人々は海を漁場として、生活の場として、そして道として利用する事で生きて来た。海からみたアジアはひとつに繋がり、時代時代で恣意的に決められてきた国境や領海を越えてネットワークは行き続けてきたのだった。島国日本で生きる我々にとって忘れてはならない切り口である。いよいよ残す所あと一冊。

http://members.jcom.home.ne.jp/y-yseki2002/dokusho2006-2.htm#海のアジア〈5〉