長らく更新もせず
ご心配をかけてしまいました。
書き記したいことはあれど、
目の前の現実は
その時間も心の余裕も奪っていきます。
人の死が社会的に完結するまでには
諸々の手続きが待っていて
(故人の死亡直後から次から次へと
怒濤の勢いで始まり、一年近く続きます)
当然の事ながら、そのどれもが
この社会から母が存在していた証しを
一つずつ消去する作業なわけです。
そのたびに味わう
哀しく寂しくせつない思いは
葬儀の比ではないなと
個人的には感じています。
こうした手続きは親族の代表者ひとりが
ほぼ背負うことになります。
私のように初めて経験する場合や
故人と同居してたりすれば、
生活そのものの中に故人の面影や喪失感が
あふれています。
葬儀から日にちがたつに連れ
親族間でも故人への思いも微妙に違ってきます。
それはあって当然のことです。
それぞれの生活環境のもとで
故人への思いも熟成され続けているのだから
そこは互いに受けとめていきたいもの。
身内が欠けた痛みと向き合い
故人を悼む日々を通じて
生き残った者にそれぞれ宿るものが
あるのではないかと。
そうやって時間をかけていくのが
追悼でありお弔いなのかもしれないなあ
と思ったりしているこの頃です。
ご心配をかけてしまいました。
書き記したいことはあれど、
目の前の現実は
その時間も心の余裕も奪っていきます。
人の死が社会的に完結するまでには
諸々の手続きが待っていて
(故人の死亡直後から次から次へと
怒濤の勢いで始まり、一年近く続きます)
当然の事ながら、そのどれもが
この社会から母が存在していた証しを
一つずつ消去する作業なわけです。
そのたびに味わう
哀しく寂しくせつない思いは
葬儀の比ではないなと
個人的には感じています。
こうした手続きは親族の代表者ひとりが
ほぼ背負うことになります。
私のように初めて経験する場合や
故人と同居してたりすれば、
生活そのものの中に故人の面影や喪失感が
あふれています。
葬儀から日にちがたつに連れ
親族間でも故人への思いも微妙に違ってきます。
それはあって当然のことです。
それぞれの生活環境のもとで
故人への思いも熟成され続けているのだから
そこは互いに受けとめていきたいもの。
身内が欠けた痛みと向き合い
故人を悼む日々を通じて
生き残った者にそれぞれ宿るものが
あるのではないかと。
そうやって時間をかけていくのが
追悼でありお弔いなのかもしれないなあ
と思ったりしているこの頃です。
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