夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

ブログを書いている人は認知症になりづらい、と学びながら、高齢者の私は微笑み・・。

2014-08-12 13:55:05 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私は現役サラリーマン時代の58歳の時に、同僚が難病で死去されたり、
定年後の2年過ぎた頃、私より健康溌剌の2歳先輩の方が、突然に病死されたりし、
昨今、長寿社会といわれても、60代でもこの世とお別れする方もいるのである。

このような心情を秘めてきた私は、せめて60代は五体満足で生かしてくれ、
この後の70代は余生と思ったりしてきた・・。
そして認知症などあわず、心が明確な時にポックリと死去できれば良い、
と秘かに念願しているが、こればかりは天上の神々の采配に寄るものである。

こうした中で、何よりも私が恐れているのは認知症であり、
ひたすら自宅の周辺3キロ範囲の遊歩道、小公園などをほぼ毎日歩き廻ったりしている。
                    

昨夜、ネットでニュースを見ている中で、
【公務員や教員は認知症になりやすい!?】と題された見出しを見て、
どういうことなのょ、とクリックしてしまった。

そして読んでいる中、『週刊SPA!』に於いて、8月11日に配信された記事であり、
働いて下さる現役の諸兄諸姉向けの記事であったが、多々教示を受けたりした。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140811-00673145-sspa-soci
☆【YAHOO! JAPAN】<==『雑誌』
       <==『週刊SPA!』<==『公務員や教員は認知症になりやすい!?』

こうした記事の中で、認知症専門医の長谷川嘉哉・医学博士のアドバイスに寄れば、
《・・(略)・・「ずっと脳に与えられてきた刺激が突然途絶えるのも、認知症のトリガー(注・要因)になります。(略)
かように、脳は絶え間ない刺激を求めている。・・(略)・・

読書や映画観賞によっても扁桃核は刺激されますが、重要なのはその刺激をアウトプットすること。
感想を人に話すのもいいですが、ブログに書くのはさらに効果的。

ブログを書くことの利点は、次なるネタ探しのためにインプット用のアンテナが立つことで、
このスパイラルが脳に効くんです。
ツイッターでさらっと流すだけでは、こうはいきませんよ・・(略)・・」》
          

このような《ブログを書くことの利点》を学び、ブログを書き続ければ認知症になりづらい、
と私は解釈して、微笑んだりした。


私は民間会社の中小業のある会社を35年近く奮戦して、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
まもなくブログの世界を知った・・。

       
そして私は、2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後、
2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)の1月中旬に加入したので、
これ以来、ほぼ9年半が過ぎている。

        
しかしながら、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    

このような軌跡で、ブログの世界を知って丸9年半が過ぎ、10年生となっている。
          
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。

こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
          

私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、筆力が乏しいながら
真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしている。

そしてブログの投稿文の長さは、世間が何かと多忙の為か、
原稿用紙の2枚の800字ぐらいの短き投稿文が好評されている、と私は学んだりしてきた。

しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になることが多いのである。

そして投稿文を送信した後、何かと言霊(ことだま)に対する自己格闘が甘く、文章修業が足りないょ、
と反省することが多く、いつになったら随筆風の散文の投稿文が書けるの、
と項垂(うなだ)れたりしている・・。
                             
           
こうした中で投稿文を重ねてきたが、ときには昨年の今頃はどのように感じて過ごしていたのか、
或いは年金生活の始めた頃は、どのような思いで過ごしてきたのか、
投稿文を読み返して、微苦笑したりする時もある。

この間、コメントを頂き、私は悦びながら返信を数多くしてきた。

そして多くのお方の投稿文を読ませて頂き、
たとえば日記として綴られている場合は、その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、
淡々と綴られているのに、圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い重ねさせて頂きながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ苦楽の深淵を感じながら年金生活を過ごしたりしている。

        
或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、
この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。

          
こうした中、数多くの方の投稿文を読ませて頂き、感極まって私は、
そのお方にコメントをしたりしている。
               
       
私はブログを書き始めて、丸9年半が過ぎて、早や10年生であるが、
この広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、
めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。

そして偏(ひとえ)に数多くの皆様にささえられて、投稿文が継続できていることも確かな事であり、
何よりも数多くのお方の確かな人生の教科書を学び、
私は人生の励ましを感じたり、ときには微笑んだりして過ごせてきたので、改めて感謝している。

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年金生活を始めると、私はケチな性格に変貌して、早や10年生・・。

2014-08-11 15:02:52 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
          

私は民間会社の中小業に35年近く奮戦して2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めた。

       
年金生活を始めた当時、家内は専業主婦だったので、家内の日常のペースを出来る限り乱したくないので、
家内は殆ど従来通りの料理、掃除、洗濯などをしてもらい、その間のささやかな息抜き・・趣味ごと、
これを邪魔にするのは、まぎれなく天敵と私は確信を深めていた。

そして一日、少なくとも一回は外出し、家内の自由な時間を作ることと思い、
せめて日常の買物ぐらいはと思い、買い物の担当を引き受け、
独りで殆ど毎日スーパー、専門店に行き、ときおり本屋に寄ったりしている。

その後も私は独りで自宅の周辺にある遊歩道、小公園などををひたすら歩き廻り、散策をしながら、
季節のうつろいを享受している。
                       
そして散策し帰宅後、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
そして音楽も聴いたりしている。

こうした間、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、茶坊主の真似事をしている。
                    

このような年金生活の中、私は平素の買物専任者とあり、買物をする前に、
家内は新聞の折込みチラシのスーパー、ドラッグ・ストアーなどに、
家内は赤のサインペンで丸印し、これが我が家の当日の必須の購入品とし、
あとは私が店頭の商品で魅了された品を買い求めてくるのが、我が家の鉄則となっている。

私は家内からチラシを渡されると、
たとえばインスタント・コーヒーなどが、『お一人さま、一点限り』、
そしてティシュ・ペーパーが5箱入った1ケース『お一人さま、2点限り』、
或いはトイレット・ペーパーが12ロール入った1ケース『お一人さま、2点限り』などを見たりすると、
なぜかしら私は微笑んでしまうのである。


我が家は恥ずかしながら自動車もなく、私は根がケチなせいか、利便性の良い路線バスには乗らず、
ひたすら歩くことが多い。

そして私は買物をする時、多くの品を購入する時とか、或いはビール、お米などの重い品を買い求める時、
買物の引き車と称される『キャリーカート』を曳〈ひ〉いたりして歩いたりしている。
          
               ☆過ぎし日、この『キャリーカート』を私は玄関の前で、段ボールを乗せて、
                ゴムバンドで括(くく)り付けた状景をたわむれで撮ったりした☆    

こうして最寄りの店は徒歩で10分前後、
或いは駅前の店であったならば20分前後の道のりを歩き往復しているのが多い。


我が家は住宅街のはずれに古ぼけた一軒家に住み、小庭の樹の剪定は、
ご近所のお宅の殆どは植木屋さんに年に数回依頼しているが、
我が家は私たち夫婦が自己流でしているのが定年後の実態である・・。

                   
私が定年前は、5年ごとに植木屋さんに依頼するたびに50万円前後を要してきたので、
この間は私が物真似て剪定してきた。
そして私が定年後まもなくして、ご近所より少し広い我が家は、
植木屋さんに年に数回依頼すれば、数10万円と教えられたりした。

こうした時、家内は3泊4日ぐらいの私たちの旅行ができるわ、と言い、
小庭の手入れは私の責務の範疇であったが、年に数回は家内の手助けを借りている。
          

私は民間会社に35年近く私なりに奮戦したサラリーマン時代の時は、
恥ずかしながらインスタント・コーヒーなどの日常品の価格は無知であった。

私は中小業の会社で月曜日から木曜日まで、時間無制限のように奮闘して、
金曜日ぐらいは早めに退社して、7時半過ぎから仲良しグループ、或いは親睦会、歓送迎会などで、
呑みながら、交流を深めることが多かった。

そして私の40代の頃は、血気盛んであったので、殆ど二次会は参加した後、
自宅の最寄駅で独りで居酒屋などで、週末の祝杯をして、タクシーで帰宅したりしていた。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったことは人生の誤算であったが、
私たちの同世代の男性の多くは、夫は一家の主(あるじ)として程ほどの収入を得て、家計の責務を負い、
妻は専業主婦で何かと後方支援に努めてもらう典型的なサラリーマン家庭であり、
私もこうした方たちと時代を共にしてきた。
         
                        
昨今の私は目指したスーパーなどで、家内の要望品を買い求めて帰宅した後、
なぜかしら『お一人さま、X点限り』が気になり、
もう一度、あのスーパーに行って買ってくる、
と私は家内に言った後、再び買い求めるために、スーパーに向うこともある。

我が家の家計の収入は、私たち夫婦の年金の厚生年金と企業年金であり、
もとより定額か五年毎に見直しで減少の傾向がある上、
この他の程ほどの国債、定期貯金の金利は、信じられないくらい低利であるので、収入は限度がある。

そして程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな生活をしているが、
もとより貯金は確実に減少してきたので、こうした真情のせいか、
私は年金生活をしていると、現役時代から大きく変貌して、
気弱で小心者の私は『ケチ』の性格に変わり果てた、と苦笑する時もある。
                          

本日も台風一過の後、陽射しが燦々と照らし、風も強く吹く中、
2店ばかりの買物の責務を終えた後、
我が家の片隅にはインスタント・コーヒー、ビールなどの趣向品や調味料など、
或いはティシュ・ペーパーなどの保管場所を見ながら、
これでしばらくは我が家の安全基準在庫だ、と私は微笑んだりする悪い癖となっている。

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ネットの世界は「弱者の強者化」と学び、年金生活の私は微苦笑して・・。

2014-08-10 13:01:50 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
年金生活をしている中のひとつとして、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

私は民間会社の中小業のある会社を35年近く奮戦して、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
まもなくブログの世界を知った・・。

         
    
そして私はブログの多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活の日々の思いのことから、無知なりに社会、政治の分野まで発露でき、
何よりホームページより手軽に開設、運営できると感じ、ブログに加入しょうと決意した。

          
そして私は、2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後、
2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)の1月中旬に加入したので、
これ以来、ほぼ9年半が過ぎている。

        
しかしながら、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    
          
               
このような軌跡で、ブログの世界を知って丸9年半が過ぎ、10年生となっている。
         
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。

こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
          

こうした中で、先ほどネットで各種のニュースを見ている中で、
【ネットで賢く生きる方法 SNSでいかに自分が弱者かアピール】と題された見出しを見て、
どういうことなのょ、とクリックしてしまった。

私は齢ばかり重ねても、好奇心を失くしたらこの世は終わりだ、と信念のある身なので、
この記事を精読したのである。

この記事は『NEWS ポストセブン 』の8月9日(土)に於いて配信された記事であり、
無断ながら記事の大半を転載させて頂く。

《・・ネット社会でどう生きるかは多くの人にとって重要なテーマだ。
ネットニュース編集者の中川淳一郎氏はこうアドバイスする。

2014年、ネットで賢く生きる方法を紹介しよう。
【1】いかに自分が傷ついたかをアピール
【2】いかに自分が弱者であるかをアピール
【3】正義感をふりかざし「○○に謝れ!」と言うことの3点だ。

これをネットでやっておけば、まぁ、強い強い! 【1】~【3】のコンボを出されてしまったら、もはや勝てない。
「弱者の強者化」である。
【1】、【2】については、持病があること、貧乏なこと、父親からDⅤを受けたことなどを
SNS等のプロフィール欄などに書いておくことが重要だ。
これにより「弱者様」になれるし、この方々を批判すると人でなし扱いされ、
「彼女は心の傷を負ってるんですよ! 彼女に謝ってください!」なんて話になる。

(略)重要なのは、自分の努力ではどうしようもならないことを書いておくことです。(略)・・》

このような3つのネット上の哲学のような記事を読み終わった後、私は微苦笑してしまった・・。
          

これまでの私の多くの投稿文の中には、、私自身、家庭、或いは生家の事柄に関しては、余すところなく表現してきた、
誰しも光と影があるので、ためらいながらもマイナスと称される影も私は描写してきた。
たとえば
◎母は生まれてまもなく里子にだされて、やがて私たち兄妹の母親となった。
◎私の小学生の前半に、父や祖父が病死し、残された母や私たち兄妹は、貧乏な生活を一時期を体験したこと。
◎或いは、亡き母が40代の時代は、私たち兄妹の五人が何とか世間並みの生活にする為に、
 ラブホテルのような連れ込み旅館を経営し、睡眠時間を削りながら、孤軍奮闘し、私たち五人の子供は成人したこと。
◎又は次兄は自営業で、経済破綻して、自殺と称せられる自裁して、亡くなったこと。

◎そして私自身の場合は、幼児の時は、いじけたことが多く、小・中学生は通信簿『2』と『3』の多い劣等生であった。
◎大学を中退して映画・文學青年の真似事をして、新人賞に3回応募したが落選し、やがて敗退したこと。
◎或いは定年の五年前にリストラ烈風の中、無念ながら出向となり、定年時を出向先で迎えたこと。

こうした出来事のことは、小心者の私としては匿名であることで発露できたことであり、
心のわだかまりを吐露(とろ)しなければ、私としては一歩先でも進めない時もあったりした。
                    

このような心のうめごきをリアルな現実の日常生活では、
たとえ私が言葉にしても、対人の受け止めることに困り果てることもある、と感じたりした。

小説、随筆などは、あくまで間接のワンクションとして読者は受け止めることができ、
ブログの匿名で公開する内容も、間接的な意味合いからして同じかしら、と思ったりしている。
       
このような理由も重ねて、私は『夢逢人』と命名した。

私の綴ってきたことは、まぎれなく私の知る限り真実を発露してきたので、
リアルな現実でお逢いするのは、私の心の裸身を見られたようで恥ずかしく、
文字通り、夢の世界でお逢いしたいですね、と思いながら命名したりした。

そしてこのように私は、これまでの人生の歩みを吐露(とろ)しなければ、
この先の人生を生きて行くことはできない、と思い発露してきたのである。

このようなことであるが、上記の【1】、【2】には該当しない、と思ったりしている。
          

悩ましいのは、【3】正義感をふりかざし「○○に謝れ!」と言うことである。

私の場合も専門知識のなく疎(うと)い身ながら、ときおり政治、外交、軍事、経済、社会の出来事を綴ったりしてきた。
しかしながら、一時的な感情だけで吐露(とろ)し、後で後悔することが多かったりしてきた。

その上、心の奥に感じてきた危険な事柄は、心の節度として抑止してきた。
たとえば、
◎XX党は、うわべの平和を念仏のように発言し、平和ボケであり、国家の主権さえも欠落している。
◎XX党は、財源の悪化を無視してまでも、福祉だけを最優先とする政策を掲げ、日本の衰退を招く悪質な党である。
◎社会を震撼させる卑劣な悪質な犯行する方は、たとえ法治国家の日本であっても、即時に絞首刑にしなさい、

このようなことを私が記載すれば、もとより私の人格が疑われてしまい、
感情と理性の間を往還しながら、心の節度して平坦な発言の投稿文となってしまうことが多かった。
          

しかしながら余りにも政治家が心の節度が欠けたと感じた時は、幾たびか投稿したこともあった。
過ぎ去り年、民主党は衆議選の公約のひとつとして、基地を県外移設などど掲げて、政権の交代をした後、
やがて鳩山政権の中、『普天間基地の移設問題』も混迷していた時であった。

【鳩山首相、5月4日沖縄訪問の時は、『沖縄県民の前で土下座をする責務がある』】
と題して2010年4月30日、投稿したりした。
今回、あえて一部を再掲載する。

【・・今回の『普天間基地の移設問題』に関しては、ときおり注視してきた。
このことはこのサイトに於いても綴ってきたので省略するが、
何よりも鳩山首相の言動に困惑してきたひとりである。

国の根幹となす防衛のひとつの『普天間基地の移設問題』であるが、
沖縄県民はもとより国民の多くを愚弄してきたことは罪は重く、国際の主要国もあきれ果ている現状である。

鳩山首相がそれなりに沖縄に対して深い思いがあるならば、
就任後、いち早く関係国のアメリカはもとより、国内の関係者に働きかけるべきであり、私は不可解であった。

今回、昏迷している『普天間基地の移設問題』を解決する第一歩として、
沖縄訪問の際は、少なくとも沖縄首脳陣の方たちはもとより、数多くの県民の前で、
少なくとも土下座してこれまでの昏迷したことにお詫びする・・、
これしか私には対応策として浮かばないのである・・。

今回のような迷走となっている場合は、鳩山首相が沖縄に下り立った時、
たとえ警察官の守られながらも、県民の多くから石を投げつけられてやむえない現状であるので、
せめて鳩山首相ができることの第一歩として、
ひたすらお詫びを重ねながら土下座をし、スーツが泥まみれになっても、
こうした言動こそ私は切望するのである。・・(略)・・】
          

こうした投稿をしたのであるが、今回の【3】正義感をふりかざし「○○に謝れ!」と言うことである、
該当するかしら、と私は苦笑してしまった。

たかがブログ、されどブログの投稿文の内容は、ときには気楽でなく、真摯で苦渋する時もある、
と高齢者の私は微苦笑したりしている。

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『長崎の鐘』の歌、高齢者の私は西の空に向かい、心の中で唄い・・。

2014-08-09 10:13:46 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝、洗面した後、玄関の軒下に下り立った・・。

どんよりとした曇り空の中、朝涼を感じ台風の影響かしらと思ったりした後、
襟を正して、西の空に向かい黙祷したのは朝の7時過ぎであった。

やがてぼんやりとしながらも、『長崎の鐘』の歌を心の中で唄っていたことに気付いた・・。

私は1944年〈昭和19年)9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に日本は連合国に降伏し、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりとなっている。

          
しかしながら少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
対戦中のアメリカが、冷酷にも人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下された8月6日の『広島被爆』、
その後まもない9日の本日『長崎被爆』、
そして15日の敗戦となった『終戦記念日』は、二十歳過ぎに自覚して、これ以来黙祷を重ねている・・。

そしてかの大戦に於いて、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と確信して、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、黙祷をして尊い命の冥福を祈っている。
          
そして本日の9日、長崎市は69回目の「原爆の日」を迎える。
平和公園(長崎市)で開かれる平和祈念式典は午前10時35分に始まり、
被爆者や遺族の代表、安倍首相ら政府関係者、各国大使らが出席し、
原爆投下時刻の同11時2分に全員で黙祷を捧げることとなっている。

そして私はいつも感じることは、若き10、20代の諸兄諸姉に対して、
少なくとも日本の過去には、こうした現実があった、と認識して欲しい、固く願っているひとりである。


私は過ぎし2009年(平成19年)2月中旬の時、
家内の母は、戦時中の時は、新潟の高田町(現在・上越市)で青春期の女学校の時代に、
多くの同級生と共に強制的に軍事工場に働き過ごした身であるが、
『生きているうちに・・一度は長崎の『原爆資料館』を観てみたいわ・・』、
と要望されたので、私たち夫婦と家内の母の3人で長崎を訪れた。

私は家内たちとは別行動で、独りで長崎の各所を拝観したりした。
こうした中で、私は何かしら後ろめたいような心情で、長崎の『原爆資料館』に初めて訪れた。

そして、改めて過酷な実態を知り、その当時のことはもとより、
被爆された後からも、心身ともに苦痛な日々を過ごされている人たちを思うと、
私は『原爆資料館』を辞する時、涙があふれた・・。

旅立つ前に私は、永井隆(ながい・たかし)氏の略歴を学んだりしていたので、
未知の長崎医学大学の前を歩いたりし、
初めて訪れる『長崎市 永井隆記念館』を探し求めながら、
氏の人生の歩みに圧倒される思いを馳せたりし、2月にしては暖かな陽射しの中を独り歩いたりした。

そして『永井隆記念館』で拝見した後、売店で買い求めた本が、
          
永井隆・著作の『長崎の鐘』(1946年)、そして『この子を残して』(1948年)で、
私は旅先のホテルで、遅れはせなから初めて読んだりした・・。


私は東京の郊外で農家の児として育つ中、
1950年(昭和25年)の頃に、生家のラジオから『長崎の鐘』がよく流れてきた・・。

こうした時、私は5歳の幼児であったが、何かしら物悲しく感じたりした。

そして、♪なぐさめ はげまし 長崎の・・、
ここまで聴いていると、いじけた幼児の私でも涙があふれてきた・・。
          

確か翌年の夏だったと思われるが、近くの寺院の境内で、映画が放映された。
この当時は、学校の校庭とかで、スクリーンを張って、ときたま映画が放映されていた。
娯楽の乏しかった時代、ご近所の方達が集まって、このような催しが行われた時代でもあった。

近くの寺院の境内で上映されたのは、映画の『長崎の鐘』(松竹、昭和25年、監督・大庭秀雄)であった。
母に連れられて、私は生まれて初めて観た映画だった。
帰路、満天の星空が綺麗だった、ということが今でも心の片隅に残っている。

映画のストリーは忘れてしまったけれど、幾つになっても、亡き藤山一郎さんの歌声を聴くと、
私は涙ぐんだりしている。


私は後年になると、作詞はサトウハチロー氏、作曲は古関祐而(こせき・ゆうじ)氏と知るのであったが、
肝心な『長崎の鐘』という原作を書かれた永井隆(ながい・たかし)氏は、恥ずかしながら無知であった。

その後、私は永井隆(ながい・たかし)氏の名を知ったのは、遅ればながら高校二年の時で1962年(昭和37年)であった。
そして、このお方の少しばかりであったが人生経路を初めて知り、涙で曇った。


私は長崎の旅行の旅立つ数週間前に、ネットで『永井隆博士の生涯』などを詳細に学んだりした。

そして、何よりも衝撃を受けたのは、
長崎医大物理療法科の部長の時代を含め、この当時、劣悪なレントゲン機器の状況となった中で、
責務として数多く撮った結果、当人の永井 隆自身がラジウムの放射線で白血病となり、
1945年(昭和20年)6月に余命3年と診断された、ということであった。

そして永井隆(ながい・たかし)氏は、この当時は妻子がある身で、
この時に妻に自身の余命を告げるのであるが、この時の心情に思い馳せれば、私は涙を流した・・。

その後は、9日の当日、爆心地からほど近い長崎医大の診察室にて被爆し、重傷を負いながらも救護活動にあたり、
やっとのお思いで10日、独り残した妻(ふたりの子供は疎開させていた)の元に帰宅すれば、
焼けただれて崩壊した家の台所跡で、骨片だ程近い状態となった遺骸を発見する。

そして妻の愛用していたロザリオで、遺骸は妻と判明し、その骨片を拾い埋葬する。
その後、救護班を組織したりし、被爆者の救護に専念する・・。
          


館内の展示品を拝見しながら、
この後の原爆投下後の状況、そして無念ながら亡くなるまでの永井隆(ながい・たかし)氏の軌跡に、
圧倒的に感銘を受けたのであった。

そして館を辞する直前、私は書籍の即売コーナーで、
恥ずかしながら未読であった『長崎の鐘』(アルバ文庫)を購入した。

館を辞した後、市電の駅に向う途中で、小公園の石のベンチに座り、
永井隆(ながい・たかし)氏の遺(のこ)された言葉が深く思いだしていた・・。

『この子を残して』の書物の『父性愛』と題された一節に於き、
《・・この子を残して・・・
この世をやがて私は去らねばならぬのか!

母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、
私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさない心のいじらしさ。

戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取りとめたものの、
それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか?・・・》
               
『平和塔』の書物の『如己堂(にょこどう)』と題された中に於いては、
《・・如己堂は、2畳ひと間きりの家、北側の壁に香台、本だなを取りつけ、
その下に幅2尺長さ6尺の寝台を置いて、ここに私は身を横たえている。

西側は一面の白壁、何の飾りもない。
東と南はガラス戸で、草に埋もれる原子野を隔てて浦上天主堂に向かう。

この家を狭いと思うは、なまじ敷居で庭と仕切って、この部屋をわが物ときめた人間がみずから招いた窮屈。・・・

如己堂・・・・己の如く他人を愛す、という意味を名にとったこの家は、
家も妻も財産も職業も健康も失って、
ただ考える脳、見る目、書く手だけをもつ廃人の私を、
わが身のように愛してくださる友人が寄って建ててくださった。

そして今にいたるまで、その数々の友の如己愛は絶えずこの家に注がれ、
それによって廃人の私は生命を確かにつないできた。
寝たきりの私と幼い2人の子とが、ひっそり暮らすにふさわしい小屋である。・・》
注)著作の原文より、あえて改行を多くした。


私は、ときおり今でも永井隆(ながい・たかし)氏の遺(のこ)された『長崎の鐘』、『この子を残して』などを、
読み改めたり、そして稀な言動に圧倒的に感銘させられている・・。

そして、余りにも多くの市民の方が犠牲となられた人に、ご冥福を・・、
今なお被爆の後遺症に、心身ともに苦しまれている方に、お見舞いを・・、
ただ無力な私としては、これしか言葉にできない。

せめて私は平和を祈念する時、原点として『長崎の鐘』の歌を、
ときおり心の中で唄ったり、或いはかぼそい声で唄ったりすることもある・・。
               

私は永井隆(ながい・たかし)・著作の『長崎の鐘』は、
随筆の分野に於いて、近代文学史上の突出した優れた作品と評価している。

もとよりこの作品は、1946年(昭和21年)8月には書き上げられていたが、
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲によりすぐには出版の許可が下りず、
GHQ側から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、
1949年1月に日比谷出版社から出版されたことは、周知の通りである。

そして当時は紙不足の中でも、当時としては空前のベストセラーとなり、
同書をモチーフとした歌謡曲はヒットしたり、或いは松竹により映画化され、版を重ねることになった、
と伝えられている。
               
『長崎の鐘』の歌の作詞は、サトウ・ハチロー氏であるが、
氏は作詞を依頼された当初は辞退された、と私は何かの本で読んだりした。
私は後年になって、サトウ・ハチロー氏の弟さんが広島の原爆の犠牲者となっていた、と学び、
こうした氏の思いから、当初は辞退された、と私は推測したりした。

それにしてもサトウ・ハチロー氏の優れた詩心は、
単に長崎だけではなく、戦災を受けた全ての受難者に対する鎮魂歌である上、
打ちひしがれた人々のために再起を願った格調高い詞であり、
ここ66年近く、数多くの方に感動、そして感銘させている詞である。

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『立秋』が過ぎ、我が家は秋の予定を思案を始めて・・。

2014-08-08 16:54:03 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であり、
昨日の朝、ぼんやりとカレンダーを見ると、
『立秋〈りっしゅう〉』と明示されて、秋に入る日、と教示されても、
もとより暦(こよみ)の上での旧暦のことであり、何かと暑さに苦手な私は微苦笑した・・。

この後、ぼんやりと玄関の軒下に下り立つと、
鈴虫(スズムシ)の鳴き声が聴こえ、遠くから蝉(セミ)の合唱も聴こえてきた。
そして、いつものように定期便のように飛来する小鳥が、花梨(カリン)の枝にたわむれている。

そして私は、たわわな紫紅色の花の木槿(ムクゲ)を眺めたり、
              
或いは塀際に群生している蒼色の紫露草(ムラサキ・ツユクサ)花を誉(ほ)めたりしていた。
或いは一週間前の頃から純白な花な玉すだれ〈タマスダレ〉の花が咲きはじめ、
私の汚れきった心を浄化してくれるようなので、長らく見つめたりした。

この後、居間に戻り、地元の天気情報を見たりすると、
朝の6時は27度、昼下がりは34度前後、夕暮れの6時は30度前後で、
快晴の一日と表示されている。
そして、この先の一週間は台風の影響で、幾分涼しくなるかしら、微苦笑したりした。


今年の夏は平年より熱く、35度前後の日々が多く、何かと暑さに苦手な私は、どうしてなのょ、
と天上の気候の神々の采配に戸惑い、ときおり青空を見上げたりしていた。

そして私は高齢者5年生で、何かと単細胞の性格なので、
働いて下さる諸兄諸姉はもとより、お子様、高齢者の方は、お互いに熱中症に気をつけましょう、
と心の中で呟(つぶや)いたりした。

   
            この夏季の長き日々、我が家の小庭は、数多くのアメリカン芙容が咲いている。

我が家の小庭では、この時節の朝は鈴虫(スズムシ)が鳴いて、
蝉(セミ)も負けじと盛んに鳴いて二部合唱となる。

そして日中の暑い中は、蝉(セミ)がワンマン・ショウのように、今鳴かなくていつ鳴くのよ、
といったように健気(けなげ)に鳴き響いている・・。

鈴虫(スズムシ)の鳴き声が聴こえないのは、
日中はお休みの睡眠時間の最中で、夕暮れの6時過ぎに目覚めるのかしら、と私は解釈している。

そして夕暮れの6時過ぎになると、蝉(セミ)は鳴き声が途絶える・・。
私は暑さの日中に蝉(セミ)は盛んに鳴いていたので、
きっと鳴き疲れてお休みの睡眠時間になったと思ったりしている。

鈴虫(スズムシ)は夜行型、蝉(セミ)は日中型と理解は出来るが、
我が家の蟋蟀(コオロギ)は、何故かしら耳をすませないと聴きもらす・・。

夜のひととき、鈴虫(スズムシ)の盛大な合唱の中、
定年退職後に何かと気弱になった主(あるじ)の私の気持ちを察してか、
蟋蟀(コオロギ)だけは、少し遠慮しながら鳴いているのである。

少し哀れな蟋蟀(コオロギ)であるが、やがて初秋になれば、
蝉(セミ)が消え果てるので、ライバルは鈴虫(スズムシ)となる。

鈴虫(スズムシ)も夏の間、盛大に鳴いてきたので、
疲れ果てて、少しはおとなしくなるかしら、と私は秘かに願ったりしている。
               
いずれにしても立秋を過ぎれば、『暑中お見舞い申し上げます』に別れを告げ、
『残暑お見舞い申し上げます』と先人の人たちが、時候の挨拶として伝えられているが、
私は暑さに苦手な身なので、余り熱くならないでねぇ、と青空を見上げて、懇願しているのが、
昨日の日中のひとときであった。


こうした中で、昨日の夕食の時、私は家内に、
『秋になったら・・庭の手入れを頻繁(ひんぱん)にして・・秋の装(よそ)い相応(ふさわ)しいようにするよ・・』
と私は何か小庭の手入れにサボってきたことに、言い訳も言ったりした。

この後、『久々に秋の旅行でも行こうか?』
と言ったりした。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は今年の9月の誕生日を迎えると古希(こき)と称される70歳となり、
家内も12月の誕生日を迎えると65歳となり、介護保険証を受ける身となっている。
          

私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味のひとつであるが、何かと雪舞い降る旅が好きで、
幾たびも冬の時節に旅を重ねてきたが、落葉樹が朱紅色、黄色に染められる錦繍(きんしゅう)の旅路は、
数えるばかりとなっている。

たまたま私は古希(こき)入門、家内は高齢者入門となるので、
ささやかな記念の旅路を漠然と私は思案したりしてきた。

私たち夫婦は海外旅行が苦手なので、やはり家内の好みの源泉のある観光ホテルで、
ゆったりと滞在して、周辺を歩き廻るのが最適かしら、と思ったりしてきた。

この後、私たち夫婦は錦繍(きんしゅう)の時節に、いつの日にか訪れたい源泉の観光ホテルで、
8か所ばかり選択して、やがて3箇所を選定したプランを話し合ったりした。
                    

本日の日中のひととき、私たち夫婦は駅前で買物をした中、
ときおり利用している旅行代理店を訪ねた。
そしてある観光旅館に3連泊、次の観光旅館に1泊、その後の観光旅館に3連泊の旅程を相談したら、
最終の観光旅館だけは3連泊は叶わず、2連泊となった。

こうした中、家内は3連泊は叶わず落胆を深めたりしたが、
『この人生は・・ときには妥協も必要・・』
と私は苦笑しながら、家内に小声で言ったりした。

そして私は、特に最終の観光旅館は、錦繍(きんしゅう)の時節に人気が高く、
30数年前に作家・嵐山光三郎さんが随筆で描かれた為かしら、と微苦笑したりした。

『立秋』が過ぎた今、我が家は秋の予定を少しづつ思案を始め、
果たして、今年の錦繍(きんしゅう)の情景は・・と思い馳せたりしている。

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『介護予防問診票』が配達され、高齢者69歳の私は、やがて微苦笑して・・。

2014-08-07 11:24:40 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は今年の9月の誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、
家内も12月の誕生日を迎えると65歳となり、介護保険証を受ける身となっている。
          
          
昨夕、私は門扉の近くにある郵便受け入れ箱を開けると、
A4サイズの封筒が入っていたので、取りだして見たら、
私の住む調布市の福祉健康部高齢者支援室より、『介護予防問診票』在中、と明記されていた。

そして居間に戻り、開封したら、
『介護予防のための問診票』と題されて、要旨が明記されていた。

《・・調布市では65歳以上の偶数年齢の方に、介護を要する状態になることを防ぐ介護予防のための問診を
介護保険法に基づき行います。
今回は8~11月にお誕生日をむかえる方に送付しています。

表面の介護予防問診票(基本チェックリスト)にご記入の上、
下記の期日までに同封の返信用封筒でご返送ください。(略)・・》

こうした文面の下に、備考のひとつとして、
《・・すでに要支援(1・2)、要介護(1~5)の介護認定を受けている方は対象になりません。・・》

こうした文面を読んだ後、確か私が68歳の誕生日の前に、
介護予防問診票(基本チェックリスト)を記載して、送付したから、2年ぶりだよなぁ、
と思いながら、今回の介護予防問診票(基本チェックリスト)を見たりした・・。
          

そして問診の項目は32項目あり、読んでいく中で、微苦笑させられたりた。

例えば、《 階段を手すりや壁をつたわらずに上っていますか 》、
《 15分位続けて歩いていますか 》、
《 週に一回以上は外出していますか 》、
《 自分で電話番号を調べて、電話をかけることをしていますか 》


私は定年後の年金生活を始めた当初から、自主的に日常の買物の専任者となり、
家内から依頼された品を求めて、殆ど毎日行ったりしている。

最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などを歩き廻ったりしていることが多い。

このような状況の為、上記の問診の項目の回答には、論外かしら、と微笑んだりした。
          

いかしながら《 今日は何月何日かわからない時がありますか 》
この問診には、苦笑させられたりした。

私はまもなく年金生活10年となり、何かと日常の緊張感が無くなり、曜日の感覚が薄らいで、
朝方にカレンダーをぼんやりと見たりすると、今日は金曜日かょ、
或いは13日かょ、と独りで苦笑する時もある。

確か2か月前、郵便局で振込み依頼をした時、
所定の書類を私は記入していた時、年月日の記載項目があった。

そして私は日付の処で、10日・・11日か確信できず、迷いながら、
窓口の担当者のお方に、
『本日は全国的に・・11日ですよねぇ?』
と私は訊(たず)ねたりたりした。

『お客様のおしゃる通り・・6月11日です。』
と窓口のうら若き担当者のお方は、微笑みながら応(こ)えて下さった。

このような恥ずかしい体験があったので、
この問診の回答欄の『はい』か『いいえ』には、微苦笑したりした。
          

私は民間会社の中小業のある会社に35年近く奮闘し、2004年(平成16年)秋に定年退職した。
そして多々の理由で60歳より年金生活を始めたが、
高齢者入門の65歳の頃から、体力の衰えを実感している。

現役サラリーマンの時代は、数多くの諸兄と同様に睡眠時間を削りながら奮戦してきたが、
年金生活をしている中で、緊張感も薄らいで、ときおり微苦笑する時もある。

こうした中で、私は幸いにも介護制度の要支援、要介護のお世話ならず、
介護保険料は程ほどの額を厚生年金から差し引かれて支払っているが、
何とか健康の身のひとりとなっている。

もとより心身ともに自立し、健康的に生活できる期間を健康寿命と称せられているので、
果たして・・いつまで・・ときおり思案したりして、ひたすら歩くことが多いのである。

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『日本の夏・八月は 六と九で十五だ』、恥ずかしながら7年前に教示され・・。

2014-08-06 07:05:16 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して黙祷したのは朝の5時過ぎであった。

私は1944年〈昭和19年)9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に敗戦となった。

そして敗戦時は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
8月6日のこの日の午前8時15分に、
対戦中のアメリカが人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下され、
少なくとも15万人の人が即死し、数多くの方が被ばくされたことは学んできた。
          

このことは戦勝国となったアメリカの歴史をどのように描いても、厳然たる事実である。
          

本日は、69回目の原爆の日を迎える。
そして恒例となっている広島市中区の平和記念公園では、
午前8時から市主催の「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれ、
被爆者や遺族、安倍首相らが参列し、犠牲者に祈りをささげることとなっている。


私は沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、9日の『長崎被爆』、
そして15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』は、黙祷をして47年は過ぎている・・。

そして、かの大戦で余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
この日は広島の空に向い、人々に哀悼の意を表して、黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。
          


こうした中で、『日本の夏・八月は 六と九で十五だ』、と私は学んだのは、
恥ずかしながら7年前であった。

私の父は私が小学2年の三学期に、肝臓を悪化されて亡くなり、
母は私が53歳の時に、婦人系の癌で死去した。

家内の父は、私が民間会社のサラリーマンの定年退職の2004年〈平成16年〉の秋の直前に、
腎臓を悪化されて亡くなり、私たち夫婦のお互いの両親は、無念ながら家内の母だけとなっている。

そして家内の母は、我が家から電車・バスなどを乗り継いて2時間ばかりの千葉県の八千代市で、
一戸建ての独り住まいの生活をされている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、独り住まいの生活をされて、まもなく10年となる。
そして特に家内の母が独り住まいの生活をされた頃からも、
私たち夫婦は家内の母を誘い、幾たびか温泉滞在旅行などの旅を重ねたりしていた。
              
こうした中で、『生きているうちに・・一度は長崎の『原爆資料館』を観てみたいわ・・』、
と家内に要望されたので、
私たち夫婦と家内の母と3人で、過ぎし2008年(平成18年)2月中旬の時に長崎を訪れた。


家内の母の根底には、戦時中の時は、新潟の高田町(現在・上越市)で青春期の女学校の時代、
多くの同級生と共に軍事工場で労働にした身である。
この当時の日本は敗戦にたどる時期、殆どの国民は幾たびか空襲の中、悲惨で過酷な時期であった。

こうした家内の母の体験もあったので、特に独り住まいとなった頃から、慰霊の心情を深めてきた。
そして私たち夫婦は、家内の母と共に沖縄の『ひめゆりの塔』や『平和記念館』など、
その後は鹿児島の『知覧 特攻平和会館』などの旅を重ねてきた。


そして長崎を訪れている間、私は家内たちとは別行動で、独りで長崎の各所を拝観したりした。
こうした中で、私は何かしら後ろめたいような心情で、長崎の『原爆資料館』に初めて訪れた。

そして、改めて過酷な実態を知り、その当時のことはもとより、
被爆された後からも、心身ともに苦痛な日々を過ごされている人たちを思うと、
私は『原爆資料館』を辞する時、涙があふれた・・。

私は旅立つ前に、永井隆(ながい・たかし)氏の略歴を学んだりしていたので、
未知の長崎医学大学の前を歩いたりし、
初めて訪れる『長崎市 永井隆記念館』を探し求めながら、
氏の人生の歩みに圧倒される思いを馳せたりし、2月にしては暖かい陽射しの中を独り歩いたりした。
               

やがて『永井隆記念館』で拝見した後、売店で買い求めた本が、
永井隆・著作の『長崎の鐘』(1946年)、そして『この子を残して』(1948年)で、
私は旅先のホテルで、遅れはせなから初めて読んだりした・・。

この本の中に栞(しおり)があり、
《 日本の夏・八月は
        六と九で十五だ  
 忘れない広島・長崎・終戦の貴重な体験  ながいまこと 》
と明記されていた。

ながいまこと氏は、永井 隆氏の御子息であり、
長崎市立の『永井隆記念館』の館長をされている永井誠一氏である。

私は氏の《 日本の夏・八月は 六と九で十五だ 》のフレーズは、
確かな日本の夏の命言、と深く教示され、今でもこの栞(しおり)を大切にしている。
           

こうした中で私は年金生活をしている今、たとえば読書に関しては、
この8月の時節になると、原民喜・著作の『夏の花』(1947年)、阿川弘之・著作の『春の城』(1953年)、
竹西寛子・著作の『管絃祭』(1963年)、井伏鱒二 ・著作の『黒い雨』(1966年)、
福永武彦・著作の『死の島』(1966年)などを、
若き日に文学青年の真似事をしていた時代に読んだりしてきたので、
この作品を思い馳せたりし、『広島』に心を寄せたりしてきている・・。

そして永井隆・著作の『長崎の鐘』を再読し、『長崎』に思いを馳せたり、
6月23日の『沖縄慰霊の日』を始めとする『沖縄』の関係する本と、
8月15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』に関連する昭和近代史に関しては、
数多く乱読しているが、今回は省略する。

このような私の真情から、永井隆氏の御子息の永井誠一氏の至言、
《 日本の夏・八月は
        六と九で十五だ  
 忘れない広島・長崎・終戦の貴重な体験  ながいまこと 》
確かにそうですよねぇ、と私は深く思いながら、早や7年が過ぎている。

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『日記を書くメリット』を学び、ブログ10年生の私は、微笑み返して・・。

2014-08-05 14:49:54 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
年金生活をしている中のひとつとして、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

私は民間会社の中小業のある会社を35年近く奮戦して、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
まもなくブログの世界を知った・・。
          
                    
私が定年退職する数ヶ月前、遅ればせながら我が家に於いてインターネットを開設した。

この当時の私は、数多くの同世代の人たちと同様に、多忙の現役サラリーマン時期であり、
自宅のパソコンにインターネットを開設したならば、
友人たちと電子メールの交流の時間に余裕もない思いがあり、
退職後から自由な時間のひとときにすればよいと思いがあった・・。
         
私は情報畑に20数年従事し、1990年(平成2年)の初めの頃までは、
ある程度は専門畑としてコンピュータの世界が解かっていたが、
その後は人事異動して利用者側の間接部門となったので、
先端技術は解からず、ただパソコンを活用し、業務に従事していたぐらいであった。

このような体験があったが、いざ自宅でパソコンにインターネットを連動させた時、
Webの世界の進化した環境には、驚きながら溜息を重ねて、出遅れたと感じたりした・・。
          
                             
そして、定年退職後は、『ホームページ』を立ち上げて、
自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いのことなどを出来うる限り随筆風に綴り、
公開しょうと思案したりしていた。

しかし無念ながらホームページのソフトを購入して開設までの技量に乏しく、
更に無名の私が開設・運営した所で果たして、と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。

この本は『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであった。

          
そして私はブログの多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活の日々の思いのことから、無知なりに社会、政治の分野まで発露でき、
何よりホームページより手軽に開設、運営できると感じ、ブログに加入しょうと決意した。

          
そして私は、2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後、
2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)の1月中旬に加入したので、
これ以来、ほぼ9年半が過ぎている。

        
しかしながら、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    

このような軌跡で、ブログの世界を知って丸9年半が過ぎ、10年生となっている。
          

結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。

こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
          
           
私は文章を綴ることが好きなので、ブログの世界を知る前に日記形式で綴っていた・・。

若き20代の頃は、原稿用紙のように升目のある分厚い日記帳、
その後は原稿用紙のノート型で綴ったりしていたが、いずれも手書きであった。

やがて40代の頃からは、自宅に備えたワープロで入力し、フロッピー・ディスクに記憶させたりしていた。

これ以前として、私が初めてパソコンを購入したのは、 確か1983年(昭和58年)の頃であったと思われ、
NECのPC8801だったと記憶している。
そしてベーシック言語でプロクラムを書いたりして、この当時はネットの世界が一般の方に普及していなく、
独学の勉強のひとつとして、新古今和歌集を入力したりしていた。

         
やがて1998年〈平成10年〉夏に、会社と自宅で使う為にパソコンを買い改めたりした。
ノートパソコンで『ウィンドウズ 98』の基本ソフトであり、この当時は付属の記憶装置はフロッピーであった。
そして自宅の居間で、表計算ソフトを活用して、会社の資料を作ったり、
或いは『日記』専用のソフトを買い求めて、私自身の日記を書いたりしていた。
          

しかしながらこの『日記』専用のソフトは、ハードディスクに記憶されて、
無念ながらバックアップの方法は、私は無知であった。
          
こうして3年過ぎた頃、このノートパソコンのハードディスクが壊れて、
修理にだしたが、無念ながら修整不能となり、やむなく新品のハード・ディスクに交換した。

この間、私は過ぎ去った日々の思いの散文が消え去ってしまったことに、茫然とした・・。
あの日の思いを真摯に綴ってきたのに、どうしてくれるのょ、と自身に対して、じくたる思いであったりした。
          
もとより私はハードディスクは故障することもある、と知ったりしていたが、
まさか我が身のノートパソコンが・・と思いで、後悔を重ねたりした。
          

こうした苦い私の出来事があり、インターネットの中に於いてのブログの世界は、
私が数多くの投稿文を重ねても、プログを管理して下さる処理先のサーバーで記憶しているので、
たとえ私のパソコンを買い替えても、投稿文の先のサーバーで保管されているので、
簡単に復旧でき安心である。

しかし年に数度は、ネットの世界は不可解な出来事もあり、
プログ管理側のサーバーが万一故障し、修整不能となった場合に備えて、
私は加入ている【gooブログ】のバックアップ機能を活用し、バックアップをしたりしている。

こうした心情の根底には、10数年前に『日記』専用ソフトが消えてしまった苦い体験から、
保険代わりに実施しているのである。
          
               
                  
私はブログを投稿する際、筆力が乏しいながら
最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしているが、
日本だけでもブログをされている方は、数千万人と風の噂で聞いたりしていた。

そして私の加入している【gooブログ】のサイトでも、
過ぎし年の2008年(平成20年)の当時は、確か加入数150万人ぐらいで、
この当時の私は写真を添付する技量もなく、ひたすら文章だけの散文らしき文を綴り投稿文としていた。

そして私のサイトは訪問者数は長らく日々300人前後が多く、
【gooブログ】の総加入数の中に於いては、
まるで海岸の広い砂浜にある一粒の砂粒のような存在であった。
                        
       
このように私は、やがて埋もれてしまうか、海に押し流されて消えてしまうか、
誰からも読まれなく無視されることが想像されて、
つたない私でも、余りにも悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。

         
こうした思いからひとつの方法として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、つたない投稿文ながら自己顕示欲が増して、加入することとした。

                   
そしてブログのランキングのサイトも幾つか彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』に加入し、今日に至っている。

          
その後、2010年〈平成22年〉の秋に、やはりブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。
私は2008年〈平成20年〉の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していた・・。

やがて投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、私の投稿文毎にどのくらい読んで頂いたか、
と目安ができるので、ふたたび本加入させて頂いた。

そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』に関しては、加入時は『随筆・エッセイ』系に重点していたが、
一昨年の秋の頃から、世代のよしみに甘えてシニア日記系『60歳代』に移行している。
          
                                              
こうした中で、『にほんブログ村』に加入している50代から70代の多いシニア層のお方を中核に、
多くのお方の投稿文を読ませて頂いたりした。

そして日記として綴られている場合は、
その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い重ねさせて頂きながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ苦楽の深淵を感じながら年金生活を過ごしたりしている。

          
或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、
この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。
          
                                             
先程、ネットの公式サイトで【初心者のための日記習慣】と命名されたサイトにめぐり逢えた・・。
この中のひとつの課題として『日記を書くメリット』を読んだりした・・。
《・・
◆思い出をいつまでも保存しておける

人間の記憶というものはいい加減なもので、大切だとおもっていた思い出も
月日が流れるうちにいつの間にか曖昧になり、やがては忘れてしまうものです。
日記を書くことで後から当時の自分を振り返ったとき、
忘れかけていた想いを思い出すきっかけとなったり、自分の自信を取り戻す機会になることさえあるとおもいます。
          

◆気持ちの整理ができる

文章を書くにはある程度冷静にならなければ文字にすることができないので、
日記を書くという行為によって、客観的に自分を見つめることができます。

一日の終わりに自分を見つめ直すことは、今日やるべきことがやれたか確認できたり、
将来の目標に近づくために自分が行動できていたかチェックする機会にもなります。

結果的に昨日より今日、今日より明日、とより魅力的な自分に成長するきっかけにもなります。
楽しかった思い出はいつまでも残しておくことができるし、辛かった思い出も、文字にすることで少し心が落ち着き、
文字におこすことで、思い悩んでいたほどたいしたことがないことのように思えることもあるでしょう。
          

◆自分の成長が実感できる

日記に記録しているときは自分にとって何気ない日々の一部だったりしますが、
何年も経って読み返すととても貴重な時間だったことに気づく方もいらっしゃると思います。

書いている自分は月日の流れとともにいい意味でも、悪い意味でも変化していきます。
物事に対する捉え方であったり、その人に対する気持ちであったり…。
日記を続けることで、そういった自分の変化を実感することもできます。・・》
          

このように60歳前後の女性の方が、過ぎ去り人生に愛惜を重ねるように綴られたと思われるが、
確かにそうですよねぇ、と微笑み返しのように、同意させられたりした。
   

        
私はブログを書き始めて、丸9年半が過ぎて、早や10年生であるが、
この広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、
めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。

そして偏(ひとえ)に数多くの皆様にささえられて、投稿文が継続できていることも確かな事であり、
何よりも数多くのお方の確かな人生の教科書を学び、
私は人生の励ましを感じたり、ときには微笑んだりして過ごせてきたので、改めて感謝している。

          
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熱中症より怖いのは “夏血栓”と学び、高齢者の私は戸惑いながらも・・。

2014-08-04 15:43:01 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
本日の午前中のひととき、いつものように平素の買物専任者の私は、
家内からの依頼品を確認した後、最寄りのスーパーに向った・・。

そして夏季の制服のようになった半袖のスポーツシャツ、長ズボン、そして夏の帽子を深くかぶり、
ウォーキング・シューズで足元を固め、
そしてB5サイズのバックを斜め掛けにして颯爽と歩いたりしてきた。
          

しかしながら熱いこの時節は、燦々と陽射しが照らす中、歩いたりすると汗ばみ、ハンドタオルで顔をふいたりし、
ときおり扇子を取りだして扇(あお)いだりした。

そして体力の衰えた私は、人生は気合いだ、と自身を叱咤激励したりした。

この後、買物の責務を終えた私は、近くに流れる野川の両岸にある遊歩道を30分ばかり歩き、
夏の情景に心を寄せたりしたが、熱中症が怖くて、帰宅に向った。

ここ3週間ばかり熱いこの時節の午前中、このように準じたことで過ごしている。
          

家内と共に昼食代わりの素麺(そうめん)を居間の食卓で頂いた後、
エアコンの冷気の中、ネットでニュース記事を彷徨(さまよ)っている中、
【この夏、熱中症より怖い! “夏血栓”って知ってます?】と見出しを見て、
夏血栓って・・どういうことなの、と思いながらクリックしてしまった・・。

何かしら若き男性向けの『週刊プレイボーイ』に掲載された記事のひとつで、
『週刊プレイボーイNEWS』としての7月28日に配信された記事であり、
無断ながら転載させて頂く。

《・関東地方も「梅雨明け宣言」が出され、ついに夏本番を迎えた日本列島。
そんなときに気をつけたいのは「熱中症」だが、もっと怖い障害が起こり得ることをご存知だろうか。

それが「夏血栓(なつけっせん)」だ。
つまり、夏に起こりやすい血栓だから「夏血栓」。
          

まずは血栓のメカニズムについて、池袋大谷クリニック院長の大谷義夫医師に説明してもらおう。
具体的には、夏に起こる心筋梗塞(しんきんこうそく)や脳梗塞(のうこうそく)、肺血栓塞栓(そくせん)症などだというが、

「血栓は、イメージとしては水道管などの曲がっている部分やふた股などに分かれている部分に
さびができたりゴミがたまったりするのと同じです。
血管の中に、血液に含まれるタンパク質や血小板などがたまってしまうのが血栓です。
これは誰にでも起こり得ます。

そして、この血栓の塊がはがれて血管の中を流れ、脳の細い血管に詰まって、
そこより先の細胞が壊死(えし)すれば脳梗塞になります。
心臓に詰まれば心筋梗塞になり、肺に詰まれば肺血栓塞栓症になるわけです」
          

血栓ができやすい要因は大きく分けて3つあると大谷医師は言う。

【1:血管が障害を起こしている】
高血圧や脂質異常症、糖尿病などによって、血管の内側が傷ついているときなど。

【2:血流が悪い】
飛行機やクルマなどの狭い座席に長時間同じ姿勢で座ったりして、血管が圧迫されているときなど。

【3:ドロドロ血】
脂質異常症や脱水症状などで、血液の成分がドロドロになっているときなど。

そんな血栓が夏に起こりやすいのは、熱中症と同様に、脱水症状が関係している。
          

夏血栓の予防を呼びかけている日本ナットウキナーゼ協会の原弘之氏が語る。

「冬の血栓症は暖かい部屋から急に寒い室外に出たときなど、
急激に血管が収縮し、血流が早くなって血栓がはがれ、脳や心臓の血管に詰まることが多いといいます。

一方、夏血栓は脱水症状などで血がドロドロになることが主な要因です」

もちろん、ドロドロ血に加え、長時間同じ姿勢をして血流が悪くなれば危険度はさらに上がる。

「トラックの運転手の方やデスクワークの方など、何時間も同じ姿勢でいると肺血栓塞栓症を発症しやすくなります」(前出・大谷医師)

また、外回りでなくデスクワークだからといって安心していると、
エアコンの風のために汗をかいた自覚がなくても、知らないうちに脱水症状になっていることもある。

つまり、夏の暑い日に急に気分が悪くなれば、まず熱中症を疑いたくなるが、
実は夏血栓の場合もある、ということだ。

しかも、そこで間違った処置をしてしまうと命を落とす危険が一気に増す。

「例えば、急性肺血栓塞栓症と診断が確定され治療した場合の死亡率は、2%から8%ですが、
夏血栓とわからず適切な治療が行なわれなかった場合の死亡率は、30%に上ります」(大谷医師)

やっかいなのが、素人には自分が熱中症なのか、夏血栓なのか判断が難しいこと。
          

「熱中症の場合は、体を冷やすなどの処置をしますが、
脳梗塞などの場合は血栓を溶かす作業をしなくてはなりません。
判断を間違えたために障害が残ったという症例もあるようです」(前出・原氏)

そのため、熱中症だと思って日陰で休んでいたら、突然、死んでしまうという恐れも……。

「急性肺血栓塞栓症の死亡例の40%が、発症1時間以内の突然死です。
症状は発熱、冷や汗、動悸(どうき)、咳、呼吸困難、胸の痛み、血痰など。
もし苦しいと感じたら、自分で判断しないで早めに病院で検査を受けたほうがいいでしょう」(大谷医師)


では最後に、夏血栓の予防法、ズバリ教えてください!

「日頃からドロドロ血にならない食べ物を取るのも大切です。
例えば、納豆に含まれているナットウキナーゼは血栓を予防する効果があります」(原氏)

「とにかく同じ姿勢でいないこと。そして脱水症状にならないようにこまめに水分補給をすることです」(大谷医師)
(取材/村上隆保)・・》
          

私は恥ずかしながら「夏血栓(なつけっせん)」は、初めて学んだ。
そして何よりも怖いのは、《夏の暑い日に急に気分が悪くなれば、まず熱中症を疑いたくなるが、
実は夏血栓の場合もある》、
《素人には自分が熱中症なのか、夏血栓なのか判断が難しいこと。》
その後の処置、治療を誤れば・・怖い、と感じたりした。


私は過ぎ去りし年の2010年〈平成22年〉の秋の健康診断を受診した時、
糖尿病と明示され、茫然としながら、翌日より食事の内容はもとより、ウォーキング、散策をしたりして、
大幅に改善されている。

お酒大好きなの呑兵衛の私は、日本酒の純米酒、ビールを長き45年ぐらい夜のひととき愛飲してきたが、
糖尿病と宣告されて以来、 冠婚葬祭、懇親会、国内旅行など以外は、
原則として自宅で呑むのは、5日に一度ぐらいとしてきた。

この間、最寄の内科に4週間毎に定期健診を受けているが、
ここ3年は悪玉コレステロールは基準値の90%、これ以外はほぼ優等生となって、
改善努力の成果となっている。

こうした定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。
          

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は今年の9月の誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、
家内も12月の誕生日を迎えると65歳となり、介護保険証を受ける身となっている。

私は朝夕の食事を頂く前に、大皿にキャベツを中心とした野菜の盛り合わせを頂く習慣が、
ここ4年ばかれ続いている。
          

そして殆ど毎日、買物に行ったりしているが、いずれの方面の路線バスの利便性は良いが、
年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受している。

こうした根底には、歩きながら観える景観に良いし、
四季折々の季節のうつろいに心も身もゆだねて、何よりも健康にもよい、と固く信じてして歩いてきた。
何よりも歩けなくなった時は、もとより自由な時が制約され、何よりも困苦するのは自身だ、
と秘めながら日々歩いている。
          

こうした時、ときおり ♪しあわせは 歩いてこない  だから歩いて ゆくんだね・・
と何かと単細胞の私は、1968年(昭和43年)の頃に流行(はや)った歌を心の中で唄うこともある。

今回の夏血栓(なつけっせん)を学び、改めて歩き、よく寝て、程ほどに食べて・・
日々を過ごせれば・・と思いを深めたりしている。

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家庭用ルーターのサイバー攻撃を知り、ネット技量も乏しい高齢者の私は、戸惑い憂い・・。

2014-08-03 13:56:25 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

そして私たち夫婦は恥ずかしながら、スマートフォンはもとより、携帯電話さえも使えないので、
やむなくインターネットは固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
据え置き型のパソコンを利用している。

その上にフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンに無縁で、
無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思い、
このように稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。
          

こうした中で、昨日の2日の朝も、いつものように購読している読売新聞の朝刊を開いた時、
一面のトップに於いて、《 ルータ―攻撃 ネット障害 》、
《 家庭用を標的 》、《 480万世帯、一時不通 》こうした見出しがあり、
どのようなことなのょ、と私は記事を精読してしまった・・。

やがて記事を読み終えた後、ネット技量も乏しい高齢者の私は、戸惑いながら憂いたりした・・。

この詳細記事は、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】の中のひとつのニュースとして掲載されていたので、
無断ながら転載させて頂く。
http://www.yomiuri.co.jp/it/20140801-OYT1T50196.html?from=yartcl_popin
☆【YOMIURI ONLINE】==>【IT&メディア】
      ==>8月2日3時34分配信『初心者ハッカーも可能、ルーター攻撃多発』☆

私はこの記事を読む途中で、ルーターについての解説文を読んだりした。
《インターネットで通信する際、パソコンやタブレット、スマートフォンなど複数の端末を同時に接続できる機器。
無線電波を発する無線LANルーターなどがあり、家庭用は数千円から2万円程度で販売されている。》
と読んだりし、
図表の『ルーターを狙った攻撃による通信障害』を見たりした・・。

そして原因と内容として、《・・一部の家庭用ルーターが、本来受け付けない外部からの通信に応答してしまう弱点を悪用し、
攻撃者がそのルーター経由でプロバイダーのサーバーにデータを送ると、
データが数十倍に増幅される。
これを繰り返してサーバーに過大な負荷を与え、ネット利用を一定期間できなくさせる・・》
          

そして具体的な通信障害の実態として、
《・・今年5月末以降、この攻撃による通信障害を明らかにしたプロバイダーは、
ジュピターテレコム(JCOM、東京都千代田区、利用者282万世帯)、
ケイ・オプティコム(大阪市、150万世帯)、
アルテリア・ネットワークス(東京都港区、56万世帯)、
DTI(渋谷区、非公表)などがある。

このほか昨年8月には、NTTコミュニケーションズ(千代田区)が運営する最大手の「OCN」(815万世帯)でも、
約40分間にわたってネット利用ができなくなった。・・》

私は何よりも驚いたのは、《・・この攻撃は「DNSアンプ攻撃」と呼ばれ、
大量にデータを送りつけてサーバーを使えなくするDDoSディードス攻撃の一種。
・・高度な技術を必要としないため、初心者ハッカーの腕試しではないかとみられている。》
であった。
          

私はフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンに無縁で無知であるが、
せめてと思いながらパソコンでブロクだけはここ9年半投稿している・・

こうした中で、ブログのサービスサイトが数多くあり、私が知っているサイトでも、
私が加入している『gooブログ』以外でも、『アメーバブログ』、『ココログ』、『はてなダイアリー』、『ブログ人』、
『楽天ブログ』、『FC2ブログ』、『Yahoo!ブログ』など、
まさに満天の星空のようにサービスサイトの中で、数多くの方が多彩に投稿文を展開されている。

そして、日本だけでも数千万人の方がブログを利用されている、と学んだりしてきた。

しかし私は恥ずかしながら、ネット技量も乏しく、
たとえば私の投稿文をパソコンから発信した時、ルーターを通して『gooブログ』の管理下のサーバーに受発信、記憶の保管管理、
或いは私が愛読している人の投稿文を読む時、ルーターを通して受信はするが、
ときには応答時間(レスポンス)が平素より時間が要した時は、
『gooブログ』の管理下のサーバーに於いて、受発信が殺到して、処理時間を要している。

この程度しか認識力がないので、ネットの通信技術、背景も無知で、
その上にネットの環境の開発、運営なども知らず、まるで幼児のように何かと無知なのである。

今回、《・・初心者ハッカーの腕試しではないかとみられている・・》の方は、
私から見れば頭脳明晰の方であり、こうした家庭用ルータのサイバー攻撃により、一般の人を困苦させ
各ブログのサービスサイト管理元を困窮させるより、
誰しもから尊敬にされる高度なネットの技量の開発に時間を活用されれば、
と何かと無知な私は感じたりしている。

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夏バテ予防を遅ればせながら学び、体力の衰えた私は微苦笑して・・。

2014-08-02 11:19:35 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
          

こうした中で、昨日の8月1日は私の生家は『お盆の日』であったので、
我が家から歩いて数分ばかり生家である長兄宅に、私たち夫婦は訪れたのは午前9時半過ぎであった。
そして簡略となった盆棚でお線香を上げ、長兄夫婦と談笑したり、
来宅されていた叔母の子供の姪っ子、甥っ子たちとお互いの近況などを話し合ったりした。

やがて一時間過ぎた頃に、私たち夫婦は長兄宅を辞した後、お墓参りに向う為に、
自宅に戻り、お線香、お米を持ち、途中で花屋に寄り、生前の母が好きだったお花を買い求め、
お寺に着くと、お墓参りをしたりした。

こうしたことは、春のお彼岸の『春分の日』、初秋のお彼岸の『秋分の日』と同様に、
私が定年退職した2004年(平成16年)の秋から、9年ばかり恒例行事となっている。

やがて寺院を辞した後、数分先の駅前に私たちは向ったのであるが、
陽射しは燦々と30数度の熱い中、私は疲れを感じたりした。

いつもであるならば、食事処で昼食をした後、スーパー、専門店で買物をした後、
帰宅するのが定例のようなコースであったが、
『XXちゃんさぁ・・お弁当を買って、家で食べようか?』
と私は家内に提案したりした。

そして家内も熱い陽射しに困惑していたらしく、同意した。

やがてスーパーのお弁当コーナーで、季節ものお弁当を買い求めて、
私たち夫婦は帰宅した。
   

そして家の中はムゥとする熱気であるので、素早く戸、窓などを開け、外気や風を取り入れ、
居間だけはエアコンの冷房のスイッチを押したりした・・。
やがて15分過ぎた頃に、居間の窓などを閉めて、居間はやがて冷気につつまれた。
この間、私たちは汗ばんだ衣服を着替えたりした。

そして居間の食卓テープルで、季節物のお弁当を頂いたのであるが、
『何かしら熱い中、動き回ったせいか、疲れたたょ・・』
と私は家内に言ったりした。


私は今年の9月の誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、
家内も12月の誕生日を迎えると65歳となり、介護保険証を受ける身となっている。

このような状況なので、私は60代に愛惜を重ねてサヨナラする予定の身である為か、
体力の衰えを実感してきた・・。
          

夕方のひととき、私はパソコンを立ち上げて、
読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】でニュースを彷徨(さまよ)っている中で、
『夏バテしないためには? 』と題された見出しを見て、
どういうことなのょ、と体力の衰えた私は、こっそりとクリックしてしまった。
        
何かしらヨミドクターと称せられて『医療』コーナーの記事のひとつであり、
無断ながら記事の詳細を転載させて頂く。

《・・高温多湿な毎日が続くと、いつの間にか疲れがたまり、だるさや食欲不振に襲われることがある。
夏に特有なこうした体調不良が「夏バテ」だ。

東京臨海病院内科部長の松本孝夫さんは
「季節変化に体がついていかない状態。年中暑い熱帯にはなく、四季のある国ならではの症状」と話す。

昔は暑さが一番の問題だったが、冷房が普及した今日、
猛暑の屋外と冷えた室内の頻繁な行き来で体温調節機能を狂わす人が多い。
高齢者は温度に対する感受性が低下するため、特に注意が必要だ。
飲食は、冷たいものやあっさりしたものに偏ると、胃腸機能の低下や栄養不足を招く。

夏バテ予防のポイントは睡眠、食事、運動だ。疲労解消には十分な睡眠が欠かせない。
冷房を活用して、暑い日も寝つきをよくするよう心がける。

食事は、糖やたんぱく質をエネルギーに変えるビタミンB群を多く含む食べ物を積極的に摂取する。
水分補給は必要だが、「胃腸のため、暑い時こそ、温かいものを」と松本さん。

暑さに負けない基礎体力をつけるため、日ごろの運動習慣も大切だ。
読売新聞(ヨミドクター)2014年7月23日 配信 ・・》

このような記事であったが、高齢者の私にぴったりかしら、と微苦笑させられたりした・・。
          

そしてこの記事の右側に、『夏バテ予防のポイント』表が掲載されていたので、
私は精読してしまった。
無断であるが、転記させて頂く。

《☆ 睡眠 ☆
就寝前に寝室を冷やし、寝付きをよくする。
冷え過ぎないように、タイマーで夜中に冷房を切る。
冷房の風が直接に身体の表面に直接当てないこと》

この熱い季節の日々は、家内は早朝の3時前後から洗濯、掃除をする早起早寝に変貌するので、
2階にある寝室は日中の粗熱を取る為に、夜の8時頃にエアコンの冷房をセットする。
そして殆ど9時半過ぎに、居間より退散して寝室に向う。

私は居間で節電28度ぐらいエアコンの冷気の中、特に定年後の年金生活に於いて、
塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、徳岡孝夫、
高峰秀子、松山善三、櫻井よしこ、中西輝政、山崎正和の各氏の単行本、新書本、文庫本を購読したり、
ときには再読してきたので、この季節も相変わらず愛読したりしている。

或いはテレビのドキメンタリー番組を視聴する時もある。

こうした中、何かと単細胞の私は、熱中して深夜まで本を読む時もあり、睡眠不足となるが、
こうした時は昼下がりのひととき、居間の冷気の中で、簡易ベットに横たわり昼寝をしてしまうこともある。

私は現役サラリーマン時代は、多くの方と同様に、睡眠不足ながら奮闘してきたので、
いつでも昼寝ができる年金生活の中で、最大の恩恵と思いながらは甘受したりしている。

そして家内も居間の片隅で、ときには昼寝をする時もあるので、
この熱い夏でも、私たち夫婦は全般的には睡眠不足を感じることなく過ごしている。
          

《☆ 食事 ☆
あっさりした食事になりがちだが、
ビタミンB群を多く含む豚肉や胚麦米、卵などを多く摂取する。
冷たい水のかぶ飲みをしない》

我が家の朝食は、私は五穀米が入った白米のご飯、ワカメの味噌汁、コブの佃煮、ラッキョの塩漬け、
海苔(ノリ)、福神漬け、シャケの瓶づめ、或いは鯖(サバ)の味噌煮の缶詰などを食べたりしている。

こうした理由として、幼年期に農家の児として育ったので、齢はかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜(いちじゅうさんさい)』が、
何かと心身の波長に合うのであるので、頂いたりしている。

そして家内は食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、
二枚ばかり食べながら、コーヒーを飲みながら頂いたりしている。

昼食は蕎麦(そば)或いは素麺(そうめん)が多いが、
私はフランスパンを三分の一を食べることもあり、家内はケーキのような菓子パンを食べたりする時もある。

そして夕食は、牛肉、豚肉、鶏肉、ラム肉など、その日に応じて、
家内が料理して頂いたりしていることが多い。
          
こうした中で、朝食と夕食の前に私は、大皿にキャベツを中心の前菜を欠かせなくなっている。
普通サイズキャベツを四分の一ぐらい千切りし、
その脇にセロリ、トマト、ニンジン、キュウリなどの季節物を大皿に盛り合わせて、家内がしてくれる。
そして婦女子の野菜の盛り合わせの量からは、少なくとも4人前ぐらいかしら、と私は思いながら頂いている・・。

こうした根底には、私は幼年期に農家の児として育ち、その上に遠い30年前の頃に、
今は亡き俳優の森繁久弥さんが、胃腸薬のキャベジンの宣伝に出演していたので、
キャベツの多大な効力を信愛してきたので、こよなくキャベツは盛大に頂いている。

このような思いから、我が家は栄養不足はなく、熱いこの時節でも我が家は食欲がないことは死語となっている。

そして飲み物に関しては、私は冷茶、アイスコーヒーを飲んだり、
ときには買い求めたペットボトルの麦茶、ウーロン茶などを飲んだりしている。

家内は牛乳、麦茶、ウーロン茶などを飲んだりしているが、
熱いホットコーヒーを私にリクエストする時もあり、茶坊主の私は淹れたりしている。
          

《☆ 運動 ☆
暑い日中を避け、朝夕のウォーキングなど。
夏バテに負けない基礎体力や発汗機能を維持する》

私は定年後の年金生活を始めた当初から、平素の買物は自主的に専任者となり、
家内の要望された品を午前中のひととき、駅前とか最寄りのスーパー、専門店で買い求めてきた。
そしてB5サイズのバックを斜め掛けにして颯爽と歩いたりしてきた。

この熱い時節でも、燦々と陽射しが照らす中、夏の帽子を深くかぶり、半袖のスポーツシャツ、長ズボンの容姿が多く、
颯爽と歩いたりすると汗ばみ、ハンドタオルで顔をふいたりし、
ときおり扇子を取りだして扇(あお)いだりしてきた。

駅前の買物をする時も根はケチの為か、利便性の良い路線バスなどに乗らず、
片道15分前後の道を歩いたりしてきた。

しかしながら34度前後を超えた場合は、帰路だけは路線バスに乗り、
熱中症で倒れて救急車、病院にご迷惑するので、バスの車内の冷気に甘えて帰宅することもある。

私は買物の責務を終えた後は、殆ど近くの遊歩道、小公園を散策して、季節のうつろいを享受してきた。
こうした散策の熱いこの時節は、 歩き廻ったりしていると、扇子を取りだして扇(あお)いだりしているが、
汗がひたたり落ちる・・。
          
          
やむなくハンドタオルで顔などを拭いながら、できる限り樹の下にある歩道を歩いているが、
炎天下の道もあるので、高齢者の私でも気合いを入れて、冬の寒さを思い浮かべて、
足早に歩いているのが実情であった。

このようにスポーツの苦手な私は、朝夕のウォーキングなどせず、
ただ買物、散策の時、歩いたり足早に 歩き廻ったりしているぐらいである。

或いは小庭の手入れを朝涼(あさすず)の残る早朝に、5度間ぐらいする時もあるが、
汗まみれ、泥まみれと孤軍奮闘する時もある。


このような熱い時節、午前中のひととき過ごしたりしているが、
帰宅後は簾〈すだれ〉を各部屋に張りめぐらせた中、17畳ぐらいの居間で、私たち夫婦は過ごすことが多い・・。
                    
居間のエアコンの冷気の中、私は居間の片隅の机の上に置いているパソコンに向かったり、
或いはソファーに座り、本を読んだりし、ときおり庭を眺めたりする時、
ほのかな暗さを通して、樹木、草花が涼しげに見えたりし、微笑んだりしてきた。
   

この簾〈すだれ〉は紐でスルスル上げ下げの調整も出来、その上に布地も少し左右に開くことが出来るようにしたので、
平安時代の高貴な女性の部屋のように思えて、私は家内に我が家は平安朝だよねぇ、
と時折たわむれた事を言ったりしている。

こうした中、居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして昼下がりのひととき、簡易ベットを敷いて、
私は横たわりながら本を読んだりし、ときには昼寝をしたりしている。

家内はソファーに座り、本を読んだりし、テレビを視聴したり、
日中のひととき、居間の片隅で夏掛けの布団にくるまり昼寝をしたりしている。

こうした生活を私たち夫婦は過ごしているが、ともすれば猛暑の時は、まもなく古希を迎える私は、
身を案じて買物、散策はサボる時もあり、微苦笑しながら、冷気も甘えたりしている。

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『お盆の日』、私の住む調布市の片隅の地域は、古来より8月1日となり・・。

2014-08-01 13:55:47 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私の住んでいる処は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域であり、
生家に近く、古来より8月1日のこの日は『お盆の日』となっている。

私は東京の郊外に1944年(昭和19年)の秋に、農家の三男坊として、生を受けた。

やがて私が地元の小学校に入学した1951年(昭和26年)の春の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、程ほど広い田畑を耕していた。
そして生家が所有していた田んぼの片隅の中には、湧き水もあり、そして小川も流れていたし、
田んぼの外れに半反ぐらいの150坪前後の広さの蓮(ハス)専用の水田があった。
          

或いは竹林、雑木林も母屋の周辺にあったりした。

そして母屋の宅地のはずれに土蔵)、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と小学校の先生たちは称していた。

私は父、そして祖父が亡くなる小学三年生の頃までを思い浮かべて、
この当時の『お盆の日』を思い馳せていたが、遠い60数年前のことであるので、
後年に母、父の妹の叔母、叔父、長兄などから、私は訊(き)いたりしていたことも重ね、
心の片隅に残された記憶のかけらを頼りに思い馳せたりした・・。
               
【迎え火】の前には
7月30日の午前中のひととき、
父か仏間にある仏壇から位牌と仏具一式を取り出した後、仏壇の扉は、このお盆の期間だけ閉じられ、
この前に畳一帖ぐらい台に盆棚と称せられたこのお盆の時だけの棚が設置された後、
この盆棚に移された。

そして盆棚の中央の奥に位牌を置き、周辺に野菜、果物を供えられ、
胡瓜(キュウリ)に割り箸のような足を付け馬を見立て、
茄子(ナス)も同様な形で牛に見立てたものを飾っていた・・。

後年になると、叔父さんから、馬は祖先の霊に乗って、この世にに戻り、
牛はお墓に戻る時に乗って帰られる、と私は教えられたりした。

そして台の手前は、座布団を敷き、その脇に桶に水を入れ、蓮(ハス)の葉に茄子(ナス)を小さく刻んだのを浮べ、
淡いピンクのミソ萩を小箒(こぼうき)のように作ったのを、水にしたし、清めていた。
そして台の左右に、この時節の百合(ユリ)の花などの草花を飾り、この中で蓮(ハス)の花が中核となっていた。
               
この日の夜から、お盆の送り火が終えるまで、
朝昼夜に水とご飯、そしてボタ餅を供えたりしていた。

【迎え火】の当日は
この日の夕刻になると、稲の藁(ワラ)で作った松明(たいまつ)の灯りを祖父か父が持ち、
先頭に立って、家族一同で祖先が埋葬されているお墓に行った。

帰路は参列者の家族は、おのおの手を後ろに組み、あたかも祖先を背中に乗せて、帰宅した後、
盆棚の前で手を解き、祖先を安置する。
こうしたことが、この地域の迎え火の暗黙のしきたりとなっていた。

【お盆の日】の当日は
午前中のひととき叔父、叔母をはじめとする親戚、縁者が来宅して頂き、
盆棚で各自お線香を上げて頂き、盆棚の近くの広間で、煮しめ、ボタ餅を食べながら、
世間話をしたりて、帰宅して頂く。
この間、僧侶を招き、読経をして頂くのが、恒例となっていた。

【送り火】の当日は
お盆の日の当日の夕刻、家族は盆棚の前で、各自に手を後ろに組み、あたかも祖先を乗せて、
お墓に行き、手を解くのが、送り火と定められていた。

その後は、盆棚は整理され、位牌、仏具などは、いつものように安置している仏壇に納められる。

このような『お盆の行事』に関して、生家は少なくとも江戸時代の中期の頃から継続されていたが、
このように現在として記憶しているが、遠い昔の出来事であるから、
定かでないが、心に残っている。
               
ここ30数年、社会状況は大家族の風習は崩壊し、核家族化が進展している中、
生家も『お盆の行事』は簡素となっている。

私が2004年〈平成16年〉の秋に定年後になると、
翌年の8月1日の『お盆の日』からは、家内と共に朝の9時半前に、生家の実家となる長兄宅に行っている。

そして簡略となった盆棚でお線香を上げ、長兄夫婦と談笑した後、
この後に来宅された親戚の叔父、叔母たちに、私の少年期まで何かとお世話になったので、
この当時の頃の話を、私は話題にしたりすることが多く、私が知らなかったことが多々あり、
私は微苦笑しながらも教示を受けたりしている。
このようなことが今日まで続いている・・。

この後、私たち夫婦は長兄宅を辞した後、お墓参りに向う為に、
自宅に戻り、お線香、お米を持ち、途中で花屋に寄り、生前の母が好きだったお花を買い求めたりしている。

やがてお寺に着くと、境内は広く、大きな樹木が数多くある上、平日の日が多いので一層に静寂となる。
そして外気は、暑さを樹木の枝葉がさえぎっているので、幾分涼しげとなる・・。
ときおり、蝉(セミ)の声が境内と墓地の間の大きな樹木から聞こえるのが、
毎年の習性のような情景となる。

私は少なくともお墓参りは、生者の慰めと知っているが、
亡くなった父と母、そして祖父に守られ、こうして私は生きてこられてきたのは、
まぎれないことであるので、私は感謝の一心で、お墓参りをしている。

家内と母との長き25年近い歳月、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、私は今でも家内と母に秘かに感謝している。

お墓に行き、墓石を水で清め、お花を挿して、お米を備える。
そして、お線香を奉げる。
私はお参りをするたびに、母のおもかげがよぎる。
               
私の場合は、父が私の小学校の2年の時、
その一年後に祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。
このためか、ときたま生前の母のわずかなしぐさ、言葉づかいが想いだされる。
お線香の煙が芳香を残して、空中を彷徨(さまよ)うように立ち昇りながら、やがて消える・・。

その後、水屋の周辺の大木の樹木の中、
蝉(セミ)の鳴き声が響きかせながら、盛大に聴こえることが多いのである・・。

このように私は、旧来からのこの日の『お盆の日』を迎えている。

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過ぎ去る7月の中、この時節に生まれて初めて、美麗な薔薇にめぐり逢えて・・。

2014-07-31 15:52:23 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

今朝、今朝、ぼんやりと居間にあるカレンダーを見ると、
31日と明記され、月末かょ、と心の中で呟(つぶや)いたりしていた・・。
                    

私は2004年(平成16年)秋に定年後、多々の理由により年金生活を始め、
10年近く60代を過ごしてきた・・。

年金生活を始めた直後から、私は自主的に平素の買物専任者となり、
家内からの依頼品を毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
せめて家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、茶坊主の真似事をしている。
          
こうした中で、いつもように本日の午前中に、燦々と陽射しが照らす中、スーパーに買い物に向ったが、
少し遠廻りして小公園に寄ったりした。
          

そして汗ばんだ顔をハンドタオルでふいたりして、大きな欅(けやき)の近くにあるベンチに座り、
緑陰に身を寄せたりした。
そして扇子を取りだして扇(あお)いでいると、7月は早くも今日で終わってしまうのか、
とぼんやりと感じたりした。

私は今年の9月の誕生日を迎えると古希と称される70歳となるので、
今年の夏は60代の最後の夏となり、安楽な60代にサヨナラする為か、
日々愛惜を深めたりしてきた・・。

そしてこの7月は・・と思い馳せたりすると、
毎年のように小庭にある木槿(ムクゲ)、アメリカン芙容(フヨウ)などに心を寄せて過ごしたりして来た。
   

こうした中で、買物の往還、その後の遊歩道、小公園などを散策していると、
          
百合(ユリ)の花を見たりして、幼年期に農家の児として育てられた私は、
あの当時、夏の花として、蓮(ハス)と共に、この世の最上の花、と幼年ながら感じたりしたので、
涙ぐんでしまうほど、好きな花のひとつとなっている。
         

そして我が家にない木槿(ムクゲ)の別の品種を見て、瞬時に魅了されたりしてきた。
           

                  

このような初夏の数多くの花を見たりしてきた。

こうした中で、思いがけない花に、生まれて初めて享受した。
23日の日中、都立『神代植物公園』の『むくげ園』に於いて、
数多くの木槿(ムクゲ)の各品種の多彩な彩(いろど)りを魅了された後、
たまたま『バラ園』を横切ったのである。

          
            ☆今回掲載した以下の薔薇(バラ)の花は、都立『神代植物公園』23日の日中のひととき撮った。☆

            
私は薔薇(バラ)の花に関しては、何かしら高嶺の花の女性と感じ、高貴な花と深めてきたので、
恥ずかしながら定年退職した60歳の頃まで、近寄りがたく気後(きおく)れしまい敬遠してきた・・。

そして何かと卑屈と劣等感を秘めてきた私でも、遅ればせながらイギリス、フランスの文化を逃げることなく知る為には、
やはり薔薇(バラ)は欠かせない、と確信を深めたりした。

そして年金生活の60代に国内旅行で『バラ園』があった時、鑑賞する時もあった。
もとより私の住む地域の都立『神代植物公園』に於いて、
恒例の『春のバラフェスタ 』、『秋のバラフェスタ 』などで、
数多くの美麗な薔薇(バラ)を鑑賞して、感性の衰えた私でも、魅了された。
          

こうした中、昨年の6月初旬に訪れた時、
入園した入口の近くで頂いた『神代 花だより』(NO.213、平成25年5月)に於いて、
バラについて解説されていたので、初心者の入門書として精読したりした。
          
《・・バラは、北半球の新旧両大陸を中心に広く分布する植物で、
世界に約120~200種の原種があると言われています。

バラの栽培は、古代オリエントで始まったといわれており、
薬用・香料として、ギリシャ、ローマ時代には盛んに栽培されるようになりました。

ヨーロッパやオリエント原産のバラは一季咲き(春のみ開花)で、
長い間、バラは春しか咲かないものでした。
          

その一季咲きまバラに、四季咲きの性質を中国産の「コウシンバラ」や「ロザ・ギガンティア」の系統が掛け合わされ、
四季咲性の現代のバラの第1号は、’ラ・フランス’といい、
このバラに作出された1867年をもって、
それ以前に作出された系統のバラをオールドローズ、
それ以降に作出された系統のバラを現代バラ(モダンローズ)といいます。
         
現代において栽培されているバラは、
主にこの現代バラと呼ばれる栽培品種群で、多くの品種がありますが、
この栽培品種群は、わずか8種の野生種から作り出されたものです。

その8種とは、ロサ・ガリカ、ロサ・ダマスケナ、コウシンバラ、ノイバラ、
テリハイノバラ、ロサ・ギガンティア、ロサ・モスカータ、ロサ・フォエティダです。

神代植物公園には「野生種・オールドローズ園」というバラ園があります。
このばら園には、中国や日本の代表的な野生種、オールドローズのうち、
現代バラに作出に当たり大きな役割を果たした野生種やオールドローズ、
現代のバラの第1号の、’ラ・フランス’などのバラが産地や系統別に植栽され、
現代バラの作出の歴史をたどことができます。・・》

このような解説を私は読んだか、やはり高貴な薔薇(バラ)は、貴婦人ように感じて、
やはり高嶺の華(はな)だよねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。
          

このような心情を秘めた私は、『バラ園』を横切った時、
春季、秋季でもないのに、この夏季の時節に数多くの薔薇(バラ)の花が咲いていることに驚き、
富も名声に無縁な私でも、つたない感性を頼りに、一時間半ばかりバラ園を鑑賞した。
                    

そして私は『バラ園』の数多くの美麗な薔薇(バラ)の花を鑑賞している中、
恥ずかしながら思いを重ねたりした・・。
          

私は小学2年生の時に父に病死され、母と父の妹でこ当時は未婚だった叔母に育てられ、
この叔母の女友達の3人が、ときおり来宅した。
こうした中で、私は女性に憧憬を深め、今でも女性のしぐさ、顔立ち、そして言葉に魅了されたりしている。
          

そして現役サラリーマン時代に於いて、職場、親睦会などで心の交流した3名の女性の
しぐさ、顔立ちを浮かべたりした。
          
       
或いはここ9年半ばかりにブログに投稿している中、
多くの女性の投稿文を読ませて頂き、心の清らかな方とか、素敵な感性をしている方とか、
或いは凛とした方などと、私は思い馳せたりしてしまったのである・・。
          

このような7月の夏季に咲いている美麗な薔薇に、生まれて初めてめぐり逢えたことは、
富も名声に無縁で寂しがりの私の真情を察して、天上の神々からの贈り物かしら、
と私は思ったりして、やがてスーパーに向ったりした。

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高齢者の私たち夫婦、熱中症対策の我が家の夏の陣は・・。

2014-07-30 13:55:58 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は今年の9月の誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、
家内も12月の誕生日を迎えると65歳となり、介護保険証を受ける身となっている。
          

私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域は、
過ぎし日の5月31日に今年初めて30度を越える真夏日となり、その後も初夏のような暑さが続き、
何かと熱さに苦手な私は、どうしてなのょ、と天上の気候の神々の采配に戸惑ったりした。

そして6月5日になると、突然に涼しくなり、午後から雨が降りだして、
気象庁は『梅雨入り』になりました、と宣言され、平年より3日ぐらい早いかしら、と感じたりした。

この後、連日小雨が降り続け、ときには本降りの雨となったり、
激しい雷雨となったりしたこともあり、何かと今年の梅雨の時節は雨降る不安定な日が多く、
どうしてなのょ、と天上の気候の神々の采配に、
何かと鈍(にぶ)い私でも、戸惑いながら驚くことが多かった・・。

この間、調布市の市報から、熱中症予防に関した記事が掲載されていたので、
私は微苦笑したりしていた。
          

私は幼年期に農家の児として育てられた為か寒さには強く、暑さに何よりも苦手な身であり、
家内は寒さに弱いが、夏の暑さは30度ぐらいでは平然としている。
こうした風変わりな夫婦なので、困ったなぁ、と少しばかりため息をしたのである。

このような状況であり、家内はクーラーの冷風が苦手であり、
私はクーラーの冷風をこよなく愛するタイプであり、
毎年、夏の初め梅雨の時節は我が家は『冷たい戦争』となってきた・・。

家内からすれば、女の人は冷え症の方が多く冷風は禁物なのよ、
と天上の神のような声に私には聴こえたので、
これ以来、私なりに多少耐えてきたのである。

私が若き40代の当時、サラリーマンで奮闘していた時、
休日の時、テレビで確か主婦連の女性が、
夏のクーラーは程々に倹約して27度を超えたら、体調を配慮してクーラーを、
このような発言をしていた。

我が家は古い温度計しかなかったので、
やむなく私は真夏日の日曜日に渋谷のデパートに出かけて、
西ドイツ(現在・ドイツ)製の堅牢な温度・湿度計を購入したりした。
               
                我が家の居間にあるが、今回は特別に移動して記念写真とした。
そして、この後の暑い日になると、
『XXちゃん・・30度を超えているょ・・
主婦連だって・・体調を配慮してクーラーを・・と言っていたよ』
と私は温度計を指して、家内が見た後、クーラーの冷風をセットするのが、
ここ20年の我が家の習性となってきた。
          

一昨年の6月中旬の頃、私は平素の買物専任者の身であるので、
歩いて10分ばかりのスーパーで買い物をしたりした。
燦々と陽射しが照らす中、夏の帽子を深くかぶり、半袖のスポーツシャツ、長ズボンの容姿で颯爽と歩いたりしたが、
汗ばみ、ハンドタオルで顔をふいたりした。
そして帰宅後、洗面所で冷たい水で顔を洗ったりした。

家内は窓を開け放ち、掃除をしていた・・。
そして部屋の外れで、扇風機の羽根が元気よく廻っていたのであった。

『扇風機かょ・・』
と私は心の中で呟(つぶや)き、
やむなく私は団扇(うちわ)を取り出して、扇(あお)いだりした。

この後、私たち夫婦は昼食を頂いている時は、30度を超えていたので、
私は扇風機の風に吹かれて、家内と話したりしていた。

『節電の時世・・数年前、確か政府は28度ぐらいの室温に協力を・・と言っていたよねぇ・・』
と私はエアコンの冷気が苦手な家内に言ったりしたのである。

『そうでしたよねぇ・・』
と家内は微笑みながら私に言った。

『確か・・25年前頃・・主婦連の方たちが、夏のエアコンの最適な温度は、
27度ぐらいが理想的・・と記憶しているが・・』

『あの当時は・・エアコンは冷やすものだと・・
各家庭が寒いぐらいに冷やしていた時代だから・・適温を言ったのよ』
と家内は笑いながら私に言ったのである。

『先ほど、そこにある温度計・・30度を超えていたよ・・
我が家でも、今年初めてのエアコン・・セットしょうか?』

『今頃から・・エアコンのお世話になると、非国民と言われますよ・・』
と家内は私に言ったりしたのである。

『非国民かょ・・XXちゃんも昭和24年生まれなのに・・よく知っているねぇ』
と家内より5歳ばかり齢上の私は苦笑したりした。

こうした時、私は昼下り、2階の和室で、夏掛け布団を掛けて、横たわり、
扇風機の風を受けながら、本を読みはじめたりすることか多かった・・。

今年も同じようになるかしら、と私は微苦笑したりしていた。
          

過ぎし7月8日は30度の熱さとなり、翌日の9日は33度前後の猛暑が予測されたので、
我が家は今年初めてクーラーの冷気を始めた・・。

平年ならば学童が夏休みに入る21日の頃に、私の住む地域は『梅雨明け』となり、
これに順応して、我が家はクーラーの冷気の生活となるのであるが、
高齢者を大切にしましょう、と私は家内に幾たびか言ったりしていたので、
こうした効果が表れたのかしら、と私は微苦笑したりしていた。

そして、冷風を受けた私は、夏の熱い時期はこの世で一番の贈り物だ、
と確信を深めたりした。


この後、まもなく家内は収納している簾〈すだれ〉を取りだして、
各部屋に掛け始めた・・。

こうした事は、ここ10数年の習〈なら〉わしとなっている。

洋間であったら、雨戸、網戸、ガラス戸があるが、この季節はカーテンを外して簾〈すだれ〉とし、
和室も同様に、雨戸、網戸、障子となっているが、簾〈すだれ〉を掛けたりしている。

そして居間を中心に、和室、洋室、玄関、洗面所、トイレの窓際まで、
簾〈すだれ〉を付けている。
          
            玄関の内部の窓辺、簾〈すだれ〉の上に、黒地の布をして、陽射しの熱さを防いでいる。

この時季は朝涼(あさすず)が残る9時が過ぎる頃まで、
網戸と簾〈すだれ〉にして、風を通したりしている。

そして私は駅前までの片道徒歩20分のスーパーに行ったりした後は、
散策も近回りのコースを歩き廻ったりして、ときには扇子を取りだして扇(あお)いだりしているが、
汗がひたたり落ちる・・。
          
やむなくハンドタオルで顔などを拭いながら、できる限り樹の下にある歩道を歩いているが、
炎天下の道もあるので、高齢者の私でも気合いを入れて、冬の寒さを思い浮かべて、
足早に歩いているのが実情であった。

こうした中でも、34度前後を超えた場合は、利便性の良い路線バスに乗り、
熱中症で倒れて救急車、病院にご迷惑するので、バスの車内の冷気に甘えて帰宅することもある。

そして帰宅後は、洗面所で顔を洗い、エアコンの冷気の中で、衣服を着替えたりしている。

この間、家内は室内の掃除を終えて、
居間のエアコンの冷房を省エネの28度に設定している・・。
やがて居間、玄関の内部、洗面所、トイレ、台所など完全冷房となる。

そして私たち夫婦は、17畳ぐらいの居間で、日中の大半を過ごしている。

私は居間で机の上に置いているパソコンに向かったり、
或いはソファーに座り、本を読んだりし、ときおり庭を眺めたりする時、
ほのかな暗さを通して、樹木、草花が涼しげに見えたりし、微笑んだりしてきた。
              

この簾〈すだれ〉は紐でスルスル上げ下げの調整も出来、その上に布地も少し左右に開くことが出来るようにしたので、
平安時代の高貴な女性の部屋のように思えて、私は家内に我が家は平安朝だよねぇ、
と時折たわむれた事を言ったりしている。

こうした中、居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして昼下がりのひととき、簡易ベットを敷いて、
私は横たわりながら本を読んだりし、ときには昼寝をしたりしている。

家内はソファーに座り、本を読んだりし、テレビを視聴したり、
日中のひととき、居間の片隅で夏掛けの布団にくるまり昼寝をしたりしている。

やがて夜の8時過ぎには、2階の寝室に冷房のセットをしたりしている。

このような我が家の夏の陣としているが、もとより熱中症で救急車のお世話になることは避けたく、
冷茶、アイスコーヒー、ときにはペットボトルの麦茶、ウーロン茶を飲んだりして、
私たち夫婦は熱い季節を過ごしたりしている。

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朝涼のひととき、敗者復活戦のような心情で、小庭の手入れをすれば・・。

2014-07-29 13:36:45 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
何よりも暑さに苦手な私は、小庭の手入れは18日にした後、サボり果てている・・。

過ぎ去り日の22日より猛暑となり、24日からは34度が27日まで続き、
どうしてなの、と天上の気候の神々の采配に戸惑い、
恨(うら)めしげに、燦々と照らす空を見上げたりしてきた。

昨日は何かしら涼しい朝を迎えて、日中は快晴であったが31度ばかりで、
このような夏の日が続けば、心も身も心地よいよねぇ、と呟(つぶや)いたりしていた。
          

そして夕方のひととき天気情報を視聴していたら、
明日の朝は曇り空で幾分涼しく、その後は快晴に恵まれる一日となります、
朝の6時は21度前後、日中の最高気温は30度前後、夕方の6時は27度前後が予測されます。
と報じていた。

その後、家内と共に夕食を頂いている時、
明日の朝のひとときは涼しそうだから、庭の手入れをするよ、と私は家内に言ったりした。

我が家の敷地は変形の為、家屋を建てる当時から玄関庭と主庭に別れている。、
玄関側は何かと人が来客するので、程ほどに手入れをしているが、
主庭は居間とか和室に面しているが、過ぎし日の18日に手入れをしたが、
疲れを感じて荒っぽく手入れをしたので、少し丁寧にしょうと思ったりした。

あたかも敗者復活戦のようだ、と自身を励ましたりした。
そして玄関側は手入れをしてすら6週間ばかり過ぎ、樹木の枝葉、草も伸びてきたので、
6時間ぐらい奮戦すれば少しは・・と思いながら、私は夜の11時過ぎに眠った。
          
   
そして本日の3時に目覚め、意欲充分であるが少し早かったかしら、
と微苦笑したりした。

やがて起床して、いつものように一汁三菜のような一汁七菜で朝食を頂いた後、
いつものようにストレッチパンズの夏用の長ズボン、着古したワイシャツ、ウォーキング・シューズで、
玄関の軒下に下り立ったのは5時過ぎであった。

そして夏用の帽子を深く被り、滑り止めの軍手をして、そして剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにして、
朝涼の快適の中、樹木の枝葉を高枝鋏(たかえだばさみ)で切り落としたりした。

               
やがて切り落とした枝葉を整理したりしていると、まばゆい陽射しが小庭を照らし、
10時頃までは曇りが予測されていたのに、少し早いじゃないの、と苦笑したりした。
          

その後、草むしりをしていると、汗がしたたり落ちてきた。
特にドクダミの草が地面にへばりつくように繁っているので、労苦を要する。
或いは樹木のある地面も草が生えているので、
樹の下にもぐるように、はいつくばって草を取ったりすると、泥まみれとなったりした。

こうした中で、無念ながら体力の衰えた私は、ときたまテラスの簡易椅子に腰かけて、
少し休憩ねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。
こうした私の情況を見た家内は、掃除の手を休めて、幾度か冷茶を運んでくれたりした。

そして陽射しが燦々と照らす中、草むしりに奮闘していると、汗まみれ泥まみれとなったりしたが、
今しなくていつするのよ、と自身を叱咤激励をしたりした。

やがて10時が過ぎた頃、体力の限界を感じて、本日はここまで・・と断念して、
そして風呂から上がったのは10時半過ぎであった。
          

疲労感を感じる今、若き40代のサラリーマン時代は、休日の時に真夏の炎天下の中でも、
7時間ぐらいは気力で、庭の手入れをしたりしたが、
あの頃の自分の若さには適〈かな〉わない、と高齢者5年生の私は苦笑したりした。

しかしながら年金生活の私は、高校野球の県予選はトーナメントなので勝ち続けなければ敗退するが、
私は幾度も庭の手入れに関しては、敗者復活戦に挑戦できるので、次回はいつの日にしょうか、
と体力の衰えた私は、負け惜しみを心の中で呟(つぶや)いたりしている。

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