私は東京オリンピックが開催された少し前に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事を4年ばかり過ごしたりした。
この後は、コンピュータの専門学校で一年間ばかり学んだ後、
遅ればせながら昭和45年(1970年)の春に、
ある大手企業に中途入社ができた・・。
まもなくして、この会社の音楽事業本部の中の大手レーベルのひとつが、
レコード専門会社として独立した。
私はこのレコード会社に異動されて、コンピュータ専任者として配属していたが、
制作畑のように直接に音楽に携わる部署でなく、
管理畑であったので、ある程度は気楽に職場に流れる音楽を聴いたりしていた。
昭和47年の初秋、私は日曜日で自宅でラジオを聴きながら、
身のまわりの整理をしていた。
♪あたたかい陽のあたる
真冬の縁側に
少女はひとりで
ぼんやりと座ってた
【 『少女』 作詞、作曲、唄・五輪真弓 】
私は思わず手を止めて、ソファに座り、
煙草に火を点(つ)けた・・。
♪つもった白い雪が
だんだん とけてゆくのを
悲しそうに 見ていたの
夢が大きな音を
たてて 崩れてしまったの
【 『少女』 作詞、作曲、唄・五輪真弓 】
私は瞬時に感性の鋭い人と思い、初めて作詞・作曲し、そして唄っている人が、
五輪真弓と知ったのである。
翌朝、会社で、たまたま私が朝礼の当番であった。
本社の営業本部、同じフロアーの営業所の数多くいる社員の前で、
私は前に立ちながら、一通り業務関係を言った後、
『・・CBSソニーさんから、凄い感性のある人でデビューします。
10月に発売されますが、五輪真弓という若い女性が・・
「少女」という曲で・・感性と感覚が際立って・・』
と私は他社のアーティスであったが、半分得意げで言った。
たまたま営業の本部長の所に、邦楽の制作本部長が打ち合わせて来ていたのを、
後で知った。
この後、一時間後に、私は制作本部長とエレベータの中で、
偶然ふたりとなった。
『・・お前さんねぇ・・よく言うょ・・』
と微苦笑された。
私はレコード会社で、コンピュータ専任者の身であったが、
世の中の怖さも知らず、颯爽とし風をも切るような27歳の時であった・・。
この後、五輪真弓のレコードのアルバムの発売日に待ち焦がれ、
『五輪真弓/少女』を買い求めたのは昭和47年(1972年)の10月の下旬であった。
この頃の私は、個室にレコード・プレイヤー、プリメイン・アンプ、そしてスピーカと、
この当時の普通の音楽ファンの機器構成で聴いていた。
しかし、この頃の機器は、私の基本給の月収より数倍高く、
私はローンで返済していた。
そして、私は帰宅後、このアルバムに夢中になり、
殆ど毎日聴いていたし、会社の友人はもとより次兄にも賞賛をしたりしていた。
翌年の7月に『風のない世界』が発売されて、
特にこの中の一曲『煙草のけむり』には、この人の才能が満ち溢れている、
と友人らにも絶賛していた。
確か数年後であったと記憶しているが、
虎ノ門ホールで五輪真弓のコンサートがあり、
この頃に交際していた女性と私は観たのである。
この女性はある音楽大学を卒業したばかりで、
先生に師事しながら、ピアニストを目指している人であり、
私はピアノを専攻する人に多少なりとも気後れしながらも、
この女性をピアノを弾きながら自身の作詞・作曲され歌を唄う五輪真弓のコンサートに、
誘い出したのである。
この女性とは、コンサートの終了後に食事をしていた時、
虎の門ホールの音響のことなどを話したりした後、
五輪真弓に関しては才能のある人ね、
と私は聴いて、私なりに五輪真弓のデビュー以来才能を認めたひとりとして、
賛意されたので、安堵したりしていた。
そして、この間も、渋谷、新宿で度々待ち合わせ、夕食を共にした後、自宅に送り、
この方の母親に可愛がって頂だき、親愛の情をしぐさを見せてくれたりした。
私の住んでいる所にも来て貰ったり、
私の実家にも連れて行ったりしていた。
このような時、有数なソプラノ歌手のコンサートが東京文化会館の小ホールで開催され、
伴奏としてのピアノを弾く担当に選ばれ、
私は当然のような気持ちで、このコンサートを観たのである。
ただ開演前、ロビーにいる時、
私が今までの人生で体験したことのない、音楽大学の現役、卒業生の20代から50代の人たちが、
特有な雰囲気につつまれていると感じたりしたのである。
私は結婚したい、と申し込んだ夜、
『貴方が思っている・・サラリーマンの良い奥さんには・・なれないわ・・』
と言った。
確かに毎日少なくとも8時間前後はピアノ弾いているので、
サラリーマンの家庭に多くある生活ペースは無理もあるが、
私は承知の上だ、とも言葉を重ねたりした。
数ヵ月後、貴方に負担をかけたくないの、
と私は言われ、
私は失恋をしたのである。
私は五輪真弓に関しては、スターとなった今、
何となく遠ざかり、シャンソンなどに夢中になり、深めていった・・。
私は数年後、妹の嫁ぎ先の父親が茶事で知り得た女性を紹介され、
しばらく交際した後、この女性と結婚した。
私が家を建て始めて、ローンの負担が重苦しく感じ、
数年続いた折、私は懐かしい歌声を聴いたのである。
♪枯葉散る 夕暮れは
来る日の寒さを もの語り
雨に壊れた ベンチには
愛をささやく 歌もない
【『恋人よ』 作詞、作曲、唄・五輪真弓 】
私は思わず、真弓ちゃんだ、と心の中で叫んだのである。
そして、相変わらず、才能を発露させ、確固たるスターの五輪真弓さんに、
しばらくぶりだったけれど、凄い詞を書いたよね、
と心の中で祝杯したりしていた。
♪恋人よ そばにいて
こごえる私の そばにいてよ
そしてひとこと この別れ話が
冗談だよと 笑ってほしい
【『恋人よ』 作詞、作曲、唄・五輪真弓 】
私はピアノニストに熱望した人は、今はどうされているか解からないが、
私にとっては青年期の終りの頃の貴重な苦い想いのひとつである。
映画・文学青年の真似事を4年ばかり過ごしたりした。
この後は、コンピュータの専門学校で一年間ばかり学んだ後、
遅ればせながら昭和45年(1970年)の春に、
ある大手企業に中途入社ができた・・。
まもなくして、この会社の音楽事業本部の中の大手レーベルのひとつが、
レコード専門会社として独立した。
私はこのレコード会社に異動されて、コンピュータ専任者として配属していたが、
制作畑のように直接に音楽に携わる部署でなく、
管理畑であったので、ある程度は気楽に職場に流れる音楽を聴いたりしていた。
昭和47年の初秋、私は日曜日で自宅でラジオを聴きながら、
身のまわりの整理をしていた。
♪あたたかい陽のあたる
真冬の縁側に
少女はひとりで
ぼんやりと座ってた
【 『少女』 作詞、作曲、唄・五輪真弓 】
私は思わず手を止めて、ソファに座り、
煙草に火を点(つ)けた・・。
♪つもった白い雪が
だんだん とけてゆくのを
悲しそうに 見ていたの
夢が大きな音を
たてて 崩れてしまったの
【 『少女』 作詞、作曲、唄・五輪真弓 】
私は瞬時に感性の鋭い人と思い、初めて作詞・作曲し、そして唄っている人が、
五輪真弓と知ったのである。
翌朝、会社で、たまたま私が朝礼の当番であった。
本社の営業本部、同じフロアーの営業所の数多くいる社員の前で、
私は前に立ちながら、一通り業務関係を言った後、
『・・CBSソニーさんから、凄い感性のある人でデビューします。
10月に発売されますが、五輪真弓という若い女性が・・
「少女」という曲で・・感性と感覚が際立って・・』
と私は他社のアーティスであったが、半分得意げで言った。
たまたま営業の本部長の所に、邦楽の制作本部長が打ち合わせて来ていたのを、
後で知った。
この後、一時間後に、私は制作本部長とエレベータの中で、
偶然ふたりとなった。
『・・お前さんねぇ・・よく言うょ・・』
と微苦笑された。
私はレコード会社で、コンピュータ専任者の身であったが、
世の中の怖さも知らず、颯爽とし風をも切るような27歳の時であった・・。
この後、五輪真弓のレコードのアルバムの発売日に待ち焦がれ、
『五輪真弓/少女』を買い求めたのは昭和47年(1972年)の10月の下旬であった。
この頃の私は、個室にレコード・プレイヤー、プリメイン・アンプ、そしてスピーカと、
この当時の普通の音楽ファンの機器構成で聴いていた。
しかし、この頃の機器は、私の基本給の月収より数倍高く、
私はローンで返済していた。
そして、私は帰宅後、このアルバムに夢中になり、
殆ど毎日聴いていたし、会社の友人はもとより次兄にも賞賛をしたりしていた。
翌年の7月に『風のない世界』が発売されて、
特にこの中の一曲『煙草のけむり』には、この人の才能が満ち溢れている、
と友人らにも絶賛していた。
確か数年後であったと記憶しているが、
虎ノ門ホールで五輪真弓のコンサートがあり、
この頃に交際していた女性と私は観たのである。
この女性はある音楽大学を卒業したばかりで、
先生に師事しながら、ピアニストを目指している人であり、
私はピアノを専攻する人に多少なりとも気後れしながらも、
この女性をピアノを弾きながら自身の作詞・作曲され歌を唄う五輪真弓のコンサートに、
誘い出したのである。
この女性とは、コンサートの終了後に食事をしていた時、
虎の門ホールの音響のことなどを話したりした後、
五輪真弓に関しては才能のある人ね、
と私は聴いて、私なりに五輪真弓のデビュー以来才能を認めたひとりとして、
賛意されたので、安堵したりしていた。
そして、この間も、渋谷、新宿で度々待ち合わせ、夕食を共にした後、自宅に送り、
この方の母親に可愛がって頂だき、親愛の情をしぐさを見せてくれたりした。
私の住んでいる所にも来て貰ったり、
私の実家にも連れて行ったりしていた。
このような時、有数なソプラノ歌手のコンサートが東京文化会館の小ホールで開催され、
伴奏としてのピアノを弾く担当に選ばれ、
私は当然のような気持ちで、このコンサートを観たのである。
ただ開演前、ロビーにいる時、
私が今までの人生で体験したことのない、音楽大学の現役、卒業生の20代から50代の人たちが、
特有な雰囲気につつまれていると感じたりしたのである。
私は結婚したい、と申し込んだ夜、
『貴方が思っている・・サラリーマンの良い奥さんには・・なれないわ・・』
と言った。
確かに毎日少なくとも8時間前後はピアノ弾いているので、
サラリーマンの家庭に多くある生活ペースは無理もあるが、
私は承知の上だ、とも言葉を重ねたりした。
数ヵ月後、貴方に負担をかけたくないの、
と私は言われ、
私は失恋をしたのである。
私は五輪真弓に関しては、スターとなった今、
何となく遠ざかり、シャンソンなどに夢中になり、深めていった・・。
私は数年後、妹の嫁ぎ先の父親が茶事で知り得た女性を紹介され、
しばらく交際した後、この女性と結婚した。
私が家を建て始めて、ローンの負担が重苦しく感じ、
数年続いた折、私は懐かしい歌声を聴いたのである。
♪枯葉散る 夕暮れは
来る日の寒さを もの語り
雨に壊れた ベンチには
愛をささやく 歌もない
【『恋人よ』 作詞、作曲、唄・五輪真弓 】
私は思わず、真弓ちゃんだ、と心の中で叫んだのである。
そして、相変わらず、才能を発露させ、確固たるスターの五輪真弓さんに、
しばらくぶりだったけれど、凄い詞を書いたよね、
と心の中で祝杯したりしていた。
♪恋人よ そばにいて
こごえる私の そばにいてよ
そしてひとこと この別れ話が
冗談だよと 笑ってほしい
【『恋人よ』 作詞、作曲、唄・五輪真弓 】
私はピアノニストに熱望した人は、今はどうされているか解からないが、
私にとっては青年期の終りの頃の貴重な苦い想いのひとつである。
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