夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『昭和の日』を迎え、78歳の私は、過ぎし昭和の時代に、愛惜を深めて・・。

2023-04-29 07:44:27 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であり.
今朝、ぼんやりとカレンダーを見たら、『昭和の日』と朱記されていたので、
『昭和の日』かょ・・と戸惑いながらも微苦笑したりした・・。

私は『昭和の日』については、遅ればせながら自覚したのは確か12年前の頃で、
やはりに、私に取っては昭和19年(1944年)の秋に農家の児として生を受け、
昭和64年(1989年)の1月7日の昭和天皇が崩御される年まで、
この日の4月29日は・・身も心も『昭和天皇陛下のお誕生日』と思いながら、長らく過ごしてきた。

このような心の奥底に秘めてきた私は、今回『昭和の日』に際して、
私の『昭和』の時代は、少なからず45年近く空気を共にしてきたので、
もとより私の自己形成は『昭和』の時代であったので、今でも過ぎし『昭和の時代』は愛惜を深めて、
時折あのようなことがあったよねぇ、と私は思い馳せることがある。


                        

私は1944年(昭和19年)の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、私が今住んでいる近くで農業をしていた。

こうした中、私が地元の小学校に1951年〈昭和26年〉の春に入学した当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、 程ほど広い田畑を耕していた。
そして所有している田んぼの中に小さな川が流れ、湧き水もあったりした。

母屋の周囲には、竹林、雑木林、そしてお稲荷さんを所有し、
宅地の外れには蔵、納戸などがある農家であった。

母屋の中のひとつの10畳の和室には、梁の近くに神棚が備えられ、
ある10畳の和室には、片隅みの一角には仏壇があり、
朝には新たにお茶、お線香を捧げていた。

この部屋の梁の近くには、昭和天皇のご一族の皇族の写真が掲げられていた。
そして土間の竈(かまど)のある梁の近くに、小さな神棚が備えられいた。


長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、
幼年の私でも感じたりしていた。

もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、

万一の場合は次兄もいるので、
私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。

しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。



私が地元の小学校に入学したのは、1951年(昭和26)年の春であり、
それ以前は周辺にも幼稚園もなく、やっと託児所ができた頃であった。

託児所と称されても、寺院の片隅の大部屋を借用して、
幼児を預かる程度の施設が実態であり、
お遊戯をしたり、挨拶を学んだり、
ときには幻燈機で何かしらの観たりしていた。


幻燈機は、若い方には不明と思われるが、

現代風に表現すれば、白黒の(モノクロ)の画面で、ときには総天然色のカラーもあったが、
静止画面のスライド・ショーと理解して欲しい。

私も実家で、祖父の指示の下で、大きな部屋に、ご近所の家族を招き、
『母をたずねて三千里』などの劇画を観たりした。

総天然色のカラー作品で、私はこの『母をたずねて三千里』に、
確かなストリーの
意味合いも理解できなくとも、
なぜかしら感動し、
涙を浮かべて観たりしたのが、5歳の頃であった。




こうしたある日、私は祖父から空の一升瓶を渡され、

『XXに行って・・大丈夫かなぁ・・』
と雑木林の拓いた村道で徒歩10分ぐらいの道のりを歩いた。

私が向った先は、酒屋でそれぞれの日本酒の四斗樽が壁一面に並び、
お菓子、佃煮などが並べられている不思議な店であった。

この当時は、駅の周辺は商店街があったが、実家は駅までは15分の道のりであり、
この店しかなかったのであった。

私は空の一升瓶を割らないように大切に抱えて、
人気のない村道を歩き、この店に行った。

そして60歳ぐらいの店主に、私は空の一升瓶を少し振り、
『これ・・お願いします』
と言ったりした。

店主は明るい表情を見せながら、壁面に置いてある四斗樽のひとつに、
栓を開けて、枡(ます)に満たし、その後は一升瓶に移したりした。

この当時は、周囲の農家の殆どは、冠婚葬祭で一升瓶を数本贈答したり、
年末年始とか行事のある場合は、
何本かの一升瓶を購入していたが、

平素はこのような日本酒の量(はか)り売りの時代であった。

この後、私は祖父から預かったお金を渡し、
店主から満たされた一升瓶を受け取ろうとした時、
お煎餅(せんべい)を3枚を渡された・・。

『おじさ~ん・・ありがとう・・ごさいます』
と私は店主に云いながら、重くなった一升瓶を受け取った。

そして私は今宵の晩酌する祖父と父の表情を思い浮かべて、
薄暗くなった村道を歩いた。

そして右側のポケットに、お煎餅(せんべい)を3枚があり、
『この煎餅(せんべい)、美味(おい)しそう・・』
と思いながら、家路に急いだ・・。



やがて私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。


後年、祖父と酒屋の店主は旧知で、もとより昵懇の仲であったので、
何かといじけることが多かった私を不憫に感じた祖父の思いだった、
と祖父が亡くなったある時、私は叔母から教えられたりした。

昨今、私はスーパーで買物をしている時、
丸い大きく厚い『草加せんべえ』を見かけたりすると、

ときおり幼年期に酒屋さんから頂いた煎餅(せんべい)に思いを重ねることもある。




この間、6歳の私は母に連れられ、年に一度ぐらい新宿の伊勢丹(デパート)に行ったりした。
母は私と妹を両手につなぎ、末妹は乳児だったので背中にしょっていた・・。

そして京王線の『金子(現在・つつじが丘)』駅から『新宿』駅まで電車に乗ったりした後、
新宿三丁目まで歩いたりした。

そして伊勢丹(デパート)の階段の踊り場、或いは地下の通り道などで、
不幸にして戦争で身体の一部を失くされ、軍歌の音色とも、その容姿を見るのが恐かった。

こうした中で、ある時は母から私は勝手に手を放して、デパートの店内で迷子となり、
人形の売り場で半ベソになっていた私は、店員さんから救出されて、
探していた母の元に行ったりした。
                         

私が小学校の高学年になると、映画に魅せられて、
付近の調布、布田、千歳烏山の映画館に、独りでよく通ったりしていた。

こうした中、次兄から都心の日比谷にある映画を観ようと誘われて、
新宿から築地行きの都電を乗ったが、乗り物酔いで私は吐き気がして困苦した・・。

確かあの頃の都電は、運賃は均一13円と記憶しているが、
下車したら当然もう一度支払う必要があったので、日比谷まで頑張れ、と次兄に励まされ、
青ざめた顔で日比谷で降りた記憶が残っている。
                

このように私の小学生時代までの思いでは、走馬灯のように思い浮かび、
その後の地元の中学時代、そして都心にあこがれ始めた高校時代・・など限りなく、
思いでを秘めている。



やがて昭和64年(1989年)の1月7日の昭和天皇が崩御された当時の私は、

音楽業界のあるレコード会社に勤務して、情報畑で悪戦苦闘ながら奮闘していた多忙時であり、
もとより私にとっては『昭和の時代』は、あふれるように愛惜を重ねたりするが多い。
          

過ぎ去る年の昭和63年(1988)年の晩秋、会社に勤務して15年が過ぎ、
管理部門の情報畑で、4月より実施される『消費税』のシステム対応の開発に追われていた。
昭和天皇が病状が悪化し、社会は何かと自粛の空気につつまれていた・・。

そして昭和64年(1989年)の1月7日の朝、
私は昭和天皇が崩御された、とNHKのテレビのニュースで視聴し、
とうとう陛下様は亡くなわれてしまった、というのが率直な思いであった。

この後、私はいつものように会社に出勤した後、
フロアー別の朝礼の時、専務取締役のひと言で、私たち一同は皇居の方面に向かい、
黙祷をした・・。


その後の私は、4月から『消費税』の対応策で多忙な身である上、
更に『昭和』から新たな『平成』と制定されると、
コンピュータの和暦の表示を『請求書』に至るまで改定したので、慌しい日々を過ごしていた。

こうしたこともあり私の心情は、平成元年といわれるより、
昭和64年といった方が心身の波長が合うので、何かしら戸惑ったのは事実である。
         


もとより敗戦後の荒廃した日本は、
敗戦直後からの一部の裕福な家庭を除き、誰しも貧乏な時代を体験してきた世代である。


私より10歳以上の先代の諸兄諸姉の多くは、それぞれに奮戦し、

少なくとも世界の中でも、有数な経済大国の礎(いしずえ)を努力と英知で築かれた人々であり、
そして後続する私たちの世代、そして団塊の世代も奮闘してきた。

こうした結果として、確かに日本は、世界の主要国の中に於いても、
社会インフラ基本基盤として、電気、ガス、電話、上水道、下水道も殆ど整備され、
学校、病院、公営住宅もあり、鉄道・バス路線、そして道路、高速道路もあり、港湾、橋梁なども、
整備されている稀な国家でもある。

そして年金、医療、介護などの社会保障制度も、多少の難題がありながらも存続している。

私たちが過ごしてきた昭和の時代は、
日本の多くの人たちは、一生懸命に働けば、年収も毎年増え、

そして家族で明日に希望が持て、実感できた総中流社会であった。



こうした中でバブルが終息し、そして平成元年(1989年)11月10日からベルリン市民に寄る『ベルリンの壁崩壊』した後、
やがてソ連が崩壊し、世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済、やがて社会が一変し、
世界の経済が自由主義経済の一色となり、やがて日本は失われた15年で、
主要各国や躍進してきた中国などに国際競争力に敗退し、かっての高度成長の総中流社会の再現は、
見果てぬ夢となった。
          

やがて殆どの民間会社は、社員が一家を養(やしな)うだけの給与を支払う余裕もなく、
低下してきた・・。


そして私は確か15年前の頃、
働いて下さる現役世代の男性の民間会社に勤めている正社員の人たちが、

平成9年( 1997年〉の時点から、年収が横ばいと知り、無力な私は悲嘆した・・。

      
こうしたことは私たちの息子、娘の世代から観れば、
お父さんは会社で一生懸命に奮戦し働き、マンションか一軒家を買い求めたり、
もとより家計の責務があったりしていた。

そして『昭和妻』と称せられたお母さんは、専業主婦で家庭を守る中で、
子供ふたりは程ほどの自由な生活を満喫し、大学まで学び、

やがて子供は結婚して独立させてくれた典型的な中流社会は、大半は崩壊した・・。

その上、経済は低迷していると言われている現在さえも、
殆どの国民は飢えることなく飽食の時代となり、
医療の充実もあり、主要国の中でも最先端の長寿化の超高齢化社会の時代を迎えている。
          
          

こうしたことを思いつくまま昭和の時代を思い馳せたりし、

平成の時代になってから大きく変貌したことを綴ってきたが、
私は何より社会が劣化し、言葉、しぐさが雑になった、と憂いている。

はじらい、うつむく、待ちわびる・・死語に近く、
どうしてなの、と私はため息をすることが多いのである。

何よりも戸惑うのが、ジーンズの膝付近に、あえて穴を開けたり、
わざわざ磨耗したような生地にしたりすることである。

私は10代から30代の頃までは、ジーズンを愛用したひとりであるが、
新品を購入し、
数年過ぎれば、それなりの磨耗した状態となる。

もとよりジーズンは、普段着の長ズボンであり、
気軽な労働服のような思いながら穿(は)きつぶしてきたが、

決してファーション着ではないのである。
          


こうしたことを余り綴ると若き諸兄諸姉に嫌われるので、これ以上は記載しないが、

平成の時代に生まれ、現在は10代、成人となられた20代の世代の方たちに、
たとえば映画の小津安二郎・監督の『東京物語』(1953年=昭和28年)を観た時、
どのように感じるか、と齢を重ねた78歳の私は、限りなく関心がある・・。

コメント (4)
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