夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

シニア世代、記憶力の衰えもある中で、好奇心の衰えこそが大問題、79歳の私は学び、微笑み返し・・。

2024-05-27 16:06:32 | 喜寿の頃からの思い
 
「シニアにとって勉強の妨げになりうるのは、記憶力よりも好奇心の低下です」
こう話すのは、経済学者として日本経済を観測し続け、
大ベストセラー『「超」勉強法』をはじめ、独自の勉強法を編み出してきた経済学者の野口悠紀雄氏。

「人生100年時代の勉強法」を伝授した『83歳、いま何より勉強が楽しい』より一部抜粋、
再構成してお届けします。



☆好奇心があるから研究する

好奇心こそ、さまざまな知的作業の源泉です。
2021年のノーベル物理学賞受賞者の真鍋淑郎博士も、それを強調していました。
まったく賛成です。

私がとくに強調したいのは、好奇心があるから仕事をし、
そして仕事をするから、好奇心が生まれるということです。
一日中テレビを見ていては、好奇心は湧かないでしょう。

そして、書いたものを読んで貰って、評価されることほど、嬉しいことはありません。
私は、この中毒症状になっているのではないかと、最近思っています。
何を取り上げられてもよいから、書く仕事を取り上げないでほしいと、心の底から願っています。

好奇心は、勉強の最大の原動力です。
知識が増えると、好奇心が高まり、さらに勉強したくなります。

「知りたい」という欲求は、人間の本能です。
なぜなら、人間は力ではなく、知的能力によって、他のあらゆる動物よりも優れているからです。

ところで、人間は生まれたときから、食物連鎖の頂点に立てるわけではありません。
生まれたときの人間は、他の動物とは異なり、能力がほとんどありません。
肉体的能力も低く、知的能力も非常に低いのです。

そのまま一人で森の中に放置されれば、
他の動物の餌食になるか、または死亡します。

肉体的能力は、時間と共に向上しますが、
知的能力の多くは、学習によって得られます。
人間だけが勉強によって、進歩します。
このことから、勉強は人間を特別な存在にしている要因であることが分かります。


人間は、人生の多くを勉強に費やしています。
大学まで進学する場合を考えると、0歳から22歳までが学習期間、
22歳から64歳までが労働期間、そして65歳以降が引退後の期間となります。

人間は生涯の4分の1を学習に使っているのです。
大学院まで進むと、学習期間は3分の1にも延びます。
このような長い期間を学習に費やす生物は、人間の他にはいません。

好奇心があると知識が増えるというのは、当然です。
私は、この逆命題も真だと思っています。
つまり、知識が増えると、好奇心も強くなるのです。
興味のもとになるのが、知識なのです。

例えば、飛行機の窓から外の景色を眺めるとしましょう。
その風景が、どこの土地なのか知っていれば、
「あの町は、上から見るとこうなのか」と興味が湧きます。

一方、知らなければ、特に関心を払わず、記憶にも残らない。
人は興味があるから、勉強する気になりますが、
勉強して知識を得ると、それによって興味を掻き立てられて、さらにまた学びたくなるのです。



☆知識が蓄積されると好奇心が強まる

公園を歩いているとき、樹木の名前を知っていれば、
より注意深く観察するようになります。

鳥や昆虫の名前を知っていると、もっと詳しく観察したくなるのです。
そして、知識が深まるほど、好奇心も増します。
知識と好奇心は、互いに強化し合います。

これは、さまざまな場面で経験します。
夜空を眺めていても、星座を知っているか知らないかで、その感じ方は大きく異なります。
星座を知らずに漠然と眺めているだけでは、星空の美しさを感じることは難しいでしょう。

南半球を旅行したにもかかわらず、南十字星を見ていないという人は多いのです。
何という貴重な機会を無駄にしていることでしょう。
仕事で南アフリカやオーストラリアに何年も駐在していた人でさえ、南十字星を見たことがないと言います。

私にとって、それは信じられないことです。
南十字星のあたりの星空を双眼鏡で見ると、息を呑むほど美しいのです。
南十字星はオーストラリア南部まで行けば、一年中見ることができますが、日本からは見ることができません。


歴史の学習も同様です。
外国の町や日本の地方の町を訪れると、興味が湧き、その地の歴史を調べたくなります。
そして、歴史を知ることで、旅行がさらに楽しくなります。

アイルランドの歴史を知っていると、アメリカ映画の理解も深まります。
アメリカの映画業界には、アイリッシュ・アメリカンが多いからです。
『風と共に去りぬ』、『黒水仙』、『静かなる男』、『ミリオンダラー・ベイビー』などは、
アイルランドの歴史を知らなければ理解できないでしょう。

バレエも同じで、踊っているバレリーナが誰なのか知っているか否かで、
観る楽しさは大きく変わります。
数年前に制作されたDVDで、今では世界的なバレリーナが
グループの一員として踊っているのを見つけたりすると、非常に楽しいものです。



☆「無知であることのコスト」を痛感した私の経験

私自身、知識がないために、貴重なチャンスを有効に活用せず、
無駄にした経験もあります。
今でも後悔しているのは、タキシラ遺跡を訪れた時のことです。

パキスタンの首都イスラマバードで講演する機会があり、その際に訪れたのですが、
タキシラ遺跡が、ガンダーラ遺跡の一部であることを知らず、ただぼんやりと見てしまいました。

日本に帰った後で、これがガンダーラ遺跡だったことを知り、地団太を踏みました。
ガンダーラに行けることなど、もう二度とありえません。
ゲリラが出没する地域に、銃を持った護衛つきで、イスラマバードから一日かけて行ったのですから。

「豚に真珠」そのもの。「野口悠紀雄にガンダーラ遺跡」と自嘲したくなります。

絵画においても同様です。
フィレンツェのウフィツ美術館やパリのルーブル美術館には何度も訪れたのですが、
レオナルド・ダ・ヴィンチの作品については、
「受胎告知」と「モナリザ」にしか注意が向いていませんでした。

その結果、「東方三博士の来訪」、「岩窟の聖母」、「キリストの洗礼」などを見逃してしまったのです。
美術館を訪れた時には、これらがいかに偉大な作品であるかを知らなかったからです。
「ルーブルと言えばモナリザだけ」とは、恥ずかしい限りです。・・(略)・・》


注)記事の原文に、あえて改行など多くした。


・・》、
具体的な氏の体験してきた事例を解説され、私は学び、多々学びながら、微笑んでしまった・・。

今、私が住んでいる近くに生家があり、私は1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受けた。

こうした中、生家にある本は、農協の発刊する月刊誌の『家の光』ぐらい記憶にない。

やがて小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
居間にある書棚に本が並んでいたを見た時は、私は少年心でも、眩暈(めまい)を感じたりした。


                                   
こうした中で、私は1955年(昭和30年)の小学4年生の頃から、
独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
やがて都心の高校に入学した直後から、遅ればせながら授業は楽しく感じて、
読書の魅力にも取りつかれたりした。

こうした中、新潮文庫本、岩波文庫本を中核に読み、ときおり単行本を購読したのであるが、
創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。

こうした高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞し、
映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、付随しているシナリオを読んだりしていた。

こうした中で、脚本家の橋本忍さんの『切腹』を脚色された作品
(原作・滝口康彦、監督・小林正樹、1962年)を観て、圧倒的に感銘させられ、
やがて東京オリンピックが開催された大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。

                                                           

まもなく専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、数多くの作品を映画館で鑑賞しながら、シナリオの習作をした。

その後、養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、
映画で生活をするは大変だし、まして脚本で飯(めし)を食べていくは困難だょ、
同じ創作するなら、小説を書きなさい、このような意味合いのアドバイスを頂いたりした。

この当時の私は、中央公論社から確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいの文学全集を読んでいたが
その後に講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた全22巻の文学全集を精読したりした。
こうした中で、純文学の月刊誌の『新潮』、『文學界』、『群像』を愛読していた。

或いは中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりしていた。

やがて私は契約社員の警備員などをしながら、生活費の確保と空き時間を活用して、
文学青年のような真似事をして、この間、純文学の新人賞にめざして、習作していた。
                      
しかし大学時代の同期の多くは、大学を卒業して、社会人として羽ばたいて活躍を始めているらしく、
世の中をまぶしくも感じながら、劣等感を秘めて私の方からは連絡も避けていた。

そして私はこの世から取り残されている、と思いながら、
明日の見えない生活をしながら、苦悶したりしていた。

こうした中で確固たる根拠もなかったが、独創性はあると思いながら小説の習作したりし、
純文学の新人コンクールに応募したりしたが、当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、
こうしたことを三回ばかり繰り返し、もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

こうした時、私の実家で、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤された。

結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向を決意した。

             
                                              

そして何とか大手の企業に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
          
やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく音楽事業本部の大手レーベルのひとつが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられ、中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
この間に幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。

そして最後の5年半は、リストラ烈風が加速される中、あえなく出向となったり、
何とか2004年(平成16年)の秋に定年を迎えることができたので、
敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。

こうした中、出向先は遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。

 



そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受している。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

午前中の殆どは、平素の我が家の買物は、家内から依頼された品をスーパー、専門店で求め、
買物メール老ボーイとなっている。

この後、独りで自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などを歩いたりしている。
私は今住んでいる地域に、結婚前後の5年を除き74年ばかり住み、
戦後から今日まで急速に変貌してことに、心を寄せたりして愛惜感もある。

そしてイギリスの湖畔詩人と称されたワーズワースは、湖水地方の緩やかな谷と丘が連なる道、
或いは小さな町の田舎道を、何十キロでも平気で歩いたと伝えられているが、
私も少しばかり真似事をして、歩き廻ったりし、季節のうつろいを享受している。

こうした根底には、定年前の私は、現役のサラリーマン時代は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた・・。

こうした家内のささやかな時間を壊すのは、天敵と私は確信して、
定年後の年金生活を始めた時から、私はこのような午前中の生活を過ごしている。



帰宅後の午後の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

こうした中、家内は相変わらず料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
私はせめてと思いながら、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、
何かと愚図な私でも、素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

こうした生活は、小庭の手入れ、家内と共に都心に買物、冠婚葬祭、国内旅行などに出かけない限り、
大半はこのような日程で過ごして、年金生活を丸19年半が過ぎている。

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