私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝、居間にあるカレンダーを見て、『文化の日』と朱記されているのに微笑んだりした・・。
もとより『文化の日』は、戦前に於いては『明治節』と呼ばれ、
明治天皇の誕生日を寿(ことほ)ぎ、偲(しの)ぶ日とあったが、
敗戦後の1946(昭和21)年に、平和主義・国民主権・基本的人権を宣言した新憲法に基づき、
1948〈昭和23)年7月20日に『祝日法』が公布され、
自由と平和を愛し、文化をすすめる日として、『文化の日』となった。
私は限りなく美しい日本の四季折々の情景に信愛を重ねているひとりであり、
人々の営みの集積が文明であり、その一端に文化がある、と思い深めている。
そして山川草木の美しい日本の風土を秋の或る日、その人となりに思いめぐらせ感謝すれば良い、
と信愛じている。
☆本日、明照院を訪ねた時、観音堂の一角に掲げられていたので、自身の戒(いまし)めとして撮った☆
東京郊外の世田谷区と狛江市の隣接した調布市のはずれに住み、
付近には野川が流れ、霞嶺(かすみね)神社、明照院(みょうしょういん)があり、私の生家も近くにある。
私は結婚前後の5年を除き、この地を60数年ばかり過ごしているので、
心のふるさとの原景も我が家の周辺にある。
たまたま本日の午前中、淡き陽射しが射す中、
霞嶺(かすみね)神社、明照院を訪ねてみょう、と思い立ち、私は独りで自宅を出た・・。
私は1944(昭和19)年に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
この当時、祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに土蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
はずれに小さな稲荷を保有して、この地域の旧家は、このような情景が多かった・・。
そして、この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。
その後、私が1953(昭和28)年の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954(昭和29)年の5月に祖父も他界され、
我が家として大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。
そして1955〈昭和30〉年の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957〈昭和32〉年であるが、
この頃になると都心に勤める方のベットタウンとなり、新興の住宅街に大きく変貌した。
このように私の生家の地域は大きく時代と共に変貌し、
私も生家の近くに1978〈昭和53〉年の春に一軒屋を構えて住んできたが、
何かと幼年の小学3年生の頃まで、多くの思いがあったので、四季折々訪ねたりしてきた。
霞嶺(かすみね)神社の鳥居に入ると、
小高い丘が聳えるようになり、
陵山(みささぎやま)といわれる小高い丘となり、高い所には老樹に囲まれた霞嶺神社があり、
隣接した低い所には明照院があり、仲良くふたつに別れている。
霞嶺神社に関しては、農業の神、霞嶺大神を祀るかつての村社(武蔵国多摩郡的矢荘入間村)で、
社殿は高さ3.81m、周囲127mの墳陵(墓)の上に建っている、と亡き父の知人から、
私は教えられてきた。
そして左側には、それぞれの旧家が奉納した大稲荷神社があり、
周辺には推定樹齢が約500年、幹の周囲3.4mのクロマツの古木は、
幼児の頃から私は見つめたりしてきたが、松枯れにより枯死してしまい、
やむなく大きなクロマツの数本を私は眺めたりしてきた。
先ほどの本堂への石段を上がる前は、少し広い境内があり、
私の幼年期の頃は、秋のお祭りが開催され、
地方の劇団の招いて、旧家から借用した丸太を組み立てて即席舞台を作り、
田舎芝居が行われ、住民の多くが筵(むしろ)の上に座り鑑賞された。
お祭りは若い男性の青年団が運営し、年配者が後方支援となり、
大きな太鼓を載せた曳(ひ)き車を、30人前後の少年が曳(ひ)き、
青年団の人が進行と護衛をして、それぞれの地域を廻っていた・・。
私も小学生になると、この曳(ひ)き車を曳く一員となり、
そして旧家毎の門で停車し、青年団の雄姿が太鼓を叩き、この旧家の方から、私たち少年はミカンやお菓子を頂き、
そして上納金が青年団の方に手渡されていた。
今の境内の片隅には、社務所と称される集会所があり、隣接に宮司の家があるが、
霞嶺神社の基軸の情景は余り変わらない、と深く感じたりした
そして初詣、節分の時は豆まきをしたことも、思いを重ねたりした。
やがて私は小高い社殿を参拝した後、隣接した明照院に向った。
明照院は室町時代に開かれた天台宗の寺院であり、正面には提灯のさがる本堂のほか,
弁財天が祭られている観音堂,えんま堂そして整備された庭には地蔵尊・六地蔵巡拝供養塔などがある。
そして私は後年に、観音堂に祀ってある弁財天は、美人の神様、 と私は学んだりした。
私はこの明照院で、幼稚園がなかった当時で託児所となっていたので通ったりした。
或いは小学校の入学前、この境内で隅にスクリーンが張られ、夜のひとときを上映してくれた。
私は母に連れられ、近所の方達と共に立ちすくんで観た。
この当時の私の住む地域に於いては、娯楽が少なく、こうした映画を無料で観られるのは、
稀(まれ)であったので、盛会だったと記憶に残っている。
この映画は、『長崎の鐘』であり、私としては最初に観た作品なので、心の片隅に残っている。
そして小学生の夏休みには、この境内でラジオ体操が行われていた。
本堂の前のお賽銭箱の横にある階段にラジオを置き、付近の小学生と共に、
私も日参したりした。
このように何かとお世話になった明照院に別れを告げて、石段を下りた。
この路も幼年期から、馴染のある路で、遠い昔は素朴な路であった。
この後は塀、石垣などが整備されたりしてきたが、やはり私は幼年期に農家の児として育ったので、
やすらぎを感じ、愛惜の秘めている路のひとつである。
この後、自宅の近くに野川が流れ、この両岸に遊歩道があり、私は何かしら解放感を感じて、
上流に向かったり、ときには下流に向かったりし、
こよなく歩いているコースのひとつであり、本日は下流沿いとした。
この野川は川べりに小道があり、そして少し高い処の両岸には遊歩道があり、
私は少なくとも週に一度は、こよなく愛している遊歩道のひとつである。
そして今回、10数年前に小公園のあるマンションが、10数棟あるゆったりとした敷地のはずれを歩いたりした。
この後、このマンション群の中央の道の歩道を歩き、私は一枚を撮ったりした。
このマンションの情景が私は魅せられて、早や7年が過ぎている。
私は調布市の片隅で、雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
私たち夫婦は、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
しかしながら私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
家内に先立だれて、独りぼっちとなった時は、
やむなく自宅を処分して、小公園のあるマンションで独り住まいを思案している。
こうした状況の場合は、このマンション群の中で、こじんまりとした2LDKを買い求めて、
晩年期を過ごしたい、と思ったりしている所のひとつとなっている。
この後、私は再び遊歩道を歩き、対岸への橋を歩いたりした。
しばらく野川の遊歩道を歩いていると、
隣接した処に世田谷区立の『きたみふれあい広場』と称された小公園があり、
私鉄の小田急の車両基地などの階上にある小公園で、
小田急のご厚意で、世田谷区が管理されている区立の公園となっている。
そして私は、2週間ぶりかしら、と思いながら入園し、階段の途中で歩いてきた遊歩道を眺めたりした。
この野川の遊歩道の周辺は、緑豊かな恵まれた地帯であるが、
この周辺も家並みが密集している住宅街であるので、私はやすらぎを実感できる数少ない所となっている。
園内を歩けば、淡き陽射しの中を歩いたり、或いは緑陰の所を歩き廻ったりした。
私はこうした雑木の樹木に魅せられているが、
過ぎし日に家内と共に歩いていた時、あなたは農家の児だったから、
と私は言われ、確かに幼年期に農家の児として育てられたから、こうした情景にやすらぎを覚える、
と家内に応(こた)えたりした。
その後、園内を歩き、少し色づいた葉に見惚れたりし、いよいよ錦繍(きんしゅう)の到来かしら、
と私は微笑んだりした。
私の住む地域は、毎年11月3日の『文化の日』の頃から、
あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染めはじめ、
23日の『勤労感謝の日』の頃になると、周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染めら錦繍(きんしゅう)の情景となる。
やがて葉が舞い散る中で公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が彩(いろど)りを見せ、
そして周囲に黄色い絨毯を重なるようになるのが12月の『師走(しわす)』の初旬となっている。
こうした中なので、この時節は私は読書も中断して、付近を歩き廻ることが多いので、
錦繍(きんしゅう)の季節だよなぁ、と心の中で呟いたりした。
やがて園内の広場の中で、数多くの若きご夫婦が幼児、小学生の低学年と共に、やすらぎを得ている光景に、
私は人生の微笑みを頂だいたりした。
やがて園内を辞して、遊歩道を歩いたりした。
この後、私は遊歩道を下り立ち、川辺の小道に下り立ち、水面を長らく見たりした・・。
こうして水面を見つめたりすると、世の中の良いこと、悪いこと、
そして過ぎ去った私の人生のささやかな良きこと、悪しきことは、
水の流れと同じように流れ去り、忘却の彼方に消え去って行く、と脳裏から舞い降りてきた。
やがて私は帰路に向かいながら、漠然と思ったりしたことを思い浮かべ、苦笑したりした。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪strong>
にほんブログ村
今朝、居間にあるカレンダーを見て、『文化の日』と朱記されているのに微笑んだりした・・。
もとより『文化の日』は、戦前に於いては『明治節』と呼ばれ、
明治天皇の誕生日を寿(ことほ)ぎ、偲(しの)ぶ日とあったが、
敗戦後の1946(昭和21)年に、平和主義・国民主権・基本的人権を宣言した新憲法に基づき、
1948〈昭和23)年7月20日に『祝日法』が公布され、
自由と平和を愛し、文化をすすめる日として、『文化の日』となった。
私は限りなく美しい日本の四季折々の情景に信愛を重ねているひとりであり、
人々の営みの集積が文明であり、その一端に文化がある、と思い深めている。
そして山川草木の美しい日本の風土を秋の或る日、その人となりに思いめぐらせ感謝すれば良い、
と信愛じている。
☆本日、明照院を訪ねた時、観音堂の一角に掲げられていたので、自身の戒(いまし)めとして撮った☆
東京郊外の世田谷区と狛江市の隣接した調布市のはずれに住み、
付近には野川が流れ、霞嶺(かすみね)神社、明照院(みょうしょういん)があり、私の生家も近くにある。
私は結婚前後の5年を除き、この地を60数年ばかり過ごしているので、
心のふるさとの原景も我が家の周辺にある。
たまたま本日の午前中、淡き陽射しが射す中、
霞嶺(かすみね)神社、明照院を訪ねてみょう、と思い立ち、私は独りで自宅を出た・・。
私は1944(昭和19)年に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
この当時、祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに土蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
はずれに小さな稲荷を保有して、この地域の旧家は、このような情景が多かった・・。
そして、この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。
その後、私が1953(昭和28)年の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954(昭和29)年の5月に祖父も他界され、
我が家として大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。
そして1955〈昭和30〉年の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957〈昭和32〉年であるが、
この頃になると都心に勤める方のベットタウンとなり、新興の住宅街に大きく変貌した。
このように私の生家の地域は大きく時代と共に変貌し、
私も生家の近くに1978〈昭和53〉年の春に一軒屋を構えて住んできたが、
何かと幼年の小学3年生の頃まで、多くの思いがあったので、四季折々訪ねたりしてきた。
霞嶺(かすみね)神社の鳥居に入ると、
小高い丘が聳えるようになり、
陵山(みささぎやま)といわれる小高い丘となり、高い所には老樹に囲まれた霞嶺神社があり、
隣接した低い所には明照院があり、仲良くふたつに別れている。
霞嶺神社に関しては、農業の神、霞嶺大神を祀るかつての村社(武蔵国多摩郡的矢荘入間村)で、
社殿は高さ3.81m、周囲127mの墳陵(墓)の上に建っている、と亡き父の知人から、
私は教えられてきた。
そして左側には、それぞれの旧家が奉納した大稲荷神社があり、
周辺には推定樹齢が約500年、幹の周囲3.4mのクロマツの古木は、
幼児の頃から私は見つめたりしてきたが、松枯れにより枯死してしまい、
やむなく大きなクロマツの数本を私は眺めたりしてきた。
先ほどの本堂への石段を上がる前は、少し広い境内があり、
私の幼年期の頃は、秋のお祭りが開催され、
地方の劇団の招いて、旧家から借用した丸太を組み立てて即席舞台を作り、
田舎芝居が行われ、住民の多くが筵(むしろ)の上に座り鑑賞された。
お祭りは若い男性の青年団が運営し、年配者が後方支援となり、
大きな太鼓を載せた曳(ひ)き車を、30人前後の少年が曳(ひ)き、
青年団の人が進行と護衛をして、それぞれの地域を廻っていた・・。
私も小学生になると、この曳(ひ)き車を曳く一員となり、
そして旧家毎の門で停車し、青年団の雄姿が太鼓を叩き、この旧家の方から、私たち少年はミカンやお菓子を頂き、
そして上納金が青年団の方に手渡されていた。
今の境内の片隅には、社務所と称される集会所があり、隣接に宮司の家があるが、
霞嶺神社の基軸の情景は余り変わらない、と深く感じたりした
そして初詣、節分の時は豆まきをしたことも、思いを重ねたりした。
やがて私は小高い社殿を参拝した後、隣接した明照院に向った。
明照院は室町時代に開かれた天台宗の寺院であり、正面には提灯のさがる本堂のほか,
弁財天が祭られている観音堂,えんま堂そして整備された庭には地蔵尊・六地蔵巡拝供養塔などがある。
そして私は後年に、観音堂に祀ってある弁財天は、美人の神様、 と私は学んだりした。
私はこの明照院で、幼稚園がなかった当時で託児所となっていたので通ったりした。
或いは小学校の入学前、この境内で隅にスクリーンが張られ、夜のひとときを上映してくれた。
私は母に連れられ、近所の方達と共に立ちすくんで観た。
この当時の私の住む地域に於いては、娯楽が少なく、こうした映画を無料で観られるのは、
稀(まれ)であったので、盛会だったと記憶に残っている。
この映画は、『長崎の鐘』であり、私としては最初に観た作品なので、心の片隅に残っている。
そして小学生の夏休みには、この境内でラジオ体操が行われていた。
本堂の前のお賽銭箱の横にある階段にラジオを置き、付近の小学生と共に、
私も日参したりした。
このように何かとお世話になった明照院に別れを告げて、石段を下りた。
この路も幼年期から、馴染のある路で、遠い昔は素朴な路であった。
この後は塀、石垣などが整備されたりしてきたが、やはり私は幼年期に農家の児として育ったので、
やすらぎを感じ、愛惜の秘めている路のひとつである。
この後、自宅の近くに野川が流れ、この両岸に遊歩道があり、私は何かしら解放感を感じて、
上流に向かったり、ときには下流に向かったりし、
こよなく歩いているコースのひとつであり、本日は下流沿いとした。
この野川は川べりに小道があり、そして少し高い処の両岸には遊歩道があり、
私は少なくとも週に一度は、こよなく愛している遊歩道のひとつである。
そして今回、10数年前に小公園のあるマンションが、10数棟あるゆったりとした敷地のはずれを歩いたりした。
この後、このマンション群の中央の道の歩道を歩き、私は一枚を撮ったりした。
このマンションの情景が私は魅せられて、早や7年が過ぎている。
私は調布市の片隅で、雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
私たち夫婦は、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
しかしながら私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
家内に先立だれて、独りぼっちとなった時は、
やむなく自宅を処分して、小公園のあるマンションで独り住まいを思案している。
こうした状況の場合は、このマンション群の中で、こじんまりとした2LDKを買い求めて、
晩年期を過ごしたい、と思ったりしている所のひとつとなっている。
この後、私は再び遊歩道を歩き、対岸への橋を歩いたりした。
しばらく野川の遊歩道を歩いていると、
隣接した処に世田谷区立の『きたみふれあい広場』と称された小公園があり、
私鉄の小田急の車両基地などの階上にある小公園で、
小田急のご厚意で、世田谷区が管理されている区立の公園となっている。
そして私は、2週間ぶりかしら、と思いながら入園し、階段の途中で歩いてきた遊歩道を眺めたりした。
この野川の遊歩道の周辺は、緑豊かな恵まれた地帯であるが、
この周辺も家並みが密集している住宅街であるので、私はやすらぎを実感できる数少ない所となっている。
園内を歩けば、淡き陽射しの中を歩いたり、或いは緑陰の所を歩き廻ったりした。
私はこうした雑木の樹木に魅せられているが、
過ぎし日に家内と共に歩いていた時、あなたは農家の児だったから、
と私は言われ、確かに幼年期に農家の児として育てられたから、こうした情景にやすらぎを覚える、
と家内に応(こた)えたりした。
その後、園内を歩き、少し色づいた葉に見惚れたりし、いよいよ錦繍(きんしゅう)の到来かしら、
と私は微笑んだりした。
私の住む地域は、毎年11月3日の『文化の日』の頃から、
あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染めはじめ、
23日の『勤労感謝の日』の頃になると、周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染めら錦繍(きんしゅう)の情景となる。
やがて葉が舞い散る中で公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が彩(いろど)りを見せ、
そして周囲に黄色い絨毯を重なるようになるのが12月の『師走(しわす)』の初旬となっている。
こうした中なので、この時節は私は読書も中断して、付近を歩き廻ることが多いので、
錦繍(きんしゅう)の季節だよなぁ、と心の中で呟いたりした。
やがて園内の広場の中で、数多くの若きご夫婦が幼児、小学生の低学年と共に、やすらぎを得ている光景に、
私は人生の微笑みを頂だいたりした。
やがて園内を辞して、遊歩道を歩いたりした。
この後、私は遊歩道を下り立ち、川辺の小道に下り立ち、水面を長らく見たりした・・。
こうして水面を見つめたりすると、世の中の良いこと、悪いこと、
そして過ぎ去った私の人生のささやかな良きこと、悪しきことは、
水の流れと同じように流れ去り、忘却の彼方に消え去って行く、と脳裏から舞い降りてきた。
やがて私は帰路に向かいながら、漠然と思ったりしたことを思い浮かべ、苦笑したりした。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪strong>
にほんブログ村