夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

日本の海は、世界で第6位の広く管轄する海洋国家、と遅ればせながら学び・・。

2013-07-15 13:55:26 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
ともすれば曜日感覚が薄らいでいる私は、今朝もぼんやりとカレンダーを見て、『海の日』と朱記されていたので、
私は『海の日』かょ、と微苦笑したりした。

私は今年の早春のひととき、たまたまネットを検索していたら、
偶然に『図説・海洋国日本:世界の排他的経済水域』のサイトにめぐり逢え、
《・・日本は島国であるとともに、周辺海域の大きな海洋国家でもある。
  (略)
日本は人口規模では世界第10位であり、国土面積では、世界第61位である。
  (略)
ここでは、領海を含めた排他的経済水域の面積を掲げているが、
日本は、447万平方キロと国土面積38万平方キロの約12倍と大きく、世界第6位となっている。
日本は海洋国家としては大国であることが理解される。
  (略) 》
このようなことを遅ればせながら学び、
日本は世界で海を広く第6位の管轄する海洋国家、と教示された。
          
『海の日』の祭日の制定に関しても、定年退職後のまもない時に、
何かと信愛している『日本文化いろは事典』から学んだりしてきた。
《・・7月は祝日が無い月ですが、海をもっとも感じる季節です。
そのような理由から、海の仕事に従事している関係者の間で
「海の記念日」を祝日にしようという運動が起こりました。
現在7月の第3月曜日が「海の日」と制定されています・・》

このように明記されていたが、
《・・1996(平成8)年に「海洋国家として広く国民に海への理解と関心を求める日」として休日・・》
と解説されていた。

この後、私は燦燦の夏の陽射しを照らす庭のテラスに下り立ち、緑陰に身を寄せたりした・・。
そして、ぼんやりと私は、初めて海の潮の匂いを感じた時、
或いは幾たびか国内旅行で海を観たりして、果てしなく拡がる海に驚いたりしたこと、
思いを馳せたりした・・。
                    

私は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
そして地元の小学校に1951〈昭和26〉年の春に入学した当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

母屋の宅地のはずれに蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

確か小学3年生の頃、先生から『山彦海彦』の話を優しく教えて頂いた時、
少し戸惑ったのである・・。

幼年の私としては、山の幸で生活されている両親に育った『山彦』でもないし、
或いは海辺で生計をたてている両親の児の『海彦』にも属さないのである。

この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と先生たちは称していた。
この当時の私は、山辺も知らなかったし、海も観たことのない少年であった私は、
やむなく里の児の『里彦』だ、と秘かに心に決めたりした。


このような心情が私の心の奥底に今だあるが、
海の匂いを初めて感じたのは、映画の『二十四の瞳』であった・・。

確か1954(昭和29)年の秋、小学4年生だった私たち生徒は、
先生に引率され学年別に指定された日に電車に乗り、
京王線の布田駅の近くの映画館で『二十四の瞳』を観賞した・・。

後年になると、木下惠介・監督の『二十四の瞳』の名作と知るのであるが、
この当時の私は、映画のシーンの小豆島の海の情景、修学旅行に行く瀬戸内海の景観に、
呆然と観て、あれが海かょ、と衝撃をを受けたのである。

そして、ストーリーも完全に理解できない私は、数多くのシーンで涙を浮かべたりしていた。
この映画で何よりも心を震わせ、感極まって涙を流したのは、
敗戦後の恩師の大石先生の教員復職の祝賀会を成人した生徒が開き、
戦争で失明した磯吉が、一年生の時に先生と生徒12名の記念写真を指差しながら、
生徒全員の位置を示すシーンであり、
この時に廊下にたった成人した生徒の女性が『浜辺の歌』を唄うシーンであった。

この『浜辺の歌』は、圧倒的に海の匂いを感じ、
その後、私は国内旅行で海辺を観たり、海岸を散策したりすると、
心の底で、『浜辺の歌』を唄ったりすることが多いのである。
          
そして私が初めて海を観たのは、1956(昭和31)年の小学6年生の夏、
独りで小田急線に乗り、湘南海岸の江ノ島に行き、海岸、展望台から相模灘の海を観て、
田舎者の里彦の私は言葉もなく、果てしなく彼方までの海原を呆然としながら、長らく見つめたりした・・。


この後は50数年の中、幾たびか旅を重ねている中で、冬のオーホック海の厳冬の流氷、
日本海、太平洋の近海をフェリーなどで観たりしてきた。

過ぎし2010〈平成22〉年の2月下旬に、
小笠原諸島の『父島』でザトウクジラを観るこちを最優先課題として、
私たち夫婦は2月24日から3月7日まで船中泊往復路2泊、『父島』のホテル滞在9泊の旅路をした。
   

この後、陸地の新緑、紅葉、雪が舞い降る旅をいく度か重ねて、
そして今年の2月に、南海の情景も観たくなり、八重山諸島の中核の石垣島に9泊滞在しながら、
この周辺の地、海を観たりしてきた・・。
   


   
こうした八重山諸島の叙景を見たりした中、何かしらヨットで《サンセット・クルーズ》があると知り、
私たち夫婦は申し込みながら、観光の乗船客は6名前後かしら、と私は家内と談笑していた。

まもなく欧米人のような方で細身の長身の容姿の40代の男性が、
私たちの近くに来て、
『XXさんですか? 私が本日の《サンセット・クルーズ》担当するXXXXです』
と私に日本語で挨拶した。

私は観光ツアーの方は日本人の男性で船長のアシスタントの若き男性を想定していたので、
少し驚いたが、家内は全く予測していなかったので驚いた、と後で私に言ったりした。

そしてこの欧米人風の男性に導かれて、送迎車に乗り、やがてヨットが係留されている桟橋に行った。

やがてアシスタントもいなく、この欧米人風の男性がたった独りで操縦、案内人と知り、
私たちは最後部の椅子席に腰かけた。
               
私たちか何よりも驚いたのは、乗客の観光客は私たち二人だけで、
貸切船で贅沢この上もなく、と私は感じたりした。

      
そして桟橋を離れて、海上保安庁の巡視船(?)が視られると、
『何かとお忙しくて・・大変ですねぇ』
と操縦士兼案内人の欧米人風の男性は私たちに言ったりした。
   

この後、私たち夫婦は夕陽が海の彼方の沈む情景を観たりして、
   

ホテルに帰館した後、
確かに海上に於いての安全、救助などは、海上保安庁の諸兄諸姉で、
そして領海の保全は米軍に協力を仰ぎながらも、海上自衛隊の諸兄諸姉も、
果てしない努力と英知、そして責務で、私たち国民は守られている、と感謝したりした。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント (3)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 夢はもとより貧富に関係なく... | トップ | 『さるすべり 熱き日々の中... »
最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
初めまして (プー太の父)
2013-07-15 18:17:09
こんにちは~
海の日について深く考えたこともなかったので
興味深く拝見いたしました。

冬のオホーツクにも来ていたのですね
私は現在はオホーツクの網走に近い所に住んでいますが
生まれ育ちは稚内の方の近くのオホーツク海岸で
親はオホーツク海で漁師をしていました。

北風が吹いて海が大荒れになると流氷がやってきますが
その迫力ある様子がとてもドラマチックで
今も子供の頃の素晴らしい思い出になっています。
返信する
こちらこそ、初めまし~て・・。 (夢逢人)
2013-07-15 20:03:55
プー太の父さま。

私は貴兄のサイトに魅せられて、少なくとも半年以上読ませて頂き、
貴兄のご承諾も得ずに、私のサイトのブックマークに掲載させて頂だいている愛読者のひとりです。

>海の日について深く考えたこともなかったので
>興味深く拝見いたしました。

>冬のオホーツクにも来ていたのですね
>私は現在はオホーツクの網走に近い所に住んでいますが
>生まれ育ちは稚内の方の近くのオホーツク海岸で
>親はオホーツク海で漁師をしていました。

>北風が吹いて海が大荒れになると流氷がやってきますが
>その迫力ある様子がとてもドラマチックで
>今も子供の頃の素晴らしい思い出になっています。

私はオーホックの流氷、家内は札幌の雪祭りを目的として、
2001(平成13)年の2月に、前年に勤続30年の特別休暇が残っていましたので、
私たち夫婦は4泊5日で周遊し、冬の北海道を初めて訪れました。

私たちは厚手のフィールド・コートと軽登山靴で、
私の登山靴はマイナス15度、家内のマイナス30度に耐えられる登山靴で、
そして私の帽子は山岳用を愛用し、家内はマフラーを被れば大丈夫という容姿で、出かけました。

この時の旅はJALストリーズの旅行会社を利用し、
空港から宿泊地の観光ホテルなどの利便性のある観光バスを活用しました。

女満別空港に下り立った私たちは、この旅行会社の指定バスに乗り込み、
わかさぎ釣りなどされている網走湖の情景を観たりして、
網走の郊外の能取岬の途中にある海岸に接したホテルに2泊しました。

この海岸には数日前に流氷は接岸し、海辺には流氷の欠片が幾重にも見えたが、
流氷は遥か海上の沖に去っていた状態でした(笑)

やむなく夜のひととき、空を眺めたりしていると、
夜空に満天の星、そして月が煌々と光り帯て、
マイナス15度前後であったが、寒さより確固たるまぎれもない美に見惚(みと)れた。
私は、月冴(さ)えて・・かょ、と心の中で呟いたりしていました。

流氷の接岸を待ちわびたが、残念ながら遠のき、予約していたノロッコ号の列車で、
網走駅より斜里駅まで乗車し、私は海辺を観たりしたが、冬晴れの中、浪間は光り、蒼い海となり、
流氷はどこに行ったの、と苦笑を重ねたりしました。

終点の斜里駅で下車した後、私たちは路線バスを利用して、
知床半島のウトロまで、ひたすら流氷を求めて、向いました。
ウトロの数キロ前の峠道で、海上を流氷の一面となり、圧倒的な流氷の荘厳な光景が観られ、
終点のウトロのバス停で下車しました。

その後、私たちは海岸付近は積雪50センチ前後の中を歩き、
海上の流氷を眺めたりしました。

そして海岸付近と思われる雪の中を一時間ばかり歩き回り、一般道に出た時、
道路の補修をされている6人の方たちから、
なんて物好きの夫婦もいるなぁ、
という視線を私たち夫婦は受けたりしました。

私たち夫婦は厚手の冬ズボンはもとより、厚手のフィールド・コートまで雪をかぶり、
マイナス10度前後の中、更に微風の吹く寒さを増す中、
父親か母親の熊のように歩き廻っていたのだから、
地元の方たちから苦笑されるのも致しがたい、と私は納得したりしました。

この後は、網走駅から札幌駅まで日中のひととき、念願の特急列車で移動した後、
小樽の市内のホテルに宿泊し、雪祭りの前日に小樽を昼過ぎに別れを告げ、札幌に向かい、
そして網走の外れ、網走駅、斜里駅、小樽駅などの情景を観てきたせいか、
札幌駅、周辺の広大さには驚いた記憶がありました。

こうした北海道の初めての冬の旅に魅せられて、
その後に幾たびか道内の冬の旅を私たち夫婦は重ねている次第です。

こちらこそ、今後ともよろしくお願い致します。


返信する
すみません又お邪魔します (プー太の父)
2013-07-15 21:13:58
お返事ありがとうございました。
実は昨日、自分のブログのアクセスの跡をたどって行ったら
夢逢人さんのブログにたどり着いたのです。

そしてサイドに私のブログタイトルを発見して驚きました。
半年以上も前から訪問いただいていたとは・・・
何も知らず、本当にありがとうございました。

東京に住んでいる御夫婦が真冬の
オホーツクに来たこともまたすごく驚きました。

よく寒い中を海岸の付近を歩きまわりましたね
地元の人が驚いて好奇の目を向けるのも
無理がないと思うくらい、貴重な体験の旅
素晴らしい思い出になったことでしょう。

私はブログの記事更新も少なく
記事の内容も軽い記事が多いのですけど
またこれからもよろしくお付き合いお願いいたします。
ありがとうございました。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

定年後の思い」カテゴリの最新記事