峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

since 2005

ずれてる父親で在りたい

2007年05月16日 | 父親と子
こともあろうに17歳になる高校3年生の我が子によって生命を絶たれた母親は、明るくまじめで、はつらつとして、仕事もでき、後輩の手本になるような人だったと職場の上司も近所の人も口をそろえます。

子供については、小学生の頃は明るく素直で、勉強が出来、元気よく挨拶をする子だったと近所の人は語り、暗くて無口なタイプと高校の友人らは話します。
同様の事件での被害者・加害者である親と子について語られる印象とほとんど同じです。

それにつけても思い出すのが、もう、ずいぶん前になりますが、クドカンの愛称で呼ばれる脚本家で俳優の宮藤官九郎【くどうかんくろう】さんが、それが何だったかは忘れてしまいましたが、テレビのトーク番組で語った彼の父親の話です。
クドカンさんは、ちょっとずれている父親のおかげでぐれなかったと語っています。

彼の思春期の頃の思い出話なのですが、宮藤家では大晦日【おおみそか】の夜に「我が家の10大ニュース」をやっていたそうです。ところがお酒の入ったお父さん、途中から裸になって「ドスコイ、ドスコイ」
親戚の集まりのお開きでもやはり裸になって「ドスコイ、ドスコイ」

その姿を見てクドカンさんは、やっぱりぐれてもしょうがないと思ったといいます。

一般的に、どちらの親が「いい親」と言われるでしょうか。
「いい親」が子供を壊し、酔っ払って裸踊りをする親が、子供がぐれるのを思いとどまらせました。
「常識」というのは、これほどいい加減なものなのです。

厄介【やっかい】なのは、制度や仕組みを作り、それを実行する立派な立場の人に限って「常識」で凝り固まった人が多いという現実です。
したがって、今のままの「常識」で、立派な「常識」ある大人たちが寄ってたかり、相当の予算を当て制度や仕組みをいじっても、悪くなることはあってもよくなることはないでしょう。

そして、事件は繰り返し起きています。

今朝、地元の口石小学校へ図書館ボランティアの仲間と「読み語り」に行ってきました。きょうは1年生のみなさんが聞き手です。私は3組のみなさんに見て、聞いてもらいました。
最初に、みやにし たつや/作・絵「おっぱい」を読みました。この絵本の表紙の裏側には「有紀ちゃんとくるみちゃんへ」の宮西さんの直筆のサインが記してあります。宮西さんを佐々町へお招きした際にいただいたものです。歓迎会のあの夜、雷【かみなり】がすごかったのを思い出します。

おっと、横道にそれました。
で、最初のページ「おっぱい」と読んだだけで、子供たちウケてます。

ぞうさんのおっぱい、ねずみさんのおっぱい、ゴリラさんのおっぱい、ぶたさんのおっぱい、ときて「やわらかくて あったかい おかあさんの おっぱい」「ぼくが このまえまで のんでいた おっぱい」「おおきく、やさしく、つよく、げんきなこにしてくれた ぼくの だいすきな おっぱい」

最後は、みんな大ウケでした。
私たち人間の親子の関係は複雑になり過ぎました。ぞうさんや、ねずみさんや、ゴリラさんや、ぶたさん親子のように、私たち人間の親子関係も、もっとシンプルであるべきだと考えます。
コメント (6)
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