gooブログはじめました!

あなたに「ぬくもり」を届けたくてブログをつくっています

 岸辺のアルバム

2017-09-08 23:52:08 | 日記
 久しぶりに生地をみつけに横浜まで出かけた。駅ビルもデパートもきれいになっていた。やはりで横浜まで来るとほしいものがたくさんある。でも、生地はなかった。売り場が縮小されていた。なにか寂しい。最近は、忙しい女性が増えて、裁縫や編み物をしなくなったからだろうか。
 1977年に山田太一が書いたドラマ「岸辺のアルバム」がある。話題の多いドラマだった。家族の抱える問題を(当時ではタブー視されていた問題)次々に展開させた。ごく普通の家庭の主婦、良妻賢母役を八千草薫が演じていた。彼女だからこそ衝撃のドラマだったのだろう。八千草薫演じる主婦に見知らぬ男から電話がかかってきて、お茶を飲むようになり、デートを重ね、関係を持ってしまう。夫はいわゆる仕事中心のエリートサラリーマンだった。相手の男性を演じたのが竹脇無我で、低い声が魅力だった。彼も家庭があり小さい子供がいた。なぜ、この二人が関係をもつにまで至ったのだろうか。
 いまから40年も前のドラマである。これを今流行のダブル不倫と言うのか。異様なまでの「不倫」バッシングが続いている。そもそも「不倫」という言葉は好きではない。ドラマだから家庭全部が見える。週刊誌の報道は家庭が見えない。見えたところで、家庭のこと、こと夫婦のことは二人にしかわからない。人は間違うものなのだ。そんなに出来のいい生物ではない。己のおろかさを知ることは知らないよりはいいことだと思う。人のおろかさを許せるようになる。ただ、一ついえることは、おろかな行い(おろかといえるかどうかは?だが)をするなら「覚悟」をしなくてはならないということだ。そのことで「失うもの」があること、そして「傷つくこと」もあるということだ。それでも本当の「愛」を求め続けるとしたら、神は「多くを愛したものは、多くを許される」というのだろう。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恋せよ おとめ

2017-09-07 19:37:25 | 日記
 朝起きて窓を開けるとどんよりした空がある。どうも気分が晴れない。昨夜遅くまでパソコンの前にいたので、頭がぼんやり。母の通院も疲れた。

 月に1回の母の物忘れ外来の通院。記憶は5分くらいしか持たないが、大好きな先生の所への通院は前日に伝えておけば覚えている。家に着くと、しっかりお着替えをしている。この頃は季節違いのものを着なくなった。眉も描いて、薄くファンデーションもつけている。お昼を食べて3時過ぎに出かけるのに、もう完全にお出かけモードで待っている。

 診察と言ってもとくに何も無く血圧や脈を測って、母の話を聞くだけである。なんとも品のいい優しい話し方の先生で、母は緊張しながらもニコニコ。「少し太られましたか?」と母のぽんぽこお腹を見て体重を心配。前回と同じ。ぴったりしたシャツがまずかった。「ああ、お洋服のせいでしたね。でもいつもいいセンスですね」と先生。「あら、そんな・・・・」とはにかむ母。帰り道、今度は緩めの上着を着てこようと 母は恥ずかしそう・

 記憶力は落ちていても情緒や考え方はしっかりしている。その原動力は、小規模多機能サービスの家でとても大事にされていて、生きがいを持って過ごせること。そしてこの物忘れ外来のの先生のおかげ。「いいねぇ、やさしくて・・・」といつもうっとり。やはりわが母親。何処までも女を生きるようだ。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 御赤飯 なにがめでたい

2017-09-05 22:47:31 | 日記
 すじ雲が見えるきれいな空だった。明日からは天気が崩れるらしいので、洗濯やら忙しい。草サッカーの取材が始まる前に事務的な仕事をしておかなくてはならない。問題のホームページの更新がある。予算がないので外注には出せない。自分で出してもいいのだが、それをすると正しいNPOの運営が出来ないので自分で更新するしかない。わかっていたこととはいえ、厳しい。

 明日は母の通院の日。母の好きなお赤飯を炊いた。簡単に炊けるパックを買ってきてなのだが、なにかと用事が多い。夕方、お赤飯が炊き上がった。ホームページはやっと形式が理解できたころだった。「お赤飯、ホームページ何がめでたい」と言いながら、パソコンに向った。なんでお赤飯なんて今日炊いたのだろうとぶつぶつ独り言。

 今週のミサでは「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」が御言葉だった。自分の十字架とは、自分が神から自分が託されたもの だと言う。キリスト教でなくてもそのような話はある。何かの使命を持ってこの地上に降りてくるとか。私の背負ったものは何なのだろうか?昔、採った人生のスタンドは「愛ある人生を語ることで、人々に生きる勇気を与えていきます」だった。ホームページは「あい」を語る手段なのか。愛を語るなら、一人だけでいい と今日はホームページ疲れだ。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 秋 ひとり

2017-09-04 23:30:43 | 日記
 掛け布団を一枚増やした。明け方が冷えるようになった。虫も鳴き出して秋が来た感じだ。寝苦しい夜は、わけのわからない怖い夢を見た。やっと熟睡できる。お茶やコーヒーも美味しく感じられる。冷で飲むお酒も美味しそうだ。秋の味も届いた。桃、梨、葡萄、栗がいっぺんに届いた。みな、一人暮らしの女性からだ。頂くものはどうしても1箱単位でくる。女一人では到底食べきれない。そうなると、仲間にメールを送る。最後に食べきれないときはジャムなどになる。「ジャムを煮るなんてまめですね」と皆言われるそうだが、そうではない。ジャムにしないと腐らせてしまうからだ。

 60過ぎの一人暮らしの女たちは、墓の話が今中心だ。そろそろ墓仕度だ。樹木葬のような墓を購入している。私はやはり散骨にした。海でも湖でも可能ならそれでいいと思う。あとはちゃんと書類にするにはどしたらいいかなどそんな話になる。「やぁーね、昔はもう少し色気がある話もあったのに、お墓と白髪染めの話よ」と笑う。

 今日は午後からパソコンのことで人が来ていた。部屋もきれいになったところ、なにかコーヒーも美味しく入った。来週はセンターテーブルが届く。座って作業ができる。いろいろ出来そうでちょっとわくわくする。そんなとき、コーヒーを入れてくれる人がいれば、楽なのに。でも、『淋しさに一人飲むコーヒーは、ひきたてのほろ苦い味がする・・・』荒木一郎の君に捧げるほろ苦いブルースがいいんだなぁ。

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 秋空高く

2017-09-02 21:12:48 | 日記
 青空が高かった。風も爽やかで、ああ、秋が来たなぁ と思った。部屋もすっきりして気分がいい。いろいろなことがすっきしてくるのはうれしい。物事を観るのが単純化される気がする。

 W杯予選突破で 日本中が(サッカーファンがか)喜んだ。そうすると誰かが、ああだ こうだと言い出す。あの試合はよかった とどうして単純に喜べないのかと思う。なんでもいい面だけを観ていけば、自分自身が気分がいい。不満や不足を言う前に喜ばしいことを見つけられるようになった。そうなると回りも変わる気がする。

 認知症で5分前に電話したことも忘れて電話してくる母が言った。のんびりして、家のことをしたり、本を読んだり、音楽を聞いたり、お友達と出かけたりする時間ができたことに 「それはよかった。そういうときがきてよかったね。一人でなんでもやらなくちゃならなかったんだから、大変だったよね。もうのんびりするといいよ」と。そんな言葉を母から聞けるとは思わなかった。認知症で5分も記憶が持たなくても、親は親なのだと単純に喜んだ。のーてんきで、自分のことを優先に生きていた母と思ったいたが・・・・。

 高いきれいな空から幸せを運んでくれた鳥がいたのかな。きっとブルーの背広が似合う青い鳥だったのだろう。

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする