本日の説教で心に残った言葉。
聖書(特に使徒行伝)で問いかけられている質問は
「あなたの中心にあるものは何ですか?」ではなく
「私たちの中心にあるものは何ですか?」。
「私たちの中心」を常に問う聖書では
「ひとりで生きること」を前提としていない。
常に「あなたと私」だったり「あなたとあなたと私」だったり
ふたり以上の人たちが一緒に生きていくことを前提にしている。
人が一緒に生きていくことは難しいし
同じことを考えて、同じように生きることはまず無理だけれど
「同じもの」を中心に据えることはできる。
「同じこと」を目指して、生きていくことを考えるのが
聖書であり、キリスト教である。
という説教を聞いて、
一昨日に楽しんだスカパラのライブでの
谷中さんのメッセージをしみじみと思い出していました。
「肩を抱いて 逃げない自由」の歌詞に込められている
「誰かと肩を組んで、一緒に何かをすること」が
必要なのではないかという熱い想い。
そして、先週、読み終えた「司馬さんと清張さん」という本で
出会った司馬さんの言葉も思い出しました。
司馬さんは亡くなる直前、物質的繁栄をとげた後の
平成日本は「公」を失い、私欲に走り、救いがたいほど
悪くなっている、と嘆かれていたそうです。
そして、
「今ならまだ間に合うかもしれない。
みんなが知恵をしぼれば、一億の国民のうち、
80%、いや、90%が合意できることが見つかるのではないか。」
と問いかけられていたそうです。
ふと気がつくと、
この一週間に与えられた言葉の中に何度も
「ひとり」で生きるのではなく
「みんな」で生きること。
の大切さや必要性が盛り込まれていて、
なるほどなあ、としみじみとしてしまいました。
やはり今の私にもっとも必要な言葉が
「とき」を選んで与えられている気がします。
聖書(特に使徒行伝)で問いかけられている質問は
「あなたの中心にあるものは何ですか?」ではなく
「私たちの中心にあるものは何ですか?」。
「私たちの中心」を常に問う聖書では
「ひとりで生きること」を前提としていない。
常に「あなたと私」だったり「あなたとあなたと私」だったり
ふたり以上の人たちが一緒に生きていくことを前提にしている。
人が一緒に生きていくことは難しいし
同じことを考えて、同じように生きることはまず無理だけれど
「同じもの」を中心に据えることはできる。
「同じこと」を目指して、生きていくことを考えるのが
聖書であり、キリスト教である。
という説教を聞いて、
一昨日に楽しんだスカパラのライブでの
谷中さんのメッセージをしみじみと思い出していました。
「肩を抱いて 逃げない自由」の歌詞に込められている
「誰かと肩を組んで、一緒に何かをすること」が
必要なのではないかという熱い想い。
そして、先週、読み終えた「司馬さんと清張さん」という本で
出会った司馬さんの言葉も思い出しました。
司馬さんは亡くなる直前、物質的繁栄をとげた後の
平成日本は「公」を失い、私欲に走り、救いがたいほど
悪くなっている、と嘆かれていたそうです。
そして、
「今ならまだ間に合うかもしれない。
みんなが知恵をしぼれば、一億の国民のうち、
80%、いや、90%が合意できることが見つかるのではないか。」
と問いかけられていたそうです。
ふと気がつくと、
この一週間に与えられた言葉の中に何度も
「ひとり」で生きるのではなく
「みんな」で生きること。
の大切さや必要性が盛り込まれていて、
なるほどなあ、としみじみとしてしまいました。
やはり今の私にもっとも必要な言葉が
「とき」を選んで与えられている気がします。