■ランボー/1982年米国
■監督:テッド・コッチェフ
■出演者
シルヴェスター・スタローン、リチャード・クレンナ、ブライアン・デネヒー
■感想 ☆☆☆☆
アクション映画というものをほとんど見たことない私に、地元友達が勢い込んでそのジャンルでは「名作」と名高い作品を複数借りてきてくれました。見たことない私ですらタイトルは知っているような有名作ばかり。そして、見たことある人からすると、おそらく「なぜに今頃?」と首をかしげるに違いない昔の作品ばかりです。(しかし、私同様、アクション映画に疎い妹さんや母上はタイトルを伝えても「あ。聞いたことあるー。」という反応でした。この反応からも私がいかにアクション映画と縁なく育ったのかが分かるってもんです。)
というわけで、「アクション映画ね。おっきい音させてどんぱちしたり、人の生き死にに関わる場面が多かったりするんでしょ?覚悟して見ますよー。」ぐらいの心の準備で見た「ランボー」。「アクション映画見るよ。」ぐらいの心の準備じゃ全然足りませんでした。主人公、ランボーの抱える虚無感、孤独、痛みの大きさに胸が張り裂けそうになりながら見終えることになりました。ホント、生半可な気持ちで見る映画じゃなかった!もっと真剣に心の準備をする必要があった!思わず、見終わった後、地元友達に「最初にちゃんと言ってよ!」と八つ当たりしてしまいました。
戦友を訪ね、山間の田舎町にやってきたベトナム帰還兵ジョン・ランボーが、ようやく探し当てた友人の家族から息子の死を告げられるところから映画は始まります。とぼとぼと寒そうにさびしそうに来た道を引き返すランボー。そんな彼を巡回中の町の保安官ティーズルが見つけます。彼はランボーの貧相な格好や流れ者のような雰囲気を忌み嫌い、「この街から出ていけ」と高圧的な態度で告げますが、なぜか異様に反抗的なランボーはその勧告に応じず、結局、拘置所に連れて行かれることに。よそ者に対して閉鎖的、かつ居丈高な保安官たちから拘置所で拷問を受けた彼は、ベトナムでの出来事をフラッシュバックで思いだし、保安官を暴力で振り払います。そのまま山へ逃げ込んだランボーはいつしか保安官たちと戦うことに・・・というのが大まかなあらすじ。
ランボーひとりに対して町の保安官、ひいては州警察、と大がかりな組織が対抗に乗り出すものの、驚異的な体力、かつ鍛え抜かれた軍事センスの持ち主であるランボーの前に次々と犠牲者が出てなす術もない、という話です。
アクション映画の金字塔と言われているだけあって(言われている、と勝手に思っています。だって、私ですら知ってる作品だもの。)アクション場面は見事。びっくりするほど若いシルベスタ・スターローンが体を張って手に汗握るアクションを次々とこなします。
けれど、この映画が描いているのは派手なアクションで大活躍する無敵のヒーローではなく、あくまでも戦争で傷つき、未だに悲しみから立ち直れないベトナム帰還兵。ランボーが抱える孤独と哀しみ、ランボーだけでなく、ランボーと共に戦った仲間たちを含めた「彼ら」のやりきれない思いと境遇に静かに焦点を定めた映画でした。
国のため、と信じ、命をかけて戦ってきたランボー。それなのに、戦争に負け、戻ってきた彼を待っていたのは「あの戦争は間違っていた」という国民たちの声でした。戦争に貢献し、英雄として多くの勲章をもらったにもかかわらず、国に帰って来てみれば職もなく、命を呈して守ったはずの国民からは、ベトナム帰還兵と言うことでいわれなき差別を受けます。
国のため、と信じて戦った彼が守ってきたはずの国民から反発される寂しさ。英雄だったはずなのに、職もなく生活も安定しない不安と屈辱。最も辛かった時期を共に支え合った仲間たちを襲う化学兵器の影響による死。共にあの頃を思い出したり、今を嘆きあったりする相手もいない孤独。
何もかも失ったランボーに、町の保安官ディーズルが「町を守るため」と彼を追い出そうとするのが冒頭の場面です。守ってきた「国」の一部分である「町」の保安官から「町を守るため」と追い出される理不尽さ。
言われるままに戦ってきた末にすべてを失ったランボーだからこそ、権力の象徴のような保安官の理不尽な命令に反抗的になったんだろうな、と納得しました。
最も印象に残ったのは、山に立てこもったランボーがかつての上司トラウトマン大佐と無線越しに会話する場面でした。戦場で助け合い、信頼し合った父親のような上司からの呼びかけに迷った末に応じるランボー。おそらく彼はこの無線が逆探知されていることも分かっていたからこそ、迷った上で呼びかけに応じていて、その長い逡巡にトラウトマン大佐への信頼の大きさが伺えました。冒頭からほとんどセリフがなかったランボーはここでも言葉少なく、トラウトマン大佐の呼びかけに必要最低限の言葉で応じます。そんな彼が絞り出すように発した「みんな死んでしまった。」という報告に、彼の悲しみの大きさが伝わってきました。
映画ラスト間近、クライマックスでのランボーの独白場面も十分に胸迫るものがありましたが、私は声高に理不尽を訴えるこの場面よりも、暗い狭い山中の洞窟の中から言葉少なく語る彼の声と暗い画面の中、何度もクローズアップされる彼の伏し目がちの黒目のほうが彼の孤独と虚無感を強く伝えてくれていたように思いました。
ラストに向けてどんどん破壊行動を続けるランボーは、きっと未来を生きることも明日を迎えることも望んでいなかったのだと思います。望むどころか、きっと彼は明日が来ることを想像すらできなかったのだろうと思うのです。あまりに孤独が大きくて、彼には「今」しかなかったし、自分が抱えるやりきれない思いを、理不尽な現実に対する怒りを、今、吐き出さずにはいられなかった。そして、吐き出せば吐き出すほど、その怒りも虚無感も増幅してしまったんだろうな、と思いました。
私は歴史に疎い人間なので、ベトナム戦争がどうやって起こったのか、なぜ間違った戦争だったといわれているのか、どうやって終息したのか、アメリカがベトナムで何をしたのか、すべてをふんわりとしか知りません。でも、結局のところ、戦争に正しいも間違いもないんだな、ということを改めて強く思いました。正しい戦争なんて絶対にない。戦争に正義なんてない。どの戦争も哀しい結末しか生まない。そして、最も傷つき、痛むのは、ランボーのように何も知らず、行かされた人、国を信じて行動した人たちなんだろうな、と思いました。
■監督:テッド・コッチェフ
■出演者
シルヴェスター・スタローン、リチャード・クレンナ、ブライアン・デネヒー
■感想 ☆☆☆☆
アクション映画というものをほとんど見たことない私に、地元友達が勢い込んでそのジャンルでは「名作」と名高い作品を複数借りてきてくれました。見たことない私ですらタイトルは知っているような有名作ばかり。そして、見たことある人からすると、おそらく「なぜに今頃?」と首をかしげるに違いない昔の作品ばかりです。(しかし、私同様、アクション映画に疎い妹さんや母上はタイトルを伝えても「あ。聞いたことあるー。」という反応でした。この反応からも私がいかにアクション映画と縁なく育ったのかが分かるってもんです。)
というわけで、「アクション映画ね。おっきい音させてどんぱちしたり、人の生き死にに関わる場面が多かったりするんでしょ?覚悟して見ますよー。」ぐらいの心の準備で見た「ランボー」。「アクション映画見るよ。」ぐらいの心の準備じゃ全然足りませんでした。主人公、ランボーの抱える虚無感、孤独、痛みの大きさに胸が張り裂けそうになりながら見終えることになりました。ホント、生半可な気持ちで見る映画じゃなかった!もっと真剣に心の準備をする必要があった!思わず、見終わった後、地元友達に「最初にちゃんと言ってよ!」と八つ当たりしてしまいました。
戦友を訪ね、山間の田舎町にやってきたベトナム帰還兵ジョン・ランボーが、ようやく探し当てた友人の家族から息子の死を告げられるところから映画は始まります。とぼとぼと寒そうにさびしそうに来た道を引き返すランボー。そんな彼を巡回中の町の保安官ティーズルが見つけます。彼はランボーの貧相な格好や流れ者のような雰囲気を忌み嫌い、「この街から出ていけ」と高圧的な態度で告げますが、なぜか異様に反抗的なランボーはその勧告に応じず、結局、拘置所に連れて行かれることに。よそ者に対して閉鎖的、かつ居丈高な保安官たちから拘置所で拷問を受けた彼は、ベトナムでの出来事をフラッシュバックで思いだし、保安官を暴力で振り払います。そのまま山へ逃げ込んだランボーはいつしか保安官たちと戦うことに・・・というのが大まかなあらすじ。
ランボーひとりに対して町の保安官、ひいては州警察、と大がかりな組織が対抗に乗り出すものの、驚異的な体力、かつ鍛え抜かれた軍事センスの持ち主であるランボーの前に次々と犠牲者が出てなす術もない、という話です。
アクション映画の金字塔と言われているだけあって(言われている、と勝手に思っています。だって、私ですら知ってる作品だもの。)アクション場面は見事。びっくりするほど若いシルベスタ・スターローンが体を張って手に汗握るアクションを次々とこなします。
けれど、この映画が描いているのは派手なアクションで大活躍する無敵のヒーローではなく、あくまでも戦争で傷つき、未だに悲しみから立ち直れないベトナム帰還兵。ランボーが抱える孤独と哀しみ、ランボーだけでなく、ランボーと共に戦った仲間たちを含めた「彼ら」のやりきれない思いと境遇に静かに焦点を定めた映画でした。
国のため、と信じ、命をかけて戦ってきたランボー。それなのに、戦争に負け、戻ってきた彼を待っていたのは「あの戦争は間違っていた」という国民たちの声でした。戦争に貢献し、英雄として多くの勲章をもらったにもかかわらず、国に帰って来てみれば職もなく、命を呈して守ったはずの国民からは、ベトナム帰還兵と言うことでいわれなき差別を受けます。
国のため、と信じて戦った彼が守ってきたはずの国民から反発される寂しさ。英雄だったはずなのに、職もなく生活も安定しない不安と屈辱。最も辛かった時期を共に支え合った仲間たちを襲う化学兵器の影響による死。共にあの頃を思い出したり、今を嘆きあったりする相手もいない孤独。
何もかも失ったランボーに、町の保安官ディーズルが「町を守るため」と彼を追い出そうとするのが冒頭の場面です。守ってきた「国」の一部分である「町」の保安官から「町を守るため」と追い出される理不尽さ。
言われるままに戦ってきた末にすべてを失ったランボーだからこそ、権力の象徴のような保安官の理不尽な命令に反抗的になったんだろうな、と納得しました。
最も印象に残ったのは、山に立てこもったランボーがかつての上司トラウトマン大佐と無線越しに会話する場面でした。戦場で助け合い、信頼し合った父親のような上司からの呼びかけに迷った末に応じるランボー。おそらく彼はこの無線が逆探知されていることも分かっていたからこそ、迷った上で呼びかけに応じていて、その長い逡巡にトラウトマン大佐への信頼の大きさが伺えました。冒頭からほとんどセリフがなかったランボーはここでも言葉少なく、トラウトマン大佐の呼びかけに必要最低限の言葉で応じます。そんな彼が絞り出すように発した「みんな死んでしまった。」という報告に、彼の悲しみの大きさが伝わってきました。
映画ラスト間近、クライマックスでのランボーの独白場面も十分に胸迫るものがありましたが、私は声高に理不尽を訴えるこの場面よりも、暗い狭い山中の洞窟の中から言葉少なく語る彼の声と暗い画面の中、何度もクローズアップされる彼の伏し目がちの黒目のほうが彼の孤独と虚無感を強く伝えてくれていたように思いました。
ラストに向けてどんどん破壊行動を続けるランボーは、きっと未来を生きることも明日を迎えることも望んでいなかったのだと思います。望むどころか、きっと彼は明日が来ることを想像すらできなかったのだろうと思うのです。あまりに孤独が大きくて、彼には「今」しかなかったし、自分が抱えるやりきれない思いを、理不尽な現実に対する怒りを、今、吐き出さずにはいられなかった。そして、吐き出せば吐き出すほど、その怒りも虚無感も増幅してしまったんだろうな、と思いました。
私は歴史に疎い人間なので、ベトナム戦争がどうやって起こったのか、なぜ間違った戦争だったといわれているのか、どうやって終息したのか、アメリカがベトナムで何をしたのか、すべてをふんわりとしか知りません。でも、結局のところ、戦争に正しいも間違いもないんだな、ということを改めて強く思いました。正しい戦争なんて絶対にない。戦争に正義なんてない。どの戦争も哀しい結末しか生まない。そして、最も傷つき、痛むのは、ランボーのように何も知らず、行かされた人、国を信じて行動した人たちなんだろうな、と思いました。