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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

斎場山と妻女山を中心とした旧岩野村と旧清野村の字と小字名。「川中島の戦い」と「古代科野のクニ」(妻女山里山通信)

2024-05-28 | 歴史・地理・雑学
 斎場山(旧妻女山)と妻女山(旧赤坂山)を中心とした旧岩野村と旧清野村の字と小字名をまとめてみました。斎場山は川中島の戦いで上杉謙信が最初に本陣とした山頂で古墳(円墳)です。また古代科野のクニの遺跡です。かなりローカルでマニアックな内容ですが、「川中島の戦い」や「古代科野のクニ」を知る上では極めて重要なことなのです。

 長野電鉄河東線の記述があるので1922年(大正11年)以降の地図です。妻女山と招魂社は清野村に属することが分かります。次の地図では岩野に属する様に変わっています。陣場平は岩野ですが、これも清野に変わっています。岩野側の字名が妻女で、清野側の字名が妻女山。これも地名の混乱の元となっています。御陵願平(ごりょうがんだいら)は竜眼平(りゅうがんだいら)と記されていますがこれは御陵願平の陵願が竜眼に転訛した俗称です。また天城山(てしろやま)に倉科坂とありますが、反対側の倉科へ行く時に登る坂という意味です。地図中央やや左の堤防に川式(敷)という字名がありますが、これは旧千曲川の河道の跡で妻女山にぶつかっていました。高速でなくなりましたが、昔はそれを示すヒビ池(蛇池)という池がありました。御陵願平の南側の斜面に字名の記載がありませんが、土口村誌には字北山とあります。

 1986年(昭和61年)のゼンリンの地図。妻女山と招魂社は岩野側だと分かります。会津比売神社は合津と間違えています。斎場山は記載がありません。ということで私は斎場山の名前復活の活動を始めました。グーグル・マップにも記載されるよう申請して現在はあります。高速道路がまだ無いので、会津比売神社の横から東へ道が続いていました。現在は高速をくぐるトンネルがあります。岩野村の妻女のノケダンは野毛壇。崖と平らな壇という意味です。

 旧岩野村、清野村、西条村の字名と小字名です。〔〕内が小字名。明らかな間違いもあります。清野山の妻女山にチゲ窪とありますが、千ゲ窪が正しい。千ガ窪、千人ガ窪ともいいます。上杉軍が千人の兵を隠したという故事からの命名です。笹崎の御陵安平は御陵願平が正しい名称。転訛して龍眼平とか両眼平とか。長野市は中心部でも字や小字が残っていますが、使わないところは廃れてしまっているでしょう。畑の名前で残っている場合もあります。カタカナで書かれているものは、漢字が想像できるものもありますが、これはなんだろうと思わせるものも。地名には歴史が詰まっているので面白い。安直にディベロッパーが光ケ丘とか名付ける愚かさが分かります。

 明治13年の埴科郡誌から岩野村。岩野は昔、斎野であった。それは斎場山に由来すると記されています。それが上野(うわの)村となり、江戸時代に岩野村へ。岩など無く砂地なのになんとセンスのない命名かと。せめて本来の意味をとって祝野村とすれば良かったのに。妻女山といい松代藩にネーミングのセンスが無かったのが悔やまれます。土口村誌には、斎場山(さいじょうざん)について、「また作祭場山、古志作西條山誤、近俗作妻女山尤も非なり。」とあります妻女山(さいじょざん)では読みが違ってしまうためでしょう。

 岩野村の続き。斎場山について記しています。斎場山一帯が上杉謙信の陣営跡であるということも。物産の動物の繭は養蚕が盛んだったから。植物に米が無いのは砂地で水田が無かったから。サツマイモを大量に栽培していたことが分かります。ブドウも。我が家の祖先は酒造免許を持っていて、葡萄酒を作って売っていたそうです。

 清野村。土豪の清野氏は源氏村上の系統で、川中島の戦いでは親子で敵味方に分かれて一族の存続を図りました。清野氏の鞍骨城跡は山城マニアに人気の山で全国から訪れます。12月の積雪前か4月の芽吹き前に登ることをお勧めします。当ブログでも何度か紹介しています。豊臣秀吉の国替えにより、清野氏を含め善光寺平の土豪は家族家来を含め全員が会津へ行きました。海津城は、もともと清野氏の清野屋敷・禽(とり)の倉屋敷があったところです。
 『埴科郡誌』や『更科郡誌』などの明治の地方史誌は、もっと注目されていいものです。明治34年発刊の『信濃寶鑑』全3巻や、大正元年(1912年)から同3年(1914年)にかけて全5巻に別けて刊行し、新編信濃史料叢書」全25巻として再編され、昭和45年(1970年)から同54年(1979年)にかけて刊行された『信濃史料叢書』も後の『長野県史』につながるものであり重要です。また、松代藩の『真武内伝』や松本藩の『信府統記』、俳人の瀬下敬忠が宝暦3年(1753年)に完稿した信濃国の地誌『千曲之真砂』なども長野県の歴史を知る上で欠かせないものです。

 地形図において妻女山の名称が指す山が移動してしまったことが分かる地図2枚。左は昭和43年(1968年)発行のもの。妻女山は斎場山の場所を指しています。右は昭和58年(1983年)発行のもの。妻女山は現在の地形図と同じく旧赤坂山を指しています。この一件で赤坂山が妻女山となり、斎場山は名無しになってしまったのです。そこで、斎場山という本名を復活させるべく活動を始めました。長野郷土史研究会の会誌に「妻女山の真実」という小論文を載せてもらったり、ブログで何度も発信し、拙書にも斎場山を入れました。またグーグル・マップにも掲載を申請し記入されました。斎場山という名が徐々に知れ渡る様になり今に至ります。自然地名というのは重要な文化遺産なので大事にしなければならないのです。

「河中島合戰圖」小幡景憲彩色。武田の軍学書『甲陽軍鑑』の編者。斎場山南の陣場平に陣小屋が七棟建てられた図が描かれています。合戦後50年位(1610年頃:江戸時代初期)に描かれた絵ですから布陣の位置の正確な描写は無理としても、その内容はかなり正確かも知れません。小幡景憲の祖父虎盛と叔父光盛は、海津城で春日虎綱の副将を務めました。そういう経緯から景憲は『甲陽軍鑑』原本を入手しやすい立場にいたということでもあり、実際に合戦当時の話を聞いていたのではないかと思われます。数ある川中島合戦戦国絵図の中でも最も信憑性の高い一点だと思います。この絵図は、東北大学狩野文庫に所蔵されているもので掲載の許可を得ています。

「川中島謙信陳捕ノ圖」一鋪 寫本 榎田良長彩色。南が上です。妻女山という名は戦国時代にはありません。斎場山です(誤って西条山と)。妻女山は江戸幕府の命令で作られた正保4年(1647)年の「正保御国絵図」には妻女山と記されています。慶長9年(1604)の「慶長国絵図」では信州は現存しません。赤坂山の下に蛇池がありますが、千曲川旧流の跡です。戦国時代はここにぶつかって流れていたのです。そのため斎場山は天然の要害に囲まれていたというわけです。蛇池は、高速道路ができるまでありました。

妻女山の真実 ー妻女山は往古赤坂山であった。本当の妻女山は斎場山である。ー
岩野村の伊勢講と仏恩講(ぶっとんこう)。戌の満水と廃仏毀釈。明治政府の愚挙(妻女山里山通信)

真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その1(妻女山里山通信)
真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その2(妻女山里山通信)

NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

好評だったブログ記事:「ブラジルへの郷愁」レヴィ=ストロース 川田順造訳 みすず書房。文化人類学、また構造主義におけるバイブルのひとつ(妻女山里山通信)は、都合によりリンク先の楽天ブログに移転しました。

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2024年の新年会は吹雪の中を戸倉上山田温泉へ。國楽館戸倉ホテル、やきとり安兵衛、タイスナック響などなど(妻女山里山通信)

2024-01-14 | 歴史・地理・雑学
 2024年の新年会は大荒れの吹雪の中を運転して恒例の國楽館戸倉ホテルに集まりました。道路は結構混んでいました。スピードは30キロで車間距離はいつもの二倍。道路は凍結していてちょっとブレーキを強めに踏むとABSが効いてガガッと滑ります。スタッドレスも万能ではありません。地元の人ほど慎重な運転をします。溶けて翌朝凍結してブラックアイスバーンになったらスタッドレスでも酷くスリップしコントロールを失います。

 全員が揃ってまず持ち寄った日本酒や焼酎、ワインなどをでメンバー自家製の野沢菜漬けや大根漬けなどで一献。高校の同級生のホテルなのでこういうワガママもできるのです。ではぼちぼち出かけようかと。今年は夕食をキャンセルしてやきとり安兵衛に向かいます。幸い雪は止みました。

 戸倉ホテルのロビー。古いというかもうボロボロです。ただ造作はしっかりしていて天井の細工などは見事なものです。各部屋の組子指物なども今ならうん十万円するかなというものもあります。何気なく飾ってある書や絵画、流木の置物なども要チェック。ホテルというよりどう見てもボロ旅館ですけが、ボロっていうのには理由があります。最後に出てきます。このレトロ感が若い人に受けていて、この日も若い人が二グループほど宿泊していました。我々も数年前に知ったのですが、右の階段の裏には地下室へ行く階段があり卓球台があります。

 スナックやクラブが並ぶ新世界通りへ。80店ほどあるそうですがどうでしょう。ずいぶん閉店した店もある様ですが。知り合いのスナックをやっていたタイの夫婦は帰国した様ですし。一般の客が旅館やホテルから出てくるのは8〜9時ぐらいですね。射的も開店します。

 雪道を繁華街の外れに向かって歩きます。知る人ぞ知るやきとり安兵衛。2年ぐらい前にタイやフィリピン、日本人のお姉さん達を集めて私が幹事をしてして飲み会を開いたことがあります。

 枝豆のお通しにこれはアワビの肝。そして焼き鳥6種類を頼みました。ここの焼鳥は本当に美味しい。鶏肉がまず美味しいのです。

 砂肝に梅しそ巻きですかしら。基本塩なんですが別に壺に入っったタレがでてきます。これがまた美味しい。

 トマト巻き。他に海老の塩焼き、あん肝酢など色々頼みました。瓶ビール大瓶を三本飲んだ後で、二階堂の焼酎の一升瓶を頼みお湯割りでいただきました。店内はこんな感じ。我々は小上がりの座敷で。以前は座卓だったのですがテーブル席に改修されていました。こちらの方が腰が痛くならなくていいですね。

 ご主人と女将さん。他に若旦那と奥さんがいます。家庭的で暖かい居酒屋です。地元の人がほとんどですが、観光客も調べて評判を知って来る様です。おいおい何してるのよ。黒板に書かれたメニューです。安くて何を食べても美味です。

 9時で閉店なので、次にタイのスナックへ。知り合いのタイの女性がやっているスナックは休みでした。そこで客引きのおばさんに進められて響というスナックへ。戸倉上山田温泉のタイのスナックのシステムは、1時間で、まずハイボールなど飲み放題で3000円。女性が飲むドリンクが1000円。カラオケが1000円で3曲歌えます。というわけで一人5000円でした。明朗会計です。日本人のホステスがいるスナックは行ったことがないので分かりません。ディープナイトライフは自分で調べてください。

 さて帰ります。この三人は飲み足りないのか落語家がやっている居酒屋へ。Vサインを出しているK君のYou Tube「小山少年」で盛り上がったとか。先にラーメンを食べて帰ると行った二人を追って私も帰りました。で、また飲み直し。

 翌朝はピーカン。まず朝風呂にゆるゆると入りました。冬なのでやや温めでしたが泉質は美人の湯といわれる様に最高です。日帰り入浴も500円でできます。温泉のパイプの上を猫?いや違いますね足跡が大きい、タヌキかハクビシンでしょう。山に近いのでいても不思議はありません。
 実は昨年からここだけでなく近隣の温泉でも湯量の激減が問題になっています。昨年の少雨による渇水が原因といわれています。梅雨の豪雨も台風での洪水もなく千曲川の水位はいまだかつて無いほどに低いのです。温泉も地下水ですからそのために減少しているのかも知れません。暖冬で雪も少ないし。2022年1月のトンガの海底火山の大噴火で大気中の水蒸気の10%が放出されたことで、世界中で大洪水や大旱魃、暖冬や厳寒が起きています。その水蒸気が海に帰るまで世界中で異常気象は続くと世界的に高名な気象学者は言っています。

 旅館の中はあちこちに昭和レトロが見られます。昔は動いていたジュークボックス。「いとしのエリー」「ダンシング・オールナイト」「ダンスはうまく踊れない」「真夜中のドア」「北酒場」とか懐かしい名曲の数々。そういえばスナックでも80年代ポップスを仲間が歌っていました。今世界的に人気があります。
                   石川セリ SERI ISHIKAWA ダンスはうまく踊れない 「 八月の濡れた砂」も名曲。



 2018年にテレビ東京で「日本ボロ宿紀行」というドラマのロケがありました。もう公式にボロ宿認定されたわけです。ポスター。ここに書かれたスナックは皆ママやホステスが日本人のスナックです。若い女性も気軽に飲めるお店です。戸倉上山田温泉は歴史が浅く、湯治場ではなく公務員や会社員の遊興温泉として栄えてきたので隆盛期には芸者が400人もいました。ストリップ劇場も二軒ありました。現在は家族やグループ向けに転換してすっかり様変わりしています。
 インバウンド需要も掘り起こしたいところでしょうけどスキー場などのアクティビティが無いんですね。千曲川でカヤックツーリングとか堤防道路を整備して塩田平へ歴史サイクリングとか、姨捨や五里ヶ峯などの里山を活かして拙書で紹介のトレッキングやトレランもありだと思うのですが、官民協力して相当頑張らないといけませんね。
ドラマ25 「日本ボロ宿紀行」テレビ東京 :売れない歌手とマネージャーの旅。出演:深川麻衣、高橋和也
●テレ東のドラマを忠実にたどったルポです。
【ボロ宿】長野県千曲市『戸倉ホテル』に泊まる。ジュークボックスがあるレトロな宿。【日本ボロ宿紀行】【前編】
【ボロ宿】長野県千曲市『戸倉ホテル』に泊まる。ほろよい銀座で呑んだ後に露天風呂で一息つける宿。【日本ボロ宿紀行】【後編】

 戸倉ホテルの入口には立派な木彫りが。鬼瓦もなかなか凝ったものです。近くには大隅流の見事な宮彫りのある神社もありますがこれの彫師の名は不明です。

 斜向かいにある笹屋ホテル。戸倉上山田温泉の始祖の由緒あるホテルです。うん十年前にここで披露宴をしました。料理は陳建民の愛弟子が作る中華料理で、出席した友人たちも絶賛していました。別棟の「豊年虫」は登録有形文化財。後ろは八王子山。ここからロングコースで冠着山(姨捨山)への登山コースがあり拙書で紹介しています。春のカタクリの季節がお勧めです。旅館に一泊して山登りもいいものです。

 お土産に辰年のタオルと六文銭まんぢうを頂いて帰ります。車がガチガチに凍っていたので暖機運転をする間に裏手の堤防へ。千曲川と、これも拙書で載せている五里ヶ峯。展望の素晴らしい里山です。
 当地は、映画「ペルセポネーの泪」のロケ地にもなりました。主演は渡辺秀・剛力彩芽。下のリンクはその記事です。
信州の千曲市が舞台の映画『ペルセポネーの泪』を観に行きました(妻女山里山通信)

 帰りに千曲川の堤防上から戸隠連峰と飯縄山。それにしてもなんという美しい青空でしょう。

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本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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妻女山の真実 ー妻女山は往古赤坂山であった。本当の妻女山は斎場山である。ー

2023-12-15 | 歴史・地理・雑学
■この記事は、2008年の長野郷土史研究会会誌『長野』第259号に掲載された私の小論文です。
 斎場山が妻女山と改名され、後に別の山に移ってしまうという数奇な運命に翻弄された歴史ある里山の話。
 川中島の戦いや古代科野のクニに興味がある方はぜひご一読を。



はじめに
 妻女山は、第四次川中島合戦で有名になった山であるが、麓の岩野や土口では、古来より本当の妻女山というものが言い伝えられており、往古は斎場山といった。しかし、現在その山は、国土地理院の地形図において測量もされず名無しという誠に憂うべき状況にある。地元では、そのことに長い間危惧の念を抱いてきた。
 本来の妻女山が誤解された理由については、大きく四つある。ひとつ目は、軍学書であるが故に誤記も多いとされる『甲陽軍鑑』に、妻女山を西條山と記され、それが広まってしまったこと。この書には、「年号万次第不同みだり候へども、それを許し給いて」とか「人の雑談にて書記候へば、定て相違なる事ばかり多きは必定なれども」とか断り書きがあるように口述筆記のためか誤記が多い。二つ目は、江戸時代中期後半の歌舞伎や浮世絵による川中島ブームで、本来の斎場山という名称が、妻女山という俗名に置き換えられてしまったこと。三つ目は、明治2年に戊辰戦争の英霊を祀るために建立された赤坂山の招魂社が、「妻女山松代招魂社」と命名され、妻女山の名称が、本来の山から赤坂山に移ってしまったこと。四つ目は、昭和47年の国土地理院の地形図改訂の折に赤坂山の位置を妻女山と記載され、それが全国的に定着してしまったということ。
 ここでは、妻女山の位置と名称の変遷を、史料や地元の伝承等を元に解き明かしてみたい。
 
一 妻女山は、往古斎場山であった
 まず、史料や地元の村誌に記されている妻女山について記したい。
 現在、国土地理院の地形図に記載されている標高411メートルの妻女山は、本来は赤坂山といい、本当の妻女山の支尾根にある頂である。本当の妻女山は、それより20分ほど南西に登った、標高513メートルの円墳(斎場山古墳)のある頂である。地名は天上といい、西の支尾根に標高437.7メートルの薬師山(笹崎山)をもち、頂上から東西に伸びる尾根を含めて斎場(妻女)山脈という。妻女山は、往古斎場山といい、祭場山となり、妻女山となる。
 妻女山の位置と名称については、諸説あるわけではない。江戸時代以前まで妻女山とよばれていた本来の妻女山(本名は斎場山、妻女山は俗名)513メートルと、江戸時代初期以前は、赤坂山、または単に赤坂と呼ばれ、明治2年松代招魂社建立後から妻女山と呼ばれるようになった現妻女山、411メートルがあるだけである。それ以外に地元で妻女山と呼ばれた山は存在しない。
『信濃宝鑑』中巻によると、「【妻女山】まことは斎場山なるべし、上古県主及び郡司(或は田村将軍東夷征伐の際とも云ふ)などの天神地祗を祭れる壇上の意ならん。今岩野・清野・土ロの三村に跨りて峠立せり、即ち、岩野は、斎野(いはひの)・清野は須賀野にて清く須賀須賀しき野の意なるべし、然して土ロは祭壇への登りロの意ならん。現今、古墳やうのもの多きは、皆祭壇にてこれ穿てば祭器古鏃を出だすを以ても上古の斎場たる事知る可きなり、後永禄年中甲越合戦の際上杉謙信の陣を張れる処たり。」とある。
 また、『信濃史料叢書』第四巻 眞武内傳附録(一)川中島合戦謙信妻女山備立覺においては、「上杉謙信は村上が頼に依て、武田家と鋒を争う事数度、斯て永禄四年八月十六日、上杉が軍中山八宿を越え、海津城西妻女山へ人数を引揚げ備を立て、武田家の変易を待つ、其備立記、一、赤坂の上、甘粕近江守陣場也。一、伊勢宮の上、柿崎和泉守陣場也。一、月夜平、謙信が従臣多く是に陣す。一、千ヶ窪の上の方、柴田道壽軒が陣也。一、笹崎の上薬師の宮、謙信本陣也。此下東風越と云う所あり、其下北にをりて十四五間行て水あり。」とある。赤坂の上とは、現妻女山のことであり、伊勢宮とは岩野字西幅下に伊勢宮があったと祖母の伝聞あり。月夜平とは、清野の会田集落の上の字名。千ヶ窪の上の方とは、清野小学校の南の奥まった所の上ということで、地元で陣場平と称する標高520メートルの高原を指す。笹崎の上とは、薬師山から斎場山までの長尾根をいいう。東風越とは、岩野と土口の間にある斎場山東の峠のこと。北に下りると謙信槍尻之泉がある。
 備立覺の続きには、「甲陽軍鑑に妻女山を西條山と書すは誤也、山も異也。」と記されているが、その前記には、「同九月九日の夜、信玄公の先鋒潜に西條山の西山陰に陣す。」とある。西條山とは狼煙山のことであり、西條山が本来の名称で、狼煙山は信玄由来の俗名であろう。甲陽軍鑑の誤記は、ひとつの推理を生む。それは、戦国当時「さいじょざん」ではなく「さいじょうざん」と呼んでいたのではないかということだ。「さいじょ」ならば、西條という文字は浮かばない。然るに、妻女山は近世の創作による呼び名であろうと推測できるのである。
『長野県町村誌』第二巻東信篇の【岩野】では、「本村古時磯部郷(和名抄にあり)に属す。里俗傳に斎野村たり(斎場山は本村起源の地ならんか)延徳の頃(1489~1491)上野村と名す。寛文六年(1666)岩野村と改称す。附言、里俗傳に、往古斎場山に會津比賣神社あり。土地創々神にして土人の古書にも當郷に深き由縁ある神にて、貞観中(859~877)埴科大領、外従五位下金刺貞長の領地たり。蓋其際官祭の社にして、郡中一般祭典を施行せしものか、今に至り斎場山の麓に斎場原と称する地あり。此地字を以て村名を斎野村と称せしなるべし。」とある。
 また、妻女山については、「山【妻女山】高及び周囲未だ実測を経ず。村の南の方にあり。嶺上より界し、東は清野村に属し、西南は土口村に属し、北は本村に属す。山脈、南は西條山に連り、西は生萱村の山に接す。樹木鬱蒼。登路一條、村の南の方山浦より登る。高二十一町、険路なり。渓水一條、中間より発す。細流にして本村に至りて湧く。」とある。「樹木鬱蒼。登路一條、村の南の方山浦より登る。高二十一町、険路なり。」とは、外部の人には、まずどこか分からない記述であるが、これは岩野駅南の山裏(山浦)から前坂を登って韮崎からの尾根に乗り、斎場山(妻女山)へ登る急な山道のことである。養蚕が盛んな時代は、数十キロの肥料を背負ってこの道を登ったという。現在はほとんど登る人はいないが、この記述により妻女山は斎場山であったということが分かる。西南は土口という記述からも明白である。「渓水一條」とは、もちろん上杉謙信槍尻の泉のことである。
 また、「古跡【斎場山】本村の南より東に連り、祭祀壇凡四十九箇あり。故に里俗傳に、此地は古昔国造の始より続き、埴科郡領の斎場斎壇を設けて、郡中一般袷祭したる所にして、旧蹟多く遺る所の地なり、確乎たらず。」とあり、(注=斎場山から御陵願平、土口将軍塚古墳にかけての記述)古跡の続きでは、「【上杉謙信陣営跡】 本村南斎場山に属す。永禄四年(1561年9月此処に陣すること数日、海津陣営の炊烟を観、敵軍の機を察し、夜中千曲川を渡り、翌日大に川中島に戦うこと、世の知る所なり。山の中央南部に高原あり、陣場平と称す。此西北の隅を本陣となし、謙信床几場と云あり、今誤って荘厳塚と云う。」とある。(注=陣場平から斎場山にかけての記述・南より東に連なりとは、字妻女・妻女山のこと。)
 以後町誌市誌県誌のほとんどは、この報告を元に記されているようだ。[山]妻女山と[古跡]斎場山と記載があるが、同じ山頂のことである。妻女山が赤坂山のことであれば、土口とは境を接しない。[古跡]上杉謙信陣営跡も同じ山頂であり、床几塚のことである。謙信台ともいう。斎場山の地名は、天上であり、地元では御天上という。謙信陣営跡の記載で「本村南斎場山に属す。」とあるが、「本村、南斎場山に属す。」ではない。「本村南、斎場山に属す。」である。南斎場山などという地名はない。また、「誤って荘厳塚という。」とあるが、荘厳塚は正しくは土口将軍塚古墳のことである。「山の中央南部に高原あり、陣場平と称す。」という記述により、斎場山を起点として南に陣場平があるということが分かる。「西北の隅」は、もちろん斎場山である。
 本来の妻女山については、小林計一郎先生の『川中島の戦』甲信越戦国史の記載を外すわけにはいかない。「妻女山(松代町長野電鉄又はバス岩野下車)松代と屋代との間、長野電鉄岩野駅の南にそぴえる山である。山上に古墳があり、また旗塚と称せられる小円墳がたくさんある。永禄四年謙信が本陣をすえた所であるという。妻女山の支山赤坂山には招魂社があり、ふつうこの赤坂山を妻女山と言っているが、本当の妻女山は地図に見えるとおり赤坂山より高い山であり、赤坂山と笹崎山はその支山である。」と記されておられる。同書116頁の「川中島の戦のようす<五 永禄四年の激戦>妻女山・海津城の対陣」の写真に「海津城から見た妻女山(○印)」とあるが、○印は、本来の妻女山(斎場山)の上にある。但し、この海津城から見た妻女山が、大正元年陸軍参謀本部陸地測量部測量の五万分の一「長野」の誤記載を生んだのではとも考えている。海津城から見ると、妻女山は天城山(てしろやま)から現妻女山(赤坂山)への尾根上にあるように見える。しかし、実際は尾根の向こうの東風越を挟んで400メートルほど西にあるのである。この見え方が、大正時代の地形図にあるはずもない546メートルの山頂を誤って作らせたのではと考えている。実際は、その場所にはピークは昔も今も存在しない。しかも、546は、単なる標高点であり山頂の印ではない。昭和35年の改訂版では、山頂の閉じた等高線は誤記載のままだが、標高点の記載は無くなっている。現地系図では、その山さえない。
 現妻女山については、『真田史料集』に、「松代招魂社を祀る 長野県信濃国埴科郡清野村字妻女山鎮座 官祭 松代招魂社『明治2年己巳4月17日藩戦死者の英魂を妻女山頭に鎮祭して松代招魂社と称す』」とある。妻女山頭であり、字妻女山なのである。頭(かしら)とは山頂ではなく、山頂に至る尾根の出っ張った所をいう。招魂社の裏を境に、清野側を字妻女山、岩野側を字妻女という。本来の妻女山は、字妻女にあり、清野側の字妻女山にはない。招魂社の場所の地名は、赤坂山である。ところが、妻女という地名は、岩野の山裏や清野の字妻女山にもある。実にややこしく、地元でも全てを把握している人は、地権者を除けばほとんどいないであろう。地元の人も現妻女山を赤坂山とは呼ばずに、妻女山と呼んで久しい。それは、字妻女山をもって妻女山と呼んでいるのである。本来の妻女山は、子供の頃より「本当の妻女山」という呼び方で上級生や親から教えられてきた。


 
二 斎場山について
 大きな誤解の元は、江戸時代から現代まで、戦国時代の妻女山にばかり興味のスポットライトが当てられてしまった事である。
 斎場山は、古代科野国造(しなののくにのみやつこ)がお祀りしたところといわれており、歴史的に重要なところといわれる。その科野国造が、崇神天皇の代に、大和朝廷より科野国の国造に任命された、神武天皇の皇子・神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の後裔の建五百建命(タケイオタツノミコト)であるといわれている。国府が小県に移る以前には、屋代、或いは雨宮辺りにあったという説もある。
 昭和四年発刊の松代町史には、森将軍塚古墳が建五百建命の墳墓であるという説が記されている。妻女山の麓にある會津比売神社の祭神・會津比売は、建五百建命の后であるという。よって信濃国造がお祀りした斎場山の麓(往古は山上にあったという)に神社を建立したといわれている。
 建五百建命には二人の息子がいたといわれる。兄は速瓶玉命(ヤミカタマノミコト)といい、阿蘇の地にくだり、崇神天皇の代に阿蘇国造を賜る。弟の健稲背命(タケイイナセノミコト)は科野国造を賜ったという。健稲背命の系図は、科野国造、舎人、諏訪評督、郡領、さらに諏訪神社を祭る金刺、神氏という信濃の名門へと続くものである。いずれも未だ神話の域を完全には出ないものであるが、記しておきたい。
 原初科野は、埴科と更級辺りであったといわれる。斎場山は、森将軍塚古墳のある大穴山と共にその中心にある。長野県考古学会長であられた故藤森栄一氏は、『古墳の時代』の中において、「四世紀頃、川中島を中心に、大和朝廷の勢力が到来して、弥生式後期の祭政共同体の上にのっかって、東国支配の一大前線基地となっていたことは事実である。」と記しておられる。その痕跡は、森将軍塚古墳・川柳将軍塚古墳・土口将軍塚古墳などに見ることができる。
 そして、5世紀には、大陸から渡来人と共に馬が到来し、6世紀から11世紀にかけて信濃は牧馬の中心地となる。その機動力により、朝廷の権力が地方にも早く確実に届くようになり、次第に古い国造の治外法権を奪っていき、国造は、大化改新を経て、後に律令管制が布かれ、諸国に国司・郡司が置かれるに至っては、祭礼のみを司る象徴的な役目へと変貌したといわれている。
 その中で、雨宮廃寺と雨宮坐日吉神社、笹崎山(一名薬王山)政源密寺と會津比賣(会津比売)神社の関係など、仏教が伝来し、盛んになった大和・奈良時代から、平安時代における菅原道真の建議による遣唐使の廃止により神道の隆盛と国風回帰、それに伴う寺社の盛衰等が、此の地でもあったと思われる。
 1996(平成8)年、會津比賣神社新社殿建立の折りに「妻女権現」と記された木札が確認されている。斎場山(妻女山)古墳と會津比賣命の関係を示すものとして興味深い。往古會津比賣神社が斎場山の山上にあり、斎場山古墳は會津比賣命の墳墓であるという伝説もある(土口将軍塚という説もある)。
 昭和59年12月20日に記された『會津比賣神社御由緒』には、會津比賣は、「信濃国造・建五百建命の妻であり、現神社より三丁余り南の山腹に二神の住居があったと伝えられる。」と記している。また、雨宮坐日吉神社(あめのみやにいますひえじんじゃ)の三年に一度の春季大祭(御神事)においては、清野氏の屋敷があったとされる海津城内へ移動して踊る「城踊り」が奉納された。その際、周辺の寺々を巡り、清野の「倉やしき」、岩野・土口などといった旧家で踊りも奉納していたという。雨宮の御神事の「橋がかりの踊り」は、沢山川(生仁川)の「斎場橋」で行われるが、斎場橋は、「郡司」が雨宮から斎場山へ参る際に渡る橋としての命名かと思われる。往古斎場山の表参道は南であり、そのため祭壇への登り口の意味で土口という地名があるという。會津比賣命の墓については、「神社の上、斎場山脈の頂上の西方にある、荘厳塚と称する所の御車形山稜が命の墓なり」と記されている。「郡司」については、『日本三代実録』貞観四年(862)三月の項に「三月戊子(廿日)信濃国埴科郡大領金刺舎人正長(かなさしのとねりまさなが)・小県郡権少領外正八位下 他国舎人藤雄等並授、借外従五位下」とある。里俗伝によると、埴科郡の郡司の筆頭・大領の金刺舎人正長が大穴郷(森・雨宮・土口)にいたということである。
 1982~1986年にかけて、長野市と更埴市(現千曲市)の教育委員会による土口将軍塚古墳の合同調査がなされたが、その報告書には、土口将軍塚は岩野と土口の境にある妻女山から西方に張り出した支脈の突端にあると記してある。つまり、円墳のある頂が、往古の妻女山であり斎場山なのである。それ以外に本来の妻女山はない。尚、前記したように、斎場山が本来の名称であり、妻女山は後世の俗名である。
 平成19年2月7日に、土口将軍塚は、埴科古墳群のひとつとして国指定史跡となった。信濃の国の起源とされる科野の国の史跡としての重要性が認められたのであろう。つまり、現在名無しである斎場山の地形図への山名記載が一層重要なものとなってきたわけである。土口将軍塚、斎場山古墳や天城山(てしろやま)の坂山古墳、堂平古墳群などもいずれ詳細な学術調査研究が為されることを期待したい。尚、『長野県町村字地名大鑑』の字図には、斎場山(円墳)の場所に妻女山とはっきりと明記されている。
 
三 妻女山(斎場山)への想い
 岩野は、古代科野の国の起源の地のひとつとして重要な場所であったが、その後、岩野村誌には、「養和元年(1181)6月、木曽義仲が平家方の城資茂の大軍と横田川原に戦う時に、ここ笹崎山に陣を取り、大勝の後、戦死者のために守本尊『袖振先手観音』を安置。(源平盛衰記)その後里俗、石像薬師仏建立する。」とある。また、応永七年(1400)には、信濃の新守護(婆娑羅大名)小笠原長秀と村上満信、仁科氏ら国人衆たちの大文字一揆党が戦った大塔合戦もあった。そして村上氏が勝利し、善光寺平を支配した。
 その後は、周知のように川中島合戦の激戦地となった訳である。また、『類聚三代格』一七赦除事・仁和四年五月廿八日詔によると、仁和四年頃(888)には、千曲川の大洪水に見舞われている。その後も度々洪水に襲われ、近世においては、寛保二年(1742)に有名な大洪水「戌の満水」が起きている。千曲川流域で2800人の死者、岩野でも160人が亡くなっている。その際に、全ての古文書、家系図、付宝のほぼ全てが流失してしまったという。その約百年後、弘化四年(1847)には、善光寺大地震があった。今ある人々は、その惨禍を生き抜いてきた人々の子孫なのである。
『會津比賣神社御由緒』のむすびには、こう記されている。「此の地に生まれ育ちて、地についた神格たる産土神(うぶすながみ)を、朝な夕な尊崇し奉る人々の幸を、ひしひしと身に覚ゆる次第なり。」と。妻女山(斎場山)の真実が、未知なる科野の国の古代史と共に更に解明され、広く人々に知れ渡ることを祈るのみである。

(注)細部で追記が必要な記述もありますが、大意に影響がないため未修正で載せました。文字数の制限があり記したいことの全ては書けませんでした。例えば妻女山の初出は幕府が作らせた天保国絵図です。慶長国絵図は現存しないので確認不可。松代藩がなぜ斎場山を妻女山と改称して申請したかなど書きたかったのですが。別のブログ記事では既に書いていると思います。

参考文献:『信濃宝鑑』中巻 (株)歴史図書社 昭和49年8月30日刊
     『信濃史料叢書』第四巻 1913(大正二)年編纂全五巻 眞武内傳附録(一)川中島合戦謙信妻女山備立覺
     『長野県町村誌』第二巻東信篇 昭和11年発行 調査=明治13年 岩野戸長窪田金作氏への聞き取り調査より
     『長野県町村字地名大鑑』長野県地名研究所 昭和62年11月3日刊
     『真田史料集』天保一四(1843)年 信濃国松代城主真田氏編集 重臣河原綱徳編集主任
     『川中島の戦』甲信越戦国史 小林計一郎著 長野郷土史研究会発行
     『會津比賣神社御由緒』考古学者柳沢和恵先生監修 雨宮坐日吉神社及び會津比賣神社片岡三郎宮司監修 岩野編纂
     「藤森栄一全集第11巻」『古墳の時代』

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「河中島合戰圖」武田の軍学書『甲陽軍鑑』編者、小幡景憲彩色。江戸時代に描かれた川中島合戦図色々。『長野電鉄沿線温泉名所案内』吉田初三郎(妻女山里山通信)

2023-12-02 | 歴史・地理・雑学
 川中島の戦い以降、江戸時代になってたくさんの絵図が描かれました。その多くは第四次川中島合戦の上杉軍と武田軍の布陣図です。それらを紹介します。歴史を年号や小難しい文章でなく、絵図という分かりやすいビジュアルで見るということの楽しさを知って欲しいと思います。そして興味を持ったら、歴史書や史料を読むといいと思います。特に川中島の戦いは第一級史料がなく、幕府奪取とも無関係だったのでまともな歴史家は研究対象としないとまでいわれていました。第一級史料がないのは、ひとつには豊臣秀吉の国替えで善光寺平の土豪が全ていなくなったことや、松代藩が支配するまで多くの藩主が変わり移住者も多く歴史資料の保存がなされなかったということがあります。善光寺平の人は日本のギリシャ人とかいわれて議論好きですが、あちこちから集まった人々が意思疎通するには話し合うしかなかったのでしょう。
まあそれが行き過ぎて「俺に言わせりゃあ〜」とか、誰も聞いてないよの自説語りの人が増えたのも事実ですが(笑)。

「河中島合戰圖」小幡景憲彩色。武田の軍学書『甲陽軍鑑』の編者。斎場山南の陣場平に陣小屋が七棟建てられた図が描かれています。かなり大雑把な絵ですが、それでも大体の地名は当てはめることができます。陣場平の北に赤坂山(現妻女山)、左に斎場山(旧妻女山)の尾根。上杉軍は赤で、武田軍は白で描かれています。上杉謙信は、短い布陣でも必ず陣城を構築したといわれています。築城前には、「乱取り」といって麓の寺社や家屋を壊して建築材料や食料を得ていました。
 合戦後50年位(1610年頃:江戸時代初期)に描かれた絵ですから布陣の位置の正確な描写は無理としても、その内容はかなり正確かも知れません。小幡景憲の祖父虎盛と叔父光盛は、海津城で春日虎綱の副将を務めました。そういう経緯から景憲は『甲陽軍鑑』原本を入手しやすい立場にいたということでもあり、実際に合戦当時の話を聞いていたのではないかと思われます。数ある川中島合戦戦国絵図の中でも最も信憑性の高い一点だと思います。この絵図は、東北大学狩野文庫に所蔵されているもので掲載の許可を得ています。
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 ここからは江戸時代に描かれた主に土産物の川中島合戦図を紹介します。時代は滑稽本『東海道中膝栗毛』十返舎一九が出版され大好評を博し(1802〜1814年)、一般庶民にも旅ブームが起きました。善光寺参りも盛んになり、川中島合戦絵図が土産物として飛ぶように売れた時代です。この中にもそういう絵図が含まれていると思います。土産物の絵図のサイズは意外と大きく、わら半紙の2倍、B2ぐらいあります。掲載は順不同です。

「河中島古戰場圖」一鋪 寫本 榎田良長彩色。どういう人物か不明。南が上になっているので180度回転させると地形図と同じになります。ということで回転してみました。北に飯縄山。犀川、南へ千曲川、斎場山(妻女山)と右の千曲川脇の黄色い海津城が分かると思います。茶臼山に武田軍が描かれていることから物語性の非常に高い絵図です。左下の赤い線は、武田軍が下りてきたという猿ヶ馬場峠からの善光寺道。この道は、武田信玄の命で配下の馬場美濃守によって開発整備されたものです。第四次川中島の戦いではここを下り、塩崎城や長谷観音に布陣したと考えられます。そして、信玄は間者を斎場山へ送り対岸の横田城を本陣とし、雨の宮の渡しから広瀬の渡しまでずらっと兵を並べたと伝わっています。ただ下から攻めるわけにもいかず作戦を練り直すために全軍を海津城に入れてしまいました。
 この海津城の形は大坂冬の陣の真田丸に非常によく似ています。突出した曲輪(郭)が丸いことから真田丸と呼ばれ色々な絵図でも半円形に描かれているのですが、発掘調査やレーダーによる探索で実際は台形であると判明しました。

 斎場山への上杉謙信布陣図が別にあります。「川中島謙信陳捕ノ圖」これは南が上です。分かる限りの地名を書き込んでみました。わりと正確な描写であることが分かります。妻女山という名は戦国時代にはありません。斎場山です(誤って西条山と)。妻女山は江戸幕府の命令で作られた正保4年(1647)年の「正保御国絵図」には妻女山と記されています。慶長9年(1604)の「慶長国絵図」では信州は現存しません。赤坂山の下に蛇池がありますが、千曲川旧流の跡です。戦国時代はここにぶつかって流れていたのです。そのため斎場山は天然の要害に囲まれていたというわけです。蛇池は、高速ができるまでありました。

 千曲川の堤防上から斎場山を撮影したパノラマカット。上の絵図と当てはめて見比べると分かると思います。鳥が翼を広げた様な山域や麓にたくさんの兵が布陣していたわけです。陣場平は長坂峠の300mほど向こう側なので見えません。

「川中島圖」折 一枚 寫本 島津定桓 原本 弘化三年圖(1846年)(彩色本):狩野文庫。これも上が南です。地図は上が北という決まりはこの頃はありませんでした。非常に稚拙な絵ですが、千曲川の旧河道が点線で妻女山や松代城の脇に描かれています。

「信州河中島合戰圖」信州河中島合戰圖 一鋪 寫本 明和九年(1772年)片岡長候寫(彩色):狩野文庫。赤が上杉軍で黒が武田軍です。赤備えといったら武田、真田だと思うのですが、小幡景憲の絵図といいそういうことに無頓着なのが笑えます。川中島での両軍の布陣や妻女山への武田軍の布陣が詳しく書かれています。斎場山は西条山と書かれています。古城清野は鞍骨城のことなので、西条山(斎場山)がその東に描かれているので間違っています。斎場山と西条山を取り違えています。こういう間違いは江戸時代からあったという証明です。片岡長候寫は土地勘が無い人なのでしょう。

「信州川中島古戰場」 一鋪 寫本 杉山憲長寫(彩色):狩野文庫。これはまた本当に下手な絵図ですね。これも斎場山と西条山を間違えています。戦国時代は口述筆記も多いので音が合っていれば漢字はどうでもよかったのです。ただ当地には西条山(にしじょうやま)と呼ばれる山域があったことで、とんでもない間違いがいくつも生まれました。真田家の史書「*眞武内傳附録(一)川中島合戦謙信妻女山備立覺」には、「甲陽軍鑑に妻女山を西條山と書すは誤也、山も異也。」と書かれています。
 *「眞武内傳」竹内軌定著。松代藩主真田家歴代の系譜および事績を記載。正編5巻が享保 16 (1731) 年に、付録4巻がのちにでき異本もある。幸隆・昌幸・信之・幸村などの記述が詳細。

「信州川中島合戰之圖」(合戰圖叢三五枚之内) 六鋪 寫本:狩野文庫。この絵図に至ってはもう方角も滅茶苦茶です。上の東と書いてある方が南です。合戦絵図の中でもかなり粗悪なものです。斎場山麓の岩野村は上野村、土口村は出口村、屋代は八代と書かれていますが、こう書いたことがあったのは事実です。斎野(いわいの)村→上野(うわの)村→岩野村と変遷して行きました。斎野は「信濃宝鑑」などに記載がありますが、斎場山が元です。

「信州川中島合戰圖」一鋪 寫本:狩野文庫。これも上が南です。あちこちにびっしりと物語が書かれています。茶磨山(茶臼山)布陣が出てくるので、江戸時代後期の『甲越信戦録』を元にした話かと思われます。拡大してひとつひとつ読み解くと面白いと思います。

「甲越 川中島合戦陣取地理細見図」仁龍堂花川真助 信濃善光寺。善光寺参り土産として売られたもの。出典:「川中島の戦」小林計一郎著。地元で作られたものなので赤坂山(現妻女山)と斎場山(旧妻女山)がきちんと区別されて描かれています。川中島の布陣は、上杉軍が黒、武田軍が白枠で描かれています。千曲川の犬ケ瀬、十二ケ瀬、猫ケ瀬が描かれているのも地元ならでは。右下にちゃんと凡例があります。

「信州川中島合戰陣取畧繪圖」:臨江齋画 更級郡北原村(長野市川中島町):松屋栄助 妙高の関山神社拝殿に奉納されたものを撮影。善光寺参りの土産として買ったものを奉納したのでしょう。
「信州川中島合戰陣取畧繪圖」:南喬画 更級郡北原村:松屋栄助再板 手持ちの資料より。
 これらも上と同じ様に土産物と思われます。川中島の戦いは、歌舞伎や人形浄瑠璃の演目となり大人気を博しました。絵巻や浮世絵も数々。善光寺参りの際には八幡原や妻女山、海津城のある松代を訪れる旅人も多かったのでしょう。

『長野電鉄沿線温泉名所案内(部分)』吉田初三郎 長野電鉄(株)昭和5年発行。「大正広重」と呼ばれた鳥瞰図で有名な画家。昭和5年の長野駅や川中島古戦場の八幡原など当時の様子が興味深い。海津城址に噴水があったことが描かれています。遠く下関まで描かれていますが、この手法は葛飾北斎が江戸時代に既に確立しています。長野県立歴史館で吉田初三郎展が開かれた折に買い求めました。長野電鉄の屋代駅・長野駅から木島駅・湯田中駅までの路線が描かれ、沿線の旧所名跡や温泉・スキー場などの観光地が記されています。

インスタグラムはこちらをクリックツイッターはこちらをクリックYouTubeはこちらをクリックもう一つの古いチャンネルはこちら。76本のトレッキングやネイチャーフォト(昆虫や粘菌など)、ブラジル・アマゾン・アンデスのスライドショー

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、
『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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「自然へのまなざし 〜江戸時代の自然観〜」川中島古戦場の長野市立博物館へ。戌の満水と善光寺地震(妻女山里山通信)

2023-10-28 | 歴史・地理・雑学
「江戸時代は、西洋科学の影響を受けて、自然の見方や世界観が変わっていく時期です。西洋からの技術や知識の影響により、自然の描写は写実的になり、宇宙観や自然観も大きく変化しました。」とパンフレットにあります。入館料は常設展と合わせて300円。11月3日は無料です。常設展の川中島の戦いの展示や動画が人気で県外者も多く訪れます。

 こじんまりとした展示ですが、なかなか充実した内容でした。撮影禁止以外は撮影が可能です。

「旧松代藩領明細地図」信濃教育会蔵。上が南です。割りと正確な絵図なので、地名を入れてみました。妻女山と記してあるのは展望台のある現在の妻女山(旧赤坂山)ではなく旧妻女山で本名は斎場山です。上杉謙信公御床几場と書いてあります。川中島の戦いの本陣ということです。旧松代藩領ということから明治時代に作られたものでしょう。松代城内は更地になっています。

 現在の川中島は、集落や街が連続していて境界が分かりづらいのですが、当時ははっきりと分かります。赤い線は道路ですが、山の周囲や川沿いに引かれた黒い直線はなんでしょう。測量のポイントでしょうか。左上に丸く描かれた皆神山。その下に尼厳山(あまかざりやま)。灰色に描かれた旧千曲川の河道が松代城のすぐ脇を流れていたことが分かります。戌の満水の時に殿様が船で逃げたという話も納得できます。

 寛保2年(1742)の戌の満水の被害を記した絵図。上が北です。濃いグレーに白い点々があるところが、洪水や山崩れの被害が出た場所です。被害の大きさが痛いほど分かります。善光寺と松代の文字は読めると思います。上が犀川、下が千曲川。新潟に入ると信濃川になります。

 妻女山付近の被害の様子。岩野村では村人の約3分の1にあたる160人(男58人、女102人、馬2頭)が亡くなり、家屋144戸が流出という未曾有の被害を出しました。松代藩最大の犠牲者を出したのです。我が一族も二人が犠牲になり、助かった娘が岸に上がると着物のたもとの中に蛇がたくさん入っていたという話が残っています。この絵図は左が北、右が南、上が東、下が西です。
信州『松代里めぐり 清野』発刊と戌の満水など千曲川洪水の歴史(妻女山里山通信)

「於桜村土肥坂望*鑪村震災山崩跡之図」(長野市芋井)。松代藩の御抱絵師、青木雪卿(せっけい)重明(1803享和3〜1903明治36/1804〜1901の説も)の絵。雪卿は、松代藩が壊滅的な被害を受けた弘化4年(1847)に起きた善光寺地震から3年後の嘉永3年(1850)、藩主真田幸貫公(感応公)の藩内巡視に同行し、120日間をかけて「伊折(よーり)村太田組震災山崩れ跡の図」(真田宝物館蔵)などを描き上げました。雪卿は我が家の近所にあり名主をやった先祖とは幼馴染で親友だったそうです。虫倉山は、上部が硬い凝灰角礫岩(荒倉山火砕岩層)で、下部が柔らかい砂岩など。その境界部辺りの岩石が大崩落し、大田の集落を全滅させました。
*鑪村はたたらむらと読むのですが、この村はたたら製鉄と関係があったのでしょう。鑪(たたら・ろ)。

「鑪村震災大岩崩跡之図」(長野市芋井)あちこちで山体崩壊が起きた様です。善光寺地震では死者総数8,600人強、全壊家屋21,000軒、焼失家屋は約3,400軒を数えました。折しも善光寺御開帳の真っ最中で死者が増えました。参拝者の生存率は1割ぐらいとか。松代藩の立てた慰霊碑が、妻女山展望台の裏にあります。
青木雪卿が描いた善光寺地震絵図 現在との対比:現在の場所の写真との対比が凄い。雪卿の正確な描写が光ります。

「須弥山儀」嘉永3年(1850)田中久重作。世界は須弥山を中心に広がっているという古代インドの宇宙観が仏教とともに伝来。太陽と月が時計仕掛けで動くようになっています。北信五岳の妙高山はそれが元の命名です。

 伊能忠敬と交流があったという三重県津市稲垣家の定穀作の「地球儀」。オランダ製の地図を参考に製作したと考えられていますが、当時はもっと正確な世界地図があったので、かなりいい加減な地図しかなかったのでしょう。

「天球図」司馬江漢作。天の赤道の北側と南側の星図が描かれています。中国星座の上に西洋星座が描かれている珍しい天球図です。それぞれが何座か分かるでしょうか。

「北斎漫画」。観察力と描写力が凄い。小布施の北斎館は何度も訪れてブログ記事にもしていますがおすすめです。

「異国写鳥図」。孔雀。技法的に稚拙だなと思ったら、これは写本で、元になった絵がある様です。

 明治40年(1907)に牧野富太郎氏が贈呈した「草木図説」。

「人面魚の図」。文化2年(1805)に越中国(富山県)に出現したという人面魚。各地に瓦版や古文書が残っているそうです。ここには人面魚を殺したために金沢城下に火事が出たと伝えています。実際はなんだったのでしょう。左に書いてあるサイズを見るとかなり大きい。

「百鬼夜行絵巻」。夜更けに京の大路を異形のものが練り歩く様。後の水木しげるの「妖怪事典」に通じるものがあります。

「羽毛図巻」。松代藩の御抱絵師である山田島寅(とういん)作。狩野派の系譜なのでしょうか。見事な作品です。

 特別展の後で以前紹介した常設展を観て出ました。川中島古戦場公園(八幡原)は紅葉が美しい。古戦場祭りが開催中で週末には花火大会も。この先に駐車場や土産物屋、蕎麦屋などがあります。なんだか八幡原というより、美大生時代に訪れたパリのブローニュの森みたいだなと思いながら歩きました。

 八幡社の前にある武田信玄と上杉謙信一騎打ちの像。限りなく江戸時代に作られた物語なのでしょうけど、庶民の旅が盛んになり始めた江戸時代中期以降では、善光寺参りの土産物として川中島合戦絵図がたくさん作られ人気だった様です。ちなみに祖先は真田昌幸に仕えた足軽大将で、その長男は真田信繁(幸村)の影武者の一人で大阪夏の陣で討ち死に。もう一人、武田四天王のひとりの山縣三郎の家来で桔梗ヶ原の戦いで手柄を立てて感状と褒美をもらったものが。さらにずっと前に敵方の上杉方の小笠原長時に仕えて武田軍に敗退し村上義清の系統の清野氏を頼って妻女山の麓に定着したものがいます。詳細は不明ですが、戦国時代を生き延びるというのは非常に大変だったことが分かります。

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『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、
『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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中国正史の書を読む梅雨空の好日。『中国正史 倭人・倭国伝全釈』『中国正史の倭国九州説 扶桑国は関西にあった』『西暦535年の大噴火』(妻女山里山通信)

2023-06-13 | 歴史・地理・雑学
 梅雨空で撮影に行かれない日々が続いています。普段できない部屋の掃除やデータの整理整頓、少し手の込んだ料理をしたりしていますが、積読でなかなか読めない本やもう一度読みたい本を少しずつ読むようにしています。古代科野のクニは、ハイキングのガイドの時にも話しますが、出雲や倭国大乱などに触れると、やはり中国の古代史に触れざるを得ません。そんなわけで中国正史の本を二冊。さらに世界史の本を一冊読んでいます。とはいえ中国は広いし歴史は複雑でとても全部は覚えきれません。ただざっくりと紀元前1000年の西周から春秋戦国時代の呉越、秦の始皇帝、前漢、後漢、魏呉蜀、色々あって随、618年の唐までを覚えておけばなんとかなります。あとは300年以降の朝鮮半島の高句麗、百済、新羅、任那も。さらに世界史対照象年表をディスプレイに出しておくといいですね。

■『中国正史 倭人・倭国伝全釈』鳥越憲三郎
 最近吉野ヶ里遺跡から大きな石棺が発見され、卑弥呼のものではないかと話題になっています。これは倭人とはなにかということに新しい解釈を持ち込んだ書。『魏志倭人伝』にあるように、倭人とは当時の日本人のことですが、『晋書』には「自ら太伯の後(すえ)なり」とあります。太伯とは呉の始祖といわれる人物。つまり、日本からの使者は我々は呉の国の末裔であると言っているわけです。そして、各史書に書かれた倭人や倭国について記しています。越に滅ぼされた呉のエリートたちが日本に渡ってきた。そして後に滅びた越の人々も日本にやってきた。その後の秦の始皇帝の時代には、徐福の集団が大挙してやってきたというわけです。しかし、弥生時代の痕跡は1000年前からあるわけで、呉の滅亡以前から大陸から弥生の文化をもたらした人々がやって来ていたということも分かってきました。更に後には唐に滅ぼされた高句麗の人々も馬産と石の文化を持って主に信州に渡ってきたわけです。各史書の分析は非常に緻密で解説も分かりやすい。おすすめの一冊です。
漢字の歴史:文字として使用できる漢字ができあがったのは紀元前1500年ごろのことといわれています。象形文字ですね。弥生時代に渡来した人々が使っていたのが神代文字と思われます。吉野ヶ里遺跡の文様の様なものも、それだろうと思われます。さらに知りたい方は「漢字」で検索を。
人口の超長期推移:縄文時代の人口のピークは26万人。末期に8万に減少。弥生時代になると60万人にまで増加。さらに古墳時代には400万人へ。奈良時代には600万人を超えます。自然増に加えて渡来人の大量移入、稲作の伝来などで爆発的に人口が増えたものと考えられます。

■『中国正史の倭国九州説 扶桑国は関西にあった』いき一郎
 扶桑国という実は史実から永らく失われた日本のあるクニを紹介した書。「中国正史に記録されながら、いまなお日本正史から黙殺されつづける謎の国と大和皇国史観の作為に迫る」と帯にはあります。さらに「扶桑国は決して謎の国ではなかった。この国は九州倭国の東にあり、むしろ。中国との交流を遮られていたというべきである。九州倭国は委奴国王の金印以来、唯一の列島における正当政権を名乗り、誇っていたはずであり、外国の国々の中国への渡航を妨害していたとも考えられる。関西扶桑国説は九州倭国説を補うとともに、”近畿天皇家”の定説に再考を迫るだろう。」とあります。これも中国の史書からの引用が多く、緻密。中国から見た日本の記述が主で、史記には徐福の東渡が、後漢書には5-6世紀の日本について、倭国、扶桑国、文身国、女国、大漢国があるとの記述があります。序文とあとがきを読んでから本文に入るといいかと思います。

■『西暦535年の大噴火』人類滅亡の危機をどう切り抜けたか デイヴィッド・キーズ
 火山の本ではなく歴史書です。空前絶後の大噴火が世界の気候をドラスティックに変え、その結果、文明や文化がどう影響を受けたか、歴史がどう変わったかを検証しています。目次から抜粋すると、ペストの猛威、東ローマ帝国の動揺、イスラムの剣、東洋の悲劇、アメリカ大陸の変貌、人類の未来・九つの「時限爆弾」など。大地震や大洪水など大規模な自然現象から人類は絶対に逃げることはできない。そして打ちのめされ戦い立ち上がり生き抜いてきた。その壮絶な歴史が分かります。そして、我々も現在その真っ只中にあるのだと思い知らされます。

 もちろんこれらの書にかいてあることが全て正しいとか真実であるとはいえませんが、日本の古代史を探求する上で中国はじめ海外の古代史を学ぶことは、実は長年タブーでした。日本史と世界史を分けて教えるという奇妙な教育もそれ。特に明治政府の天皇制を強固に確立するために弥生時代以前はまるで原始時代だったかの様に貶められた感があります。そのタブーが無くなりましたが、一部ではまだ記紀一辺倒の人々もいます。弥生時代といえば古代ローマ帝国とも重なります。その高度な文明がシルクロードを伝って伝播したと考えるのが普通です。人類は旧石器時代から世界を大きく動いていたわけで、日本の旧石器時代人はオーストラリアやニューギニア高地人の様な骨格をしていたといいます。縄文人はどこから来たのかなど。歴史観というものも新たな見方を求められているのだと考えます。
「全盛期の縄文土器」ー圧倒する褶曲文ー 長野県立歴史館:尽きない縄文の魅力(妻女山里山通信):2021年に行われた展示のレポート。非常に感動的で興味深い展示でした。空前の縄文ブームで来場者も大勢でした。写真をたくさん載せています。


「富嶽と徐福」藤原祐則筆(北斎)北斎館所蔵
 大和王権の祖ともいわれる徐福集団の渡来。徐福は江戸時代でも相当に知られていた様で、かの葛飾北斎も徐福の肉筆画を描いています。徐福は伝説上の人物とされてきましたが、1982年に中国江蘇省の徐阜村が古くから徐福村と呼ばれ、徐福に関する遺跡や伝承があることが分かり、実在の人物であることが証明されました。徐福については、『阿曇族と徐福 弥生時代を創り上あげた人たち』亀山 勝著もおすすめです。ヤマト王権や天皇が尊崇した伊勢神宮の灯篭に六芒星(ダビデの星)があるのは有名ですが、そのヤマト王権は先に渡来し定着した出雲を恐れたといわれています。科野のクニの崇神天皇に初代科野國造に任命された神武天皇の後裔の武五百建命(たけいおたつのみこと)の妻は、妻女山麓の会津比売神社の祭神の会津比売命(あいづひめのみこと)ですが、曽祖父は大国主命で出雲系。古代科野のクニはヤマト系と出雲系が結婚してできたといえます。ヤマト王権が出雲を取り込もうとする政略結婚だったのでしょうか。
中国の歴史:見応え読み応えのあるサイトです。
徐福:ウィキペディア:秦の始皇帝に不老不死の薬を探すと少年少女3000人と多くの百工(技術者)、武士とともに、五穀の種と繭を持って来訪。結局帰らず全国に散らばり、稲作、製鉄、養蚕を伝え、クニをつくり王となり弥生時代を拓きました。全国各地に徐福伝説が残っています。徐福の村は古代に失われた10のユダヤ部族のひとつの末裔ともいわれています。帰らなかった理由は、不老不死の薬が見つからなかったというものと、最初から秦の始皇帝を騙して帰るつもりはなかったというものがあります。程なく秦は滅び、徐福集団は完全に定着したと思われます。
扶桑国の歴史的地理的な位置づけ


 春秋戦国時代の呉と越。越の人物。髪は結わず散切りで体には入れ墨。入れ墨を除いては、まるで現代のその辺にいる青年の様です。造船技術の高さがうかがえる外洋も航海可能な船。ベトナムまで交易をしていたそうです。まず滅びた呉の人々が出雲族として、ついでやはり滅びた越の人々が渡来し、徐福集団が渡来して定着し弥生時代の基礎を作ったとされる。さらに後には唐と新羅に滅ぼされた高句麗の人々もたくさん渡来しました。信州には彼らがもたらした馬産の証の馬具と石の文化を象徴する積石塚古墳がたくさん残っています。旧石器時代から1万年続いた縄文時代へ。琉球人とアイヌ民族。そして渡来人の弥生時代へと。日本は単一民族どころか多種多様な民族の集合体といえるのではないでしょうか。日本人はハーフどころか複数の民族の混血児なのです。縄文人に加えて敗残者の集団がひとつになってバイタリティのある世界でも稀に見る特徴のある日本文化を生み出したのです。神話というのは、敗残者のトラウマを払拭するために作られたと私は考えています。


 古代史は専門書が多くとっつきにくいのですが、これは2019年宝島社のムックです。書店にはもう無いかもしれませんが、ネットの古書店では見つかるかも知れません。この手の本では比較的新しいのがいいですね。旧石器時代や縄文時代のページも多く写真が多いのも分かりやすい。入門書としてお勧めです。


「淡竹と新玉葱と牛豚合いびき肉のおやき」味付けは、手作り信州麹味噌、鰹出汁粉、貝出汁、牡蠣ソース、花椒辣醤、胡麻油。皮は、夢力と幻の小麦・伊賀筑後オレゴンにとろろ。両面に胡麻油で焼き目をつけてから20分蒸してできあがり。想像以上の旨さ。手が止まりません。おやきの原型は中国の餅(びん)です。餅は日本では米粉ですが、中国では小麦。古代からある食べ物です。小麦は紀元前7000年ぐらいからメソポタミアで栽培されていてシルクロードを通って広まった様ですが、紀元前400年頃の戦国時代の中国から石臼が発見されています。日本では縄文時代後期には稲作が始まっており、弥生時代中期には小麦の栽培も盛んになった様です。おやきは古代食といえるでしょう。
「馬柵越し 麦食む駒のはつはつに 新肌触れし 子ろし愛しも」万葉集 東歌 巻14-3537
(馬の柵越しに少しずつ麦を食べる小馬のような、ほんのわずかだけ肌に触れたあの娘のことが愛おしい)


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偽造の感状書。真田幸村の影武者として討ち死にした先祖。保科正之に仕えた先祖。林采女(妻女山里山通信)

2023-02-16 | 歴史・地理・雑学
 我が家に古くから伝わる感状があります(下の写真)。父から見せられた時に、これは偽物だなと思いました。私は出版関係のプロなので、紙質がどう考えても戦国時代のものではないと思ったからです。そこで長野県立歴史館へ持っていって鑑定をお願いしました。内容は・・・
「天文21(1552)年 10 月 15 日、林織部が桔梗ヶ原の戦いで手柄をたて、山縣三郎(武田四天王のひとり)より感状と褒美をもらうとあります。」
『甲陽軍鑑』に拠れば、山縣昌景ははじめ武田信玄の近習として 仕え、続いて使番となる。『甲陽軍鑑』では晴信期の信濃侵攻における伊奈攻めにおいて初陣を果たし、神之峰城攻 めで一番乗りの功名を立てたとし、天文 21(1552)年、信濃攻めの功績により騎馬 150 持の侍大将に抜擢される。 林織部は、その信濃攻めの際に手柄を立てたと思われる。ということなのですが・・・。
 歴史館の方によると、感状は、江戸時代以降の偽造。戦国時代の感状書に感状という文字は入らない。また、 書体も江戸のもので戦国時代のものではないとのこと。ただ、何か本来あったものの写しではないかということ。 戌の満水(1742年)で流失したものを記憶を頼りに再現したものではと言われました。よって、記載に記憶違いがあり誤記があるのではということです。今回のトルコ大地震や東北大震災、阪神淡路大震災でも、尊い命がたくさん失われましたが、同時にかけがえのない歴史遺産や古文書なども失われてしまうのです。

 では、ほぼ確実な先祖の話を。林一族の祖先は真田の臣(しん・けらい)なりという言い伝えがあります。その中に真田幸村の影武者として討ち死にした先祖がいました。
 林太郎左衛門(1543〜1582 年)。真田幸隆の代から真田家に仕え、真田昌幸に仕える。東松本郷内の足軽衆。 足軽頭として主に吾妻一帯を守衛したとされ、真田昌幸の上州攻略の陣立てで後備(約50 騎:全体で約500騎)を務めた。真田家の個々の家臣団編成の仕方に関して、天正13年6月21日に矢沢頼綱の長男矢沢頼康に与えた真田昌幸朱印状によると、乗馬衆として鵤甚九郎ほか4名と足軽衆として林勘左衛門尉ほか11名が記載されており、いずれも有姓の者たちで、「右の衆同心に申し付け候間、向後は人衆を催され一手役の奉公肝要たるべき者なり」とあり、いわゆる寄親、寄子制に基いた同心衆、足軽衆が付与され、軍団編成が進められていたことが明らかであると記されています。

 林源次郎寛高(1563 ~ 1615 年)。林弾左衛門ともいう。林太郎左衛門の長男。
●林源次郎寛高
天正6年 (1578年 ) 真田昌幸の上州攻略の陣立てで父林太郎左衛門に従い参戦。殿を務める。林寛高にとっては初陣となる。
天正7年 (1579年 ) 矢沢頼綱に従い中山城と尻高城攻略に大きく貢献。戦功を立てる。
天正8年 (1580年 ) 真田昌幸に従い小川城と名胡桃城攻略に参戦。その後は真田信幸に従い、上野国で転戦する。 天正13年 (1585年 ) 真田昌幸が上杉景勝に真田幸村を人質として海津城に送り援軍を要請した際、矢沢頼康の配下として真田幸村に随行する。このとき真田信幸が、鵤幸右衛門、吉沢ら乗馬衆5名と、林寛高、坂本らの足軽 衆12名を矢沢頼康の配下につけ、真田幸村を守らせたという。 矢沢頼康とともに上田に戻り、上田合戦に参戦し、戦功をあげる。以後は真田幸村と行動を供にする。
天正17年 (1589年 ) 真田幸村の足軽隊将として小田原攻めに従軍。
天正18年 (1590年 ) 真田幸村が人質として大阪へ赴く際、それに従う。その後も真田幸村とは行動を供にする。 慶長5年 (1600年 ) 関ヶ原合戦の際は、真田幸村とともに西軍につき、上田城に籠る。真田家の足軽隊将として徳川軍撃退に大きく貢献し、戦功をあげる。関ヶ原合戦での敗戦後は、真田昌幸・真田幸村父子に伴い一時は九度 山に赴くが、上田に戻り帰農する。慶長19年 (1614年 ) 大阪の陣では真田幸村のもとに馳せ参じる。林寛高5 1歳である。
元和元年 (1615年 ) 大阪夏の陣では、真田幸村の影武者として徳川家康の本陣に斬り込み、本陣を突き崩す働きを示した後、真田幸村に成りすまして奮戦したが討死する。
* 信繁(幸村)には、三浦新兵衛国英、山田舎人友宗、木村助五郎公守、伊藤団右衛門継基、林源次郎寛高、斑鳩(鵤) 幸右衛門祐貞、望月六郎兵衛村雄の7人の影武者が存在したといわれている。
* その後、生き残った 7 人で林村を作ったという伝説が残っているがどこかは不明。
 歴史マニアや幸村マニアの歴女の方々などに関心を持っていただける話はここまでしょうか。

 そして江戸時代になり、先祖のひとりが高遠藩の保科正之に仕えました。正之が家光の腹違いの弟ということが分かり会津に加増転封されます。そこにも付いていきました。後に商人となり林正光などは豪商となり会津藩を支えました。その前に秀吉の国替えで上杉景勝が会津へ。善光寺平の土豪は家族家来すべてを連れて会津へ。その後高遠藩もまた会津へ。会津は信州人が作った街なのです。以前福島から来た方と妻女山展望台で話した時にそう言っていました。戊辰戦争で会津若松城をメリケン砲でボコボコにしたのは松代藩でした。しかし、薩長はボロカスに言っても松代藩を攻めることはしません。同根だと知っているからです。歴史の皮肉、悲劇です。
 会津若松の林家の先祖は、保科正之候が高遠から山形・会津に入られたときに200石で随身した「林太左衛門 光仁」。その何代か前の祖先は、林采女(林齋:はやしいつき)と言い小笠原一族に仕え、小笠原長時が1548年(天文 17)塩尻峠の合戦で武田軍に大敗し村上義清を頼って落ち延びた際に、林采女は信州松代に入り土着したと伝わっています。
 という伝承があるのですが、これも確証はありません。林采女は、村上義清の系統の清野氏を頼って岩野に土着したのかも知れません。墓は幕末に再建され土口トンネルの上にあります。当時、武田と真田は味方同士でしたが、村上義清と小笠原長時は敵です。林一族は、戦国時代にはよくあることですが、小笠原長時、村上義清と、敵対する武田信玄や真田昌幸に敵味方に分かれてついていた可能性もあります。ただその後、当地では川中島の戦いが繰り広げられたわけで、その間はどうしていたのか。全く不明です。

 これ以外にも色々伝承があるのですが、幕末の嘉永六年(1853・ペリー浦賀来航)に業者に頼んだと思われる「林家譜説」などは非常に如何わしいものです。これも歴史館の方に見ていただきました。今もそういう会社はありますが、幕末頃に家系図を調べますという商売があり、大本家から分家で出た堀田重蔵が頼んだ様ですが、ツッコミどころ満載の実にいい加減なものです。なぜ堀田で林ではないのかというと、幕末に堀田という侍株を買ったからなのです。堀田家は跡目相続で争った末に屋敷を売却し一家離散しました。ただこのいい加減な「林家譜説」にその後の我が一族がどうも振り回された様で、林一族は小笠原の末裔であるとか、とんでもない勘違いが広まってしまいました。小笠原は三階菱で甲斐源氏(林城城主の林藤助はもとは小笠原氏。この林で勘違いしたらしい)、林家は上り藤で藤原系の分家筋。先祖は中大兄皇子と組んで蘇我入鹿を倒して大化の改新をした藤原鎌足。そこで、私が色々ある伝承や物証などから、複雑に絡み合う事実を検証してみたのです。ただ、混沌とした戦国時代の話ですから、不明な点も多く非常に難儀しています。なにより戌の満水の大水害で貴重な史料が失われたのがもっとも大きな痛手でした。ただ、真田氏の史料などを調べていくと、あらたな事実が判明するかも知れません。

■林采女墓石
●右側の墓石
右側面
天正十六戌子(つちのえね)年(1588年)三月二日
正面
繹林齋(釈林斎)之墓
左側面
俗名 林 采女(うねめ:女官を束ねる長の官名)武士が勝手に官名をつけるのが流行った。

●左側の墓石
右側面
未記録
正面
殊勝院繹林齋寂靜居士
歸命盡十方旡●光如来
勝善院繹林齋証大●
左側面
未記録

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14日は屋代高校美術班+1の新年会は昭和レトロが人気の「國楽館戸倉ホテル」で。(妻女山里山通信)

2023-01-16 | 歴史・地理・雑学
 14日は屋代高校美術班+1の新年会は昭和レトロが人気の「國楽館戸倉ホテル」で。温泉街は閑散としています。

 一眼レフを持っていったのですが、オリンパスの手ブレ補正が効かないレンズを付けていってしまいました。そんなわけでブレまくりのカットばかりですが、ご容赦を。正面はおそらく一番格式が高いと思われる「笹屋ホテル」。私達の結婚披露宴は、遥か昔にここで行われました。

「國楽館戸倉ホテル」の正面玄関。

 5時頃から集まり始め、全員が揃ったところで二階の宴会場へ。まずは乾杯です。むさいおじさん達ですが、高校時代は、かなり個性的な油絵を描いていました。なかなか愉快な話題は少なかったですね。特にワクチン接種後二人の知人が突然死した話は衝撃的。私の従兄弟も接種後脳梗塞で倒れ現在も入院中。一族の高齢の男性も脳梗塞で倒れ退院はしましたが寝たきりに。コロナにかかりイベルメクチンやらで治ったはずが気を失い倒れ入院。目まいのたぐいでしょうと。原因は不明。他にも接種後脳梗塞になったひとを三人知っています。皆退院しましたが。他には今年の農作業の予定や妻女山里山デザイン・プロジェクトの作業予定の話なども。偏西風が強く蛇行して世界各地で異常気象をもたらしているので、今年は昨年以上に気をつけないとねとか。

 食べ散らかした左が夕食で、右が朝食です。若い頃はペロッと食べたのですが、皆多すぎると。大きなブリカマ焼きは、お持ち帰りにしてもらいました。皆酒量もかなり落ちました。ビールで乾杯。純米酒、焼酎の黒霧島と続きます。ご飯は夜食用におにぎりにしてもらいました。

 レトロなロビー。左に地下に下りる階段があるのですが卓球場があります。40年以上通っているのに知らなかった仲間も。

(左)は仲間が醸造してきたメルローの赤ワイン。かなり渋みもあって濃厚でした。(右)ロビーにあるジュークボックス。「いとしのエリー」とか。その頃は動いたのですが。今は化石です。

 帰りに毎年いただく「六文銭まんぢう」10個入り。これが楽しみです。温泉街の土産物屋でも買えます。

 帰ります。坂城と上田方面。黒雲が怪しい。雨が降ったので湿度があって暖かい。気になることといえば、温泉の湯量が激減していました。結果湯船が温まらず入ったら出られない状態。あとで別の旅館に泊まった知人に聞いたら同じだったと。井戸は別なんですが湯脈はつながっているのでしょう。近くの温泉施設は湯が出なくなり閉館状態です。全国で温泉の温度低下や湯量の減少がいわれています。不気味です。何かの前兆でしょうか。たとえば東南海大地震とか。

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紅葉の古刹・千曲市稲荷山の桑原山 龍洞院で燃える秋に酔う。登録有形文化財の龍洞院架道橋(妻女山里山通信)

2022-11-10 | 歴史・地理・雑学
 毎年、里山の紅葉だけでなく紅葉が綺麗な古刹を訪れています。2019年には長野市保科の阿彌陀山清水寺を訪れました。それは見事でした。2020年は息子達と小諸懐古園へ。昨年はあんずの里、森の観龍寺、禅透院、興正寺、岡地天満宮を訪れました。さて今年はと考えて、千曲市稲荷山の龍洞院へはまだ行っていないことに気が付きました。しかも、信州は今新蕎麦の季節。信州ならではの胡桃蕎麦もいただきたいと出かけました。観光客は来ない地元民に大人気のお店です。

 龍洞院(りゅうどういん)は、1504年に建立された曹洞宗の名刹です。山号は桑原山。週末は混雑すること間違いないので平日に。見頃でした。燃える秋に酔う。そんなひと時でした。

 上まで急坂を登って車で行けますが、下の広い駐車場から登ることをお勧めします。右上が桑原山なのでしょうか。この奥にはブログで紅葉を紹介した篠山がそびえています。また近くには、越将軍塚古墳、塚穴古墳、遠見塚古墳などがある歴史ある地籍です。

 総門。曹洞宗は、中国の禅宗五家の1つで、中国禅宗の祖である達磨から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能の弟子の1人である青原行思から、石頭希遷、薬山惟儼、雲巌曇晟と4代下った洞山良价によって創宗されました。日本には鎌倉時代に宋から伝えられ、臨済宗・黄檗宗とともに日本三大禅宗の一つです。

 参道を登ります。両側は畑だったり民家があったり。期待が高まります。

 そして、紅葉に加えて見どころなのがこのトンネル。登録有形文化財の龍洞院架道橋です。明治33年に作られたもので、旧国鉄(現JR東日本)の篠ノ井線が上を通っています。橋の長さは7.4m。幅員21m。煉瓦造単のアーチ橋です鉄道マニア必見の歴史的構造物といえるでしょう。

 振り返ると紅葉越しに千曲市稲荷山の街。蔵の街です。近くに武水別神社があります。手前の尾根は一重山から五里ヶ峯に続く五一山脈。もちろん拙書でも紹介しています。

 トンネル内で振り返って見る紅葉。上を列車が通過して行きました。

 トンネルの出口での光景。思わずウッホーとつぶやきました。

 架道橋を見下ろしたところ。線路の手前に後で造られたと思われる道路があります。

 山門へ向かいます。六体の石仏。

 山門脇の紅葉と黄葉。イロハモミジとヤマモミジでしょうか。アントシアニンの生成に違いが出るのでしょうか。面白いですね。

 山門から振り返った景色。楓の紅葉と杉の緑の補色の対比が美しい。

 山門の山号が書かれた額。額は古そうですが、山門は装飾含めそう古くはなさそうです。

 銅葺きの本堂。中は隙間から少し見えました。中が見たかったのですが、ちょうど昼時なのでご住職に問い合わせは遠慮しました。

 右はモチノキ科の常緑高木の多羅葉(たらよう)。葉に傷をつけるとあとが黒くなるので、インドで写経をしたタラジュの葉にちなんでの命名。俗には葉書の木といわれます。これも紅葉との補色の対比が際立ちます。

 鐘楼と観音堂。観音堂は割と新しい様です。手入れされた庭園が美しい。

 観音堂には千手観音が。千手観音は正式名称を「千手千眼観自在菩薩」といい、観音の持つ慈悲の力を最大限に表したもの。「サハスラブジャ」とは「千の手」あるいは「千の手を持つもの」の意味で、ヒンドゥー教のヴィシュヌ神やシヴァ神、女神ドゥルガーといった神々の異名でもあり、ヒンドゥー教の影響を受けて成立した観音菩薩の変化身と考えられています。三十三間堂の千手観音は国宝。

 参拝していると後ろで列車の音が。振り返るとワイドビューしなのが通過していきました。これは最後尾です。

 脇道をたどって見上げると燃える秋。紅葉と黄葉が、まるで燃え上がる炎の様です。紅葉のメカニズムをざっくりと説明すると下記の様になります。
・緑色→葉緑素の色
・赤色→葉緑素が壊れてアントシアニンが生成した色(アントシアニンは、植物が紫外線など有害な光から実を守るために蓄えられる青紫色の天然色素。 ポリフェノールの一種で、ブルーベリー、ナス、紫芋などに多く含まれている。 視力・視覚機能の改善や眼精疲労の予防に効果があるとされている)
・黄色→葉緑素が壊れて、元々あった地の色(カロチン系)が出た。ただ冷え込みが緩いと同じ樹種でもアントシアニンが生成されにくく紅葉ではなく黄葉になることもある
・茶色→葉緑素が壊れてタンニンが生成した色

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。地形図掲載は本書だけ。山の歴史や立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。10本のエッセイが好評。掲載の写真やこのブログの写真は、有料でお使いいただけます。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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「真田信之 - 十万石の礎を築いた男 -」真田信之松代入部400年記念 真田宝物館特別展へ(妻女山里山通信)

2022-10-29 | 歴史・地理・雑学
 12月19日(月)まで開催中の、「真田信之 - 十万石の礎を築いた男 -」真田信之松代入部400年記念 真田宝物館特別展に行ってきました。非常に見応えのある展示で、県外ナンバーの車もたくさん見られました。撮影禁止のものもありますが、撮影可能なものも非常に重要です。それらをアップします。信之や幸村の書状とか、真田マニアなら絶対に見逃せないものばかり。
真田宝物館公式サイト

 真田家の歴史から始まります。赤備えのイメージのディスプレイにワクワクします。

「真田昌幸 昇梯子の具足」天衝(てんつく)という大きな前立てと胴の四段梯子が特徴。軽量かつ実用的な仕様だそうですが、この兜の前立ては重くないのでしょうか。兜は何種類か持っていたそうなので、実戦用とかもあったのでしょうか。(左の掛け軸は撮影禁止なので消してあります)

「海津大絵図」で、床にレプリカが敷いてあり、くつのままお上がり下さいとあるのですが、皆さん無関心で見ていかないのです。私は地図フェチなのでじっくりと観察します。松代城を中心に、北は善光寺から南は狼煙山まで。東は奇妙山、西は西山地域まで描かれています。松代城の北に細い古川が描かれていることから、戌の満水の後で大規模な瀬直しが行われた後の地図だと思われます。川中島の集落もそれぞれ分かれていますが、現在は全部つながってしまってどこがどこやら境が分かりません。

 妻女山は、斎場山の場所に記されています。現在の妻女山は赤坂と。倉骨城(鞍骨城)もあります。斎場山と妻女山、赤坂山の混同の入れ違いの歴史については、拙書やこのブログでも何度も記事にしています。BS・TBSの歴史番組で歴史研究家の三池純正さんをガイドをしたこともあります。「真説・川中島合戦」洋泉社新書は一読の価値があると思います。

 皆神山。右奥の三角は狼煙山。武田の狼煙を上げる山城がありました。左奥に地蔵峠も見えます。

 真田家の墓や御霊屋がある長国寺。その奥にそびえる瀧山は奇妙山のこと。清滝も描かれています。左手前に真田幸隆に攻略された尼厳山。拙書でも記していますが、奇妙山は本来は帰命山であり、本名は仏師岳、仏師ケ岳といいます。

 善光寺。越後に通じる北国街道も。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」が出版された頃は庶民の旅行も盛んになり、善光寺御開帳には全国から参拝者が集まり、川中島の戦いの絵図がたくさん刷られ飛ぶように売れたということです。幕末頃には、妻女山で上杉謙信槍尻の泉を巡って「霊水騒動」なるものが起きています。槍尻の泉が霊水で万病に効くと噂が広まり、城下や遠く越後からも霊水を求めて人が集まったとか。実は、この騒動を起こしたのは、当時名主をやっていた我が祖先の林逸作ではないかと思っています。おそらく村おこしのために。
上杉謙信槍尻之泉の新事実発見!妻女山湧き水ブームとは・・(妻女山里山通信)

 真田昌幸が信幸にあてた書状。

「大阪落城絵巻」大坂の陣。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣。我が家の祖先は、豊臣方についた真田昌幸の家臣で、足軽大将の林太郎左衛門といわれています。息子は林源次郎寛高といい真田信繁(幸村)の7人の影武者のひとりで大阪夏の陣で討ち死にしたと伝えられています。その後生き残った7人で某所に林村を作ったとか。そのうちのひとり、林采女(林織部?)が松代に移り住み帰農したと伝わっています。激動の戦乱を生き延びたということです。川中島には、「七度の飢饉より一度の戦(いくさ)」という言葉が残っています。度重なる飢饉よりもたった一度の戦の方が嫌だという重い言葉です。

 従四位の下侍従以上の者の冠。該当者は8代藩主・真田幸貫のみとか。彼は白河藩松平家から養子入りし、幕府の老中も務めました。我が家には、その後に老中を務めた松平乗全が描いた『庚辰春日』という白い牡丹を描いた一幅の掛け軸があります。岩野村の名主を務めた先祖が賜ったと思われます。近所には、幼馴染で松代藩の御用絵師の青木雪卿(せっけい)重明が住んでいました。

 黒船来航の際に、松代藩と小倉藩が横浜の警備につきました。その際に横須賀沖に停泊する蒸気船を描いた巻物。当時の横浜は、貧しい漁村でした。今の横浜の元を作ったのが松代藩というわけです。

 特別展示でないと見られない様なものが並んでいます。真田ファンにはお勧めの展示ばかりです。特に書状は、信之や信繁などの心情が見えて興味深いものがあります。

 信之の時代に幕府から問い合わせがあった系図の問い合わせへの返答。滋野天皇から始まっていますね。滋野、海野、根津、望月、真田は同系氏族といわれています。信濃には他に源氏村上がいます。出雲系の諏訪氏や金刺氏、信濃國造になった大和系の子孫や高句麗の帰化人の子孫達は、今にどうつながっているのでしょう。
滋野氏

 高野山での信繁(幸村)の書状。信之が江戸で二代将軍・秀忠のもとでの活躍を目出度いとしつつも、今年の冬は不自由で察して欲しいと。慰みに連歌を勧められたが老いの学問で難しいと言っています。戦の日々で教養を高める時間など無かったのでしょう。

 真田信之が、初代小野お通に宛てた松代移封を伝える書状。倉科の里や田毎の月、朝日山や善光寺などの名所が多くあり、都にも劣らないと。しかし、長生きしたため親しい人もいなくなり、朝夕は涙ばかりだと吐露しています。

 松代城と城下の地図。よく見ると現在の道と同じ通りがけっこうあるのが分かります。千曲川が城のすぐ横を流れているので戌の満水の前の地図だと分かります。

 5代藩主・真田信安が描いたもの。狩野派に師事したのでしょうか。見事な描写力です。

 6代藩主・真田幸弘所要の筆。馬、羊、鹿、狸、猫などの動物の毛だそうです。

 閉じても開いている様に作られた扇子。鮮やかです。

 8代藩主・真田幸貫の子・幸良の性質の貞松院の住居・新御殿の庭。庭園の面影は今も残っています。左奥は狼煙山、右は象山から鏡台山まで続く戸神山脈。武田別働隊が超えたと伝わる山脈です。当ブログでは、古文書に残る地名からそのルートを推測して記事にしています。

 帰りに松代城に寄りました。観光客もちらほらと。中にある大正時代の大きな石碑が松代城ではなく海津城と書いてあるのですが、なぜでしょう。幕末から明治初期の松代藩のことを調べれば分かります。

 松代城(海津城)から見る上杉謙信が最初本陣とした斎場山(妻女山)と、七棟の陣小屋を建てたという陣場平。海津城との距離感が分かると思います。近いです。間者もいたでしょうし、炊飯の煙とか大勢での移動とか丸見えだったと思います。

『龍馬伝』にも出た老中松平乗全の掛け軸から推測する幕末松代藩の人間模様(松代歴史通信)

斎場山から天狗山へ。上杉謙信斎場山布陣想像図。古書の虫干しで大発見(妻女山里山通信)

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。地形図掲載は本書だけ。山の歴史や立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。10本のエッセイが好評。掲載の写真やこのブログの写真は、有料でお使いいただけます。

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「信州の街道」北国西往還(善光寺道)。芭蕉も歩いた林道猿ヶ馬場線を下る(妻女山里山通信)

2022-06-10 | 歴史・地理・雑学
 木曽谷からの帰りは、塩尻から高速に乗り、安曇野で下りて国道403号へ。高速代節約もありますが、高速は途中で寄り道もできないし、単調で飽きるのです。長男が大学で伊那や松本に住んでいたときも、使うのは渋滞する区間だけ。やはり下道の方が楽しい。今回は、以前から下ってみたかった林道猿ヶ馬場線を下ってみました。古道を歩くというのはブームになっていて、私も勘助道とかいくつか探索したことがあります。勘助道については、ある出版社から、古い谷街道(北国街道東脇往還)についてもマニアから、問い合わせを受けたこともあります。

 403号の筑北村にできた新しい滝上トンネル。これができて本当に便利になりました。しかし、こんな岩の塊の山をよくぶち抜けたものだと思います。現在、長野自動車道に筑北スマートインターチェンジを建設中です。これができると益々便利になります。筑北村や麻績村にも善光寺道の見どころがたくさんあり、ブログ記事にしています。

 筑北村、麻績村を通って聖湖(猿ヶ馬場池)で休憩。溜池の様に見えますが、自然湖です。へらぶな釣りの太公望。ここは全国から釣り人が来ます。湖の向こうにそびえるのは拙書でも紹介の三峯山。頂上に展望台。左にスキー場、右にスライダー、麓にキャンプ場、手前に自衛隊の戦闘機やら公園やら。写真の右後方にはピザが美味しいレストラン。のんびりするにはいい所です。

 長野方面へ数百メートル行くと左に林道猿ヶ馬場線の入り口があります。北国西往還は善光寺道と呼ばれ、善光寺詣での参拝者や『東海道中膝栗毛』の弥次喜多、松尾芭蕉も歩いた街道です。古代は冠着山と三峯山の間の古峠が主流で、その後、鎌倉時代に三峯山近くの一本松峠が開かれ、戦国時代に、さらに北の猿ヶ馬場峠(946m)が開通しました。武田信玄の命で配下の馬場美濃守によって開発整備されたと伝わっています。道の幅は、二間(3.6m)ではなかったかと思われます。五街道は四間(7.2m)、場所によっては七〜八間(12.6〜14.4m)と、かなり広かったといいいます。

 林道猿ヶ馬場線は、必ずしも往古の善光寺道をたどっているわけではなく、合流したり善光寺道を横切ったりしています。全線舗装されていますが、林道はもの凄く傾斜が急なので、運転には注意が必要です。冬期は通行不能でしょう。今回も杉の葉が溜まっているのを重機で掃除した跡がありました。林道は、Googleのストリートビューで見られます。全線ほぼ杉林の中なので、眺望は全くありません。また、道幅が車一台分なので対向車に要注意です。

「火打石茶屋跡」。四阿と歌碑があります。「をばすては これからゆくか かむこどり」芭蕉。1688(貞享5)年に更科紀行の際に詠んだ句。

 江戸時代には松代藩から宮下、松崎、大井の三家が各一千坪の山野を与えられ茶屋を営みながら山賊から旅人を守る命を受けていたそうです。松本盆地と長野盆地を結ぶ非常に重要な道であったことが分かります。「姨捨十三景」とは、「冠着山、鏡台山、有明山、一重山、田毎の月、桂木、宝ヶ池、姨石、姪石、甥石、小袋石、雲井橋、更級川」。
信州更級郡姨捨山十三景絵図法光院長楽寺:長野県立歴史館所蔵

 大井の茶屋があった展望所「のぞき」。望遠鏡があったという記述がありますが、江戸時代中期以降でしょうね。左向きの矢印は未舗装ですが、下ると国道403号を渡って姨捨駅に着く道があります。

「くつ打ち場」。草鞋(わらじ)をはきかえさせたというのが面白い。シダ植物が50数種分布するというのが凄い。藻類やコケ類も多いのではないでしょうか。オオバノイノモトソウ(大葉井許草)は見かけますが、今回初めて名前を知りました。

 長野国道事務所が発行する「信州の街道探訪シリーズ」の「北国西往還」の地図。
「信州の街道探訪」郵送料のみで入手できます。また、PDFファイルをダウンロードできます。

 林道猿ヶ馬場線を下ると桑原宿。更に善光寺道を行くと稲荷山宿。そこに鎮座する武水別神社(たけみずわけじんじゃ)。木曽義仲はじめ武田信玄や上杉謙信にも尊崇された信濃国四宮。本殿は諏訪出身の工匠立川和四郎富昌(二代目)によって嘉永三年(1850)に完成しました。
お八幡(はちまん)さんと親しまれる稲荷山宿の武水別神社へ諏訪立川流の宮彫の撮影に(妻女山里山通信):見事な宮彫りの写真を掲載しています。

 国土地理院の地形図の林道猿ヶ馬場線を彩色してみました。拙書の地形図は申請して許可を得ましたが、ブログに掲載の場合は不要です。のぞきから姨捨(おばすて)に至る道も古道で、松尾芭蕉が歩いたのはこの道でしょう。一里塚から中沢川へ尾根を下る山道の破線がありますが、現在も通れるかは不明です。
 右のスイッチバックで有名な篠ノ井線の姨捨駅、長野自動車道の姨捨SA、その上の403号の千曲川展望公園からの善光寺平の景色は必見です。特に夜景が素晴らしい。田毎の月で有名な長楽寺からは、棚田の絶景や拙書にも載せている姨捨山(冠着山)や観月の鏡台山が見られます。

 国道403号の千曲川展望公園からの善光寺平の夕景色。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。地形図掲載は本書だけ。山の歴史や立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。10本のエッセイが好評。掲載の写真やこのブログの写真は、有料でお使いいただけます。

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木曽平沢の漆器祭へ。御料館と木曽義仲館、義仲と巴御前の墓参へ その2(妻女山里山通信)

2022-06-08 | 歴史・地理・雑学
 午後は木曽福島の御料館(旧帝室林野局木曽支局庁舎)へと向かいました。木曽の森林は、江戸時代は徳川直系の尾張領とし、1665年に留山制度を敷き、木曽五木(ヒノキ・サワラ・アスナロ・コウヤマキ・ネズコ)等の伐採を「木一本、首ひとつ」と言われるほど厳しく禁止しました。明治2年に官有林となり、明治23年に皇室所有の御料林となりました。御料館は、そんな木曽谷の森林文化を発信するための施設です。

 上の興禅寺から見た御料館と入り口。1927(昭和2)年に、大火で消失し、現在の建物は同年に再建されたアール・デコ様式のものです。入場無料で、展示室や子供が遊べる木育ルーム、多目的実習室などがあります。

 二階の支局長室。両隣には大会議室と秘書室があります。制服が明治を感じさせます。母校の清野小にも、妻女山に史跡見学に来る皇室や軍関係者のためにこの様な貴賓室がありました。

 標本展示室。木曽地域に生息する動物や昆虫の標本が展示されています。蝶類は、国蝶のオオムラサキやアサギマダラなど80種。カミキリムシが140種余り、トンボや甲虫も数多く展示されています。木曽は生物も多種多様で、開田高原には長野県ではそこにしか生息していない絶滅危惧IA類のチャマダラセセリがいます。幼虫の食草は、春に咲くバラ科のミツバツチグリとキジムシロ。
希少野生動植物保護回復事業計画 (チャマダラセセリ):長野県の取り組み

 驚くべきはこの「木曽谷模型」です。プラスチックではありません。なんと明治13年に木曽檜で作られたもの。翌年、東京の上野公園での第二回内国勧業博覧会に出品されたものです。その後、長く伊勢神宮に収蔵されていました。作者は、今もある岩屋旅館の当主だった児野嘉左衛門(当時73歳)です。奥の高い山が御嶽山。右手前の白い山が中央アルプスの木曽駒ヶ岳。深い木曽谷に青い木曽川。正確な地形図やGPSもない頃によくこれだけの立体模型が作れたものだと感心します。見飽きません。

「木曽谷模型」制作の元になったといわれる木曽谷の地図。谷の名称が非常に細かく詳しく書かれているのが分かります。嘉左衛門は、御岳参りの講に人々を案内する先達をつとめており、参道の石像も彫っていたそうで、地形に詳しく彫刻の技術もあったのでしょう。制作費として350円を受け取ったそうですが、現在の価値にすると約700万円ぐらいとなります。鉄道も自動車もない時代ですから、上野まで荷車で運んだのでしょう。
木曾山林資料館:歴史の中のエピソードに「木曽谷模型」の詳しい記事があります。

 大正時代の木曽森林鉄道の写真。最盛期には、路線の総延長は400kmにものぼっていました。機関車は、アメリカのボールドウィン製のものと思われます。赤沢自然休養林で保存されています。

 御料館からは中央西線が見えます。ワイドビューしなのと呼ばれる特急「しなの」が走っていきました。現在の車両は、制御付き自然振り子式車両の383系電車です。1995(平成7)年から使用されており、27年の歴史があります。長野寄りの先頭車は前面パノラマ風景も楽しめるグリーン車です。平成感が半端ないデザインと内装が人気です。

 隣りにある臨済宗妙心寺派の寺院・萬松山興禅寺へ。木曽義仲の墓所に参拝。

 大きな枝垂桜は、義仲公御手植の松桜二代目「時雨桜」だとか。脇には、山頭火の「たまたま 詣でて木曽は 花まつり」の歌碑が。この向こうには、1963年に作庭家重森三玲氏により造られた枯山水庭園「看雲庭」という石庭(国の登録記念物)があります。

 興禅寺墓地の説明。

 次に「義仲館 YOSHINAKA MUSEUM」へ。木曽義仲公と巴御前。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、脚光を浴びています。

 館に入って正面に木曽義仲公と巴御前。解説が流れます。資料館といいますが、なにせ戦国時代の遥か昔、源平合戦とか大塔合戦の時代の人物ですし、第一級史料はほとんど残っていません。義仲や巴御前にまつわる話や人物像なども、後年作られたものです。展示品もそういう作品がほとんどです。
「義仲館 YOSHINAKA MUSEUM」

 歌川 豊宣(うたがわ とよのぶ)安政6年〈1859年〉‐ 明治19年〈1886年〉作の「倶利伽羅谷大合戦図」。富山県小矢部市、倶利伽羅峠の南斜面にある深い谷で、平安時代後期の1183年(寿永2年)5月11日に木曽義仲が平家軍に大勝した戦を描いたもの。勇猛果敢に戦う巴御前が描かれています。

 木曽義仲にまつわる各地の写真。これは川中島や塩田平辺りのもの。私がホームグラウンドとする妻女山麓の横田河原や横田城跡も。

 館のガイドの女性にすすめられて義仲の菩提樹、臨済宗妙心寺派の日照山徳音寺へ。山門は、1723年建立の重層楼門。義仲24代後裔の木曽義陳の発願により犬山城(愛知県犬山市)の城主成瀬正幸の母親が施主となって建立されたもの。「徳音寺晩鐘」は、木曽八景のひとつ。他は、駒岳夕照・御嶽暮雪・掛橋朝霞・寝覚夜雨・風越晴嵐・小野瀑布・横川秋月。

 まず目に入るのは、少女時代の巴御前の騎馬像。男勝りだった伝説に基づく像です。微笑ましい。

 木曽義仲公霊廟。内部には義仲の木像を中心に木曽一族の位牌が安置されています。

 義仲公の木像。意外にこの像が一番本人に似ていたりして。

 境内裏手には義仲、巴御前、小枝御前(義仲の母)、今井四郎兼平、樋口次郎兼光の墓があります。徳音寺の元は柏原寺ですが、義仲の戒名 「徳音院殿義山宣公大居士」に因んで改称されました。石段脇には、フタリシズカやシャガが咲いていました。

 境内に珍しい花が。カルミア(アメリカシャクナゲ)。つぼみが金平糖の様で、つぼみの周りの角は、咲くと花の裏側に。1〜3mほどの常緑低木ですが、原産地の北アメリカとキューバでは10mにもなるそうです。花言葉は「優美な女性」、「大きな希望」など。なんとも可愛く愛らしい花です。

 巴御前が少女時代に泳いだという巴淵。木曽川は伊勢湾に流れ込み太平洋へ。奈良井川は日本海へ。そうです。藪原宿と奈良井宿を結ぶ、中山道木曽路最大の難所といわれた鳥居峠(1197m)が、日本海と太平洋への分水嶺なのです。鳥居峠は軍事的な要衝で、何度も合戦が行われています。
鳥居峠 (長野県):その詳しい歴史。

 謡曲「巴」と巴淵の説明。木曽義仲と巴御前には、様々な物語があります。それだけ、いつの時代にも人々を魅了する題材だったのでしょう。川中島合戦の上杉謙信と武田信玄もそうです。やはり第一級史料が少なく、物語が溢れています。巴淵は今は綺麗ですが、恐らく昭和40年代はもの凄く汚かったと思います。千曲川もそうでした。多くの魚貝類や蛍などの昆虫が絶滅しました。里山もそうですが、農薬や放射能、生活用水などで破壊された環境を取り戻すのは大変ですが、それをしないと次に滅ぶのは人類です。
長野県:歴史・観光・見所:木曽町をクリックすると木曽町・歴史・神社・寺院・城郭・古民家が見られます。

 帰路は、塩尻から高速に乗り、雨の安曇野で下りて国道403へ。筑北村から麻績村へ。へらぶな釣りの聖湖から林道猿ヶ馬場線を初めて下ってみました。古道の善光寺道が度々交差する趣のある道でした。番外編でアップする予定です。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。地形図掲載は本書だけ。山の歴史や立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。10本のエッセイが好評。掲載の写真やこのブログの写真は、有料でお使いいただけます。

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木曽平沢の漆器祭へ。御料館と木曽義仲館、義仲と巴御前の墓参へ その1(妻女山里山通信)

2022-06-06 | 歴史・地理・雑学
 長男から木曽の平沢でやっている漆器祭に行かないかと誘われ、連れて行ってもらいました。日帰りとはいえ久しぶりの遠出でした。木曽漆器は、長野県塩尻市の平沢(旧木曽郡楢川村平沢)を中心に作られている国指定伝統的工芸品です。世界最古の漆は日本で、約9000年前のものが北海道函館市で発掘されています。縄文時代前期(約5500年前)には、漆器、飾り弓、飾り太刀、櫛、笄(こうがい)、壷、甕(かめ)など現代に勝るとも劣らない工芸作品が製作されていました。漆の赤は、血や魂の色で、魔除けや再生、繁栄を意味したものともいわれています。漆を発見し、探求して実用化したその高い技術には驚嘆せずにはいられません。「縄文時代 漆」で検索すると分かります。
「全盛期の縄文土器」ー圧倒する褶曲文ー 長野県立歴史館:尽きない縄文の魅力(妻女山里山通信):縄文時代の高度な文化に触れてください。

 奈良井川の橋から見る平沢の町並み。「木曽路はすべて山の中である」という島崎藤村の小説『夜明け前』の言葉通り、山に挟まれています。600mほど上流の屋内運動場横に駐車して、シャトルバスもありますが気持ちのいい奈良井川沿いの小道を歩きました。奈良井川は松本平で犀川に合流し、千曲川、信濃川となって日本海に流れます。

 平沢宿の入り口にある説明。中山道に沿って間口三間の奥行きの長い敷地の家が並んでいます。家は表から店、お勝手、座敷。その奥に二階建て土蔵造りの塗り蔵などがあります。街は、平成18年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

 伝統的な家が並ぶ趣のある町並み。漆器店がたくさんあります。骨董品店も。

 店によって個性があるので、色々覗くと楽しいのです。

 店頭にはセール品が並んでいます。50円100円から数千円、数十万まで。高級品は店の奥にあるので、店内も見るといいですね。目の保養になります。

 レトロな洋館と黒い蔵が並んだお洒落な蕎麦屋さん。木曽檜コーラというのが面白い。まだ昼前なので入りませんでしたが、けっこう混んでいました。窓の桟や壁の装飾が非常に美しい。

 少しずつ人も増えてきました。中央に囲炉裏のある豪華なテーブルは売約済みでした。お椀や箸だけでなく、座卓や座椅子、茶器、こね鉢などなんでもあります。お弁当や山賊焼き、かき氷などの屋台も出ています。

 漆塗りのスバル360は、マスコミでも取り上げられましたが、今日は出張中。その代わりダイハツミゼットが。1957年〜1972年まで生産・販売されていた懐かしい車です。桑田佳祐監督の映画「稲村ジェーン』に出てきました。この店には他にもハイセンスな漆商品が並んでいます。

 小路を入って漆グラスの店へ。街のあちこちにオダマキ(苧環)が咲いていました。

 丸嘉小坂漆器店の非常に美しい漆を使ったグラス。数千円から数万円まで色々あります。漆硝子は、ネットでも買えます。特に若い女性が多く訪れていました。

 長男は、漆塗りのめんぱを買いました。めんぱは、檜の曲木細工の弁当箱です。ここから左の道へ曲がって金西町の通りへ。

 伝統的建築。なかなか凝った作りです。

 焦げ茶と白の繰り返しが美しい。

 小路を抜けて中山道に戻りました。親子で漆塗りの実演をしていたので、色々お話をうかがいました。ひょうたんとうるしの作家・いちだめぐりさん。漆は水分と化学反応を起こして硬化するので、適度な湿気が必要。900mの高地にある周囲を山々に囲まれた木曽の湿潤な気候は、漆を塗るのに適しているのです。手前のはサラダ油で、使う刷毛をサラダ油で漆を洗い落とすのだそうです。かぶれませんかと聞くと、男の子の膝が赤くなっていますが、漆が付くとやはりかぶれるそうです。でも慣れているみたいです。敏感な人は、ハゼノキやヌルデでもかぶれることがあります。お手伝いするとご褒美があるそうで、一生懸命に塗っていました。いい工芸作家になるのではないでしょうか。塗っているのはめんぱです。

 和服の女性も何人もいました。宿場町にはよく似合います。木曽の酒といえば七笑です。ジビエとか鮎などにもよく合います。漆器は英語ではJAPAN(Japanese lacquer)と呼ばれ人気です。今回はコロナで外国の方はほとんどいませんでしたが、治まればたくさん訪れるでしょう。

 奈良井川沿いを歩いて帰ります。中央西線は、奈良井川の左岸や右岸を何度も渡っています。

 河川敷に咲くヒレハリソウ(鰭玻璃草)。別名は、コンフリー。ヨーロッパ原産の多年草で、食用、薬用、牧草として使われましたが、肝機能障害をおこす恐れがあるそうです。他にはマーガレットも咲いていました。

 かなり古い砂防ダムがありました。水が流れ出た跡が赤茶色になっていますが、鉄分が多いのです。その鉄分を多く含んだ錆土(さびつち)が、木曽漆器の下地の材料に使われ、丈夫で高品質な漆器を生み出すのだそうです。

 昼食を食べに向かう途中で、木曽駒ヶ岳が見えました。昼は、鳥居トンネルを抜けて木曽川水系へ。人気の蕎麦店、木曽町の「阿羅屋」へ。こしのある色が濃く細い蕎麦は絶品。かえしとくるみダレがつきます。野菜天といただきました。食後は木曽福島の御料館(旧帝室林野局木曽支局庁舎)へと向かいました。義仲館、興禅寺と徳音寺と合わせて、次の記事で紹介します。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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清野氏の鞍骨城跡のある鞍骨山へ。登山道整備をしながら登るGWの最終日◆その1(妻女山里山通信)

2022-05-09 | 歴史・地理・雑学

 陣場平の貝母は散り実がなっています。5月下旬には直径2センチぐらいになり、6月に入ると枯れた実から種を飛ばし始めます。保全作業も一段落したので、久しぶりに鞍骨山(鞍骨城跡)へ登りました。5組ぐらいのハイカーと出会いました。何組かは拙書の読者でした。コースの整備も兼ねているので、剪定ばさみとのこぎりを携帯します。その1と2に分けて掲載します。

 林道から左へ天城山(てしろやま)への登山道を登ります。新緑の緑にヤマツツジの赤が映えます。その昔、松枯れ病の薬剤を入れた青いプラスチックのタンクがあちこちの枝に差してあるので帰りに全部回収します。プラゴミですし、猛毒の薬剤が残っている可能性もあります。最終的に20個ほど回収しましたが、前回は25個ほど。それ以前にも何度も回収しているのですが、どんどん出てくるのです。もう公害レベルです。当時の長野県の対応がいかに杜撰だったかが分かります。ベトナム戦争の枯葉剤を製品化したモンサントのラウンドアップや草退治などは絶対に使ってはいけません。欧米では製造使用禁止が広がっています。「ネオニコチノイド系農薬一覧」や「グリホサート剤」で検索を。このブログでも特集記事を何本も載せています。ネオニコチノイドでブログ内検索してください。あなたとあなたの愛する人達を守るために。
ネオニコチノイド系農薬一覧:主成分は、ベトナム戦争でベトちゃんドクちゃんを生み出した枯葉剤です。こんなものを除草や殺虫剤として使ったらどうなるか猿でも分かる。それが今の日本の現状です。

 直登すると5分ほどで天城山山頂(694.6m)。坂山古墳があります。鞍骨山へは左の巻道をたどります。登山道のヤマガシュウを何十本と切っています。根本を切るので、そのたびにしゃがんだり立ったりで疲れます。

 陣場平から1時間で二本松峠。登るだけならこんなにかかりません。右へ倉科へ下る清野坂。ひだりへ清野へ下る倉科坂。倉科の人が清野へ行くために登った坂なので、倉科側が清野坂なのです。鏡台山までは鞍骨山、御姫山、大嵐山(杉山)を経て6キロです。

 二本松峠から鞍骨山までは850m。

 道は尾根の南側をたどります。この時期は、鏡台山から親子連れの月の輪熊が山際にある淡竹の筍を食べに来ます。ホイッスルと熊鈴を必ず携行してください。見通しの悪いところではホイッスルを鳴らして。

 やがて駒止といわれる深い堀切が現れます。

 更に進むと、妻女山展望台からも見える高圧線の鉄塔をくぐります。2009年にこのコースを整備した時は、エビガライチゴとヤマガシュウで塞がれていました。毎年3月上旬に伐採を続けました。千曲市の緑を守る会や標識を立てている倉科のMさんなどが整備をしてくれて、やっとまともな登山コースになりました。

 鉄塔のすぐ向こうに二条の堀切。今回もバラをたくさん切りました。普通のハイカーは剪定バサミは持っていないので、バラで塞がれたら引き返すしかないですから、整備は必要です。

 堀切を超えると城内で、両側に特に南側に顕著な削平地があります。尾根の上には猛毒のヤマトリカブトの群生地があります。山菜の似ているニリンソウの群生地と混じっているので、要注意です。間違えたら命も危ないです。

 100mほど進んでいよいよ鞍骨城本郭へ登ります。2016年にトラロープとかまぼこ板の矢印をつけました。左から回り込んで上へ。

 かなり崩れた石の道を登ります。写真の上部で分かる様に、ここにはもっとちゃんとした石積みがあったのかも知れません。長野市や千曲市は、この山城の保存をどう考えているのでしょう。坂城町の葛尾城跡は、木道や木の階段を設置して保護しています。

 登ると大ケヤキのあるかなり広い郭(くるわ)。ここで向こう側(南面)へ回り込みます。

 見上げるとずっと上に本郭の石積みが小さく見えます。

 南面の細い道を登っていきます。滑落に注意が必要です。山城の雰囲気がたっぷり伝わってきます。

 凹みのある南面の郭。向こう側に回り込んでつづら折りで虎口へ。かなり狭い道なので慎重に。

 本郭下の狭い郭。

 本郭直下の石積み。善光寺地震や松代群発地震を乗り越えてきた石積みです。

 南面の虎口から見る本郭。
清野氏と戦国時代:清野氏が信濃国の記録に残されているのは、室町時代に入ってからで、十五世紀の半ば永享の乱の前後から十六世紀の終り、上杉景勝が豊臣秀吉の命により、越後から会津に移るまでの百五十年余りの間と思われる。清野氏の歴史。
小春日和の週末は、鞍骨城跡のある鞍骨山へ登山道整備しながらトレッキング(妻女山里山通信)

 ◆鞍骨山その2へ続きます。↓

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本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
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清野氏の鞍骨城跡のある鞍骨山へ。登山道整備をしながら登るGWの最終日◆その2(妻女山里山通信)

2022-05-09 | 歴史・地理・雑学
 鞍骨山その1からの続きです。

 本郭からの松代城の眺め。中央の梢の間から松代城が見えます。展望を得るには、落葉期の12月から4月上旬がおすすめです。上信越自動車道の上に金井山城跡。その奥にエム・ウェーブが見えます。

 鞍骨城跡本郭。標高798mの鞍骨山山頂。鞍骨城は、旧埴科郡の山城の中で最大。本郭は、西辺20m、南辺17m、北辺9.7mの不整方形。西方に脇郭と副郭、さらにその西に大郭と狭長な郭があり、堀切を隔てて平坦部が続きます。本郭の北東には土塁があり、外側は石積みになっています。南面に比べて北面は険しく傾斜が急です。このため南面が大手とされたようです。この城は、清野氏の要害であったことは間違いありませんが、永正年中(1504-1520)清野山城守勝照の築城説については明証がありません。

 清野村誌によると、「村の北の方、字中沖にあり。往古本村領主清野氏数代之に居す。年月不詳。清野某海津に移り、該地に倉庫を建つ。此時より禽の倉屋敷と称す(現在の松代城の場所)。天文、弘治中、清野山城守武田氏に敗られ、越後に逃走するに及び武田氏の有となり、天正十年三月武田勝頼滅び、織田信長の臣森長可の有となり、六月信長弑せされ長可西上するに至り、七月上杉景勝の所有となり、某幕下清野左衛門尉宗頼、該地に移り居住すと言う。管窺武鑑に七月四郡(埴科・更級・水内・高井)上杉景勝の有となり、清野左衛門尉を、猿ケ馬場の隣地、竜王城に移とあり。一時此処に居せしか不詳。後真田氏領分の時に至り寛永中焼亡す。後真田氏の臣高久某此域に居住し、邸地に天満宮を観請す。弘化二乙己四月村民清野氏の碑を建つ。」と記されています。

 信濃の小領主であった清野氏は、村上義清の配下でしたが、天文22年(1553)8月、村上義清が上杉謙信を頼り逃れると、清野氏は、道寿軒と長子清秀が上杉方に、次子信清(清寿軒)は武田方にと、親子兄弟敵味方に分かれて戦いました。どちらが勝っても一族が生き延びるという苦肉の策。その後、武田が滅びると上杉の会津移封に伴って清野を去ったのです。信濃の小領主たちは、甲越どちらかにつくか、親子兄弟別れるかして、いずれにしても信州先方衆として真っ先に戦わなければならなかったのです。

 武田氏滅亡後、鞍骨城は『景勝一代略記』によると、 1582(天正10年)7月に上杉景勝が「清野鞍掛山の麓、赤坂(現妻女山)と云所に御馬を立てられ…、鞍掛山へ御上がり云々」との記録があり、景勝と北条氏政が川中島四郡支配を争った際に、上杉方がこの一帯に陣取った様子が記されています。そういう経緯から、今の鞍骨城は、景勝時代の姿ではないかともいわれています。そんな城跡を500年前の石垣かと思って触れると、色々な事を思います。なぜ人は戦ばかりするのだろうとか…。いずれにせよ山城マニア、戦国マニア必見の山城です。

 本郭から土塁を越えて下ると小さな郭があります。本郭では、鋭い棘のあるノイバラやヤマガシュウをたくさん切りました。

 そこから20mほど痩せ尾根を進むと二箇所展望岩があります。まず西側の展望岩。岩場にはネズミサシの木があるので葉に触れると痛いです。

 西展望岩からの眺め。標高800m近いので、新潟焼山の山頂が見えます。

 少し先に東側の展望岩。北風が強いので木の葉が激しくなびいています。

 東展望岩から戸隠西岳を望む。

 その右に戸隠富士と呼ばれる高妻山(2353m)。

 左には白馬三山が。白馬岳(2932m)の大きな山容が印象的。

 正面には御開帳で賑わう善光寺。右手前には武田信玄が本陣としたと伝わる八幡原(はちまんぱら)。

 陣場平ではすでに散ってしまったズミが満開でした。

 林床に妖しく咲くマムシグサ(蝮草)。サトイモ科テンナンショウ属の多年草。薬草で毒草です。

 鞍骨山から妻女山へ戻る際に気をつけなければいけない天城山(てしろやま)手前の分岐。左へ巻道を行くと倉科将軍塚、鷲尾城跡を経て倉科に下りてしまいます。正面は、天城山を越えて芝山、明聖霊神、唐崎城跡を経て雨宮に下ります。妻女山に戻るには右の巻道を進みます。

 清野古墳のある尾根の西面の樹間から爺ヶ岳と鹿島槍ヶ岳が見えました。

 2時少し前に陣場平に戻りました。山仕事はしていましたが、山登りは使う筋肉が異なるので、久しぶりで脚の筋肉がパンパンになりました。というかバラを切るたびにしゃがんだり立ったりを百回以上したのが原因でしょう。いい運動になりました。北風に吹かれて体が冷えたので温泉へ向かいます。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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