モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

山菜三昧(妻女山里山通信)

2010-04-29 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 寒さで芽吹きが遅れていた信州の里山にもようやく山菜の日々が訪れました。といっても林道脇のめぼしいものは、ハイカーや山菜採り初心者によってまだ小さなうちに採られてしまいます。固く小さなものはまだ甘みも少ないのですが、枝ごと切り取られるよりはいいでしょう。タラノメやハリギリは、その植生を知っていれば、初めての山でも比較的容易に探し出すことができます。とはいえ留山になっているところで採るのは御法度ですが。

 今の季節、山菜採りに疲れて倒木に腰を掛けて休んでいると、森の色々な命の営みが聞こえたり見えてきます。自然というのは人の心を裸にするので、己を偽って生きている人は都会では生きて行けてもこういう自然の中では恥ずかしくて行き場を失うでしょう。人間の小さな虚栄心や嘘など自然の中では通用しませんから。森が潜在意識のメタファーとして使われるのも、実際にひとりで深い森にいるとよく分かる気がします。
 ニホンカモシカの真っ直ぐな眼差しを見られるかどうか。野生動物は、たとえ子供でも凛としています。自分らしくなどという倒錯した概念もあるはずもありません。彼らは自然と一体なのですから。自然から学ぶことは実に多いのですが、そう思っている間はまだ一体化していないということなのでしょう。まだまだ修行が足りませんか。

 背の低いタラノメには、ニホンカモシカの食痕が見られます。彼らも山のバターともいわれる山菜の栄養価を知っているのでしょう。もちろん背の高いものは彼らには採れません。そこでなるべく背の高いものをいただいてくるわけですが、これには現地で作る手作りの道具が必須です。そして、タラノキは比較的固く折れやすいので、倒す方向が決め手です。これを間違えると折れてしまい、翌年はもう採れません。

 最近ハリギリが人気です。幻の山菜などといわれてもいますが、あるところにはたくさんあるものです。タラノキと同様に、なるべく下のわき芽は残し、枝が増えるようにします。こういう木を森の中でみつけると、先人が大切にしてきたのだろうなとおもわずにはいられません。5年10年とかかることですから。そういう木をみつけると、一本で充分な量が採れます。

 山で出会ったおじいさんが、刺のないタラノメも食べられるよねと言っていましたが、それは栽培種で山には自生していません。山で刺のないタラノメといったらヤマウルシなどで、毒です。山菜ブームですが、正しい知識を持たないと非常に危険です。似た毒草は完璧に見分けられるように覚えておかないといけません。ニリンソウとヤマトリカブト、セリとドクゼリなど。間違えたら命取りになります。

 コシアブラは最近人気ですが、妻女山山系にはありません。これといった特徴のない木で、しかも他の木が芽吹くころに出るので初心者にはなかなか見つけられないと思います。いずれも天ぷらで塩でいただくのがベストですが、炊き込みご飯も絶品です。人の不幸の上にあぐらをかいて平気で幸せを謳歌するようなご時世ですが、山の幸とはよく言ったもので、節度さえ守れば最も手軽に自然の恵みを堪能できる小さな幸せです。

★新信州郷土料理は、MORI MORI RECIPE(モリモリ レシピ)をご覧ください。山菜・キノコ料理、内臓料理、ブラジル料理、エスニック、中華の込み入った料理などの「男の料理レシピ集」です。山菜料理も豊富です。アマゾン料理も!

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。山藤は樹木で。他にはキノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、特殊な技法で作るパノラマ写真など。カタクリは、花 春に載っています。
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村上義清の葛尾城跡から一重山へ、五里ケ峯山脈踏破!(妻女山里山通信)

2010-04-27 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 高校時代の友人達と村上義清の坂城町へ。うだつのある古民家を見ながら坂城神社へ。ここを出発地点として葛尾城跡経由で五里ケ峯(五里ケ峰)へ登りました。ちょうど葛尾城跡の祭ということで、城跡は地元の老若男女で賑わっていました。後方の林道からは野菜や米をかついで大勢人がやってきます。これから大宴会が始まるようです。我々は後ろ髪引かれつつも、途中ランニングの人とすれ違いながら五里ケ峯へ。

 急登をこなすと以外にあっけなく山頂に着きます。普段の行いが良かったのか、悪童共の毒気に雨雲も退散したのか、ドピーカンの晴天。北アルプスの大パノラマが堪能できました。なんと槍ヶ岳の先っぽも見えました。休憩もそこそこに勘助道へ。ロープを頼りに100mほど急斜面を下ります。約一名がこけたものの、なんとか全員無事に鞍部へ。

 ところが、振り返ってあまりの急斜面に、ここを登り返すのはいやだとみなだだをこね始めました。宮坂峠へ下って戸倉に下りておべちゃ入って帰ろうと言い出す始末です。宮坂峠から戸倉では、延々と西日を浴びながら舗装路を下らなければなりません。これはたまらんと、どうせなら一重山まで歩こうと提案。それなら、打ち上げに予定している屋代駅前の居酒屋も目の前と。この先はずっと下りだからと。実はかなりのアップダウンがあるのですが…。というわけで、五里ケ峯往復で帰りは飯縄山で岩遊びは中止。急遽目標は五里ケ峯山脈(五一山脈)踏破となりました。

 その前に勘助道に寄ります。勘助道(勘助横手)については、10年3月22日のルポで紹介しました。勘助道は、伝説上のものであり史実とは証明できませんが、武田軍が難攻不落といわれた村上義清の葛尾城を背後から攻略するために、山本勘助が造らせたという軍道です。五里ケ峯は、旧森村では寥亮(りょうりょう)山と呼ばれました(埴科郡誌より)。寥亮とは、声や音が澄んだ音色で響き渡る様で、寥戻(りょうれい)ともいいます。森側が伐採されたので、勘助道からはその山名の由来が納得できる風景が広がります。

 さてその先は、天狗山までは行きましたが、さらに先は私も初めてでした。埴科郡誌にある山名をチェックしながら歩いたのですが、どうにも気持ちが先に行ってしまうのか、実際の位置となかなか上手く照合しません。尾根にはまばらに千曲市が設置した方向の標識はあるのですが、主な山に山名を書いた標識があれば現在位置が分かっていいのにと思いました。今ここがどこなのか分からないのです。

 途中の明るい落葉松林の中で昼にしました。シートを敷いてそれぞれが持参したビールとつまみとおにぎりで、おじさん達が森の中で宴会という妖しげな光景となりました。近くには御嶽講の石碑がありました。ツツピーと四十雀が鳴いていました。浮き世の騒音もここまでは届きません。今年は寒さのため花は、草木瓜と霜に当たってしおれた躑躅ぐらいでしたが、芽吹き始めた里山はやはり春の香り。

 葛尾城跡から五里ケ峯には、クヌギの仲間のアベマキが生えています。珍しいな、植林でもしたのかなと思っていたら、五里ケ峯山脈のいたるところにありました。一本東の戸神山脈にも、千曲川を距てた西山にもあまり見られないので不思議な感じがします。コシアブラは全くありません。赤松の自然林は至る所にあります。五里ケ峯では見られなかった松食虫や松枯病が北へ向かうほど見られるようになります。

 ところで埴科郡誌には、宮坂峠手前に戸倉城跡(樫井城跡)があるというのですが、それらしきものは見あたりませんでした。ところが有明山手前の久保峰と思われる頂では、山城跡かと思われるような郭の形や、積石塚古墳かと思われるような跡が見られました。これは千曲市も未調査の場所でしょうか。謎です。

 森将軍塚古墳に到着で、ようやくコースも終わりです。あとは一重山に登るだけ。この一重山ですが、国土地理院の地形図では、458mの屋代城跡本郭を一重山と記していますが、本来はここは小島山(おじまやま)といい、一重山はさらに北に下りて登り返した三本柏のあるピークになります。五里ケ峯山脈の終焉は、一重山不動尊と鐘突堂ですが、この先端を蹄ケ崎(ひづめがさき)といいます。その名の通り屋代城跡では、この山の主・ニホンカモシカが出迎えてくれました。

 この時点で膝痛のため意識朦朧者が約二名ほど。早々に駅前の居酒屋に転げ込みました。生ビールの美味しかったこと。長い山行で懲りたかなと思いきや、結構良かったようで秋もやろうということになりました。

★このトレッキングは、後日フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】の「葛尾城跡・五里ケ峯・勘助道・一重山」を御覧ください。




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草木瓜の 朱儚くて 刺の道(妻女山里山通信)

2010-04-26 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 妻女山の尾根筋には、この季節足元に朱色の可愛い花が咲いています。高さは約30センチから大きくても1m。ほとんどは、50センチ以内です。草木瓜(くさぼけ)の花です。早春に咲く木瓜(ぼけ)と似ていて小さく区別するために草木瓜と命名されたようですが、草ではなくバラ科ボケ属の落葉性低木です。花の色は、朱色からもうすこし赤が強い紅緋色まで。足元の小さな緑の葉の中で非常に目立ちます。

 小さくても一応木なので草をつけたネーミングは、ヒットとはいえないでしょうね。生薬名の和木瓜(わもっか)の方がいいような気がします。別名は地梨(じなし)といいますが、秋に小さな梨のような実をつけます。初めは黄緑で、黄色くなり、やがて赤味が差します。ただ本当に地面近くになるので、そのつもりで探さないと見落とします。他には、朱留(しどみ)、野木瓜(のぼけ)、小木瓜(こぼけ)などとも呼ばれます。

 リンゴ酸、クエン酸、酒石酸などの有機酸が多量に含まれるため、果実酒にすると黄金色の大変美味しい草木瓜酒ができます。疲労回復や慢性リューマチに効くそうです。

「草木瓜の 朱儚くて 刺の道」
地面すれすれに咲く草木瓜の朱色の花は本当に愛らしく、美しい乙女が思わず手を伸ばしてしまうのですが、小さな花と葉の陰には鋭い刺が隠れていて、触れると思わず「痛てっ!」などと無粋な言葉を吐いてしまったりするものです。綺麗な花には刺があるのは薔薇ばかりではありませんが、そういえば草木瓜もバラ科でした。花言葉は「一目惚れ」。朱の花の色は儚くて直ぐに色褪せます。人生とは棘の道也。林風

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シナノタンポポに酔いしれたかミヤマセセリ(妻女山里山通信)

2010-04-25 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 妻女山の桜吹雪が春の嵐で高く舞い上がるようになると、展望台からは千曲川沿いに派手なピンクの桃の花と黄色の西洋油菜の帯が広がります。鮮やかすぎて、それはどこか浮世離れした風景です。遠く茶臼山の斜面には林檎の白い花も咲き始めました。

 妻女山の桜が終わると、山の花は樹木から草の季節に移ります。林道脇には鮮やかな黄色のシナノタンポポ(信濃蒲公英)が咲き始めました。シナノタンポポは、在来種カントウタンポポの亜種で、ともに染色体数が2倍体なので受粉しないと種子ができません。

 外見上は、写真のように総苞片全体の大きさが太く、外総苞片と内総苞片の先端の小角突起とが全く無く、緑色した外総苞片と内総苞片の色の濃さが薄いなどの特徴があります。妻女山で見られるタンポポの多くはこれなのですが、車が通る林道脇などには四番目のカットにあるような苞片が水平に開いた外来種との雑種も見られます。便利な車は、こんな里山の奥にまで欧米化を運んでしまいます。

 タンポポといえば、学生時代に読んだレイ・ブラッドベリの『たんぽぽのお酒』(晶文社)を思い出しますが、オリジナルのタンポポ酒というのは飲んだことがありません。ほろ苦い思春期の思い出の味なんでしょうか。タンポポ酒にしろタンポポ茶(タンポポコーヒー)にしろ薬効成分は高いようで、利尿作用があり、不妊症、肝炎などに効くということで、古今東西で飲用されているようです。作り方も色々あるようです。

 そのタンポポに盛んに飛び回って吸密する蝶がいました。タンポポ酒に酔ったのではないでしょうが、吸密に疲れたのか地面にひれ伏して留まりました。セセリチョウ科チャマダラセセリ亜科のミヤマセセリ(深山せせり)です。幼虫の食草はクヌギやナラ類なので、東京では雑木林の減少とともに消えゆく蝶ですが、ここ妻女山では春を告げる蝶の一種としてたくさん見られます。雌は前翅の中央に白い帯があるので、これは雄。忙しなく飛び回っては、タチツボスミレやタンポポで吸密していました。

「蒲公英は 天窓そりけり 更衣(ころもがえ)」
「蒲公英も 天窓剃たる せつく(節句)哉」   小林一茶
 一茶の句は、読んですぐに情景が浮かぶような句が多いのですが、この句はちょっと難解です。天窓剃るとはなんでしょうか。天窓剃って衣替え。天窓剃って端午の節句。天窓は太陽でしょうか。旧暦なら6月5日。衣替えもその頃。タンポポは綿毛になっているものもあります。翁の白髭に例えたのでしょうか。

「蒲公英に 酔いしれて伏す せせり哉」(せせりという漢字は手偏に、王の下に升のノを取ったもの)
 せせり蝶は飛び方もアサギマダラの様に優雅に舞うのではなく、忙しなくパタパタと飛び回ります。吸密した後は、タンポポの蜜に酔ったかのように地面や枯葉の上に翅を広げ、ひれ伏したように留まります。林風
 
★妻女山の真実について、詳しくは、本当の妻女山について研究した私の特集ページ「妻女山の位置と名称について」をご覧ください。

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大きくなったね!ニホンカモシカ君(妻女山里山通信)

2010-04-23 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 桜吹雪の舞う妻女山のわが家の山にノカンゾウを五株ほど植えに行きました。穴を掘って植えているとなんだか視線を感じます。見上げると20mほど上にニホンカモシカが一頭、ジッとこちらを見ています。この辺りを縄張りにしている若い個体です。

 数年前、ここは母親の縄張りでいつも二頭一緒にいたのですが、昨年あたりから母親はここを子供に譲ってもう少し奥の尾根に移りました。二頭は今でも度々妻女山奥の見通しのよい落葉松林で落ち合っています。
 繁殖期には、さらに奥の山から大きな雄がやってきて、二頭で地響きを立てながら追いかけごっこをしていました。

 ニホンカモシカは、オスメスとも角があるのでなかなか個体識別が難しいのです。夏毛と冬毛では微妙に違うし、子供の頃だと親とは大きさが違うので単独で出会っても分かるのですが。こちらのページに、主なニホンカモシカの写真を集めてあるのですが、どれが同じ個体か分かるでしょうか。

 以前にも書きましたが、ニホンカモシカは牛科のためか好奇心が強く、限界距離の外であれば人間を見ても逃げません。手やタオルを振るとジッと見入ってしまいますし、木陰に隠れると覗き込んだりします。そのため、肉馬鹿とか踊り猪と呼ばれて容易く狩られたため絶滅しそうになったのです。

 何回も遭遇していると、動体視力はいいようですが、静止しているものを見つける力は低いように思います。こちらが動いていると数十メートル先でも見つけますが、こちらが風下にいて静止していると7、8m位まで気づかずに接近してくることがあります。

 限界距離は、経験上ですが緑が生い茂り餌が豊富な夏期よりも冬の方が長くなるような気がします。また、座って反芻している時は、かなり近くまで寄れます。人を襲うことはありませんが、それでも窮鼠猫を咬むの例え通り、無茶をすれば襲われることもあり得ます。

 ところで何度もニホンカモシカには遭遇しているのですが、鳴き声を聞いたことは一度しかありません。よくネットでは、「ピシュッ!」とか「フシュッ!」とか鳴くと書かれ、その声の動画もアップされていますが、これは鳴き声というより威嚇音です。限界距離を超えて近づいた時などに発します。その後すぐに逃げますが、「待って!」とか「ちょい待てよ!」と言うと立ち止まって振り返ります。やはり、どうにも好奇心が強いのでしょうか。

 その泣き声なんですが、子を呼ぶ親の声か、その逆かは分からないのですが、一度だけ聞いたことがあります。「メエーッ!」という山羊や綿羊の鳴き声をもっと濁声にした感じで、文字にするのは難しいのですが、「グェーッ!」とか「ギョェーッ!」とかいうような鳴き声でした。

「羚羊の 振り向き振り向き 振り返り」
「羚羊も 二日酔い哉 グエと鳴く」
ニホンカモシカに二日酔いはないでしょうが、苦い蕗の薹や貝母(バイモ)などに食痕があるのを見ると、お腹の具合が悪いときもあるのかもしれません。それにしても寒くて腰痛が癒えません。林風

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フレンチの高級食材アミガサタケの仲間オオズキンカブリタケ(妻女山里山通信)

2010-04-22 | 男の料理・グルメ
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 大きな木の下に見慣れないキノコを見つけました。名前は分からなかったのですが、形と質感からアミガサタケの仲間だろうとすぐに思いました。トガリアミガサタケは、以前たくさん採って食べたことがあるからです。帰って調べてみるとオオズキンカブリタケ(大頭巾被り茸)と判明しました。食菌です。しかし、当地でもその見てくれからか、このキノコを食べる人はまずいないと思います。ですからたくさん生えていても採られる心配は全くありません。

 アミガサタケの仲間ですが、アミガサタケのように傘と軸が一体となって繋がっておらず、軸に傘が乗っかった状態です。そこで大頭巾を被った茸という名前になったのでしょう。
 外見は写真の通りですが、香りはというと秋のシメジやジコボウ(ハナイグチ)などとは全く異なるコクのある匂いです。和風というよりは洋風のこってりした濃厚な香り。なんでもロケット燃料と同じ成分が含まれるとかで、気を付けないと調理中に具合が悪くなる人もいるとか。

 このオオズキンカブリタケですが、抗酸化作用や脂肪蓄積抑制作用などがあるようです。美味しいだけでなく健康にもいいとなれば、たくさん見つけたいところですが、なかなかありません。見つけたら場所を覚えて置いておくより仕方がないですね。たぶん毎年でるでしょうから。山桜の側に出るというのですが、今回は山桜からは7~8m離れていたので、両者の関係は微妙です。このキノコ、軸が蝋細工のようで非常にもろく、すぐに折れてしまいます。採ったら持ち運びには最新の注意が必要です。乱暴に扱うとバラバラになってしまいます。

 アミガサタケは、フレンチの高級食材で、乾燥したモノが結構な値段で売られています。日本では生はほとんど流通していません。春のキノコということもあるかもしれません。タマゴタケと同様に和風の料理にあまり向かないというのも注目されない理由かもしれません。しかし、フレンチやイタリアンで使われるように、このキノコはバターやクリームとの相性が大変良く、独特の風味と相まって大変美味なのです。

 ただし、水溶性の微毒があるので、一度茹でこぼしてから調理します。クリーム煮、リゾット、パスタなどに向いています。今回はシンプルに野良坊菜とバターソテーにしました。野良坊菜は、東京の多摩地域の五日市辺りの伝統野菜です。一時絶滅しかかって幻の野菜といわれましたが、最近人気が高まり栽培も盛んになってきました。息子に種を送ってもらい昨秋に蒔いておきました。春にとうだち菜を食べるのです。アブラナ科の野菜で菜花の仲間ですが、菜花の中では一番美味しいと思います。信州でうまく育つか心配でしたが、それは杞憂でした。たいへん甘く美味しいお菜ができました。3月から5月ぐらいの野菜がない時期に非常に重宝しています。

★新信州郷土料理は、MORI MORI RECIPE(モリモリ レシピ)をご覧ください。山菜・キノコ料理、内臓料理、ブラジル料理、エスニック、中華の込み入った料理などの「男の料理レシピ集」です。特に本格的なアンチョビーの作り方を載せているのは、当サイトだけだと思います。手作りオイルサーディン、手作りソーセージもお薦めです。山菜料理も豊富です。豆料理もたくさんあります。
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八十乙女らが 汲みまがふ 妻女の上の 堅香子の花(妻女山里山通信)

2010-04-21 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 妻女山の山奥の熊が良く出る尾根筋に、今年もカタクリが咲き始めました。昨年も三月中旬に親子連れの熊が目撃されたのですが、カタクリが目当てだったのかは定かではありません。カタクリは、首都圏などでは里山の環境悪化から県によっては絶滅危惧種に指定されているところもありますが、ここ北信濃では里山から亞高山まで広く分布しています。氷河期の忘れ物といわれるように寒冷な気候を好むので、あまりに温暖化が進むと首都圏からはやがて消えてしまうかもしれません。

 そんなカタクリですが、山菜でもあるのです。もちろん保護区や採取禁止の場所では採ってはいけません。天ぷらやお浸し、酢の物が一般的で、特に茎の下部の白いところは甘みがあります。葉はもっちりとして美味です。しかし、食べ過ぎると下すことがあるので注意が必要ですが…。家族分の本数だけいただいて春の味覚を味わうぐらいがいいでしょう。最近では栽培品が食用としてスーパーなどでも売られています。

 カタクリの種には、エライオソームという物質がついていて、これを好む蟻が種を運んで増えるといわれていますが、開花まで7~8年もかかるのです。スミレも同様で、蟻散布植物というそうですが、一種の共生関係なんでしょう。蟻散布植物で調べてみると、カタクリ属以外にスミレ属、イチリンソウ属、フクジュソウ属、ミスミソウ属、キケマン属、クサノオウ属、エンレイソウ属など200種以上もあるようです。自然界における蟻の働きの重要さが分かります。

 妻女山には、クサノオウ、ムラサキケマンがたくさん咲きますが、これらはみな蟻のお陰で増えているのです。蟻がいなくなったら絶滅してしまうのでしょうか。ただ、蟻の行動範囲は数百メートルですから、長距離の移動(散布)には動物など他の要因も必要になってくるのかもしれません。

 カタクリの群生地をよく見ると、所々に細い紐のような葉が出ているのが分かります。カタクリの実生です。小さすぎて上手く撮影できなかったのですが、先端に種の殻がついているものもあります。やがて片葉が大きくなり鹿子模様の斑がはっきりしてきます。そこで、片葉鹿子(かたはかのこ)が転訛して 堅香子(かたかご)になったのではという説があります。花を傾いた籠に見立てて傾籠(かたかご)とした古名もあります。葉が7~8年もかかって約10センチ以上になると、二枚目の葉が出現し開花します。

 まず片方の葉が大きくなるせいか、二枚の葉があってもよく見ると大小があり、同じ大きさのものはほとんど見られません。二ホンカモシカやイノシシ、ノウサギやタヌキがいるのですが、カタクリは食べないのでしょうか。食痕は見られません。ただし、葉を食べる昆虫はいるようで、虫食いの跡が見られます。
 GWが過ぎて森の緑が濃くなると、カタクリは次第に溶けるようにして消えてなくなってしまいます。そして来春まで深い眠りにつくのです。

「もののふの 八十乙女らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子の花」 大伴家持(万葉集)
 これは情景描写ではなく、家持は地方に赴任していた時の歌ですから、カタクリの群花を都の娘達に例えて懐かしんだ歌なのではないでしょうか。もののふとは武士のことですが、万葉の時代には宮廷に使える人をいいました。

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ショウジョウが袴姿で酔い潰れる北信濃の春(妻女山里山通信)

2010-04-20 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 ショウジョウ(猩々)は、中国最古の空想的地理書『山海経』(せんがいきょう)に登場する龍や麒麟と同様の想像上の動物です。オランウータンがモデルともいわれていますが、能では海中に住むという設定です。また、ショウジョウの血の色といわれる猩々緋は、黄みがかった紅色で、能の装束では足袋以外はすべてこの色を使うようです。
 猩々のついた動植物は色々あるのですが、最も一般的なのは猩々蠅(ショウジョウバエ)でしょう。ショウジョウトンボ(猩猩蜻蛉)も有名。意外なところではポインセチアを漢字で書くと猩猩木となります。

 まだ芽吹きの浅い北信濃の里山を歩くと(妻女山近くの里山)、猩々緋というよりは、マゼンタピンク(マジェンタ:magenta)のショウジョウバカマ(猩々袴)が見られます。ユリ科ショウジョウバカマ属の多年草で、湿った場所を好み、里から高山の湿地帯まで広く分布する植物です。マゼンタは、その染料が発見されたイタリアの地名らしいのですが、なぜ猩々緋ではないのに猩々袴というのか不思議です。マゼンタをひと言で表現する日本語がなかったのでしょうか。猩々緋は黄みがかっていますが、マゼンタは青みがかっています。マゼンタの和名はないのですが、絵の具では紅梅とつけられているものもあり、猩々緋とは別の色です。

 ショウジョウバカマの命名は、花を猩々の髪の毛に、重なり合う根生葉を袴に見立てたらしいのですが。非常に想像力が豊かな命名だと思います。この命名は、正確な色よりもその花と葉の形からの想像からきているのでしょう。そう思って花を見ると猿のように見えないこともない? または、冬季に霜に当たった袴に見立てた葉がアントシアニンによって紅色になることから、猩々色の袴ということでの命名という説もあるそうです。

 上杉謙信が羽織っていたという猩々緋の陣羽織は、コチニール(サボテンにつく貝殻虫)で染めたものといわれていますが、戦国の武将達はこのアドレナリンを噴出させるような猩々緋の色が非常に好きだったようです。関ヶ原で寝返ったことで有名な小早川秀秋の「猩々緋羅紗地違い鎌模様陣羽織」(東京国立博物館所蔵)は、とてつもなく派手な陣羽織。さぞや戦場で目立ったことでしょう。この緋色はケルメスという動物性染料で染められたものだそうで、他には辰砂(しんしゃ:丹砂・水銀朱)という鉱物で染めたものもあるそうです。武田山縣隊の赤備えなどは、この辰砂だとか。それぞれの色の違いは染め方や布など条件によっても変わるため、見ただけでは染料の種類を判別できません。

「猩々の 酔い潰れたる 緋花哉」
 この春は幾度となく突風が吹き荒れ、例年になく倒木や落石が頻発しています。満開の貝母(バイモ)もあらかた倒れてしまいました。突風にあおられたショウジョウバカマも、酔い潰れたように地面に倒れていました。 林風



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みすずかる信濃の国の鉄バクテリア(妻女山里山通信)

2010-04-19 | 歴史・地理・雑学
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 山中にある芦原の湿原を歩いていると、足元の水たまりに油膜のように光るものがありました。あっ、鉄バクテリアだ!と思わずつぶやいて撮影しました。知らないと誰かが石油を不法投棄したのかと思ってしまうかもしれません。油膜との違いは、棒で真ん中を割ってみて、そのままなら鉄バクテリア。戻ると油膜。石油ならば臭います。この鉄バクテリア、「みすずかる信濃の国」と深い関係があるのです。

 「みすずかる」は、信濃の枕詞ですが、すずとは葦や茅の根元に付着している褐鉄鉱のことです。みは接頭語で、御すず。すずは鈴であり、水中に含有される鉄分が沈澱し、鉄バクテリア(沼などに石油を流したように漂うもの、写真参照)が自己増殖して細胞分裂を行い、固い外殻を作ったもので、振るとカラカラ音がするものがあります。これを鳴石(なりいわ)、鈴石、壷石、高師小僧などといいます。

『古代の鉄と神々』真弓常忠著(学生社刊)では、その「みすずかる信濃」について言及しています。〔〕内は私の独り言です。
---『万葉集』には「みすずかる」の用例が二首ある。〔解釈は色々あるようですが、万葉集のことですから弓矢は男女の隠喩で、これは恋歌なのでしょうか。〕
「水薦刈 信濃の真弓 わが引かば 貴人(うまひと)さびて 否と言はむかも」九六
「水薦刈 信濃の真弓 引かずして 弦(を)はくる行事(わざ)を 知ると言はなくに」九七
 歌の解釈はともかく賀茂真淵が「水菰(みこも)かる」を「水篶(みすず)かる」と読み間違えたものが、訂正されずに今日まできてしまったというのが定説になっている。ミコモとは水辺に生えるマコモのこと。
 しかし、信濃に生えているのは「こも」ばかりではない。葦や茅もあり(中略)やはり真淵が訓んだ「すず」が正しいと思う。薦・葦・茅の様な禾本(かほん)植物をひろく「すず」と称したとしてよいであろう。---というような内容です。

 私達が学生の頃は、古墳時代に渡来人がもたらすまでは日本では鉄は作られていなかったと教わりました。その後、褐鉄鋼を利用すると弥生式土器を焼くのと同じ位の低い温度でも鉄を作ることができるという事がわかったのです。日本の神話を象徴する葦原こそが、鉄バクテリアが長い年月をかけて褐鉄鉱を作り出し、古代の鉄の産地となったというわけです。また、信濃、埴科、更級のシナも鉄を意味するそうで、とすればシナノとは、鉄出(いずる)野という意味になります。「みすずかる信濃」という枕詞は、砂鉄から作る「たたら製鉄」がもたらされて、みすずを刈る必要がなくなってもなお、信濃の枕詞としてのみ残ったというわけです。

 なお、信州の方言で「ずく」というのがありますが、これは古代の製鉄からきているというのが、不肖私の説です。昔からずくを出すのは大変なことだったのです。また、信州では「うんこをまる」と言いますが、これも古語。古事記に「糞まる」とあります。古語が方言として現代に生きている証だと思います。
 ということで、その葦と鉄バクテリアが作った鈴や高師小僧はないかと探してみたのですが、残念ながら見あたりませんでした。
 これに関しては拙書『信州の里山トレッキング東北信編』川辺書林で再編集したコラムを載せています。平安堂やAmazon等でお求め頂けます。カラー668枚の写真と地形図を使ったコース地図 「みすずかる信濃の国の鉄バクテリアがずくを出す」このコラムが絶賛されているそうです。是非ご一読を。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。鉄バクテリアの写真は、キノコ4に特別出演の形でアップしてあります
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ノカンゾウ食して憂いを忘れる北信濃の春(妻女山里山通信)

2010-04-18 | 男の料理・グルメ
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 藪山の奥にある耕作放棄地の斜面にノカンゾウ(野萱草)らしき若芽がたくさん出ていました。らしきものと書いたのは、ヤブカンゾウ(藪萱草)という種類もあるからなのです。違いはノカンゾウの花が一重で、ヤブカンゾウが八重で少し大きいというだけなのですが、若芽だけでは区別がつかないのです。ちなみに、夏の高原に咲くニッコウキスゲも同じ仲間です。(ノカンゾウと思って畑に移植したところ、咲いた花は八重で、ヤブカンゾウであることが分かりました。蕾の天ぷらや中華炒めは最高です)

 萱草は漢名ですが、日本の古名を和須礼久佐(わすれぐさ)といって和歌にも詠まれています。中国名を忘憂(ぼうゆう)といい、この花を見ると憂いや苦しみを忘れるという言い伝えがあり、それが日本にも伝えられて、忘れ草と呼ばれたそうです。
「兼名苑云 萱草 一名忘憂 萱音喧 漢語抄云 和須礼久佐」『倭名類聚抄』

「萱草(忘れ草) 我が紐に付く 香具山の  故(ふ)りにし里を 忘れむがため」『万葉集』大伴旅人
 と父さんは望郷の想いをしみじみと詠っていますが。息子は…。
「萱草(忘れ草) 我が下紐に 付けたれど 醜(しこ)の醜草 言(こと)にしありけり」『万葉集』大伴家持
 忘れられるというから忘れ草を下紐につけたのに、ぜんぜんあの娘を忘れられないではないか、醜(みにく)い醜草めと、最大級の侮蔑の言葉を投げつけています。

 日本全国どこにでもあるありふれた山菜なので、東京の多摩川や野川の段丘崖(ハケ)下などにも生えているのですが、あまり知られていないのか限られた野草マニア以外に採る人はいないようです。ところがスーパーなどではひとパック300円とかで春の山菜として売られているのですから妙です。

 このノカンゾウですが、あくがなく甘みがあってたいへん美味しい山菜なのです。特に地中の白い部分はとろみもあり甘くて美味です。おすすめはサッと塩ゆでしてぬた(酢味噌和え)、マヨネーズ和え、花鰹をふってお浸し、味噌汁、天ぷら、炊き込みご飯、炒飯などなど。くせがなくて甘みがあるので、菜花のようにクリームシチューやボンゴレなどのパスタ料理にも向いています。

 花も食べられるのですが、蕾を乾燥させたものは金針菜(きんしんさい)といって高級中華食材。ほうれん草の20倍の鉄分を含む健康野菜で、煮もの、炒めもの、蒸しものなどなんにでも合う便利食材です。買うとけっこう高いので、自分で栽培するのもありです。青い蕾を炒めものにすると、アスパラガスのような食感で、これもたいへん美味です。私も山と畑で五株ほど栽培することにしました。

 カンゾウには甘草と書く植物もありますが、ノカンゾウやヤブカンゾウとは全く異なるマメ科の薬草です。松代藩の第八代藩主・真田幸貫(ゆきつら)が、財政を立て直すために栽培させたということです。わが家も明治初期まではうらの畑で作っていたとか。アマキ、アマクサともいい、消炎、鎮痛、解毒の効能があります。

 ノカンゾウの上には、バッコヤナギ(跋扈柳)、別名ヤマネコヤナギ(山猫柳)の花が満開でした。ノカンゾウを食べて、憂いを忘れたい北信濃の春です。

 ところで下宿暮らしの食いしん坊の息子が自炊をブログにアップしています。インスタントラーメンと肉野菜炒めとカレーしか作れなかった私の初期と比べるとレベルが違います。そのうち自炊飯で彼女ができるかもです。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。

★新信州郷土料理は、MORI MORI RECIPE(モリモリ レシピ)をご覧ください。山菜・キノコ料理、内臓料理、ブラジル料理、エスニック、中華の込み入った料理などの「男の料理レシピ集」です。
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妻女山・斎場山 春雪レクイエム(妻女山里山通信)

2010-04-17 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 信濃では31年ぶり、東京では41年ぶりの突然の春の雪でした。妻女山の桜も朝は桜吹雪ならぬ本物の吹雪の中で揺れていました。レクイエムは、ラテン語で「安息を」という意味で、転じて典礼として死者のためのミサまたは死者を追悼する音楽の通称としても広く用いられます。「桜の木の下には死体が埋まっている」というのは、梶井基次郎の短編小説から。桜の樹が美しいのは下に死体が埋まっているからであるという空想に駆られる主人公…。この発想の原点ともいえるのが西行法師というのが通説です。

 西行法師の京都西山の庵には、見事な桜が咲き見物の人が毎年訪れたそうです。それを煩わしく思い、
「花見んと 群れつゝ人の 来るのみぞ あたら桜の 咎(とが)にはありける」と詠みます。
 その夜の夢枕に白髪の老人が立ち、桜は非常無心の草木であるからの咎とは承伏できないといい、桜の精であることを名乗り、舞いを舞って消えます。(能の『西行桜』より)

能の『西行桜』
あら名残おしの夜遊(やいう)やな
 惜しむべし 惜しむべし
えがたきは時会いがたきは友なるべし
春宵一刻値千金 花に清香(せいきょう)月に影
春の夜の花の影より明け初めて 鐘をも待たぬ
 別れこそあれ 別れこそあれ 別れこそあれ
待て暫し 待て暫し 夜はまだ深きぞ
白むは花の影なりけり
よそはまだ小倉の山陰に残る夜桜の
 夢は覚めにけり 夢は覚めにけり
嵐も雪も散り敷くや
花を踏んでは 同じく惜しむ少年の
春の夜は明けにけりや
 翁さびて跡もなし 翁さびて跡もなし

「願わくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃」
西行(1118-1190)はこの寺を隠棲の地と定め文治6年(建久元年)2月16日没しました。これらの句が「桜 老人 死」と結びついて先のイメージを生んだのでしょうか。

 西行は二百三十首の桜の句を詠んでいるそうです。
「梢うつ 雨にしをれて 散る花の 惜しき心を 何にたとへむ」
「風に散る 花の行方は 知らねども 惜しむ心は 身にとまりけり」
「散るを見て 帰る心や 桜花 むかしに変はる しるしなるらむ」
「春風の 花を散らすと 見る夢は さめても胸の さわぐなりけり」
 無常と哀惜の念が漂う心にしみ入る句です。

 信州には西行法師が詠んだとされる句がいくつか残っていますが、実際に訪れたかどうかは研究者によっても異なるようです。
「風越(かざごし)の 峯のつづきに 咲く花は いつ盛りとも なくて散るらむ」
 風越は、飯田市郊外の風越山でしょうか。旧四賀村と筑北村の境には風越峠がありますが…。どちらを通ったのでしょう。木曽の歌があるので前者か。
 千曲市倉科には三滝を詠んだ「三瀧山 岩の苔間に 住ながら 思ひくらせし 瀧の水かな」という句と「信濃なる 明しの松の ありながら なぞ暗科の 里といふらん」という倉科と暗科をかけた句がありますが、「此歌里俗の口碑にして、確乎たらず」と倉科村誌には記してあります。

 午後には春の陽射しが戻り、雪景色は幻のように消えました。いずれが現か幻か。杏の残花が舞い散り、桜も散り始めました。桃の花が開き始めました。まもなく林檎の白い花も咲くでしょう。

★妻女山・斎場山・倉科三滝トレッキング・ルポは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。
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北信濃 菫の花咲く頃(妻女山里山通信)

2010-04-16 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 妻女山・斎場山山系のソメイヨシノや山桜も盛りを過ぎました。木々の芽吹きが始まり、少しずつ森の見通しがなくなってきました。そんな林道脇に今を盛りとたくさん開花しているのがスミレです。そのほとんどがタチツボスミレの変種、ケタチツボスミレです。毛立坪(壷)菫と書きますが、坪は坪庭の坪で、そういう場所に茎が立って生えるスミレということでしょう。もっともありふれたスミレといえるかもしれません。

 葉はハート形で先が少し尖り、縁には細かい鋸歯があるのが特徴です。葉の基部には櫛の歯状の托葉があります。花は淡い紫色で、距は赤紫色を帯びています。葉柄や花柄に細毛があることがタチツボスミレとの違いです。今のところ妻女山・斎場山山系では、この毛があるものしか見たことがありません。また、なかには葉の葉脈が赤紫褐色のアカフタチツボスミレ(赤斑立坪菫)も見られます。

 この山系は、歩き回ったところでは、それほどスミレの種類が多いようには思えませんが、隠れた場所に人知れず咲くスミレがあるのかもしれません。GW頃からは、いわゆるただのスミレ、濃い紫のスミレが咲き出します。万葉がなでは菫は須美禮と書かれています。語源は大工道具の墨入(墨壺)からきているというのが通説ですが、正倉院の尻割型墨壺を見るとスミレに似ているような似ていないような…。ただ、当時の墨入は最先端の道具だったはずで、それを花の名前にするというのもあったかもしれません。では、墨入が入ってくる前は、菫をなんと呼んでいたのでしょう。

万葉集から三首。
「春の野に すみれ摘みにと 来しわれぞ 野を懐かしみ 一夜寝にける」(山部赤人)
 スミレ摘みに来てひと晩野宿ですか。すみれは乙女の隠喩でしょうね。艶っぽい歌です。
「山吹の 咲きたる野辺の つぼ菫 この春の雨に 盛りなりけり」(高田女王)
 情景が浮かびます。
「茅花(ちばな)抜く 浅茅(あさじ)が原の つぼ菫 今盛りなり わが恋ふらくは」(大伴田村家大嬢)
 茅花はチガヤで若穂を食用にしたそうです。今盛りなり わが恋ふらくは、とは男性への想いではなく、異母妹に思いを伝えた歌だそうです。

小林一茶の句から好きな三首。
「淋しさは どちら向ても 菫哉(かな)」
「草餅と ともどもそよぐ 菫哉」
「菫咲 川をとび越す 美人哉」

 日本の伝統色すみれ色は、こんな色ですが、ケタチツボスミレの花弁の色はもう少し淡い色です。
 それにしても異常に寒い日が続きます。腰痛が癒えません。野菜の値段も高騰していますが、これでは作物も育ちません。そしてアイスランドの火山噴火が巻き起こす気象への影響は? CO2による温暖化は問題なのですが、長期的にみると地球は寒冷化に向かっているというミランコビッチ・サイクルという学説もあります。4、5月が寒かった1997年の夏は猛暑でした。エルニーニョは終息しそうです。今年の夏はどうなるのでしょう。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。山藤は樹木で。他にはキノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、特殊な技法で作るパノラマ写真など。スミレは、花 春にたくさん載っています。
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貝母が満開!(妻女山里山通信)

2010-04-15 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 妻女山の山奥にある貝母(バイモ)がほぼ満開になりました。といっても遠目では、緑色なのでただの草むらにしか見えませんが…。今年もほとんど人に知られることもなく、静かに咲いて消えていきます。見頃はこれから10日ぐらいでしょうか。GWには残花だけとなり、明けには地上からすべて消えてなくなります。

 バイモは、カタクリやニリンソウと同じ儚い春の命、春の妖精、スプリング・エフェメラルです。帰化植物でも繁殖力は高くないため、野生化した群生地はほとんどないと思います。前記したように、ここも昔に薬草畑だったからなのですが、その後耕作放棄されてヤブ山になり、深い森の中に埋もれてしまいました。そして何十年も知られることもなく咲いては消えを繰り返してきたのです。

 帰化植物といっても繁殖力が強くないために、周囲の在来種を駆逐してしまうこともないようです。群生地も、昔の畑の形のまま残っている感じです。また、地上への出現から消滅まで二ヶ月足らずなので、その色とあいまって気付く人も少ないのでしょう。別名を編笠百合というのは、花弁の内側の模様からですが、花言葉の「謙虚な心」が表すように外からは非常に地味な風情です。そこが茶花としてもてはやされる要因なのでしょう。

 さらに奥にある堅香子(かたかご)の花の群生地はと思って訪ねると、まだ固いつぼみのままでした。このところの真冬のような寒さで、開花も遅れているのでしょう。花弁の体温が25度以上にならないと反り返らないので、満開の八十乙女らが春風に揺れるのは、もう少し先のことになりそうです。冠着山や聖山は、昨夜の雪で真っ白でした。今年は去年以上に異常気象になりそうです。

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桜が満開の妻女山に舞い降りたノスリ(妻女山里山通信)

2010-04-14 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 妻女山の桜が満開になりました。とはいえ4月とは思えない寒さと寒風に、訪れた人も本当に寒そうでした。ここ妻女山には、古い順から、赤坂山古墳、善光寺大地震の供養塔、戊辰戦争以降の戦没者を祀った妻女山松代招魂社、明治35年5月22日の東宮殿下御遊覧の石碑、大正7年4月1日に真田伯爵が清野小学校に二百円の寄付をされた折りに登山したという記念碑、信州サンセットポイント百選の妻女山展望台などがあります。

 招魂社を、第四次川中島合戦の時に布陣したと伝わる上杉謙信にまつわる神社と勘違いされる方が多いのですが、ここには謙信にまつわる遺跡や建物は一切残っていません。そもそも、ここは戦国当時は赤坂山といい、直江山城守が陣したと伝わっています。謙信本陣は、さらに上の斎場山の円墳上と伝わり、七棟の陣小屋が建てられたと伝わる陣場平は、さらに上の高原です。

 東宮殿下御遊覧と真田伯爵の石碑は、共に赤坂山古墳の上にあります。古墳の上に石碑を建ててしまったわけです。その祟りではないでしょうけど、両人のお手植えの松なるものもあったのですが、松食い虫にやられて枯れてしまいました。招魂社周りの土塁も謙信や戦国時代の合戦とは一切関係がありません。江戸時代の絵図を見ると、古墳以外なにもなかったことが分かります。

 ただ、斎場山(旧妻女山)も妻女山(旧赤坂山)も、この地の産土神である信濃国造の妻女・会津比売命にまつわる聖地ということを松代藩も心得ていて、善光寺地震罹災者慰霊碑や妻女山松代招魂社をここに建てたものと思われます。妻女山と会津比売命については、前の記事をお読み下さい。

 春とは思えないほど寒い日でしたが、周辺ではカンスゲやタチツボスミレが満開です。桃色のウグイスガグラの花も芽吹き始めた新緑の中に見られます。

 わが家の山にある桜の写真を撮ろうと思っていると、突然大きな鳥が舞ってきて満開の桜に留まりました。最初は鳶(トンビ)かなと思ったのですが、胸が白いのでノスリかなと思いました。帰って調べるとやはりノスリでした。しばらくキョロキョロ周囲を見渡した後で、悠然と飛び去っていきました。

 森では色々な鳥のさえずりが聞こえます。この間は、メロディをさえずる鳥がいました。明らかに旋律を奏でているのです。聞きながら思わず口ずさんでしまったほどです。なんだろうと見上げると、雀よりひとまわり大きな鳥が、枝に留まった雌を相手に歌っているのです。ウソでした。普段は「フィー、フィー」と口笛のような澄んだ声で、単調な節を歌うだけですが、こんなにハッキリした旋律を奏でるとは知りませんでした。

 ウソの名の由来は口笛を意味する「おそ」からきています。さえずる時に左右の脚を交互に持ち上げることから別名「弾琴鳥」とも呼ばれます。また、天神様の使いとしても有名です。

 一番下の写真のキャプションは鹿島槍ヶ岳となっていますが、鹿島槍は右の雲に隠れた山で、見えているのは爺ケ岳です。
 
★妻女山の真実について、詳しくは、本当の妻女山について研究した私の特集ページ「妻女山の位置と名称について」をご覧ください。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、地衣類、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。
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松代城と妻女山の桜が満開!(妻女山里山通信)

2010-04-13 | 歴史・地理・雑学
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 松代へ所用の帰りに海津城(松代城)と妻女山(赤坂山)に寄りました。最高気温が22度の暖かい日。どちらも桜が満開で、そこそこの人出がありました。あえて海津城と書いたのには訳があります。海津とは松代の古い呼称ですが、その由来が妻女山と関係があるのです。真田のずっと前、古代の話です。

 妻女山の名称は、戦国時代以前にはなく、江戸時代に松代藩が命名したものと思われます。その名前の根拠となったのが、麓にある會津比賣(会津比売)神社といわれています。祭神の會津比賣命(あいづひめのみこと・出速姫神)は、皆神山にある皆神神社(熊野出速雄神社)の祭神で、諏訪の健御名方命(たけみなかたのみこと)の子・出速雄命(いずはやおのみこと・伊豆早雄)の御子であり、両神はこの地の産土神(うぶすながみ)です。

 海津は、會津または出(伊豆)が転訛したものという説があるのです。それゆえ、會津比賣神社と皆神神社は、この地で最も古く創設された神社といえるのですが、なぜか平安時代の延長5年(927年)に編纂された延喜式には載らない式外社となっています。

 それ以前の延喜元年(901年)に成立した日本三代実録には、貞観二年(860年)に出速雄神に従五位下、貞観八年(866年)に會津比売神に従四位下を授くとなっています。その後、出速雄神は、貞観十四年(872年)に従五位上に、元慶二年(878年)に正五位下を授くとなっています。当時の埴科郡の大領は、諏訪系統の流れを汲む金刺舎人正長*であったため、産土神としての両神社の叙位を申請したものと思われるということです。[松代町史]*貞観4年(862)、埴科郡大領外従7位金刺舎人正長。[信濃史料]

 金刺氏は、欽明(きんめい)天皇( 539 ~ 571年在位)に仕え、大和国磯城島の金刺宮に由来するものです。金刺氏は諏訪下社の大祝(おおほうり・シャーマン)であり、中世に上社大祝によって追放されるまで存続しました。屋代遺跡群出土木簡には「他田舎人」や「金刺舎人」の名が見られます。

【妻女山】松代町を距たる十数丁の西方埴科郡清野村に位置し往古信濃国造が天神地祇を祀りたる所なれば斎場山と書すべきであると主張する者もある。又山上に古墳多くして中に前方後円の一大古墳あり。山麓に会津比売神社あれば信濃国造の妻女会津比売を葬れるものなるべく従って妻女山と書くべきが至当であると論ずる者もある。(中略)甲陽軍鑑には西條山と誤り記されてある。妻女山の支山赤坂山の招魂社には明治戌辰の戦役に従軍し勤皇の為に働きて戦士を遂げたる松代藩の士卒五十二名の霊を祀れるものにして社殿の傍らに山縣元帥の撰文にかかわる記念碑あり。また日清日露の両役に戦士せる一町六ヶ村将卒の忠魂碑乃木将軍の揮毫する所である。その外弘化四年の震災に横死せる者の為に自然石の供養塔が建てられてある。また明治三十五年五月大正天皇の未だ皇太子にあらせられたる時御見学の為め御登山遊されたる御遊覧所に御手植の松がある。[松代町史]

 注:ここでいう【妻女山】とは、「妻女山の支山赤坂山の招魂社」という文章からも分かるように現在の妻女山ではなく、斎場山のことです。現在の妻女山は、赤坂山といいました。もっとも現在は、妻女山の名前が定着し、事情を知るお年寄り以外は、ここを赤坂山と呼ぶ人はいなくなりました。妻女山はここの小字名です。赤坂山は地名です。旧妻女山は、本来の名称である斎場山(さいじょうざん)と呼ぶようにしています。

 杏が散り始め、桜も今週末まででしょう、長野マラソンの頃には、桃の花が開花しそうです。

★妻女山の詳細は、妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。
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