モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

ニホンカモシカの個体識別は難しい(妻女山里山通信)

2011-01-30 | アウトドア・ネイチャーフォト
 とにかく、サッカー日本代表アジアカップ優勝おめでとう! ザックの知的かつ冷静な采配には感動しました。そしてなにより選手の頑張り。本当に優勝に値するチームだったと思います。南米選手権、コンフェデが楽しみです。新たな選手や、今回不幸にも怪我でリタイヤした選手も戻って来るでしょう。日本代表はさらに進化すると思います。しかし、あの紙吹雪と猛烈な花火には驚きました。

 さて、掲載のニホンカモシカ写真ですが、いったい何頭の個体が写っているか分かるでしょうか。そして、どれとどの個体が同一か分かるでしょうか。おそらく三頭のニホンカモシカが写っていると思われます。おそらくというのは、推定であり確証がないからなんですが・・。

 左から二番目が、私がマダムと呼んでいる母親です。その左が彼女の子供です。子供はもう二歳ぐらいになるはずですが、母親と一緒にいるところもよく見かけます。ニホンカモシカは、オスにもメスにも角があるので雌雄の見分けも困難です。オスは立ちション、メスは座りションをするらしいのですが、そんな場面にはなかなか出会えないですし・・。

 秋から冬にかけての繁殖期に、オスがマダムを猛烈な勢いで追いかけているのを見ましたが、オスの方が大きいということは分かりましたが、一頭でいると分かりません。また、夏毛と冬毛で見かけも変わるので識別が困難になります。冬毛の色も毎年同じというわけではないようです。一頭一頭に色付きのタグでもつけると分かるのですが。

 三頭目は左から五番目で、これが父親かと思われるのですが・・。妻女山から少し離れた鞍骨山辺りにいますが、母親の陣場平辺りにも顔を出します。識別の目安ですが、体毛が当てにならないとすると、鼻の形が一番分かり易いのかなと思います。鼻の形と穴の形や大きさです。そう思って写真を見ていただくと、これとこれが同一個体かなと思えてくるはずです。分かるでしょうか・・。

 老齢な個体だと角研ぎの跡が角の付け根前面にえぐれてあって分かるのですが、この辺りの個体は縄張り争いがないためか、あまり角研ぎをしないようです。実際、細いリョウブの木にも角研ぎの跡がほとんど見られないのです。母親が自分の縄張りを子供に譲って、父親のいる縄張りの方へ移ったというのも研究者のサイトなどを見ても書いてありません。子供に追い出されたのならしょっちゅう一緒にいるというのも変ですね。

 この子供は、一歳ぐらいの時に山仕事をしている私の前に突然現れて、シュッ!と何度も威嚇音を発したのでよく覚えています。すごく元気なので勝手に男の子だと思っていますが分かりません。彼が威嚇音を発したのは、私が彼の糞場に行く獣道を塞いでいたからだと思うのですが。トイレに行きたいんだよ。どいてくれ!と言っていたのかもしれません。

 彼(彼女)を産んでからマダムのお腹が大きくなったところは見ていません。本能的に産児制限をしているのか、老齢になってきて妊娠できないのか、それも分かりません。ひとつの尾根に一頭いる状況というのは、すでに飽和状態ということなのかもしれません。が、これも推測の域を出ません。何年も前に妻女山先の赤坂辺りの千曲川を泳いで渡るニホンカモシカを見たという人がいますが、これは縄張り争いに敗れた個体がいたということなのでしょうか。

 ニホンカモシカではありませんが、昨秋妻女山の先の国道脇にテンが交通事故死していました。ニホンカモシカの場合は、食肉として売られているという事実もありますが、特別天然記念物なので車でぶつけてしまったり、死体を見つけたときには届け出なければなりません。しかし、長野県でも毎年数百頭が捕獲されています。野生動物との共生というのは、街でのほほんと暮らす人には分からないと思いますが、本当に大変なんです。江戸時代には猪飢渇(いのししけがじ・けかち)というのがあったほどです。秋に登った虫倉山で話した老人は、根菜類は作れない。農業するのが嫌になると言っていました。賽の河原で石を積むような心境なんでしょう。察するにあまりあります。

 わが家の山も荒れ放題の時は、猪のヌタ場や掘り起こした跡だらけで、麓の畑にずいぶんと迷惑をかけていたようですが、私が一年かけて除伐したために猪の出現は激減したようです。それは足跡などのアニマル・トラックで分かります。ニホンカモシカに戻りますが、これからどういう風に推移していくのか、見守りたいと思います。







にほんブログ村 写真ブログへ にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ にほんブログ村 アウトドアブログへ にほんブログ村 アウトドアブログ ハイキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続アニマル・トラッキングで再びニホンカモシカと(妻女山里山通信)

2011-01-26 | アウトドア・ネイチャーフォト
 今までのアニマル・トラッキングで、晴天のときは午後の時間にほぼ同じ場所に現れることが分かったので、タイミングを見て出かけました。まだ現れる時間には少し早いので妻女山から陣場平へと登ります。途中の林道は、狩猟の四駆の轍や散歩の人や犬の足跡で、野生動物のいい状態での足跡が観察できません。陣場平は冬場は訪れる人がいないので、比較的足跡がきれいに残っています。

 早速見つけたのはノウサギ(ニホンノウサギ)の足跡です。秋には足下の薮から飛び出してきて驚かされたこともありましたが、比較的数は少ない様に思います。里山が放置され、生息に適したこの陣場平のような草地の減少も一因でしょう。足跡は、陣場平を真っすぐに横切る様についていました。ノウサギもニホンカモシカも冬芽を食べますが、ノウサギは低い位置で食痕がスパッと切ったようになっていますが、ニホンカモシカのそれは引き千切ったようになっています。ニホンカモシカは上顎に歯がないためです。

 ノウサギの足跡の近くにはテンの足跡もありました。ノウサギにとっては天敵です。この二匹の足跡は食物連鎖の厳しい営みが行われている事を静かに語っています。以前はノウサギの天敵であるキツネの巣穴もあり、一直線に続く足跡も各所に見られたのですが、最近は見られなくなりました。すぐ近くの千曲川の河川敷にはいます。ここのところ大きな洪水もないので、餌になるノネズミ(アカネズミやヒメネズミ)やモグラ、ヒミズなどの多い河川敷に移ったのでしょうか。

 そろそろニホンカモシカがやって来る時間なので、山を下ります。東風越の峠でオオカマキリ(大螳螂・大蟷螂)の卵鞘(らんしょう)を見つけました。オオカマキリのオスは、交尾の前後にメスに食べられてしまうことで有名ですが、必ずそうなるということではないようです。逃げ仰せるオスも少なからずいるようです。そのメスも卵を産むと越冬することなく死んでしまいます。前脚を持ち上げて待ち伏せする祈るような姿から、俗に拝み虫とも呼ばれますが、レンズを向けると必ず威嚇してくるほど好戦的な性質です。傷つけることもあるので、小さな子供には持たせない方がいい昆虫です。

 そのオオカマキリの卵があったのがガマズミの小枝でした。卵は地上から2m近くと非常に高いところにありました。俗説の「積雪が多い年は高い所に生む」というのは誤りのようですが、しかしなんでこんなに高いところに生んだのでしょう。始めて見ました。なにかそうぜざるを得ない要因があったのでしょうか。この木のすぐ近くにはオオスズメバチの集まるクヌギの木がありますが、昨年はそのオオスズメバチが全く見られませんでした。それも一因でしょうか。ちなみにオオカマキリとオオスズメバチは、互いに捕食し合うという間柄(関係)です。

 旧道を大急ぎで下り、件(くだん)の場所に行くとニホンカモシカは既にいました。いわゆるマタギの人達が「アオの寒立ち」という状態です。何度も出会っているのでこちらの顔も覚えているはずですが、ゆっくりと近づきます。ただずっと見つめていると緊張が高まるので、ファインダーを覗いて顔を隠したり、アングルファインダーに目を落として直に見ない様にもします。シャッターを切りながら少しずつ間合いを詰めていきます。ジッとこちらを見ていますが、時々緊張から逃れたいのかわざと横を向いたりしますが、片方の目でしっかりとこちらを見ています。正面から見ると角が短く見えますが、後ろに寝ているので実際は10センチ以上あります。ただ老カモシカのように角の付け根前部が角研ぎによってえぐれていないので若年であることが分かります。

 もう少しと思って踏み出した時です。足下の枯れ枝を踏んで大きな音を立ててしまいました。それに驚いたのか、反転しました。そしてゆっくりとイバラのトンネルへと入って行きました。呼び止めるといつもの様に振り返ります。反芻中なので、これ以上追いかけるのは止めにしました。ゆっくりと崖を下りて去って行きました。おそらくもう一カ所の林道の崖上にある休息場所へと向かったのでしょう。

 最後の写真は、妻女山展望台で、茶臼山、虫倉山や川中島を望むパノラマ写真です。ちょうど千葉からスキーに来た帰りに立ち寄ったという男性がいたので、川中島合戦の伝説の場所の説明などをしました。偶然居合わせた場合は、なるべく話しかけるようにしています。もし、立ち寄った場合にE-330をぶら下げている私を見かけたら、気軽に声をかけてください。のっぴきならない事情がないかぎり説明させていただきます。



妻女山のニホンカモシカ 1は、ひとつ前の記事で。

にほんブログ村 写真ブログへ にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ にほんブログ村 アウトドアブログへ にほんブログ村 アウトドアブログ ハイキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。ニホンカモシカの写真もこちらで。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アニマル・トラッキングでニホンカモシカに出会う午後(妻女山里山通信)

2011-01-23 | アウトドア・ネイチャーフォト
 北信濃では5年ぶりの大雪が降りました。善光寺に比べても積雪の少ない妻女山ですが、さすがに30センチ近く積もりました。雪があがった晴天の午後にアニマル・トラッキングに出かけました。といっても所用帰りのわずか30分余りの時間ですが・・。アニマル・トラッキングとは、直訳すると動物の追跡ですが、主に足跡や食痕、糞などを手がかりに動物の追跡をし、その行動を推測することです。もし発見できれば観察する事もできます。

 急坂のカーブでタイヤがスリップして登れないため下に駐車して登りました。妻女山松代招魂社の奥の駐車場に行くとバージンスノーの上に林道に向かって足跡がありました。二本の蹄の形からニホンカモシカのものと分かります。後ろにハの字に開いた副蹄(ふくてい)の跡があればイノシシです。深い雪だとニホンカモシカも副蹄の跡がつきますがハの字に開いていません。また、蹄がイノシシやシカよりやや開いています(岩場にも立てる)。足跡が乱れてその辺りを掘り返してあれば間違いなくイノシシです。

 足跡を見ると分かりますが、山中を縦横無尽に歩き回っているわけではないということが分かります。獣道というものがあり、それに沿って餌を食べながら歩いているのです。それは母親から教わったり、何代もに渡って継承されてきた道なのです。ある秋のことですが、キノコ狩りの帰りにその獣道を歩いていると、前をニホンカモシカが歩いていました。ハッと思った時に向こうも振り返って気づきシュッと威嚇音を発して上の林道に逃げました。しかし、そのまま逃げずに上の林道からずっと私に付いて来て時々威嚇音を発するのです。「俺の道を勝手に歩くんじゃねえよ!」とでも言いたげでした。

 駐車場の足跡をしばらく追ってみましたが、深い谷へ下りて向かいの尾根へと消えていました。今日は遇えないかなと、時間もないので諦めて変えることにしました。展望台を回り坂道を下りて行ったときのことです。背中に誰かの視線を感じました。振り返るとだれもいません。おかしいなと思って帰りかけてもう一度振り返って上を見ると、崖の上にニホンカモシカが一頭ジッと立ったまま私を見つめていました。カメラを向けて崖下に近づいても動きません。

 ニホンカモシカは、積雪が多く座れない時はジッと立ったまま反芻します。これを「ニホンカモシカの寒立ち」、俗に「アオの寒立ち」といいます。アオとはマタギの人がカモシカを呼ぶ名で、青味がかった灰色の毛を称したものだと思われます。その毛は氈(かも)と呼ばれ、防水性と保温性が極めて高い為に珍重され、肉と共に恰好の狩猟の対象となったわけです。先日はシダ植物を食べているのを目撃しましたが、深い雪で埋もれてしまうと冬芽や樹皮を食べます。特に春に向かって栄養を溜め込んでいる冬芽は、餌の乏しい冬期のなによりのごちそうなんでしょう。

 10分ほど観察していましたが、その間こちらを気にしつつもまったく動きませんでした。そして10分位してやっとゆっくりと動き出しましたが、招魂社の石碑の裏辺りで再び立ち止まりまた動かなくなりました。反芻動物が実際に消化吸収しているのは、植物そのものではなく共生微生物およびその代謝産物なので、厳密には草食動物ではなく菌食動物というべきという考え方もあります。第一胃から第四胃までを、ミノ、ハチノス、センマイ、ギアラといいますが、焼き肉屋さんでおなじみですね。ちなみに内蔵料理は、私の得意分野で、「トリッパのトマト煮込み」なんていうのもあります。

 そのまま5分ほどいたでしょうか、するとゆっくりと動きだしてうちの森がある方へと消えていきました。どうやらここが冬に寒立ちして反芻するために休息する場所と決めている様です。後日また来てみることにしました。何度も出会っているので私の顔も覚えたでしょう。警戒心も少しずつは薄くなってきたような気がします。最後に、

妻女山から奇妙山・皆神山・保基谷岳・松代城下を望むパノラマ写真を撮影して帰りました。



妻女山のニホンカモシカ 2は、次の記事で。

にほんブログ村 写真ブログへ にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ にほんブログ村 アウトドアブログへ にほんブログ村 アウトドアブログ ハイキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。ニホンカモシカの写真もこちらで。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『龍馬伝』にも出た老中松平乗全の掛け軸から推測する幕末松代藩の人間模様(松代歴史通信)

2011-01-20 | 歴史・地理・雑学
 わが家に白い牡丹を描いた一幅の掛け軸があります。気に入っていたので高校の頃応接間に掛けていたこともありました。この掛け軸の画題は『庚辰春日』で、雅号は「源 乗全」とあります。庚辰(かのえたつ)というのは、年でいうと1820年ということになりますが、乗全はまだ26歳。年ではなく月とすると3月。3月の春の日ということなんでしょうか。『庚辰春日』は、けっこう春の画題にされているので、春を題材にした絵の定型題なのでしょうか。清々しく好きな絵でしたが、特に誰が描いたかなどと思うこともなくいました。

 それが、去年の初夏でしたか、家にある掛け軸の虫干しをしようと色々広げていく中で、この掛け軸が目にとまりました。絵としてはかなり秀逸ですが、ディテールを見ると茎の線が甘い部分もあって、大家の作品ではないことは一目瞭然でした。しかし、なにかひっかかるものがありました。源 乗全という名もどこかで目にした事があるような記憶がありました。

 そんな時に便利なのがインターネットです。ググッてみるとすぐに分かりました。源 乗全は、松平乗全(まつだいら のりやす)の雅号のひとつでした。『龍馬伝』では、ペリーの黒船来航の場面で出てきました。乗全は、大給松平家宗家9代三河西尾藩第4代藩主で、幕府の老中(年寄衆・定員は4~5人)を務めた人物です。病弱な家定の将軍継嗣問題では紀州藩の徳川慶福を推し(紀州派)、海防参与の水戸藩主徳川斉昭を擁する一橋派閥と対立したため、一度失脚しますが、安政5年(1858)には大老・井伊直弼の推挙により老中に再任されます。桜田門外の変で井伊直弼の暗殺後、万延元年(1860)に辞任しました。ちなみに直弼は 孝明天皇の勅許無しでアメリカと日米修好通商条約を調印した開国派です。個人的に書簡をかわすほど親交が厚かった乗全は、同じく老中の上田藩主松平忠優(まつだいら ただます)と共に開国派でした。寛政6年(1794)生誕--明治3年(1870) 没。

 その松平乗全が、どう松代藩とつながるのかというと、乗全が最初に老中に任命された弘化2年(1845) まで老中を務めていたのが、松代藩の第8代藩主 真田幸貫(さなだ ゆきつら)なのです。その幸貫は、寛政の改革を主導した定綱系久松松平家第9代陸奥国白河藩第3代藩主 松平定信の次男で、江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の曾孫に当たります。つまり、幸貫が天保の改革の失敗で罷免された後に老中になったのが、乗全だったというわけです。同じ松平氏ということでもあり、当然親交があったと考えられます。幸貫は、天保13年(1842)に幕府の老中兼任で海防係に任命され、西洋事情の研究から開国派になります。乗全が開国派というのも幸貫や象山の影響もあったかもしれません。ちなみに老中の勤務時間は午前10時から午後2時までだったそうです。

 また、乗全の父定信は、象山の父一学と親交があり、幸貫は定信の改革手法を手本とし、後の象山の登用などを行ったそうですから、幸貫は当然定信の子である乗全とも深い親交があったことでしょう。幸貫は文武に長けており、佐久間象山・村上英俊・片井京介・山寺常山・長谷川昭道・三村晴山など多くの優れた人材を輩出しました。その中の三村晴山(みむら せいざん)は、松代藩の御用絵師であり学者でもありました。象山・勝海舟の命を受けて島津斉彬への密使の役目を果たしたこともある人物です。後に東京美術学校(現東京芸術大学)設立にも加わった狩野芳崖なども育てました。

 狩野芳崖は象山に心酔し、彼の書風も真似たとか。その象山ですが、自信家として有名で、俺は優秀だから俺の子供は間違いなく優秀だ。優秀な子供を生める尻のでかい女を紹介しろと坂本龍馬に言ったとか・・。実際に妻になった勝海舟の妹のお尻が大きかったかどうかは知りませんが、お順との間には子供ができませんでした。お順の前に、お蝶とお菊という二人の妾がいました。お蝶は彼女が13歳の時に手をつけた娘です。残念ながら二人との間にできた子はほとんどが早くに死別しています。

 そのお蝶との間にできた息子・三浦啓之助(佐久間格二郎)は、勝海舟の紹介状を持って父の敵を討つべく新撰組に入隊します(14、15歳頃)が、全く役立たずである事件で投獄されてしまい、戊辰戦争の後で慶応義塾に入るも中退、司法省に勤めますが暴力事件を起こして首。最後は明治10年にうなぎによる食中毒で亡くなっています。偉大すぎる父を持った子供の不幸でしょうか。典型的な機能不全家庭という感じもします。
 象山が結婚した時、彼は42歳、お順は17歳でした。海舟は大反対だったようですが、お順は学者の妻になるのが夢だったと譲りませんでした。海舟は象山の門下生のひとりでしたが、象山を傲岸不遜(ごうがんふそん)な人間と見ていたようです。「佐久間象山は物知りで、学問も博し、見識も多少持っていたよ。しかし、どうも法螺吹きで困るよ。あんな男を実際の局に当たらしたら、どうだろうか。なんとも保証はできない。」と言ったとか。「事を成し遂げる者は、愚直であれ、才走ってはならない」とも言っています。『海舟語録』

 しかし、象山は、横浜開港の先覚者であり、現在の横浜の繁栄は象山のお陰といっても過言ではないでしょう。また、弘化3年(1846)5月象山、36歳で帰藩を命じられ5年間松代に帰った時は、養豚、植林、葡萄の栽培、温泉や鉱脈の採掘などに天分の才を発揮しました。さらに、嘉永7年(1854)に吉田松陰密航未遂事件に連座した罪で入獄の後、帰郷してから文久2年(1862)までの蟄居生活でも、エレキテル(電気治療器)を作ったり(鑑定団で150万円!)しています。万延元年(1860)には電信実験も。〔嘉永2年(1849)日本初説は誤り〕 象山は、豪放磊落(ごうほうらいらく)なオタクという両義性(Ambiguïté)を持った人物であったという感じもします。ただ、その当時彼の真の先見性を理解できる人は皆無だったということでしょう。他人が見えないものが見えてしまう不幸を彼は背負っていたのかもしれません。

 話がえらく脱線しましたが、その松代藩の御用絵師のひとりに青木雪卿(せっけい)重明(1803享和3年から1903明治36年)という人物がいました。雪卿は、松代藩が壊滅的な被害を受けた弘化4年(1847)に起きた善光寺地震から3年後の嘉永3年(1850)、藩主真田幸貫公(感応公)の藩内巡視に同行し、「伊折(よーり)村太田組震災山崩れ跡の図」(真田宝物館蔵)を描き上げました。伊折村太田組とは、現在の長野市中条太田地区のことです。地震当時、虫倉山が大崩壊して太田組11戸54人が犠牲になりました。

 御用絵師というのは、襖絵や障壁画を描くだけでなく、当時の記録カメラマンでもありました。災害の様子を記録したり、藩の絵図を描いたり、動植物の写生図、藩主や家来の肖像画なども描いていました。雪卿は、主にそういった役目の絵師だったのかもしれません。彼は、妻女山の麓・岩野に住んでいました。彼は生涯独身でした。松代城のお姫様にいたく気に入られ、結婚できなかったとかいう言い伝えがあります(実際はそうではないという話を子孫の方から知らせていただきました。詳細はコメント欄で)。けさへいという養子をもらい、その妻と子と葡萄畑を作ったりして、余生を送りながら明治10年頃没したということです。ちなみにわが家も葡萄畑をやり葡萄酒を販売していました。明治36年没ですから、私の祖母が9歳の時。近所なので知っていたでしょう。

 わが家には、その雪卿が描いた掛け軸があります。モデルは祖先のひとり逸作で、幕末に長きに渡り岩野村の名主を務めました。描画は元治元年(1864)とあり、雪卿は親友であったようで、絵には友の為にと書かれています。逸作61歳とあるので、生まれは享和4年/文化元年(1804)です。時代は、妻女山の謙信槍尻之泉霊水騒動から天保の大飢饉、天保の改革失敗、善光寺大地震、黒船来襲と一気に幕末から明治へと移る激動期です。
 わが家の祖先、逸作は養子で、養父母には子がなく、たまたま善光寺御開帳で隣り合わせた川合の人と意気投合し仲良くなり、縁あってもらった養子ということです。何歳で来たかは不明ですが、まだ赤ん坊か幼児だったのでしょう。ひとつ違いの雪卿とは近所の幼なじみで仲が良かったのだろうと思います。


 右の派手な魚籃(ぎょらん)観世音菩薩は、青木雪卿重明による慶応2年(1856年)正月2日61歳の時の作。右の地獄絵図も恐らく彼の作でしょう。詳細は、「岩野村の伊勢講と仏恩講(ぶっとんこう)。戌の満水と廃仏毀釈(妻女山里山通信)」を。

 というわけで、松平乗全とわが家にある彼の掛け軸がなんとなく、乗全-幸貫-雪卿-逸作という線でつながったのですが、どういう理由でわが家に来たのかは全く不明です。長年に渡り名主を勤めた褒美でしょうか。

にほんブログ村 写真ブログへ にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ にほんブログ村 アウトドアブログへ にほんブログ村 アウトドアブログ ハイキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冬のニホンカモシカは何を食べている?(妻女山里山通信)

2011-01-18 | アウトドア・ネイチャーフォト
 大雪になる前に見ておこうと先週末久しぶりに妻女山へ向かいました。2時間ほどしか回れませんでしたが、陣場平から斎場山、御陵願平へと脚を延ばしました。駐車場から旧山道を登り始めると視線を感じました。見上げると前方にニホンカモシカが。よく見ると後方のヒノキ林の中にもう一頭います。母親でしょうか。それがよく分からないのです。林下が薄暗いのもありますが・・。

 ニホンカモシカは、夏毛と冬毛で見た目が変わるということと、シカと違ってオスにもメスにも角があるのでなおさら個体の識別が難しいのです。それでも小さい時は体格で親子の区別がつくのですが、4歳を越えると大きさも同じになるので、ますます分からなくなります。唯一、ニホンカモシカの角はシカの角とは違って骨が変化したものなので生え変わりません。そのため、年を重ねた個体は角研ぎのために角の前下部がえぐれているのです。その度合いによってある程度の見分けはつきますが。オスとメスは、排泄の姿勢である程度分かります。小用の時、メスはお尻をかなり低くしますが、オスは高いままです。

 まずわが家の山にある彼らの糞場を見にいくことにしました。糞場は林道からは見えない急斜面の棚にあります。真新しいものと少し前のものと三カ所ありました。小さな子連れの場合は、小さな糞が混じっているので分かります。糞場はテリトリーの中に数カ所あってたいてい急斜面など敵に襲われにくい場所にあります。この糞場からは、よくヒトヨタケ科のキノコが発生します。キララタケササクレヒトヨタケなどのキノコが生えます。ササクレヒトヨタケは、白くてマッシュルームとエノキダケを合わせたような食感で美味しいキノコですが、糞場のキノコでは食欲がわくかどうか・・。

 陣場平へ登っていく途中にはタヌキの糞場があります。ニホンカモシカと同様に溜糞をしますが、違うのは一頭だけでなく数頭の糞場、つまり公衆便所だということです。情報交換の場でもあるということです。お手洗いに集まっておしゃべりするOLと似たようなところがあります。陣場平を目指しますが、この冬の森には少し心配なことがあります。冬の森を彩るウスタビガの繭がほとんど見られないのです。ハチの減少といい非常に心配な現象です。

 陣場平を一通り見てから東風越(こちごし・こちごえ)を通って斎場山方面へ向かいました。東風越は、笹崎を回る谷街道が千曲川の氾濫で通れない時にには、松代藩の大名行列も通ったという赤坂山(現妻女山)から斎場山を巻いて長坂経由で薬師山から土口に下りる斎場越という街道が越えていた場所です。松代方面の東から吹く風が、西の土口に抜ける峠ということで東風越と呼ばれたのでしょう。〔松代藩士竹内軌定による真田氏史書『眞武内傳附録』(一)川中島合戦謙信妻女山備立覚に記載あり〕

斎場山へかかると林道脇と古墳の裾に、ずいぶんと派手にイノシシの掘り起こした跡がありました。古墳をも壊しそうな勢いです。そこから少し下って御陵願平にあるイノシシのヌタ場へ。東京や神奈川、山梨、信州の山々で数々のヌタ場を見てきましたが、こんなに大きなものは他では見た事がありません。東西が5m、南北が4mほどあります。夏には全体に水がたまりプールの様になります。元は落葉松が倒れた1.5m余りの穴だったのですが、イノシシが何年もかかて土木工事をしてこのような驚異的に大きな穴に仕上げたのです。
 夏蒸し暑い夜には、何頭ものイノシシが天の川を見上げながら行水をするのでしょうね・・。氷が割れていることで分かる様に真冬でも泥浴びをします。狩猟が行われるので運良く逃げおせた個体がヒートアップした体を冷やすのにも使うのかもしれません。

 再びわが家の森に戻るとさっきのニホンカモシカがいました。しばらく観察すると谷へ下りて行き、草を食べ始めました。後でなにを食べたのか見に行くと、ヤブソテツとリョウメンシダを食べていました。両方ともシダ類です。食料の少ない冬にはコケや地衣類、針葉樹の葉なども食べます。スギとヒノキを枝打ちしておいたら、ヒノキの方を食べていました。春になると蕗の薹(ふきのとう)やカタクリなども食べます。薬草として作られた貝母(ばいも)の新芽も食べていました。ヤマトリカブトのような毒草以外はなんでも食べるといってもいいほど色々な植物を食べるようです。シイタケにも食痕がありました。食べた後は反芻するために座って休憩する場所があります。しかし、積雪が多く座れない時は立ったままじっとして反芻します。これを「アオの寒立ち」といいます。大寒が過ぎて雪解けが始まるまで、ニホンカモシカには厳しい毎日が続きます。







にほんブログ村 写真ブログへ にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ にほんブログ村 アウトドアブログへ にほんブログ村 アウトドアブログ ハイキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。ニホンカモシカの写真もこちらで。

★【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】ニホンカモシカに遭遇したトレッキングも数多くあります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ザックは前4人の配置を変えるべき!?(アジア杯日本代表)

2011-01-15 | サッカー
 チームやリーグでは抜群の活躍をするのに代表に入ると輝けない選手がいつの年代にも必ずいます。だからといって、能力が低いというわけではないわけで、むしろ非常に高い能力を持っているのですが・・。現代表では前田がそうでしょう。本人が気づいているかどうかは分かりませんが、ポイントへの入り方や抜け出してもらうタイミングが、チームのときよりも百分の数秒遅いと思います。代表は寄せ集めなので、チーム内でもアピールしないといいボールは来ないわけで。前田の場合はチームメイトがそれを分かっていてボールを出すのに肝心の本人の動き出しや質が伴っていないのだから、これは能力というより代表への適正の問題かと思う訳です。ちょっと内気すぎるのでしょうか。まあ、年齢と本来ザックは森本をワントップに考えていただろうことを考えると、前田のワントップは今回のアジア杯限定のものかもしれませんが。

 本田の調子が上がって来た一方で香川の調子がもうひとつ。やはり左サイドはやりにくそう。なんだかバルサでは輝いていたメッシが、アルゼンチン代表ではずっと輝けなかった状況に似ていると思うのは私だけでしょうか。あのメッシでさえ使い方を誤れば輝けないのですから。シリア戦、本田が松井とポジションチェンジして右を突破、松井が真ん中に飛び出すシーンが度々見られましたが、あそこで真ん中に香川が入ってきたら、もっと楽に勝てたのではないかと私は思います。ゴールへの意識やスピード、実績は、松井より香川の方が上です。松井はチームでもそうであったように左で使うべきでは。キープ力もあり、中に切れ込んでのシュートも決めています。

 香川とバリオス抜きのドルトムントも、18歳のドイツ代表ゲッツェの活躍などでバラックの戻って来たレバークゼンに3-1と快勝。一見香川不要かに見えますが、さにあらず。やはり常に相手DFの裏を狙う香川の脅威にはまだ及ばないと見ます。その香川の脅威をザックは日本代表では活かせていません。むしろ重圧のかかる10番を本田にして真ん中を香川にしたほうがよかったかもしれません。でもそれがザックの期待でもあるのでしょう。香川も10番の重圧など気にせずにのびのびとプレーしてもらいたい。

 そう考えると、W杯のように、キープ力のある本田をワントップにするという手もあるはずです。本田は右の方が、中に切れ込んでシュートがし易いでしょう。
   本田                 前田(李)
岡崎 香川 松井 あるいは、 松井(岡崎) 香川 本田

 後は柏木などサブのメンバーが、どれだけ成長してフィットしてくるか。そして、ここにFW・SHのできる宇佐美やスピードの永井、大型FWの宮市が入ってきたらと考えると、この先の日本代表は非常に面白くなりそうで期待が持てます。

 それにしても、川島退場の抗議の方法や期限を知らなかったとか、今回の大会準備のために一試合もテストマッチを組めなかったとか、日本サッカー協会の不手際には唖然とします。選手のことを色々言う前にちゃんと自分たちの仕事をしろと言いたいですね。とにかく選手のコンディションがバラバラすぎます。遠藤などはどうみてもオーバーワーク。長友や内田も疲れが見えます。逆に本田はインターバルが空きすぎたかも。おそらく試合をしていく毎に良くなっていくだろうザックジャパンですが、決勝までいくにはラッキーボーイの出現とサブのメンバーの活躍がないと無理でしょう。奮起を期待しましょう。

 最後に海外に移籍した選手で成功するか失敗するかを大きく分けるのは、実はサッカーの能力だけでなく、コミュニケーション能力(言葉)によるところが大きいと言われています。最初は片言でもいいから、間違ってもいいからどんどんコミュニケーションをとることが、適応する第一歩なのでしょう。昔ブラジルやボリビアを放浪した時もそれを強く感じました。ブロウクンでもいいんです。サッカーで世界を目指す子供達は、サッカーと同じ様に、今から行きたい国の言葉を習うべきでしょう。



にほんブログ村 写真ブログへ にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ にほんブログ村 アウトドアブログへ にほんブログ村 アウトドアブログ ハイキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地衣類は人類と自然の共生のお手本!?(妻女山里山通信)

2011-01-10 | アウトドア・ネイチャーフォト
 年末年始と慌ただしく、無雪期に行う里山の手入れもできずフィールドワークもままならず、ちょっとストレスがたまっている今日この頃ですが、今の季節は狩猟期なので週末に入山する場合は気をつけなければいけません。猪猟は猟犬を使って大人数で行われるので分かり易いのですが、ヤマドリ猟は単独、あるいは少人数で散弾銃で行われるため、より注意しないといけないのです。猟は主に谷で行われますが、散弾がどこに飛んでくるかわかりませんから。この時期トレッキングやフィールドワークで入山する時は、なるべく目立つ格好をし存在を知らせるホイッスルも携行すべきです。

 茶色と灰色ばかりの冬の里山で、青緑や黄色に、時には花が咲いたように赤く艶々と輝いているのが地衣類です。地衣類は、なになにゴケと呼ばれることが多いのですが、コケ類・蘚苔類( せんたいるい)ではなく、藻類(そうるい)と菌類が共生している生物です。それゆえ地衣類を構成する藻類も菌類も単独では生きられません。コケは葉緑体を含んだ細胞でできた緑色植物ですが、地衣類は菌類です。ただコケ類と同じ光合成生物なので、コケ類と生育環境は重なります。

 地衣類は、樹皮や岩の上などに色々な美しい模様を描き出します。地衣類は、大部分は子のう菌に属する菌類なんですが、光合成ができないため菌糸で作られた構造の内部に藻類が共生して、藻類が光合成で作り出す合成産物によって生活しています。両者の間には高度な共生関係が成立しているのです。地衣類は、その形態から葉状地衣類、樹皮や岩の模様に見える痂状(かじょう)地衣類(固着地衣類)、枝状になって基質から立ち上がる樹状地衣類に分けられます。ブナの樹皮は、本来は灰白色なのですが、主にモジゴケ科の痂状地衣類やコケなどがつくことによって、あのような風合いのある大木になるのです。
 写真の黄色いものをロウソクゴケ科?と記していますが、コガネゴケ科のコガネゴケかもしれません。地衣類の同定は、似ているものが多く非常に困難です。

 ほとんどの地衣類は食べられないので(美味しくない?)、食用にされませんが、おやきや天ぷら、酢の物で食べられる珍味イワタケ(岩茸)は地衣類です。食用とされる地衣類はわずかなので、世界の文献にも紹介されるほどです。わが家もトレッキングの途中でイワタケを採取して天ぷらで食べたことがあります。イワタケ自体には味はあまりありません。高価なものですが、韓国食材店に行くとわりと安価で手に入ります。他にはバンダイキノリも食用にされます。

 写真にもあるウメノキゴケ科の地衣類は、自動車の排気ガスに弱いため、大気汚染の指標ともなります。つまり、この地衣類が生育できる場所は、空気がきれいだということになります。また、学校の理科の実験で使ったリトマス試験紙は、リトマスゴケからできる紫色の染料で作られます。ロウソクゴケは蝋燭の染色に使われたためこの名前があります。ハナゴケの仲間は鉄道のジオラマに使われるので見た事があると思います。けっこう役に立っているんです。

 地衣類には、lichen bug(ライケン・バグ)という地衣類をまとったような地衣類に擬態した虫がいることがあります。日本のものは蓑虫(ミノムシ)のような格好をしているようですが、まだ見た事がありません。ぜひ見つけて撮影したいものです。ちなみにPCでソフトのバグといいますが、バグとは虫のことです。
 なにもなさそうに見える冬の里山や雑木林や公園ですが、時にはこんなマイナーな地衣類ウォチングをしながら歩くのもいいと思います。

にほんブログ村 写真ブログへ にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ にほんブログ村 アウトドアブログへ にほんブログ村 アウトドアブログ ハイキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。コケや地衣類の写真もこちらで。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大林山スノートレッキングルポアップ!(埴科里山通信)

2011-01-08 | アウトドア・ネイチャーフォト
MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】に、大林山の雪中トレッキングのフォトルポをアップしました。降雪のためネイチャーフォトがほとんど撮影できなかったのは残念でしたが、こんな時でもないと撮れないパノラマ写真が撮影できたのは収穫です。鳥の鳴き声もなく、ニホンカモシカも足跡のみでした。つやつやと元気だったのは樹皮についた葉状地衣類ぐらいでした。積雪は少なめの埴科更級の低山ですが、今朝の冷え込みは里でも-8度。二階の窓からは北アルプスがよく見えます。早くも蕗の薹(とう)が顔を出し始めましたが、本格的な寒さはこれからです。こんな寒さが続くと、米子大瀑布も氷結してアイスクライミングができるようになるかもしれません。

にほんブログ村 写真ブログへ にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ にほんブログ村 アウトドアブログへ にほんブログ村 アウトドアブログ ハイキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。ムラサキシメジ、ムキタケなどキノコ、変形菌(粘菌)の写真はこちらで。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松本城・芥子坊主山・扉温泉(筑摩漫遊記)

2011-01-05 | 歴史・地理・雑学
 息子が下宿に戻るのを送るついでに久しぶりに松本周辺を廻ってみることにしました。最初はのんびりと旧善光寺道に沿って山を越えて行こうと思いましたが、当日の朝がかなり冷え込んだため、峠道が凍結しているだろうと高速を使いました。松本辺りは、信濃国の筑摩郡(つかまごおり)と呼ばれていたところです。明治までは「つかま」と呼んでいたのですが、発語しにくいということで「ちくま」と呼ばれるようになりました。それが千曲とも混同される原因になってしまったのは残念なことです。筑摩川は千曲川のことではなく、犀川水系の川(犀川・梓川・奈良井川・薄川など筑摩郡を流れる川)のことです。

 まず芥子坊主山(891.5m)に行ってみました。頂上は農村公園となっていて高い展望台があり、キャンプ場の施設もあります。ただ、すぐ南に大きな駐車場のあるアルプス公園があるためか、ここはいつも閑散としていると息子は言っていました。彼はよく自転車に乗ってここに登るそうです。展望台に登ると、北川は樹木に遮られていますが、それ以外は大展望が広がります。西側には雲を頂いた常念岳と横通岳が大きくそびえています。西には松本平と北アルプスの展望の良さがあるものの、地味で忘れられがちな戸谷峰(1629m)の大きな山容が間近に迫ります。さらに右へ目を向けると美ヶ原高原の大きな山塊が見えます。松本で東山というと、やはり美ヶ原になってしまうのでしょう。雪をかぶった王ヶ頭の鼻先が見えます。さらに右へ目をやると鉢伏山、高ボッチ山が。

 展望を楽しんだ後は、街へ下りて松本城近くの食堂で昼食。なかなか美味しいレトロなラーメンを食して松本城へ。外国人観光客が大勢訪れていました。松本城は、信濃守護家の小笠原氏の里山辺にある林城の支城として築かれた深志城が起源とされています。松本城は何度か消滅の危機がありましたが、明治時代に競売にかけられて取り壊されそうになったのが、最大の危機だったでしょうか。お堀端は植え込みや柵がないので、歩きながら撮影していて落ちない様に注意が必要ですね。

 息子の下宿に荷物を降ろして温泉に行こうとなりました。すぐ近くには浅間温泉と美ヶ原温泉が。もっと近くには横田温泉なんていうのもありますが、ちょっと脚を伸ばしてみようということで、松本で西の白骨、東の扉と呼ばれる扉温泉に行く事にしました。この温泉は、天の岩戸を開いた天手力雄命が戸を戸隠に運ぶ(天照大神が二度と隠れられないように扉を隠すため)途中で休息したという神話に由来するこの上にある扉峠に因んだ温泉ですが、温泉の発見は以外に新しく明治初期だそうです。

 前日にテレビで放映されたためか、いつものことか、山奥の温泉にはたくさんの人が訪れていました。日帰り温泉は「桧の湯」のみです。入浴料は300円と格安(休憩室利用料300円)。隣に小さな食堂もあります。内湯に露天風呂があり、もちろんかけ流しです。泉質は単純炭酸泉、アルカリ性単純温泉で、湯温はぬるめ。少し硫黄の臭いがします。湯船にはたくさんのリンゴが浮かんでいていい香りがしました。露天風呂の岩の上には、だれかがかじったリンゴが三個並んでいました(笑)。美味しそうと思わずかじってしまったのでしょう。でも温泉につかった生温いリンゴが美味しいわけがありません。

 風呂を出て松本に戻ります。途中「まんぼう食堂」という手打ちラーメンのお店がありました。なんとなく気になって帰ってから調べてみると、妻夫木聡主演の「さよなら、クロ」のロケに使われたというなかなか美味しいラーメン屋さんだということが分かりました。林城にも寄りたかったのですが、せっかく温泉で温まった体を冷やしてはと次の機会に譲り、息子を下ろして高速に乗りました。夕方の川中島を撮ろうと姨捨SAに寄りましたが、ここは障害物がたくさんあって撮影には少々不向きでした。やはりこの上の403号線にある千曲川展望台が一番かとETC専用のスマートインターチェンジから出ました。ここは、出入とも相当急坂なので注意が必要です。この後、千曲川展望台へ行こうかと思いましたが、東側の斜面は陽が陰ってしまい激寒。とても夕方まで待てそうにないと諦めて帰りました。

 千曲川展望台からのパノラマはこちらです。パノラマ撮影には、ここと姨捨駅の展望台がおすすめです。
 
にほんブログ村 写真ブログへ にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ にほんブログ村 アウトドアブログへ にほんブログ村 アウトドアブログ ハイキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大林山へスノートレッキング(埴科里山通信)

2011-01-01 | アウトドア・ネイチャーフォト

 2010年最後の山は、どこにしようかねえと息子達と相談。北の山は雪が深そうだから南に行こう。それもマイナーな山がいいねということで、冠着山の山頂から見た、その大きな山容が気に入っていつか登りたいと思っていた大林山にしました。千曲市・上田市・坂城町・筑北村に跨がる1333.0mの低山ですが、おそらく知っている人は少ないでしょう。googleで検索してもルポはそう多くは出てきません。

 妻女山の陣場平でお会いした、よく参考にさせていただいている信州山岳クラブの I さんのサイトにループを組んだコースがあったので、それを元にコースを設定しました。麻績村へ抜ける坂上トンネルの手前に、四十八曲峠への旧道入り口があり、通行止めのゲートがあります。そこに駐車して旧道を歩き、33号カーブの標識がある谷からとりつきました。この旧道は坂上トンネルが出来る前、子供達と冠着山へ登った時に通ったことがあります。

 谷を遡上するルートは、登山道や標識はなく、いわゆるバリエーションルートですが、登って行くと岩井堂山(自在山、最近はびんぐし山とも)からの登山道に出るはずです。そこから尾根を直登するか、おとなしく登山道を行くかは、現地で決める事に。往復3時間ぐらいの楽ちんトレッキングという感じで出発したのですが・・。

 針葉樹林の谷をつめると、ほどなく倒木で塞がれてしまいました。ニホンカモシカの踏跡を使って尾根に乗りました。そこからは尾根を直登したのですが、チャボガヤと落ち葉に積もった新雪で滑り易く、思った以上に体力と時間を消費してしまいました。何本か細い作業道があり、それを使って上に行けないか調べてみましたが、全て谷で行き止まり。仕方なく這々の体で急な尾根を登ると、やっと岩井堂山からの登山道とおぼしき広い道に出ました。下からは狩猟の銃声がしました。途中、大きなヤマドリのメスが雪の中から飛び出して森の中を滑空して行きました。

 そこから尾根を直登するルートもあるのですが、見上げると今までもかなりの急登だったのに、ここからはさらにきつい傾斜が待っていました。三人とも直登にはいいかげんうんざりしてきていたので、おとなしく登山道を行く事にしました。登山道はかなり岩ゴロの道でしたが、積雪のためそれほど苦労せずに辿る事ができました。かなり歩いて八頭山からの尾根に乗ると、今度は大林山の北西面を三分の一周する感じでトラバース気味に緩く登ります。

 1317mからの尾根に乗って檜林を登ると前峰に着きます、一旦鞍部に下って登り返すと大林山山頂です。大林山は、おおばやしやま、またはだいりんざんといい、上田の室賀では南面にある谷から氷沢山(ひざわやま)ともいいます。地味な山ですが、山頂からの見晴らしは大変いいようです。いいようですと書いたのは、山頂に到着直後に雪が舞い始め、あっという間にホワイトアウトしてしまって景色が見えなくなってしまったからです。そんな訳で激しくなる降雪の中15分ぐらいで慌ただしく昼食後下山を開始。帰りは八頭山への尾根を辿り、「ぽんぽこの平」を経て37号カーブの標識へと下りました。この帰路のコースがもっとも一般的なルートのようです。本当に地味な山ですが、芽吹や花の季節は、もっと楽しめるかもしれません。

 新年最初の山は二年参りを兼ねて妻女山へ。空気が乾燥していてオリオン座やカシオペア、北斗七星がきれいに見えました。

MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】に、大林山の雪中トレッキングのフォトルポをアップしました

2014年5月4日の大林山トレッキングのフォトルポ。一部バリエーションルート。北アルプスの大展望が知られてきたのか首都圏からの登山者も増えています。拙書では、ループコースを紹介しています。お勧めはタムシバとコブシが咲くゴールデンウィーク頃。オオタカの巣も見られるかも。

【追記】『信州の里山トレッキング東北信編』川辺書林が発売中。平安堂やAmazonで。大林山も詳しく載っています。カラー668枚の写真とコースの説明と地図  地図は国土地理院の地形図を使い、フォトショップとイラストレーターで自作。シンプルで分り易いと評判。 #登山 #信州

にほんブログ村 写真ブログへ にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ にほんブログ村 アウトドアブログへ にほんブログ村 アウトドアブログ ハイキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

★その他の信州のトレッキングルポは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】をご覧ください。最新作の虫倉山と鏡台山では、北アルプスの大パノラマを掲載しています。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする