モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

セツブンソウ、Spring Ephemeral

2007-01-29 | アウトドア・ネイチャーフォト
うららかな陽射しに誘われて自転車で野川公園自然観察園へ。暖冬だからもう咲いているだろうと節分草を見に行きました。いつも通り野川沿いに自転車を走らせていると葦の枯れ枝の先っぽにカワセミが留まっています。先に行った息子を呼び寄せて教えていると、近くで鳥を撮影していた男性が、それよりもっと珍しい鳥がいると教えてくれました。

どれどれと教わったところを見ると、枯れ草にまぎれてウズラのような小さな鳥がいました。タシギというのだそうです。カワセミはいくらでも見つけられるけれど、タシギは多くて7回ぐらいしか見たことがないという野川では貴重な鳥だそうです。しかも保護色なので見えない。おそらく目に留める人もいないでしょう。その隣にはバンの幼鳥がオナガガモと一緒にエサを探していました。他には、チュウサギ、カルガモ、ユリカモメなども。

まずは、次男が調布選抜の練習試合をしている東京スタジアム北の関東村運動公園へ。陽気のせかもひとつ気合いの入らない試合を眺めてから、調布飛行場の北にある新しい「武蔵野の森公園」へ。ここは調布飛行場から飛び立つセスナが間近で見られる芝生の丘がポイント。戦争中の「飛燕」を隠したドーム型のコンクリートの格納庫もふたつあります。

そして、いよいよ野川公園自然観察園へ。暖冬で例年より咲き始めは早いものの、寒さが足りないせいか勢いがもうひとつ。それでも林下の日溜まりに可愛らしく咲いていました。ただし、開いても2センチ程度と小さいので、注意して見ていないと通り過ぎてしまうかも。スモーキーブルーの雄しべと黄色の蜜線が白い花びら(萼)に映えてなんとも美しい。ちょっと北欧っぽい色合いでしょうか。

他にはスイセン、ソシンロウバイ、ロウバイも咲いていました。マンサクはこれからのようです。まもなくミスミソウ(ユキワリソウ)も咲くでしょう。深大寺の「玉乃屋」でいつものように大盛りを食べて、深大寺城跡に寄り、再び野川沿いに帰路につきました。

●セツブンソウ(節分草)キンポウゲ科セツブンソウ属。本州の関東地方以西に分布する、高さ10センチほどの小さな多年生草本。花の直径は約2センチ。花びらに見えるのは萼です。先が黄色く見えるのが退化して蜜腺になった花びらです。山地の落葉広葉樹林の林床に生え、石灰岩地を好む傾向があります。節分の頃に咲くのでこの名があります。早春に咲き、2、3ヵ月でその年の生活サイクルを終え消えてしまう植物は、スプリング・エフェメラル(Spring Ephemeral、春の妖精、春のはかない命)と呼ばれますが、カタクリと共にその代表的な花といえるでしょう。条件が整うところでは、広い林床を埋め尽くすように咲くようですが、心ない人の盗掘で各地で絶滅が心配されている植物でもあります。

詳しくは、モリモリキッズにフォトドキュメントをアップしました。ご覧ください。
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ジャニス・ジョプリン

2007-01-27 | BABYMETAL・LOVEBITES・ジャズ・宮本佳林・クラシック
確か下北沢の一番街だったか、当時としては決して安くない金額をはたいて買ったレコードが、ジャニスの「PEARL」でした。故植草甚一氏が、経堂から通っていた「タイム」という喫茶店があり、コーヒーをすすりながら買ったばかりのLPをしげしげと眺めた記憶があります。

当時は、どちらかというとジャズに没頭していて、マイルス・デイビスやウェイン・ショーター、ジョン・コルトレーンなどを聴いていたのですが、友人に渋谷の恋文横町のもっと上の方の百軒店だったか、「サブ」というロック喫茶に連れて行かれて聴いたのが最初だったような。記憶が曖昧なんですが…。「ムルギー」で、当時は珍しいゆで卵がのったインドカレーを食べたり、「喜楽」のモヤシソバを食べてから、どっぷりとジャニスのブルースに浸ったものです。ハシゴのような階段を二階に上ると、薄暗いというよりは真っ暗に近くて、陽光降り注ぐ道玄坂から入ると一瞬何も見えなくなったものでした。明るい店内を見たことがないので、どんな内装か記憶がないのですが、当時はジャズ喫茶も今では許可にならないぐらい薄暗いものでした。

百軒店には、ブラックホーク、B.Y.G.とかロック喫茶がたくさんあったと記憶しています。なんとB.Y.G.は、まだ営業してるようですね。BEGINなどもライブをやっているとか。今なら行くでしょうが、当時は通り過ぎるだけだった名曲喫茶「ライオン」もまだ健在のようですね。学生時代になると、渋谷からは遠ざかり新宿の「ピット・イン」や「DIG」、「DUG」などに顔を出すようになりましたが、ジャニスというとなぜか渋谷の百軒店と下北沢の「タイム」を思い出すんです。

そういえば私は縁がなかったけれども、コント赤信号などが出演していた「道頓堀劇場」が目の前にありましたね。帰りに「民民羊肉館」(ミンミンヤンロウカン・本当は王偏に民)で、サンマーメンに餃子なんかも食べました。なんでも妻の両親がデートでよく行ったとか。餃子の元祖ですね。ニンニクを入れたのもそこの親爺さんのアイデアだとか。

その後は、吉祥寺近くに住んで、また「ファンキー」や「OUTBACK」などジャズ喫茶通いの日々でしたが、時々思い出したように「赤毛とそばかす」なんかにも通ってました。JBLやアルテックのスピーカー、マランツやマッキントッシュのアンプは憧れの的でしたね。バイトして憧れのラックスのアンプを買った夜は、一晩中聴いてました。昨今のCDやMP3の安っぽい音を聴いていると、それに連れて歌手や音楽そのものも安っぽくなってしまったのかなあなんて思ったりもします。70年代は60年代からの解放の時代でした。なんだかみんなゆるくて、サブカルチャーが活き活きしていた時代ですね。

実は、昨夜はちょっと時間が空いたので家族でジャニス・ジョプリンのビデオを観たのです。ちょうど小6の次男も、学校でジャズなんか演奏しているもので、ジャズ、ロック、ブルースなんかに興味を持ち始めたんですね。ちょっと重いけれど「魂のうた」ってやつを聴くのもいいかなと。なんだか気に入ったみたいです。
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ビーフシチュー

2007-01-22 | 男の料理・グルメ
 「なんか肉のかたまりが食べたい」という育ち盛りの次男のひとこと。オーストラリアの牧草飼育のもも肉が安かったので「ビーフシチュー」を作りました。ビーフシチューは、なんといっても洋食の王道。クリームシチューの歴史が、戦後学校給食で脱脂粉乳に小麦粉でとろみを付けたのが始まりというほど新しいのに比べ、ビーフシチューは、ペリー提督の黒船襲来まで遡るわけです。なんでも明治の中頃には、洋食屋のメニューとして定着していたというのですから、非常に日本人好みの料理だったといえるでしょうね。しかも、意外なことに肉じゃがのルーツでもあるというんですから驚きです。

 但し、一説には豊臣秀吉の好物がビーフシチューだったなどというのもあり、仏教の戒律もあって、四つ足動物を食べなかった日本人ですが、猪を山鯨といい、兎を一羽二羽と数えて食べていたことなど考えると、一部の人たちは随分と古くから食べていたのかも知れません。それが明治維新、廃仏毀釈の中で、洋食が一般市民にとってもアンタッチャブルなものではなくなっていったのでしょう。

 そうはいっても明治時代においては一部の階層の食べ物だったわけで、「シチウ」「スチウ」「スチュウ」なんていわれていたそうです。今でも銀座辺りの老舗洋食屋さんやホテルのレストランでいただくと、びっくりするほどお高いんですね。フランス語では、ラグー・ド・ブフ(Ragout de boeuf)なんて御大層な名前ですが、元々は家庭料理ですからね、もっと気軽に食べたいものです。

 といいましても、家庭ではドミグラスソースから作るのはとても大変ですね。かといって市販の固形ルーで煮込んだだけではあまりにも味気ない。
 というわけで、今回は缶詰のドミグラスソースに、トマト缶、赤ワインで煮込みました。肉は塩コショウして小麦粉をはたいてニンニク風味のバーターとオリーブ油で焼き目をつけ、ブランデーでフランベしました。
 ニンジン、タマネギは大きく切ってバターとオリーブ油でソテー。マッシュルームは、スライスでも丸のママでもOK。あとはローリエを入れてコトコト煮込むだけ。

 わが家は、光熱費削減のため魔法鍋を活用。これは水分が蒸発しないので、あらかじめ仕上がりの量に水を調節しておく必要があります。魔法鍋は、ずっと火にかけておく必要が無く、放っておけるのでとても便利。3、4時間毎に取り出して、また火にかけて魔法鍋に放り込みます。これを2、3回繰り返せば、もうトロトロのビーフシチューのできあがり。もっと凝りたい方は、ブラウンソースをご自分で作るといいでしょう。

 塩味は、今回はブラジルのセロリ風味のハーブ塩を使いましたが、なんでもかまいません。ジャガイモは、肉やニンジンがある程度柔らかくなってから入れます。
 仕上げには、サワークリームをかけました。たくさん作って余ったら、残りはビーフカレーに変身なんてのもなかなかおつなものです。
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「妻女山」はふたつある!【妻女山里山通信】

2007-01-15 | アウトドア・ネイチャーフォト
 初登山は、歴史の山「妻女山」へ。この妻女山、川中島合戦の折りに上杉謙信が陣を布いた処として有名ですが、実は妻女山は、ふたつあるのですが、そのことを知っている人は意外に少ないのです。
 一般に知られているのは招魂社と展望台のある標高411mの妻女山。地元の人もそう呼んで久しいため、案内板もあらゆるマスコミも、多くの歴史研究家さえ、ここを妻女山といっています。しかし、この山は本当は「赤坂山」という山です。

 では、本当の妻女山はというと、さらに20分ほど南西に登った標高512.8mの斎場山古墳(円墳)のある頂きなのです。ここは、麓の岩野村誌や土口村誌によると、「古代この山は、斎場山といい、天神山祗を祀る聖なる霊場であった」といいます。この辺りは、更埴古墳群といって相当数の古墳のある場所なのです。

 この頂は、第四次川中島合戦の折りには、上杉謙信が本陣を置いたため謙信台と呼ばれています。さらに西へ尾根を700mほど下ると、謙信が夜にはそこで休んだという堂塔があったといわれる薬師山があり、現在は瑠璃堂と呼ばれるお堂が建っています。そこへ行く途中に御陵願平という平地があり、往古はそこに古代科野国の祖、科野國造の妻といわれる会津比売命を祀った会津比売神社があったともいわれています。しかし、上杉謙信が庇護していたため武田の兵火に焼かれ、後に麓にひっそりと再建されたということです。謙信が休んだのは、ここではないかという説もあります。

 大河ドラマで再び脚光をあびそうな妻女山ですが、多くの観光客や歴史マニアが、展望台のある赤坂山を本陣のあった妻女山と勘違いして帰っていくのはなんとも忍びない想いがします。第四次川中島合戦については、第一級史料が無く「甲陽軍艦」「北越軍記」などの軍記物や「上杉家御年譜」などを参考にするしかないため詳細な真相は不明ですが、それでも最近の研究では、全てが絵空事ではなく、事実と脚色とを注意深くより分けて史実を解明しようという流れになってきているそうです。国語学者の酒井憲二氏による『甲陽軍鑑大成』全七巻では、江戸時代には使われなくなった甲州の方言が記されており、『甲陽軍鑑』は偽書ではないという分析をされています。信玄と謙信の一騎打ちや啄木鳥戦法などは、江戸時代の創作がかなり入っています。
 地元に古くから伝わる伝承も、研究対象に充分なることと思われます。さらなる研究が進むことを期待します。
詳しくは、私の研究ページ『妻女山の位置と名称について』をご覧ください。
「妻女山」「斎場山」への行き方
川中島合戦と山名についての考察。斎場山と妻女山まとめ。(妻女山里山通信)

■第四次川中島合戦
1561(永緑4年)
8月8日・・・上杉謙信が一万三千の軍を率いて越後春日山を発つ。   
8月16日・・上杉謙信が信濃海津城西の妻女山(斎場山)を占領し陣馬平、堂平、千人が窪に兵を置き布陣する。   
8月18日・・謙信出陣の報を受けた武田信玄が一万八千の軍を率いて信濃川中島に出陣する。      
8月24日・・武田信玄が信濃川中島に到着、雨宮の渡し西岸付近に布陣し、謙信の退路を断つ。     
8月29日・・武田信玄が八幡原経由で広瀬の渡しから信濃海津城に入城する。   
9月09日・・武田信玄が軍議を開き、席上山本勘助が「啄木鳥の戦法」を献策。   
9月10日・・【第四次川中島合戦】
       上杉謙信が亥刻(22時頃)妻女山を下り濃霧の中、千曲川の雨宮・十二ケ瀬・狗ケ瀬を渡り八幡原へ進撃。
       武田軍別働隊一万二千が子の半刻(01時頃)既にもぬけの殻となった妻女山へ進撃。
       信玄は八千の兵と共に八幡原に布陣。上杉謙信が急襲し合戦となる。
       武田信玄の弟信繁、参謀・山本勘助が川中島合戦で戦死。信繁享年37歳、勘助享年不詳。

詳しくは、モリモリキッズにフォトドキュメントをアップしました。ご覧ください。
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天空の城郭 清野氏の「鞍骨城」登頂【妻女山里山通信】

2007-01-06 | アウトドア・ネイチャーフォト
年末は、去年は豪雪で断念した信州は長野市清野と千曲市倉科の境にある、第四次川中島合戦の武田方の清野氏の要害、「鞍骨城」のある鞍骨山へ登りました。

鞍骨城へは、妻女山の麓から妻女山、陣馬平、天城山(てしろやま)、二本松峠を経て登るのですが、冬季以外は月の輪熊の生息地であり、猪、ニホンカモシカもおり、夏場はサルトリイバラやエビガライチゴが密集し、オオスズメバチガ飛び回るのでとても登れません。城郭の石垣やガレバはマムシの巣になっていることも充分に考えられます。安全に登れるのは熊が冬眠した冬しかないのです。

そんなわけで大晦日の登山を決行したのですが、妻女山へ登ってみると大勢のハンターがいるではありませんか! なんですかと聞くと大がかりな猪の駆除が行われるとのこと。間違われて撃たれたら洒落になりません。私達の経路を説明し、ハンター仲間に無線で伝えてもらうことにしました。大きな声を出しながら登ってくれとのことで、大声を出したり笛を吹いたりと大騒ぎの山登りになりました。

もっとも猪狩りは、谷の下から猟犬を使って猪を追い上げ、上からねらい撃ちするので、尾根の稜線を歩いている分には、流れ弾さえなければ心配はいらないのですが…。

鞍骨城は、標高798mの鞍骨山頂にあり、埴科郡の山城中最も規模の大きい城郭です。本郭(西辺20m、南辺17m、北辺9.7m)、西方に16×9mの脇郭、22×12mの副郭、さらに西に幅9.4×18mの大郭、その西に幅8×長さ70mの狭長な郭があり、堀切を隔てて平坦部が続きます。その東方に箕状の段郭が階段敷きに四つ連立しています。

この城郭は、北面が急で南面がやや緩やかで、南西に虎口があり大手とするようです。城趾から100m余り離れて長さ18m、幅9mの馬場跡があったといわれています。
城主の清野氏はもともと葛尾城主の村上氏に属していましたたが、天文十九(1550)年九月、武田氏による戸石城攻撃の際に清野清寿軒が武田氏に出仕し、天文二十二(1553)年には清野左近大夫が信玄より「信」の一字を偏諱されています。しかし、永正年中(1505-1520)清野山城守勝照の築城説には、明確な証拠がないそうです。

深い空堀を越えて行った先に我々を待っていたのは、高さ50mはあろうかという天空にそびえる鞍骨城の雄姿でした。一時は、積雪もあるしこれは登れるかなと思いましたが、なんとかルートを探しながら登頂に成功しました。山頂からは善光寺平や更級の里が一望の下に見え、風もなく穏やかで爽快な気分でした。ここで強者共が夢の跡に想いをはせ、昼食の時間としました。

新年には、一般的に知られている招魂社のある妻女山(地元でも妻女山と呼ばれて久しいが本当は赤坂山)とは別に、本来の妻女山、地元では上杉謙信が本陣を置いたため謙信台と呼ばれ、妻女山古墳のある512mの頂きに登り、遠い歴史に思いを巡らせました。

モリモリキッズにフォトドキュメントをアップしました。ご覧ください。

追記:後日聞いたところでは、30、31両日で、この山域だけで40頭もの猪が仕留められたそうです。正確にいうと猪ではなく、以前逃げたか放されたイノブタが大繁殖したものだそうですが、亥年を前にちょっと可哀想な気もしますが、地元の人の甚大な被害の話を聞くとしょうがないのかなとも思います。
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