モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

妻女山へ蕗を探して(妻女山里山通信)

2009-02-27 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 有明山の中腹の畑で蕗が採れたと聞いたので、妻女山もとでかけてみました。北風がビュンビュンと寒い日で、樹上はゴーゴーと枝葉がうなっていましたが、林下は思いの外静かです。妻女山公園駐車場に車を置いて、まず、わが家の山の整備をしながら、林道ではなく古道を登りました。強風のために枝が落ちたり、かかり木になった倒木がたくさんあります。できるものを処理しながら登りました。

 いつもニホンカモシカの親子がいる植林地に行きましたが、今日は巡り会えませんでした。妻女山から陣場平への古道は、今は通る人もなく、カモシカや猪の獣道になっているだけです。昔は上杉の軍勢がこの道を歩いたのかしらと想いを巡らしながら谷を渡り、さらに灌木の生い茂る獣道へと進みました。そこで、江戸時代の絵図にもある古道にさしかかりましたが、道にも灌木が生い茂っている有様で、麓への道筋は藪の中へと消えていました。濡れた切り株には、ヒトヨタケ科のイヌセンボンタケの若いキノコがありました。別の植林地には、アカキクラゲ科のハナビラダクリオキンが。

 やっとの想いで森を抜け、お目当ての場所に出ると、強風の上空とは全く違う春の柔らかな陽射しを浴びた斜面にたくさん蕗がでてました。ザレ場の蕗なので、泥汚れがなくとてもきれいです。山の蕗は畑のものよりも美味しいのです。15分ほどで小さな袋がいっぱいになりました。蕗味噌と天ぷらでいただきました。

 採取のあとは、山巡りをしました。タラの芽が数え切れないほどある穴場。コシアブラがたくさんある秘密の場所など。春から初夏にかけての山菜ポイントの確認をしました。同じウコギ科のハリギリの新芽は、通の好む味です。ウルシ科のヌルデの若芽も天ぷらにすると美味です。最近は、スーパーでも見かけますが、栽培物と天然物では、やはり味が違います。しかし、苦味の美味しい山菜は、冬眠明けの月の輪熊も食べるものがあるので、上手く分けあわないといけませんね。共生してなんぼの里山ですから。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、特殊な技法で作るパノラマ写真など。
★フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】もよろしく。
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「妻女山 有名人訪問年表」政治的、軍事的に利用された稀有な里山(妻女山里山通信)

2009-02-24 | 歴史・地理・雑学
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 明治以降の妻女山への有名人(要人)訪問年表を作ってみました。これを見ると、妻女山が、いかに政治的、軍事的に利用されてきたかということがよく分かります。江戸時代は、小幡景憲が幕府の要請で「甲州流兵学」を完成させ、自身編集の『甲陽軍鑑』が教科書として使われました。また、近松門左衛門の『信州川中島合戦』がヒットし、更には「謙信槍尻之泉霊水騒動」によって妻女山がクローズアップされました。
 そして、明治以降は、日本陸軍参謀本部が編集した『日本戦史』川中島の戦によって軍の教科書となり、軍事演習や戦術研究のために妻女山は利用されました。さらには、満州事変の勃発を契機に川中島戦地を利用した軍事研究のための軍高官や皇族の妻女山訪問と来校が増加したという事実があります。そういう意味において妻女山は、極めて政治的、軍事的な山なのです。尚、川中島合戦の研究は、自衛隊にも引き継がれています。そういう中で、妻女山の名称や位置が、ある時は意図的に、またある時は無知のために、変えられていったと思われるのです。
 この年表を読むにあたり、まず知っておいておかなければならない地理的歴史的事実があります。それは、現在国土地理院が三角点を置いている妻女山は、本来の妻女山ではないということです。現在の妻女山(411m)は正しくは赤坂山で、本当の妻女山はその南西にある標高512.8mの頂です。しかも妻女山は、松代藩が江戸時代につけた俗名で、本名は斎場山といいます。それが『甲陽軍鑑』に西条山と誤記され流布しました。国土地理院の三角点は、必ずしも地元でいう山頂に置かれないことがよくあり、それが歴史的事実さえ捻じ曲げてしまうことが全国で起きています。自然地名というのは、文化遺産であるという認識が、行政にも市民にもあまりにも欠けているのです。大手ディベロッパーがつけた夕陽丘とか、全く歴史に依存しない安っぽい地名を見ると、愕然とします。歴史を軽んじるものは、必ず歴史に逆襲されます。

■妻女山:有名人訪問年表(流用転載厳禁)
【江戸時代】
1831 天保3年・・・・・・・・妻女山麓の「上杉謙信槍尻之泉」で霊水騒動が起き、城下近在、善光寺町、下越後よりも人が押しかけ、毎日大騒ぎとなる。
【明治時代】
1868 明治元年・・・・・・・・「戊辰戦争」勃発。松代藩の戦死者52名、負傷者85名。会津は秀吉の国替えにより上杉景勝と共に移った信州の土豪が作った街。江戸時代には伊那高遠藩の保科正之も転封している。戊辰戦争はある意味信州人同士の戦だったともいえる。
1869 明治2年4月17日・・・真田幸民は藩戦死者の英魂を、妻女山頭(赤坂山)に祀る招魂祭を執行。石の玉垣をめぐらした戦没者の石碑を建立、「松代招魂社」と称す。
     6月・・・・・・・・・・戊辰戦争の功績をたたえられ、松代藩は賞典録三万石を賜る。
1870 明治3年・・・・・・・・松代藩知事・真田幸民により「妻女山松代招魂社」建立。拝殿内部の額には真田幸民(ゆきもと)ではなく滋野幸民とある。
1872 明治5年4月26日・・・妻女山松代招魂社祭を毎年4月24・25日執行と決まる。
1880 明治13年・・・・・・・拝殿を修繕。
1881 明治14年・・・・・・・一町六か村立妻女山松代招魂社建立。拝殿と本殿。
1896 明治29年・・・・・・・社殿の傍らに山縣有朋による一大石碑を建立。
1902 明治35年・・・・・・・皇太子(後の大正天皇)が妻女山に行啓。清野尋常高等小学校職員・生徒が道島路傍で送迎。
                 松代町役場が台覧の際に用いた川中島合戦図では、斎場山が妻女山、現妻女山は赤坂山。
1903 明治36年・・・・・・・日本陸軍参謀本部が編集した『日本戦史』川中島の戦・日本戦史学会編刊行。近代デジタルライブラリーで無料で読める。
                 川中島合戦は、日本帝国陸軍の戦術研究の素材となった。
1904 明治37年5月28日・・金洲占領で清野小学校講堂で祝勝会。式後日章旗を持って村内を巡回。妻女山松代招魂社で万歳三唱後解散。
1906 明治39年・・・・・・・伊東元帥、東郷大将、上村中将の一行が訪問。玄関前で生徒に訓辞。
1908 明治41年・・・・・・・妻女山で、第五十八連隊の幹部演習が行われる。旅団長森川少将、連隊長堀内大佐以下学校で休息。旅団長が生徒に講話。
1909 明治42年・・・・・・・児島少将一行幹部演習の途中に来訪。生徒に演説。
1910 明治43年4月・・・・・妻女山元琴平神社(金刀比羅宮=明治維新の神仏分離・廃仏毀釈が実施される以前は真言宗の象頭山松尾寺金光院)境内を村有として学校の付属とする。
1910 明治43年11月21日・朝鮮合併記念として県庁から交付の欅、銀杏を校門左右に植樹。妻女山学友林へ桐苗83本を植樹。
1911 明治44年・・・・・・・華頂宮博忠壬殿下妻女山へ来訪。北庭へ立ち寄り職員生徒が校門で送迎。それに先立ち社務所建設。合わせて松代、寺尾、東条、西条、清野、雨宮の一町六ケ村により日清・日露の戦没者を祀る乃木将軍筆による忠魂碑建立。
1912 明治45年・・・・・・・明治天皇崩御の大葬につき、午前10時妻女山に於いて児童一同と補助女子一同で遙拝式を挙行。
                 午後8時男子補修生は村民一同と式を挙行。

【大正時代】
1912 大正元年・・・・・・・・日本陸軍参謀本部陸地測量部制作5万分の1地形図。妻女山と記載するも山頂の測量と位置は示されず。
                 陣場平辺りに存在しない山を示す不可解な等高線が描かれる。測量の誤りか、『日本戦史』に合わせた陸軍の捏造か不明。
1913 大正2年4月25日・・・一町六か村立の忠魂碑祭で各村高学年生、妻女山松代招魂社に参拝。
1917 大正6年11月3日・・・朝香宮鳩彦王殿下妻女山へ来訪。職員生徒全員で迎える。下山後11時より運動会を参観。
                 玄関前に松を植樹。夜師団対向演習が行われる。
1918 大正7年2月15日・・・高等科学年会で北埴八校連合兎狩会を西条山で行う。(これは妻女山のことではなく、松代町西条の山域をいう)
         3月10日・・・陸軍記念日で妻女山に登り招魂社忠魂碑に参拝。山上で合同体操。下山して学芸会。軍人講話。
         4月1日・・・・伯爵真田幸治閣下妻女山に登山後に来校。児童職員村名誉職、講堂で歓迎式。村に二百円の寄付、学校基本財産に。
         4月25日・・・松代招魂社外三村社の例祭で参拝、授業なし。
         5月27日・・・海軍記念日で校長訓話。妻女山松代招魂社忠魂碑に参拝後、合同体操。
1919 大正8年4月18日・・・海軍大学教官広瀬豊中佐、甲越戦争の研究のため来校。
1920 大正9年5月27日・・・海軍記念日。埴科郡連合運動会が鏡台山北峯上で行われ尋常小学校5年以上が参加。他の学年は休業。
1925 大正14年2月15日・・一町五か村高等科生で兎狩会を西条山で行う。
1926 大正15年11月17日・旅団長、幕僚長来校し旅団司令部として午前中作戦を執行。三年以上川中島で師団演習を見学。

【昭和時代】
1927 昭和2年5月2日・・・・後藤新平子爵来校。松代・西条の高等科生徒も加えて講演を聴く。岩野にも訪問。塚田家で記念撮影。林家に「定慧」の書を残す。
         5月27日・・・海軍記念日。全校妻女山松代招魂社参拝。校長講話の後、全員登山。
1929 昭和4年3月10日・・・陸軍記念日。全校妻女山松代招魂社参拝。
         5月17日・・・越後春日郡尋常高等小学校5年生以上280名、妻女山登山の途中に来校。
1931 昭和6年4月7日・・・・李王殿下、現地戦術視察の途中来校して昼食。山口県視学が川中島合戦について説明。
                 陸軍士官学校教官以下学生20数名が現地戦術のため妻女山に登る途中来校。
                 満州事変の勃発を契機に川中島戦地を利用した軍事研究のための軍高官の妻女山訪問と来校が増加。
1932 昭和7年3月27日・・・結城中将と所沢飛行学校教官15名、現地戦術のため来校、妻女山松代招魂社で昼食茶菓を供する。
         10月17日・・朝香宮殿下来校。師団長森中将以下武官と共に運動会を観覧。
1933 昭和8年8月29日・・・澄宮殿下、妻女山へ目標建立を依頼。
1934 昭和9年5月27日・・・海軍記念日で全校登山。尋常科1、2年は傘松(二本松峠)、3年以上は鏡台山。
1935 昭和10年4月11日・・青年会役員で、表参道入口の舟つなぎ松、妻女山の御手植松の改植を行う。
          5月25日・・妻女山松代招魂社前広場にて楠公600年祭。
1936 昭和11年11月21日・海軍大学生の高松宮殿下、川中島古戦場御祝祭のため来校。妻女山へ登山、堂平古墳から雨宮の渡を見学。
1938 昭和13年4月25日・・妻女山松代招魂社祭典、一町六か村児童参拝する。
1942 昭和17年2月8日・・・少年団兎狩。3年以上と青年学校生徒全職員参加して堂平学友林付近で兎狩を行う。
1943 昭和18年4月16日・・防空避難演習。全校児童赤坂山(妻女山)に避難。
          12月23日・陸軍士官学校校長牧野中将他40名の将校教官等、妻女山に戦史研究後来校。礼法室で休憩昼食をとる。
1947 昭和22年・・・・・・・妻女山松代招魂社拝殿後背の石碑を寄せて周りに配し本殿を建立。
                 戦後、川中島合戦の研究は自衛隊にも受け継がれ、妻女山への見学や演習、清野小学校訪問も数多く行われた。
1953 昭和28年8月11日・・6年生学有林下草刈り。
1955 昭和30年・・・・・・・岩野の会津比売神社から妻女山招魂社、東風越経由陣場平までの林道が完成。ガーデントラクターでの桑の搬出が可能になる。
1960 昭和35年・・・・・・・国土地理院5万分の1地形図改訂版刊。妻女山は明記されるも山頂の測量と位置は示されず。
1963 昭和38年4月15日・・学有林植林作業。杉苗200本、赤松400本。
1969 昭和44年・・・・・・・NHK大河ドラマ『天と地と』放送。
                 招魂社への林道が舗装され、長野市により妻女山(赤坂山)が謙信本陣、陣場平という誤った案内看板が設置される。
                 観光バスは、麓の長芋直売所の敷地に車を止め、観光客は徒歩か小型車に乗り換えて登った。
1970 昭和45年7月・・・・・妻女山道路拡幅大改修工事完了(岩野)舗装、駐車場整備等。
1972 昭和47年4月24日・・5、6年生妻女山掃除。
          4月25日・・妻女山松代招魂社祭納剣道大会に4年生以上参加。
          5月25日・・長野市小学校校長会。授業参観、妻女山見学、授業研修会行われる。
                 国土地理院地形図に標高411mの赤坂山が妻女山と明記される。
                 本来の妻女山(斎場山)は、未測量で名無しのまま放置される。
1976 昭和51年4月25日・・妻女山松代招魂社祭納剣道大会に児童多数参加。
1977 昭和52年5月25日・・妻女山道路ガードレール取り付け工事竣工。
1978 昭和53年4月27日・・会津比売神社、大宮神社、離山神社、三社合同の斉田祭本年から中止。
1983 昭和58年4月25日・・妻女山松代招魂社祭典は、奉賛会、遺族会、区長会の三者により執行することとなる。
1984 昭和59年7月・・・・・妻女山道路舗装工事完了。
1987 昭和62年・・・・・・・『長野県町村字地名大鑑』長野県地名研究所刊。妻女山(往古斎場山)と妻女山(往古赤坂山・現妻女山)が記載。

【平成時代】
2002 平成14年・・・・・・・翌年まで千曲市により斎場山古墳の発掘。報告書には五量眼塚古墳と誤った俗名を記載。五量眼の名称の元は御陵願平だが、斎場山の西にある尾根上の平地で、古代斎場山古墳を拝んだ場所といわれる。転訛して竜眼平ともいう。
2007 平成19年・・・・・・・NHK大河ドラマ『風林火山』放送。招魂社駐車場・林道整備、案内看板が取り替えられる。
                 妻女山の文字は本来の妻女山(斎場山)辺りに、現妻女山は赤坂と記載。しかし、説明は無し。
                 妻女山(赤坂山)展望台は、観光客であふれる。斎場山は人知れずそびえる。
2009 平成21年・・・・・・・NHK大河ドラマ『天地人』放送。妻女山(赤坂山)は、再び観光客が増える。当サイトを見た人か、斎場山まで足をのばす人も増える。
2015 平成27年・・・・・・・NHK大河ドラマ『真田丸』放映決定。妻女山(赤坂山)は、再び観光客が増え始めた。
2016 平成28年・・・・・・・NHK大河ドラマ『真田丸』効果で妻女山、斎場山、陣馬平、鞍骨城跡への訪問者が増える。

★赤坂山と斎場山はひとつしかないが、妻女山という場合は、赤坂山をいう場合と斎場山をいう場合、妻女山山系全体をいう場合があるということが分かる。さらに小字名で字妻女、字妻女山があり一層混乱を招いている。

■参考資料:清野小学校開校百年誌(昭和61年発行)他
■『川中島謙信陳捕ノ圖 一鋪 寫本 』(かわなかじま けんしん じんとり の ず) 榎田良長 彩色
  出典:東北大学附属図書館狩野文庫(平成20年5月23日掲載許可取得済)流用転載厳禁!

妻女山の詳細は、妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。妻女山がいかに時の政治権力や文化の変遷に翻弄されてきたかが分かります。それは今も続いているのです。歴史というのは、いつの時代でも時の権力にとって都合のいいように書き換えられ解釈されるものなのです。
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春の雪 大都市近郊の霊園の増加は、今や深刻な都市問題(妻女山里山通信)

2009-02-23 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 人生には一度に色んなことが押し寄せてくることがあります。この冬、我が家では七件の葬儀に参列しました。私は行っていないのですが、子供の頃から知っている方も何人かいました。映画『おくりびと』が、アカデミー賞外国語映画賞を受賞しましたね。一般庶民が、映画のような葬儀をするようになったのは、そんなに古いことではありません。田舎では、昔は土葬が一般的でしたし、墓地も霊園ではなく自分の土地の一部や山際や山の上にあったものです。今でもそういう例も残っています。

 我が一族の最も古い墓地は、山の中腹にあります。しかし、墓の形式や古さをみると江戸時代末期に造られたものだということが分かります。墓の主は、1582(天正10)年没ですから、本能寺の変で信長が討たれ。武田氏が滅亡した年です。我が祖先は武士だったようですが、川中島合戦などの激戦地だったこの地で、彼はどのような人生を送ったのでしょうか。

 現在主流の公園形墓地は、明治時代以降のものです。そして、大都市近郊の霊園の増加は、今や深刻な都市問題となっています。鎌倉アルプスに登ると、見えてくるのは鎌倉市街をグルッと取り囲むようにある広大な墓地群の数々。このままでは、日本中墓地だらけになってしまいそうな勢いですが、おそらくそうはならないでしょう。継承者のいない無縁墓地は、半分以上にのぼるとか。散骨も増えてくるでしょう。ブラジルへ行ったときに、墓のない町というのがありました。町ができたばかりで、まだ誰も亡くなっていないのだそうです。G・ガルシア・マルケスの『百年の孤独』のように、「何もない地で、人は物の名前を付けることから始め、最後は蟻のむさぼるところとなってこの世から消える。」のでしょう。

 古墳というのは、単なる墓地ではなく、齋(いつき)なる場として権力の象徴や祭祀のための祭殿の役割もあったようですが、その頃の一般庶民についての墓は、あまり語られることがありません。江戸の初期まで「墓石制限例」という法令があり、縛られてきました。水葬にされたり野山に適当に埋葬されていたということでしょう。どんな立派な墓を建てても、巨大古墳のように歴史的建造物にでもならないかぎり、いつかは消えていくのが定めなのでしょうね。これからは宇宙葬なんてのも出てきそうです。

 突然の春の大雪は、5センチもの大きな塊で降ってきました。数日前の暖かさで出てきた甲虫がよろよろと歩いていました。ちょうど灯油をふき取ったティッシュを燃やしていました。『泥の河』で、子供が蟹の甲羅に火を付けて歩かせるシーンがありましたが、戦争真っ直中で育った子供の小さな狂気が、やがてその子供に新たな狂気を植えつけて繁栄(反映)していったのが昭和だったのではと、斎場山に降りかかっる牡丹雪を見て想ったのでした。私はもう子供ではないので火はつけませんでしたが…。庭に咲いた、太陽を一心に集めていたパラボラアンテナの黄金の花、福寿草は固く閉じてしまいました。花言葉は、永久の幸福ですが、食べると時に死に至る毒草です。
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重曹洋点心(重曹クッキー):新信州郷土料理(妻女山里山通信)

2009-02-21 | 男の料理・グルメ
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引き続き幼少の頃に祖母がよく作ってくれた重曹クッキーを作ってみました。重曹のほんわかした風味とほろ苦さがなんとも郷愁を誘う味です。ベーキングパウダーと重曹の違いをご存じですか。銅鑼焼きは、やっぱり重曹の方がいいですね。

■材料
中力粉・・・・・・・・・3カップ
砂糖・・・・・・・・・・大さじ2
黒砂糖・・・・・・・・・大さじ3
レモン汁・・・・・・・・大さじ1
塩・・・・・・・・・・・小さじ1
重曹・・・・・・・・・・小さじ2/3
ゴマ油・・・・・・・・・大さじ1
サラダ油・・・・・・・・小さじ1
黒ゴマ・・・・・・・・・大さじ2
水・・・・・・・・・・・180cc
揚げ油・・・・・・・・・適量

■作り方
材料を混ぜてよく練って(踏むと最高)1時間ねかせる。
製麺機でのばし、型で抜く。抜いた残りを炒りゴマを混ぜて板状にのばし短冊に切ってねじる。
きつね色になるまでこんがりと揚げる。

レモン汁はなくてもいいんですよ。胡桃を入れたりドライフルーツの洋酒漬けを入れると豪華ですが、昔懐かしい味はやはりプレーンですね。番茶が合いますが、コーヒーもなかなかいいものです。さて、次は少納言を500gほとばしてあって粒あんを作るのですが、なににしましょうかね。なんて製麺機を回していたら軽いぎっくり腰になってしまいました。明日は雪山を歩こうと思っていたのですが…。

★新信州郷土料理は、MORI MORI RECIPE(モリモリ レシピ)をご覧ください。山菜・キノコ料理、内臓料理、ブラジル料理、エスニック、中華の込み入った料理などの「男の料理レシピ集」です。特に本格的なアンチョビーの作り方を載せているのは、当サイトだけだと思います。手作りオイルサーディン、手作りベーコンもお薦めです。
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熊糞菓子(熊屎点心):新信州郷土料理(妻女山里山通信)

2009-02-20 | 男の料理・グルメ
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新しい中国の菓子ではありません。麻花児(マーファール)を作るつもりが、どこでどう間違ったか、こんな菓子になってしまいました。名付けて熊糞菓子。見てくれはともかく、味は素朴で美味でした。

■材料
中力粉・・・・・・・・・2カップ
卵・・・・・・・・・・・1個
黒砂糖・・・・・・・・・大さじ4
塩・・・・・・・・・・・小さじ1
ベーキングパウダー・・・小さじ1/2
ゴマ油・・・・・・・・・大さじ1
黒ゴマ・・・・・・・・・大さじ2
水・・・・・・・・・・・60cc
揚げ油・・・・・・・・・適量

■固い本格的な麻花児
中力粉・・・・・・・・・2カップ
砂糖・・・・・・・・・・大さじ4
塩・・・・・・・・・・・小さじ1
ゴマ油・・・・・・・・・大さじ1
水・・・・・・・・・・・60~80cc
揚げ油・・・・・・・・・適量

■作り方
材料を混ぜてよく練る。
3センチの棒状にして1センチ厚に切り、ドーナッツ形に伸ばしてねじる。
二つに折って自然に巻き付く方向にねじる。(麻の糸をねじって束ねた状態に似ている。)
きつね色になるまでこんがりと揚げる。

日本には、7~9世紀の奈良時代、遣唐使によってもたらされた唐菓子が起源という説と、1600年前後に南蛮渡来の菓子として中国から長崎に伝えられたという説がありますが、定かではありません。信州では、重曹を入れた菓子が昔からあり、亡き祖母が私が幼少の頃によく作ってくれました。黒糖を入れたものと重ね合わせて渦巻きにして揚げたり、動物の形にくり抜いて揚げたりしたものです。

本来の麻花児は、膨張剤は入れないもので、保存がききます。小麦粉と砂糖とゴマ油だけかな。横浜中華街では、長崎の蘇州林の麻花児が、あちこちの店で売られていて、買い求めましたが、かなり固いものです。添加物もないので子供達のおやつになりました。また、昔の中国映画で、貧しい農家の嫁が足でたねを踏んで大量の麻花児を作り、街へ持っていって必死に売る映画を見たことがあります。カラーテレビを買うのが目的でした。ゴマ油でテラテラと光る麻花児のたねと嫁の白い足が妙に目に焼き付いています。あれは強力粉でしたかね。

プロレタリア文学の代表的な作家で、官憲に逮捕され虐殺された小林 多喜二のの『蟹工船』が、若い人の間でブームだそうです。人間が人間として扱われない愛無き時代に、こうなったのは自分のせいだと思いこまずに社会が悪いと一致団結して若者が立ち上がればいいのですが、アダルトチルドレンばかりの彼らになにができるのか。疑問ではありますが、希望は捨てないでいたいものです。たぶん世界恐慌は、また来るのでしょう。世界システムのドラスティックな改変と覇権を狙う人達が確実にいるのですから。そんな時代に備えて、おやつぐらいは自分で作れるようにしておきましょう。

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三瀧から沢登りして鏡台山へ(妻女山里山通信)

2009-02-16 | アウトドア・ネイチャーフォト
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★このトレッキングは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にアップしました。ご高覧ください。

 前回ルート探索をした、千曲市倉科三滝から鏡台山へのルートを辿りました。奇しくも狩猟最終日。林道入口の通行止めチェーンの前で支度をしていると、地元の方が犬の散歩から帰って来られて、心配そうな表情で「どこへ行くの?」と。鏡台山へというと、今日は狩猟最終日で山中に猟師が入っているよと忠告してくれました。前回もそうでしたし、どの沢で狩猟をするかも見当がついているので、ありがとうございます。気を付けます。といって出発。

 前々日夜に大雨が降ったので沢の雪はありません。前回と同じように薄暗い沢をひたすら登り詰めました。前回は急登で林道へ出てしまった最後の大きな堰堤も乗り越え、多少ヤブに手間どる箇所もあったものの、わりとスムーズに林道芝平樽滝線に乗りました。

 完全に氷の林道を恐る恐る歩いてすぐに百瀬に続く県有林の作業道へ。ものの5分で鏡台山登山口へ。そして道は思った通り百瀬の県有林の檜林に沿って登っています。これは登山道ではなく、県有林の間伐作業のために作られた作業道でしょう。あとは林道へ出て標識通りに進むと大峯山からの登山ルートに合流して鏡台山へ。

 合流点でひとり下山中の方と出合い、北峯で坂城の和平から登ってきた方と出合い、一緒に南峯まで歩き色々話をしました。なんでも坂城から鏡台山、戸神山脈経由で妻女山へ下ったことがあるとか。相当の健脚です。私もいつか歩いてみたいルートですが、ループを組めないのでアクセスが大変ですが。

 その方が去ると、今度は笹平からひとり登ってこられました。ここへ来る前に、屋代城跡のある一重山と鷲尾城跡に登ってこられたとか。鷲尾城跡からは天城山経由で鞍骨城跡往復ができますよと情報を伝授しました。ついでに運動会が開かれた北峯もご存じなかったので、教えて差し上げると、その後そちらへ向かわれました。北峯は本当に広いところで驚きます。

 私は、ひとりでたっぷりと快晴の北アルプス大パノラマを堪能し、息子にメールなどして再び同じコースを戻りました。そして、気になっていた三滝山へのルートがないかどうかを見に行きました。やはりありました。帰りは林道をショートカットするコースを選択。林道芝平樽滝線に下りました。帰りは沢ではなく、1980年の地形図に破線で描かれている三滝への尾根ルートを下ります。ついでに、これも同地形図に載っている縄文の名水西から尾根に続く作業道の確認もしました。これも今の地形図には記載がありませんが、しっかりと残っていました。

 三滝へ下りる尾根は、県の松茸試験林でしたが現在は間伐作業中。しかも、結構な急斜面です。下り口は、前回確認しておいたのですが、これが計算違い。間伐で木が覆い被さり、カヤの痛い葉先に難儀しながら転げ落ちるように登山道へ下りました。昔の登山道は、間伐作業中で、分からなくなっていました。そのうち整備されるかもしれませんが、現在は避けた方がいいかもしれません。

 いずれにしても今回のルートは、標識があるとはいえ、まだ未整備状態。1/25000の地形図では心許ないので、googleマップから1/10000のものをプリントアウトし、尚かつまだ地図に反映されていない道などを航空写真で確認して書き込み携帯しました。それとコンパスは必携です。林業用のビニールテープもたくさんあるので、誰が何のためにつけたか分からないビニールテープを頼りに地形図も持たずに登るような方は、非常に危険です。また、立ち入り禁止の箇所もあります。林道が複雑に入り組んでいる山なので、一度方向感覚や現在地を見失うと厄介です。自信のない方は整備されるまで待ちましょう。

 ウリハダカエデの冬芽が少しずつ膨らんでいました。暖かくはなりましたが、本当の春が待ち遠しいこの頃です。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、特殊な技法で作るパノラマ写真など。
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幻の少納言小豆で銅鑼焼き(どらやき):新信州郷土料理(妻女山里山通信)

2009-02-14 | 男の料理・グルメ
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 我が家は今や幻といわれる少納言を作っています。もちろん無農薬。小豆といえば大粒の大納言ばかりです。収量が多いとか大粒で扱いやすいとか実割れがしないとかで大納言ばかりになり、少納言はいつのまにか市場から姿を消しました。しかし、その緻密でコクのある大味ではない独特の風味は、和菓子ファンなら垂涎の小豆だと思います。今回は、あんこを作ったので、銅鑼焼きを作ってみました。

 銅鑼焼きというからには、銅鑼のように大きくなければなりません。よく巷では大判どら焼きなんていって売っていますが、本来どら焼きは大判が当たり前。そうでなければ舌鼓ならぬ舌銅鑼も打てないというものです。というわけで直径15センチの銅鑼焼きができました。皮には黒糖が入っているので、ちょっと色黒です。あんこはこれでもかとはみ出るほど入れて。味は、添加物も一切無しで莫迦旨でした。

■つぶあん
少納言・・・300g
砂糖・・・・300g
塩・・・・・小さじ1

●ひと晩水に浸した小豆を柔らかくなるまで煮ます。アクと余分な煮汁は捨てますが、残りの煮汁はそのまま使います。よく煮汁を捨てて取り替えるというレシピを見ますが、それでは小豆の味がなくなってしまいます。よほどアクの強い質の悪い小豆なら仕方ありませんが。
●好みで茹であがった小豆の1/3から1/2をミキサーにかけて鍋に入れ、砂糖、塩を加えて煮ます。とろ火でひたすらかき回しながら、美味しくなれ美味しくなれと呪文を称えながら水分を飛ばしていきます。すると艶がでてきます。好みの固さの一歩手前で火を止めます。(その後も水分が蒸発するので)

■銅鑼焼き(大判3個分)
卵・・・・・2個
黒砂糖・・・20g
砂糖・・・・30g
サラダ油・・大さじ1
重曹・・・・小さじ1/3~1/2
味醂・・・・大さじ1
小麦粉・・・150g
水・・・・・80~100cc

●上から順に混ぜて少量の油を敷いてフタをして弱中火で焼く。ひっくり返してフタをせずに反対側も焼く。あら熱がとれたら、あんこを挟んでできあがり。ハチミツ入れてもいいし、バナナとか苺とか、邪道ですがバタークリームとか挟んでもいいですよ。小麦粉は普通薄力粉ですが、私は味のある地粉(中力粉)を使いました。フワフワの食感より、力強い味を優先させたわけです。
ところで庭の福寿草が咲きました。異常です。

 新信州郷土料理は、MORI MORI RECIPE(モリモリ レシピ)をご覧ください。山菜・キノコ料理、内臓料理、ブラジル料理、エスニック、中華の込み入った料理などの「男の料理レシピ集」です。特に本格的なアンチョビーの作り方を載せているのは、当サイトだけだと思います。手作りオイルサーディン、手作りベーコンもお薦めです。
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妻女山の麓にホトケノザが咲きました(妻女山里山通信)

2009-02-13 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 第四次川中島合戦では、上杉謙信が本陣としたと里俗伝にある斎場山と、直江山城守が布陣し、後には上杉景勝と直江兼続が北条軍を迎え撃つために陣取りした赤坂山(現在の妻女山)の麓にある畑でホウレン草の収穫をしました。息子達に送る分と家の分だけ採ると耕耘してしまいます。野菜を全て買う都会の人からするとずいぶんともったいないと思われるかもしれませんが、家庭用ですし春用のホウレン草はこれから大きくなるものがあり、また肥料にもなるので決して無駄ではないのです。

 といっても、じつは農家というのは野菜をよく捨てます。ちょうどぴったりに作るということは気候の具合もあって不可能です。ですからどうしても余剰分を想定して作ることになります。すると食べきれない分は捨てることになるわけです。都会の農家のように消費者がすぐ隣にいて無人販売でもできれば別ですが。

 よく農家は、自分で食べる分だけは無農薬で作るといいますが、本当です。消費者がスーパーに圧力をかけて、企画外品でもいい、形が悪くても揃っていなくても安全で味がいい方がいいと言えばそうなるでしょう。アレルギーなどの問題で、そういう人は確実に増えていますが、まだまだなんでしょうね。地産地消は基本ですが、それだけでは農業が産業として成り立たないのも現実です。大量生産大量消費の中で、土壌消毒や連作障害などの問題も抱えています。

 ところで、今日は日本海の爆弾低気圧に向かって南風が吹き込んで、信州の寒中とは思えない温かさとなりました。畑にはオオイヌノフグリやホトケノザが咲いています。異常気象なんでしょうね。温暖化で作れる作物にも変化が起きています。暖地生の作物の北限が徐々に北へ向かっているのです。逆に冬野菜が暖冬で甘さや辛さがのらなくなるという現象も起きています。害虫も増えます。

 ところで、妻女山麓の上杉謙信槍尻之泉については、以前に新事実発見!として記事を載せましたが、そこに江戸時代後期に誰かによって引き起こされた「上杉謙信槍尻之泉の霊水騒動」の顛末が書いてあります。そこに元の泉の写真もあるので興味のある方はご覧になってください。「天地人」の影響か、「風林火山」が終わって静かになった妻女山が、再び賑やかになり始めています。桜の季節は賑わうでしょう。そしてアルプスに沈む夕日の名所としても有名なので、夕方に訪れるのもおすすめです。

 ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、特殊な技法で作るパノラマ写真など。
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妻女山で山仕事(妻女山里山通信)

2009-02-11 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 最高気温が10度という温かな日。我が家の山の手入れに妻女山へ。途中次男の乗った修学旅行のバスが通るのであたりをつけて撮影。たぶん写っているとは思うのですが…。

 若葉が出る前に、クズや枯れ木の処分、雑木の伐採などをしておくのです。ヤブにしておくと不法投棄もされやすくなります。とはいえこれが結構な重労働。クズの太いつるは切るのも取り除くのも一苦労。昼食も食べずに3時過ぎまでかかりました。おやつは持っていったのでそれでしのぎましたが…。

 その間も休憩に来る人や、展望台に来る観光客など、休日なので人が訪れます。やっと終えた頃には、だれもいなくなっていました。展望台に登ると、次男がスキーをしているはずの木島平スキー場の上にそびえる高社山が陽を浴びて白く輝いていました。眼下の長芋畑では、父がトラクターで耕耘しています。松本からは梅の便りも届きました。今年の信州の春は、早そうです。夕食には蕗味噌が出ました。
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三瀧から沢登りして鏡台山へのルート探索(妻女山里山通信)

2009-02-08 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 色々と事情があって三瀧から登り始めたのが正午過ぎ。薄暗い沢をひたすら登り詰めました。堰堤を越えたり、高巻きをしたりして、最後の大きな堰堤でストップ。なんとか越えられそうでしたが、直登を選択。カモシカしか登らないような藪の急斜面と格闘して林道へ。途中でエネルギーが切れて昼食。再び登り始めると背後の谷からズドーン!ズドーン!と銃声が二発。まずい!と慌てて林道に乗りました。

 遠くけれども大きく見える北アルプスを見ながら林道の縁に腰を掛けて再び昼食。谷の下からはオーイ!オーイ!と猪を追いあげる声がします。今日も猪の厄日。

 林道を鏡台山の方へ歩き始めると、しばらくして四駆の軽が一台やってきました。こんにちはと挨拶すると、何してるんですか?と。山登りですと応えると、やっ、山登り!?と驚かれました。山登りをしていて何してるんですかと聞かれたのは初めて。しかし、こんな深山にクールネックシャツ一枚の軽装でとことこ歩いているのを見たら、そう思われても仕方がないかも。沢を登ってあの急斜面をよじ登ったと話すと呆れていました。

 ここから倉科まで何キロぐらいですかと聞かれたので、5キロぐらいだと思うけどチェーンでロックされていて出られませんよと教えてあげました。えー!そうなんですか、有難うございます、と言って戻って行きました。鏡台山の登山口まで乗せてもらおうかなと思いましたが、路面は圧雪ではなく完全な氷。ガードレールもないこの林道で谷底へ真っ逆様という映像が一瞬ちらつき歩くことにしました。

 百瀬から鏡台山へ行く林道と三瀧山と百瀬口へ通じる尾根と沢も確認しながら林道を歩くと縄文の湧き水。近くには大きなつららも。1mぐらいあるつららを折って舐めながら歩きました。三瀧へ下りる尾根路も確認。鏡台山登山口に着きました。ここは大峯山から縦走して鏡台山へ登る登山口。普通は林道を車で来て、ここから登るようです。路肩も使えば5、6台は駐車可。今回は時間が遅いので鏡台山は後にして大峯山へ向かいました。

 そこから、倉科へ下ったのですが、これがものすごい急下降。けっこう応えました。中腹では突然足元からキジが飛び出してびっくり。最後は少々難儀して麓に下りました。登り始めた時間が遅かったので、けっこう慌ただしい山行でしたが、いくつかのルートを確認できて有意義な半日でした。今度は鏡台山山頂周辺の色々なルートの確認をしたいと思います。

★このトレッキングは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にアップしました。ご高覧ください。

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葛尾城跡から鏡台山縦走・浅間山の噴煙が見えた!(妻女山里山通信)

2009-02-03 | 歴史・地理・雑学
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 快晴の朝、葛尾城跡と五里ケ峯(五里ケ峰)に登るべく車を走らせました。目的は、村上義清の葛尾城跡を見ることと、五里ケ峯の北の尾根にあるという勘助横手(勘助道)を見つけることです。葛尾城跡はともかく、勘助道は千曲市のサイトに絵地図と簡単な解説があるだけで、詳しい場所がもうひとつ分かりません。ちょっと手こずるかなと予想して早めに出かけました。

 坂城神社に駐車して参拝の後、葛尾城跡まではいきなりの急登をこなします。軽井沢からいらしたというご夫婦が先行し、私は神社の撮影とお参りをしてから出発しました。葛尾城跡は、ご存じの通り村上義清の本城で、相当堅固な山城ですが、武田の謀略により重臣の屋代氏、塩崎氏が武田に寝返り、自落したという悲劇の城でもあります。

 その難攻不落かと思われた葛尾城跡を落とすために、後背の五里ケ峯に密かに山道を造ったといわれるのが、いわゆる里俗伝として地元で古くから言い伝えられてきた勘助道なのです。五里ケ峯の北に屋代の一重山まで延びる長い尾根がありますが、そこを頂上からロープを頼りに100mほど急斜面を下り、100mほど進むと分岐があります。標識はなにもありませんが、そこを右へ下りていくと勘助道の標識に出ます。深山に不似合いな広い道が突然現れるのです。しかし、現存するのは200m足らず。実に不可思議な道です。

 あまりに簡単に勘助道が見つかってしまったために、五里ケ峯に戻って北アルプスの大パノラマ(これは感動もの)を堪能しながら昼食を食べました。山頂を独り占めして芝生で昼寝。しかし、なんだか物足りない感じです。すると息子からメールが。浅間山の噴煙が見える?というのです。そうかと思い、バージンスノーを踏みしめて鏡台山方面へ脚を伸ばしてみました。すると樹間から浅間山の噴煙が見えるではないですか。純白の四阿山と根子岳も見えます。

 そうだ鏡台山へ行こう!と時計を見ると1時半過ぎ。急げば充分に日没前には戻れます。五里ケ峯から笹平(林道更埴坂城線の鏡台山との鞍部)へ駆け下りました。そこから登り返すこと315mで白銀の鏡台山につきました。そして帰りの富士見岩で、再び浅間山の噴煙を撮影。帰りは戸倉の温泉銭湯に立ち寄って体の疲れをほぐしました。息子のお陰で思いがけずにいい山行となりました。

★このトレッキングは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にアップしました。今回は、音楽もリンクさせてみました。好きな曲があったらBGMで聴いてください
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