モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

天空の山城「鞍骨城」清野氏・直江兼続・月の輪熊(妻女山里山通信)

2009-12-27 | 歴史・地理・雑学
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 村上義清の家臣だった清野氏の山城、鞍骨城跡へ、妻女山から一度里に下りて清野氏の屋敷跡があったと伝わる古峯神社から月夜平(物見台)に登り林道倉科坂線へ、高圧線鉄塔巡視路経由で登りました。鞍骨山は、標高798mで、頂上に天空の山城があります。別名は倉骨山、鞍掛山、鞍橋山、清野山などがあります。清野氏は上杉景勝の会津移封に伴ってこの地を去り、廃城になったといわれています。第四次川中島合戦の時、武田別働隊の一軍が戸神山から妻女山(斎場山)へ攻め込む際に、軍勢の一部は通ったかもしれません。

 巡視路は、高圧線鉄塔のすぐ東にある二条の掘切のひとつに出ます。掘切を登るとすぐに鞍骨城が目の前に見えてきます。冬枯れの今は高さ50mの鞍骨城跡が眼前にそびえたち、その威圧感に思わず目を奪われます。城跡へは、左から巻くように登り、腰郭を二つクリアします。二つ目の腰郭で右手にまわり、登りきると南面にある虎口に出ます。妻女山から鞍骨山頂までは、天城山、二本松峠経由では約90~120分ぐらいですが、今回は一度里に下りたので3時間ぐらいかかりました。

 途中、高圧線鉄塔巡視路では月の輪熊のものと思われる足跡を発見。前日のものだと思いましたが、少し緊張。今年は暖冬で冬眠が遅れているのかもしれません。月の輪熊は、今日から冬眠と決めて眠るわけではなく、少しずつ活動時間が短くなり、睡眠時間が長くなっていくのだそうです。そして、完全に冬眠状態に入るのが12月の中旬から下旬にかけて。今頃うろついていても不思議はないのです。そういえば前日も陣場平で熊の足跡とおぼしきものを発見したばかりでした。冬眠中は飲まず食わず排泄もしません。でも、自発的に目覚めることもできるので、冬眠というより冬ごもりなのだとか。本当に空腹になると餌を探してうろつくこともあるそうです。といっても餌がない季節だからこそ食いだめして寝るのでしょう。

 山頂は、冬枯れの時以外は眺望がなかったのですが、今回来てみると本郭のカエデの大木が倒れ、処理されているのと同時に北面の木も何本か切られて眺望が利くようになっていました。また、写真のように山頂から東へヤセ尾根を30mほど行くと、二カ所続けて川中島や松代の展望が開ける狭い岩場があります。
 今回は以前発見できなかった城跡を巻いて鏡台山へ至る古道を発見できました。この道は、大正時代に清野小学校の児童が、妻女山から鏡台山へ遠足やキャンプに登るときに通った道です。道はかなり崩れていますが、城跡東のコルまで続いています。

 1583(天正11)年7月上野国から佐久郡を経て小県郡に侵入した北条氏直は、小県方面の諸士に服属を求めました。その勢の強大なのを見て、真田昌幸をはじめ祢津、望月氏など氏直に臣属を約します。
 武田氏の旧臣であった春日弾正忠は、先に上杉景勝に属して海津城将として在城していましたが、北条氏直の小県侵入により、武田氏の旧臣の多くがこれに従ったので、真田昌幸と密かに通じ、氏直を川中島方面に引入れ景勝と戦わせ、自身は海津城から氏直に呼応して景勝に叛き、氏直に勝利を導こうとしました、しかしこれは事前に発覚して、弾正忠は捕えられ殺されました。このとき景勝は氏直の川中島出陣に備えて海津城を出て清野鞍掛山(鞍骨山)の麓赤坂山(妻女山)に陣したと伝えられています。その時に、鞍骨城には直江兼続が布陣したともいわれています。

 鞍骨城は、旧埴科郡の山城の中で最大。本郭は、西辺20m、南辺17m、北辺9.7mの不整方形。西方に脇郭と副郭、さらにその西に大郭と狭長な郭があり、堀切を隔てて平坦部が続きます。本郭の南方に井戸跡ともいわれるの段郭があり(その位置では水は出ないと思われる)、その下にまた井戸のような跡(大手門跡という説も)がある腰郭があります。その南方に箕状の段郭が階段式に4つ連立しています。本郭の北東には土塁があり、外側は石積みになっています。南面に比べて北面は険しく傾斜が急です。このため南面が大手とされたようです。この城は、清野氏の要害であったことは間違いありませんが、永正年中(1504-1520)清野山城守勝照の築城説については明証がありません。

 清野村誌によると、「村の北の方、字中沖にあり。往古本村領主清野氏数代之に居す。年月不詳。清野某海津に移り、該地に倉庫を建つ。此時より禽の倉屋敷と称す(現在の松代城の場所)。天文、弘治中、清野山城守武田氏に敗られ、越後に逃走するに及び武田氏の有となり、天正十年三月武田勝頼滅び、織田信長の臣森長可の有となり、六月信長弑せされ長可西上するに至り、七月上杉景勝の所有となり、某幕下清野左衛門尉宗頼、該地に移り居住すと言う。管窺武鑑に七月四郡(埴科・更級・水内・高井)上杉景勝の有となり、清野左衛門尉を、猿ケ馬場の隣地、竜王城に移とあり。一時此処に居せしか不詳。後真田氏領分の時に至り寛永中焼亡す。後真田氏の臣高久某此域に居住し、邸地に天満宮を観請す。弘化二乙己四月村民清野氏の碑を建つ。」ということです。

 清野氏については、「清野氏と戦国時代」をお読みください。

*斎場山は手前の天城山からの尾根ではなく、陣場平の向こう側の尾根にあり、山頂のみが少し見えています。前記の「千人窪」は妻女山(赤坂山)から手前に右へ延びる尾根の間の谷の上部にあります。奥から1、2、3となりますが、地名として残っているのは一番奥で、江戸時代の絵図に描かれているのは3で、陣場平のすぐ右下になります。

●鞍骨城跡トレッキング・ルポ
■06/12/31 妻女山から陣場平、天城山、鞍骨城往復。
■08/12/30 象山から鞍骨城、斎場山、薬師山のルポ。
■09/01/18 鷲尾城跡から鞍骨城跡、御姫山、妻女山。
■09/03/01 倉科三滝から鏡台山、御姫山、鞍骨城跡、妻女山。別働隊のルート?
■09/04/12 妻女山から陣場平、天城山、鞍骨城、妻女山。

★このトレッキング・ルポを、【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にアップしました。古城巡りは、尼巌山城跡・狼煙山砦跡・県山城跡などもあります。

★また、川中島合戦と古代科野の国の重要な史蹟としての斎場山については、私の研究ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。
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上杉謙信が伏兵千人を潜ませたという千人窪の謎に迫る!(妻女山里山通信)

2009-12-25 | 歴史・地理・雑学
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 「川中島合戦」で上杉軍が斎場山一帯に布陣したときに、上杉謙信が伏兵千人を潜ませたという谷が「千人窪」です。「千人ガ窪」とも「千ガ窪」ともいいます。その名称は色々な観光案内にも出てくるのですが、「千人窪」はどこにあるのかということを、きちんと地図で説明したものは見たことがありません。

 実は、「千人窪」と呼ばれているところは、掲載の地図のように何カ所もあります。

●千人窪1:現在の妻女山の東の麓にある清野小学校の奥の谷。昔は大里とよばれた大きな湿田があり、冬は氷が張って天然のスケートリンクになりました。この南の谷が地元で古くから言い伝えられている千人窪で、旧清野村の字妻女山の中です。尚、長野県地名研究所刊行の『長野県町村字地名大鑑』では「チゲ窪」となっていますが、これは間違いです。「チゲ窪」というのは「千ゲ窪」のことであり、漢字の千をカタカナのチと読み間違えたのでしょう。校正ミスかもしれません。この谷を遡ると謙信の陣所跡と伝わる陣場平になります。谷の上部、陣場平のすぐ下には大勢の軍勢が待機できる平地があります。

●千人窪2:その南、宮村の奥にある谷で、旧清野村の字月夜平の中になります。この谷は深く、曲がっていて途中で二つに分かれています。兵を隠すには最適な場所といえるでしょう。ただ谷の上部は急峻です。

●千人窪3:江戸時代後期に描かれた『川中島謙信陣捕之圖』(榎田良長 彩色)には、会田集落の奥に「千人窪」と書いてあり、陣場平への山道と小さな池があったことが描かれています。絵図によると麓ではなく、かなり上部です。ここは広い谷なので、大勢の軍勢が隠れられたと思います。場所は未確認ですが、水の平という地名があり、昔は池があったようです。陣用水としたかもしれません。

●千人窪4:「千人窪」は陣場平の南にあるという古誌の記述があり、土口側の中腹にある平坦地、堂平がそれにあたります。ここには堂平大塚古墳があり、すぐ近くには蟹沢(がんざわ)という水場があります。また、その谷を越えるとさらに広い積み石塚古墳群がある平坦地があり、大勢の兵を置くには最適な場所です。ただ、正確に南でないとすると3のことかも知れません。

●千人窪5:「千人窪」は陣場平の南西にあるという古誌の記述から、尾根の反対側にある土口の奥の谷であることが分かります。ここも、千曲川対岸や海津城からは見えません。陣場平一段したの窪地ということから、4の堂平のことかも知れません。

 「千人窪」という名称自体は江戸時代の創作でしょうが、13000人もの上杉軍が斎場山一帯に布陣したのならば、山上だけでなく麓や谷、中腹の台地にも兵を置いたと考えるのが普通でしょう。ですから以上の五カ所全部に伏兵がいたのかもしれません。また、天城山の方からの襲撃に備えて天城山やその北にあるヤセ尾根にも砦を作ったのではないでしょうか。

『松代町史上巻』には、「直江山城守は先鋒として赤坂の上(現在の妻女山)より滑澤橋(清野村道島勘太郎橋:明治の古い石橋が現存)に備え、甘粕近江守は月夜平(陣場平より物見台にかけて)に、宇佐見駿河守は岩野の十二河原(斎場原から千曲川河原)に、柿崎和泉守は土口笹崎(薬師山)に陣を構えて殺気天に満ちた。」とあります。そして、陣場平は上杉謙信本隊が固めたといわれています。(上杉謙信斎場山布陣想像図参照)

 妻女山に来られたら、招魂社の駐車場奥左の林道倉科坂線を15分ほど歩く間に、「千人窪」といわれた谷を眼下に見ることができます。また、上信越自動車道の松代サービスエリアの南端からは、その谷や尾根が一望できる場所があります。妻女山(戦国当時は赤坂山)から斎場山、天城山までずらりと上杉軍が布陣し、各隊の軍旗が風にはためいていたことを想像すると面白いかも知れません。

 いずれにしても、「千ガ窪  兵(つはもの)どもが 夢の跡」林風。元の句は、もちろん芭蕉の「夏草や 兵どもが 夢のあと」です。

 晩秋から初冬の思いがけぬ多雨で、その後の積雪にもかかわらず山はグチャグチャです。お陰で榎茸など冬のキノコは大豊作ですが、林道や登山道が泥状で山歩きもままなりません。そこで、今は人が歩かない古道を辿って鞍骨城へ登ってみようと思っています。

★妻女山の詳細は、妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。驚愕の史実が!
★フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】には、斎場山、妻女山、天城山、鞍骨城、尼厳城、鷲尾城、葛尾城、唐崎城などのトレッキングルポがあります。
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雪の森の赤いマッチ棒(妻女山里山通信)

2009-12-23 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 展望台のある妻女山(赤坂山)から、雪の林道倉科坂線を辿って旧清野村大村の南に長く延びる月夜平に行ってみました。尾根を三つほど曲がると天城山(てしろやま)登山口辺りから延びる長い尾根の途中に着きます。途中に二箇所ほど深い谷があり、いずれも川中島合戦の折りに上杉謙信が大勢の兵を隠したという伝説があり、千人窪(千人ガ窪、千ガ窪)といわれています。千人窪と呼ばれる谷は、土口側にもう一カ所など数カ所あるのですが、それについては次回に書きたいと思います。

 月夜平は、陣場平からこの尾根までの小字名でもあるのですが、地名としての月夜平はこの尾根上の長い台地で物見台ともいいます。以前から探索したかったのですが、夏場は酷い藪でどうにもなりません。冬場を待ってやっと入ることができました。

 葉が落ち草が枯れた森は、思った以上に歩きやすい緩斜面で、古道の跡の窪みも見られました。真っ直ぐ数分歩くと尾根の先端に出ました。そこだけ木がなく石の祠が一列に九基並んでいました。訪れる人も今はないのでしょうか、二つが壊れて屋根が落ちていました。近くには小さな手水鉢もあることから、昔は村人が参拝に訪れていたのでしょう。眼下には清野氏の古峯神社があり、そこへ下りる道もありました。南方を見上げると、遙か上に清野氏の天空の山城、鞍骨城が見えます。

 撮影を済ませ、さて帰ろうと歩き出すと、目の前の切り株に極めて小さな赤い色が見えました。なんだろうと近づくと、朽ちた切り株に灰緑色のコケのようなものが生えていて、太さ1ミリ、長さ1センチほどの細い子柄の先に赤い玉のような子器がついています。子柄は、粉芽に覆われています。種名は思い出せませんでしたが、地衣類だと分かりました。早速マクロ撮影。白い雪と灰色茶褐色の風景の中では際立って目立ちます。
なんだか陸の珊瑚のようです。といっても、意識して見ようとしなければ、見えてこないほど小さなものですが…。

 帰って調べてみると、ハナゴケ科ハナゴケ属のコナアカミゴケ(粉赤実苔:Cladonia macilenta)だと分かりました。コケとついていますが、コケ類ではなく、地衣類です。
 国立科学博物館-地衣類の探究のサイトから引用させていただきますが、「地衣類とは、菌類の仲間で、必ず藻類と共生しているという特長をもっています。菌類は、藻類と共生すると"地衣体" と呼ばれる特殊なからだを作ります。そして、地衣類を構成している菌と藻は、互いに助け合って生活しています。菌は藻に安定した住み家と生活に必要な水分を与えるかわりに、 藻が光合成で作った栄養(炭水化物)を利用して生活します。両者の共生関係は非常に密接で、地衣体の形態、生理機能、分布などは単独の生物と同じように遺伝します。つまり、あたかも独立した生物のように見えるというわけです。」という不思議な生物です。

 日本では約1200種あるそうです。ただ、大気汚染や環境の変化に弱い種類が多く、大都市の周辺からは急速に消滅しているとか。ある意味、環境のバロメーターとなるものです。幻のキノコと言われる岩茸も実は地衣類です。食用にできる地衣類は珍しいので外国の本にも紹介されているそうです。天ぷらが一般的ですが、信州では岩茸のおやきというものもあって、食べたことはないのですが馬鹿旨だそうです。

 幻といいますが、少量ならば登山道脇の岩を注意して見ていると結構あります。でも岩に張り付いている乾燥した岩茸は、とても食べられそうに見えないので採る人もいません。1ミリ成長するのに2、3年もかかるそうですからミネラルなど栄養もたっぷりあるようで、不老不死の仙人のキノコとも言われています。韓国食材店にいくと結構安価で売られています。味は?有難い味がします。

 この地衣類の、菌類の仲間でありながら必ず藻類と共生しているという生態を広義に考えると、地球そのものが共生関係にある大きな生命体だととらえることができるのではないでしょうか。タルコフスキーの『惑星ソラリス』は、決して他の天体ではなく地球そのものだったともいえるのです。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、地衣類、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、特殊な技法で作るパノラマ写真など。コケ・地衣類2の最後にハナゴケ科ハナゴケ属のコナアカミゴケを掲載しました。
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明治の暁を見ることなく散った男達! 妻女山松代招魂社(妻女山里山通信)

2009-12-21 | 歴史・地理・雑学


 上杉謙信の陣営跡として展望台のある妻女山(411m)は、川中島合戦の伝説の地として多くの歴史マニアが訪れますが、ここは本来は赤坂山といい、地元で謙信の本陣と伝わる旧妻女山は、ここより100m高い南西にある山頂で、本名を斎場山といいます。『甲陽軍鑑』西条山と誤記されたためにそれが広まり、江戸時代に松代藩が妻女山と改名しました。更に昭和時代に国土地理院が赤坂山に三角点を設置した際に、妻女山の名称を赤坂山につけてしまったために、誤った説が一般的になってしまったという経緯があります。古くから地元で妻女山と呼んでいたのは赤坂山ではなく斎場山のことです。
 そのためか現妻女山の展望台の南にある招魂社を川中島合戦の史跡のひとつとして勘違いされて帰るひとも少なくありません。通称招魂社と呼ばれている神社は、正式名称を「妻女山松代招魂社」といい、瓦には真田の六文戦の紋が記されていますが、武田方についた真田幸隆とは全く関係ありません。

 第四次川中島合戦より307年後の1868(明治元)年。戊辰戦争において松代藩(藩主真田幸民)が、明治政府軍として幕軍と戦ったときの戦没者を祭った社で、明治2年建立です。その功績を受けて、松代藩からは、多くの人が新政府に重用されました。戊辰戦争以前は、どうやら松代藩の射撃練習場があったようで、招魂社南の山腹からは大量の鉄砲の弾が出土しました(実はわが家の山で、亡父がたくさんの銃弾を掘り起こしました。その後友人のフランス人に金属探知機で捜索してもらったときにも銃弾が出土しました)。現妻女山の小字名は岩野の妻女、地名は赤坂山です。

 つまり、新選組の殲滅に加わり、会津若松城を大砲で破壊したのは松代藩だったのです。豊臣秀吉の命により、上杉景勝は会津へ転封となりましたが、善光寺平の土豪たちは皆景勝とともに家族家来を連れて会津へ移ったのです。この命は非常に厳しく、家族家来が全員移りました。善光寺平からエリートがいなくなったのです。地名を名乗る土豪が全員いなくなりました。清野に清野氏なし、東条に東條氏なし、寺尾に寺尾氏なしなどといわれます。茶臼山西の夜交集落は、高社山麓の夜間瀬氏の一族が、転封を嫌って隠れ移り住んだ集落ではと私は考えています。
 さらに江戸時代前期に、保科正之(第二代将軍秀忠の四男・第四代将軍家綱の後見人)が第三代将軍の異母兄家光により信濃国高遠藩3万石から会津23万石に転封になり会津藩を隆盛させました。その時、信濃から家臣も会津にたくさん移っています。わが家のある祖先も同行し、後に子孫は豪商(林正光)となって会津藩を支えました。それ故、会津は信州人が造った町といえるのです。幕末の戊辰戦争の会津戦争は、ある面信州人同士の戦いでもあったのです。会津若松城をメリケン砲で破壊し、白虎隊を殲滅したことにも松代藩は関わっていたでしょう。これ以上ない歴上の悲劇です。

 戊辰戦争以降の経緯は下記の通りです。
●明治元年戊辰2月、朝命により信濃十藩の触頭を命ぜられ、2月東山道総督より大隊旗、錦の袖章を賜る。
●4月、関東脱走の幕軍林昌之助・近藤勇ら新選組・甲陽鎮撫隊が甲斐に侵攻を図る。真田幸民・大熊藩士を総隊長として兵750人で甲府を守らせた。
●4月24日、幕軍の将古屋作左衛門が、長岡より信濃に入り、飯山城を囲む。幸民は、河原左京を総隊長として、兵10,300で進撃させる。
●4月25日、幕軍は大敗して敗走。後にこの日を戦勝の日として松代招魂社の大祭が行われた。
●9月24日、会津城が降伏。
●10月29日、松代に凱旋帰国。各地に転戦すること90回以上、戦死者52人負傷者85人を出す。

●明治2年4月17日、真田幸民は藩戦死者の英魂を、妻女山頭(赤坂山)に祀る招魂祭を執行。石の玉垣をめぐらした戦没者の石碑を建立、「松代招魂社」と称す。
●6月、戊辰戦争の功績をたたえられ、松代藩は賞典録三万石を賜る。

●明治3年、松代藩知事・真田幸民により「妻女山頭鎮座松代招魂社」建立。しかし、同年幸民は、戊辰戦争による大出費を埋めるべく「商法社」設立。生糸・蚕種の生産・販売等始めるも殿様商売は大失敗。増税に民衆が決起し翌年「松代騒動(午札騒動)」勃発。幸民は謹慎処分になる。

●明治4年7月、廃藩置県で松代県に、11月には長野県となり、松代県は解体され幸民は解任。真田の松代支配は終わり、松代は政治の中心地でなくなる。本来の地名・赤坂山を使わず妻女山としたのは、ここの小字名が妻女山(本来の妻女山の中腹)だったから。また、赤坂山より妻女山の方が有名だったからと思われる。

●明治5年4月26日、妻女山松代招魂社祭を毎年4月24・25日執行と決定。

●明治6年には、松代騒動を引き起こした失政のためか、放火により松代城は焼失。一説には花街に建物が売られるのを嫌った元藩士が放火したともいわれるが、定かではない。

●明治13年、拝殿を修繕。

●明治14年、一町六か村立妻女山松代招魂社建立。

●明治29年、社殿の傍らに山縣有朋による一大石碑を建立。

●明治44年5月18日、社務所を建立。合わせて松代、寺尾、東条、西条、清野、雨宮の一町六ケ村により日清・日露の戦没者を祀る乃木将軍筆による忠魂碑建立。
忠魂碑を建立。盛大に除幕式が行われた。

●昭和22、23年頃、玉垣の上に小さな本殿を建立、石碑を現在のように並べ替える。

 明治時代は、毎年4月25日(飯山に於いて戦勝の日)に、松代及び五ケ村の大祭が行われ、煙火、相撲、大神楽等が催された。在郷軍人の演習も行われたが、その後まもなく廃止された。現在は、秋の好日に奉参会を中心に遺族会や麓の各役の長が参加し、奉納花火や演奏、剣道の演舞、神楽などが行われているが、多くの町民は祭のあることさえ知らないと思われる。

妻女山がいかに政治的軍事的に利用されてきたかを知るには、「妻女山:有名人訪問年表」をご覧ください。明治以降、実に多くの皇族、軍関係者(「坂の上の雲」にも登場する伊藤博文、東郷平八郎や、後には後藤新平なども。わが家にはその時彼が残した定慧と書かれた書があります。)、戦後は自衛隊などが訪れています。桜と夕日の名所で、春は近隣の小学生の遠足の目的地でもあります。

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死んだふりのメッシが…。(CWC)

2009-12-20 | サッカー
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 FIFAクラブワールドカップ UAE 2009は、バルセロナ2-1エストゥディアンテスと、結果だけを見ると順当に思えますが、試合内容は随分大方の予想には反したものとなりました。全試合を通してバルサはエストゥディアンテスの周到に準備された戦術に、本来のバルサらしさを消されていました。特に前半はエストゥディアンテスのハードプレッシャーにほとんどなにもできずじまい。エストゥディアンテスのロングボールがバルサを苦しめますって、次元が違いますがはめられた時の日本代表のよう。

 後半、どう立て直してくるだろうと思ったら、FWを一枚入れてメッシを二列目に下げました。それからが面白かったですね。仕掛けやチャンスメイクもしましたが、実質消えていました。かといってハードプレッシャーにバックパスを繰り返したり、だらだらとボランチの位置まで下がってくるわけではありません。ただいつも見るメッシより運動量が少ないかな、ゴールを狙う執念をひた隠しにしているのかなという印象でした。緊張なのか不調なのか、ちょっと雑なイブラと、孤立しているアンリが目立っていました。巧妙なペドロの起死回生のヘッドで同点。試合は振り出しに戻りました。

 延長戦になってもその雰囲気は変わらず。変わったのはエストゥディアンテスのハードプレッシャーが運動量が落ちて、やや弛んできたこと。それを見透かしてか後半5分。右サイドからアウベスがクロスを送り、それまで死んだふりをしていたかのような猛ダッシュを見せたメッシが、中央でフリーになり胸(ハート)で押し込んでゴール。ブラジル、アルゼンチン代表コンビで試合を決めてしまいました。
 
 あの死んだふりは戦術だったんですかね。今日は自分たちのサッカーができないと読んだら、切れることもなく耐えて相手の弱るのをじっと待ちつつ一瞬の隙を狙う、まるで猛獣のようでした。得意の細かいパスワークで相手を崩し、華麗にゴールを決めるという本来の形を捨てて、最後はロングボールでの勝利。勝ちにこだわる本当にいい見本を見せてもらいました。

 ところでメッシはジンガ(跨ぎフェイント)をしません。あれはブラジル人のものだからでしょうか。人のいないところいないところへ素早く細かいステップでボールを運んでいく。有る意味では、もっとも合理的な理にかなったプレー。とんでもないスピードと、とんでもない正確さが必要ですが。でもお手本にして日本人からもメッシのようなプレーヤーが出る可能性はあるのじゃないかなと思いました。メッシを見た小学生がしっかりお手本にしてくれれば…。そんな日が来ることを夢見てしまいます。

 それにしてもベロン。若い頃は、巧いけれど、やたらハードマークの荒っぽい選手という印象でしたが、実にハートの熱いクールでクレバーな選手だと改めて思いました。エストゥディアンテスは、決して格下ではなかったですね。ただ、メッシがいなかった。
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武田別働隊と戸神山脈の謎に迫る!(妻女山里山通信)

2009-12-17 | 歴史・地理・雑学
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 明治の『埴科郡志』には、「戸神山脈は高遠山三瀧山の中間より出でて北に走り、屈曲して西し、笹崎に至り千曲川に迫りて尽く。一、戸神山は倉科村に在りては三瀧山の東部とし、西條村に在りては之を森野と呼ぶ貴船の神祠あるのみ。戸神山の称なし。本誌編纂に当り、山寺常山の『河中嶋合戦地理記』、高野莠叟の『古城考』明治三十五年五月廿一日松代町役場より、東宮殿下に献じたる川中嶋古戦場絵図写等により、永禄四年九月九日の夜甲軍一万二千西條村より倉科村に出でんとし迷ふて道を失ひたる戸神山は森野の頂上なりと決定し、尚当地を踏査して命名したるものなり。」とあります。つまり、地元では戸神山と呼んでいる山は存在しないということです。(別働隊は、信州先方衆大勢なのに道に迷った!?)
 『埴科郡誌』では、「戸神山脈は高遠山三瀧山の中間より出でて北に走り」ともあるので、戸神山と三瀧山は、別の山ということです。というわけで、旧更埴市誌には、1185mを三滝山と記していますが。埴科郡誌』では、船ヶ入の最高地点を三滝山としているので、鏡台山北峯の北にある小さなコブが本当の三滝山となります。ただ三滝山というのは、西条山と同じく三滝の上の山域全体を指す呼称でもあるので、1185mを三滝山としても誤りとはいえないでしょう。

 ところで、戸神山という記述が最初に見られるのは、第四次川中島合戦を描いた、『川中島五箇度合戦之次第』(江戸時代に米沢藩が幕府に献上した上杉方のバイアスがかかった史料、作者は上杉景勝に仕えた清野長範とされる。)で、「信玄は、戸神山中から信濃勢を忍ばせて、謙信陣の背後を突かせようとする。」と記されています。この清野長範という武士は、会津蘆名氏の出で景勝の小姓。文禄元年(1592年)信濃の名族清野氏を継承し、信州猿ヶ馬場城、4177石に配されましたが、6年後には会津に移封されています。猿ヶ馬場城は、姥捨山の奥で三峯山の麓の高原にある山城ですから、川中島に下りる際には、当然鏡台山から斎場山(旧妻女山)に続く戸神山脈は目にしたことでしょう。

 あえて言えば、篠ノ井の御幣川辺りから見る鏡台山(北峯のみ、南峯は見えない)は、三角に見えるので戸神山といってもいいかも知れません。猿ヶ馬場城から松代や善光寺へ向かう際に、その三角の山容を目にしたかもしれません。しかし、途中の姥捨では鏡台山はなだらかなお尻形(鏡台形)に見えるのですが…。

 ただ、この戸神山というのが曲者なのです。戸神とは三角の頂を持つ急峻な山をいいます。ところが当該の1185mは、どこが山頂かも分からないような茫洋とした山容で、鏡台山から続く尾根の肩という表現がピッタリの山なのです。清野長範が、実在の山から戸神山という名をとったのは、極めて疑わしいのです。『埴科郡誌』に、「戸神山の称なし云々。戸神山は森野の頂上なりと決定し云々」とあるように無理にこじつけたというのが本当のところかも知れません。以上のことから、『埴科郡誌』の編者が、1185mを戸神山と規定したのは無理があるといわざるを得ません。『埴科郡誌』の編者が参照したという山寺常山、高野莠叟の書も、恐らく『川中島五箇度合戦之次第』を元にしたものでしょう。

 その『川中島五箇度合戦之次第』ですが、作者清野長範が、戸神山なるものをでっち上げた可能性もあるのです。この当時の上杉藩は米沢ですが、米沢には三角の戸神山というのがあるのです。それをこじつけた可能性も否定できません。なにより武田別働隊が越えたとされる鏡台山周辺には、三角の山頂を持つ山はありませんから。海津城や松代から鏡台山は見えません。もちろん戸神山や三滝山も見えません。それどころか千曲市のほとんどの場所からも鏡台山は見えないのです。

 清野長範が猿ヶ馬場城から川中島に下る際に目にした鏡台山は、北峯と南峯が見えて間に鞍部がある鏡台の形に見えます(リンク画像は、姥捨から見た戸神山脈)。三角の戸神山はどこにも見あたりません。

 「甲軍一万二千西條村より倉科村に出でんとし迷ふて道を失ひたる戸神山」ということが史実なら、別働隊は尾根に乗ったら尾根づたいに進軍したのではなく、一度倉科村に下りたということになります。倉科の伝承では、斎場山の南、天城山東の二本松峠から倉科側に下った山麓に「兵馬」という、別働隊が襲撃に備えて集結、隊を調えたという伝説の地があります。傍陽から倉科へ、西条から坂城の日名へ抜ける街道が鏡台山周辺で交差していたことを考えると、尾根づたいに斎場山へ行くよりは、一度倉科へ下りた方が速いし、生萱や土口からも攻め込むことができます。また、雨宮の渡と千曲川右岸の山の間を塞いで、上杉軍の甲州への進軍をくい止める、或いは退路を断つこともできます。

 『川中島合戦』に関しては、第一級史料がなく、軍記物は上杉方や武田方のバイアスがかかている上に、そうあって欲しい、そうであったら面白いという江戸時代の庶民の願望が集約されていると思います。史実に願望がてんこ盛りにされて枝葉尾鰭がたくさんついて、どれが史実なのかを非常に分かりにくくしています。かといって全て作り話という訳でもないところが悩ましいところなのです。

 このリンクの写真は、松代城跡駐車場公園から見た戸神山脈ですが、海津城の北から見た三角に見える山は、手前の御姫山、大嵐山以外には、その南の1042mしかありません(城からはわずかに頂上のみ見える)。松代からは、三滝山や鏡台山は見えないのです。『埴科郡誌』には、前記のように「戸神山は倉科村に在りては三瀧山の東部~」と記されていますが、1042mは北部です。東部には西高遠山ぐらいしかなく、三角ではありません。また、倉科からは見えません。これを誤記とすると1042mが戸神山の候補として一躍挙ってくるのです。また、『埴科郡誌』には、「戸神山を森野の頂上なりと決定し~」と記されていることから、字森野にある1042mを戸神山と命名したと考えてよさそうです。つまり、戸神山とは地元で古くからそう呼んでいた山名ではなく、『埴科郡誌』編纂の際に、編者が集まってそう決めたということなのです。これは山脈名も同様であると記されています。

●写真最上部の図は、赤線が海津城から斎場山への武田別働隊の襲撃経路想像図。写真は松代城下から見た戸神山脈。最下部は、奇妙山から見た戸神山脈。*図は、「国土地理院の数値地図25000(地図画像)『松代』」をカシミール3Dにて制作後画像加工。高さを1.5倍に強調。

◆戸神山については、以前のブログ記事、「武田別働隊はいずこへ、三滝山と戸神山の謎!」「続 武田別働隊はいずこへ、三滝山と戸神山の謎!」を御ご覧ください。
◆いわゆる「啄木鳥戦法」については、『第四次川中島合戦』啄木鳥戦法の検証をご覧ください。
◆また、妻女山がいかに政治的軍事的に利用されてきたかを知るには、「妻女山:有名人訪問年表」をご覧いただくといいかと思います。

武田別働隊が辿ったとされる経路のひとつ、唐木堂越から妻女山への長~い長~い尾根を鏡台山から歩いたトレッキング・フォトルポをご覧ください。物好きしか登らない戸神山(三滝山)も登っています。
★フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】には、斎場山、妻女山、天城山、鞍骨城、尼厳城、鷲尾城、葛尾城、唐崎城などのトレッキングルポがあります。
★妻女山の詳細は、妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。驚愕の史実が!
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異常気象の恩恵(妻女山里山通信)

2009-12-15 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 榎茸は、冬に出るきのこですから驚きませんが、12月の中旬というのに16本もの紫占地が採れました。これは嬉しいというよりも薄気味悪いという感じです。例年なら森はカラカラに乾いているか、積雪で真っ白で地面は凍り付いているかなのですが、多雨で地温が高いために紫占地のシロが増殖してきのこがニョキニョキと顔を出したのです。こんなことは記憶にないとみな言っています。

 そればかりか、普通なら固い冬芽に覆われているはずの木々が新芽や若葉を出しているものもあり、なんと写真の鶯神楽は、一輪だけ咲いていました。本来なら4、5月に咲く花です。狂い咲きです。さすがに今週は寒気が襲来。気温もグッと下がって積雪もありそうです。しかし、来週はまた弛むのではないでしょうか。暖冬傾向は続きそうです。本来ならとっくに天然の干し柿になっているはずの信濃柿(豆柿)もまだ瑞々しい。

 森を歩くと倒木に鮮やかな黄色が目に留まりました。初めは粘菌(変形菌)のモジホコリやススホコリかと思ったのですが、近づくと鋲茸でした。ヤマコウバシの枯葉が北風にあおられてカサカサと音を立て、木になったまま干し柿になっている信濃柿の実が揺れている森を抜けると、目の前に大きな日本羚羊がいました。

 冬季は食糧が乏しくなるので、広範囲に餌を探し歩かねばならず、身を隠す木の葉も落葉、そのため頻繁に目撃されるようになります。日本羚羊は天然記念物なので撃たれる心配はありませんが、猪にとってはこれからが厄月です。特に積雪があると足跡で行動が知れるため、雪の少なそうなこの冬は猪にとってはいい冬となるかもしれません。

 きのこの出現は異常気象の恩恵ですが、その反対に災禍に見舞われるのではないかという不安もつのります。COP15(Conference of Parties)国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議が行われていますが、国が沈む危機にある熱帯の島々や、大雪崩や大洪水の危険がある山岳地域に比べると温帯地域の国々の関心は、もうひとつ他人事のような気がします。都市に住んでいると自然音痴になり、自然の異常にも鈍感になるのでしょう。これは観察力と読解力の問題もあるので、必ずしも田舎に住んでいるから敏感とも限りません。

 ただ机上の知識ではなく、実際に日常的に自然と接していると、ただならぬことが起きていると思わずにはいられないのです。長い地球の歴史から見ると、今は小氷河期にあるらしいのですが、それが人為的に余りにも急速に温暖化に向かっているということが問題なのです。生物の適応力が追いつかないのです。ただ、温暖化はしていないという科学者もいます。先日の「クライメート・ゲート事件」 は、「地球温暖化のデータは捏造だ!」というショッキングなものでしたが、真相はまだ不明です。

 いずれにしても、近視眼的には温暖化は間違いのない事実です。12月に北信州で野菜に元気な青虫がいるなんてことは、エルニーニョのためとはいえ80年以上のお年寄りでも初めての経験。まだ大丈夫だと言っているうちに終末は、突然訪れるかもしれないのです。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、特殊な技法で作るパノラマ写真など。動物には、猫やもぐら、ニホンカモシカの写真もあります。
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二人で178歳の絶品鯛焼き:信州名物(妻女山里山通信)

2009-12-14 | 男の料理・グルメ
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 最近流行りのファストフードチェーンの鯛焼き屋でしたら、間違いなく不良品ではねられる品物。買いに来る人は、それを承知で来るわけです。森将軍塚古墳とあんずの里、姥捨山と棚田で有名な千曲市の屋代駅前通りにある小さな鯛焼き店「知野じまん焼き」。働いているのは二人合わせて178歳のおじいさんとおばあさん。

 鯛焼きはご覧の通り、あんこははみだしている、焦げている、つぶれている、ばりは取ってないと見てくれは最悪。それでもお客は絶えないんです。近所のおじさんおばさんから、OL、女子高生から幼児まで。テレビになんぞ出てしまったものですから、遠くからわざわざ買いに来るお客さんもいます。

 旨いんです。あんこが旨い。皮が旨い。焦げたところが旨い。ばりが旨い。素朴で昔懐かしい昭和の味です。昔から焼き方はそうきれいではなかったけれども、お年を召してさらに汚くなりました。それでも旨い。旨いんだから仕方がない。タピオカ入りだの、チーズ入りだの面白いことはなにもしていません。だけど旨い。だから旨い。小豆は粒が小さいのでわが家も作ってネット販売もしている希少な少納言でしょう。一般的な大納言にはない優しい繊細な味。皮は懐かしい重曹の香りがします。

 ではちょっくら寄ってお土産に20個も買おうなんて思ったら大変です。いつ焼き上がるか分かりません。なにせ御高齢ですから、動作はナマケモノ(失礼!ご本人達は至極働き者です)並ですから、無理させちゃあいけません。気長に待ってください。予約しても時間通りには焼き上がりません。いいんです。旨いんですから。それが嫌なら買わないことです。

 最近、銅鑼焼きでマーガリンを挟んだものが流行っていますが、あれはいけません。風味のない中国産の安いあんこと低品質の小麦粉を誤魔化すための苦肉の策です。鯛焼きは尻尾まであんこが入っていないといけない? ここのはあんこの入り方がひとつずつ全部違います。いいのです旨いんですから。昔はぶーちゃん焼きというのがありましたが、なんでも焼き型が割れてしまったとか。いいんです、豚でも鯛でも。鯛焼きなのに鯛に見えないんです。でもいいんです。旨いんですから。

 お二人とも鯛焼きを焼くと同時にご自分の顔も焼いてしまうんではないかしらと心配になるほど腰が曲がってこられていますが、老人力でこれからも絶品鯛焼きを焼き続けていただきたいものです。追記:おやきもあります。
★残念ながら閉店しました。長い間本当にありがとうございました。
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坂の上の雲古(妻女山里山通信)

2009-12-12 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 冬になり落葉すると森はそれまでとは比べものにならないほど見通しがよくなります。谷の向こうにある尾根や、夏場は木々の葉に隠れて見えなかった崖、眼下の集落など。こんな冬枯れの里山で道に迷う人は、相当の方向音痴です。この冬場に登って山の全貌を記憶しておくと、山菜採りやきのこ狩りなどの時に藪山に入っても迷わずにすむのです。

 そして、冬季になると今まで見えなかったもの、見えずらかったものもよく目にするようになります。そのひとつが、森に棲息する色々な動物の糞です。もちろん冬以外の季節でも目にすることはあるのですが、冬枯れの季節は特によく目に入るのです。先日もわが家の山の急斜面についた獣道の坂を登っていくと、小さな窪みにしたばかりの日本羚羊の艶のある糞を見つけました。

 動物の糞は、その形状と大きさや場所で、なんの糞かがだいたい分かります。親指大の団子がいくつもくっついたようなのは、猪の糞。古いのや新しいのが混じって大量にあるのが狸の溜糞。いわゆる公衆便所と考えてもいいでしょう。日本羚羊や日本鹿は、コロコロの丸い糞をしますが、たいてい決まった糞場があって、そこでします。テンは、「テンの高糞」といって登山道脇の石や切り株などの上に、これ見よがしにするのが特徴。

 月の輪熊に限りませんが、熊は季節によって食べるものが変わるので糞の形状や内容も変化します。写真のものは9月なので栗や団栗などを食べた糞です。大きな個体がした糞らしく、洗面器一杯分ぐらいありました。栃の実を食べると黄色い糞になります。秋は柿の種が混じったり、獣を食べると毛が混じったりします。

 動物の糞には、色々な菌類が発生します。中にはササクレヒトヨタケのような美味しいキノコも出ることがあります。わが家の山の日本羚羊の糞場からは大量のササクレヒトヨタケが発生しました。食べませんでしたが…。畑のくず野菜の捨て場から発生したものは美味しくいただきました。柔らかく上品なマッシュルームという感じです。また、糞からは色々な粘菌(変形菌)も発生します。

 山登りをしていると希に人糞も目にします、人糞の特徴は、上か側に拭いた紙が落ちていることです。たとえひとりでも、どんなに慌てていても、登山道の真ん中にすることは止めてください。しかし、滑落しそうな急斜面でするのは考えものです。排泄しながら滑落したら洒落になりませんから。

 子供の頃は、山や川で雲古をすると紙が無くて蕗などの葉っぱで拭いたりしたものですが、間違って手が汚れると、柳の葉や無患樹(ムクロジ)の果皮を泡立てて手を洗ったものです。環境にやさしい天然の石鹸です。

 雲古というのは、「う~ん」という力む言葉に「こ」という接尾語がついた幼児語ですが、阿吽(あうん)のうんであるという俗説もあります。中国の仏教で便所を吽置といい、その吽が日本に伝わって貴族が用い、うんことなったという説もあります。信州では「雲古をまる」といいますが、これは古事記にも須佐之男命が「屎麻理(くそまり)散らしき」と出てくる古いいい方で、そこから「おまる」という言葉もできました。

 また、万葉集巻16-3828には、「香塗れる 塔にな寄りそ 川隅の 屎鮒喫める 痛き女奴」(かうぬれる たふになよりそ かはくまの くそふなはめる いたきめやつこ)という句があります。「香を塗った清浄な塔に近寄ってはいけない 川隈の屎鮒を食べているいやしい女奴よ」という意味です。
 前記のようにくそという字には、屎と糞があります。屎は、文字通り米を食べて出る排泄物であり人糞のことで、糞は両手で異物を肥料として畑にまく様を表しているといい、獣や鳥の糞をいいます。

 アマゾンでは河の上に立つゆらゆら揺れるトイレで雲古をすると、雲古はそのまま河に落ちていくのですが、下ではたくさんの魚たちが待ちかまえていて、アッという間にたいらげてしまいます。ファーブルの『昆虫記』で有名な糞転がし(スカラベ)は古代エジプトでは神と崇められたことで知られています。獣ではありませんが、木の根元に転がるたくさんのボクトウガの幼虫の糞は、大変きれいでビンに詰めて飾っておきたくなります。昔、動物園の象の檻のすぐ前で象のお尻を眺めていたら、突然肛門がヌワーッと開いて直径30センチぐらいの巨大な雲古が尿とともにドサッと落ちて糞まみれになりそうになったことがあります。

 「うんこをまる」と同様に信州人がよく使う「ずくなし」という言葉も非常に古いもので、古代の製鉄、たたらと深い関係があると私は思っています。これについては、いつか詳しく書いてみたいと思います。
 ところで、注目のドラマ『坂の上の雲』には、松代の文武学校や上田の信州大学繊維学部の講堂などがロケに使われ登場します。黒船来襲以降の佐久間象山を初めとする松代藩や民の話は、わが家の祖先もかかわっているので、これについてもいずれ書いてみたいと思います。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、特殊な技法で作るパノラマ写真など。トレッキング・フォトルポにない写真もたくさんアップしました。動物の糞もあります。
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冬のきのこ(妻女山里山通信)

2009-12-11 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 落葉松の葉もほとんどが落ちて、森の地面は日本の伝統色でいうと朽葉色(くちばいろ)*に染まっています。そのため落葉松林の中は、冬のどんよりとした寒空とは対照的に、自然林の中より明るいのです。例年になく遅くまで出続けた紫占地も終わり、きのこ狩りに訪れる人もいなくなりました。これからは狩猟シーズンで、雉撃ちや猪狩りのハンターが現れます。

 しかし、実は冬に出るきのこもあるのです。先日見つけたのは、出たばかりの小さな平茸と枯葉に埋もれるように出ていた榎茸(エノキタケ)です。榎茸というとスーパーで売られている淡いクリーム色のヒョロヒョロした例のものを思い浮かべるでしょう。ところが、天然の榎茸は写真のように似ても似つかぬ風貌で、風味もまったく違います。市販品はいわば榎茸のもやしのようなものなのです。この榎茸の人工栽培の発祥の地は、ここ松代町です。旧制屋代中学(現在の屋代高等学校)の教員であった長谷川五作の指導で始められたものです。

 天然の榎竹の傘はぬめりが非常に強く、軸は天鵞絨状で黒っぽい色です。とても甘い香りがして、鍋や蕎麦、うどんに入れると絶品です。写真のものはまだ小さいのでもう少し大きくなってから採ろうと思います。紫占地は、二日ほどで幼菌から10センチぐらいに成長したりすることもあるのですが、榎茸は寒くなってから出るためか成長が遅いので、暖冬とはいえ採るのは年末ぐらいかもしれません。平茸も成長が遅そうです。来週は雪が降りそうですから、さらに成長が遅くなるかもしれません。

 先日からぼちぼちと山仕事を再開しています。冬場は蛇や蜂の心配もないので(今年は4回も刺されました。)、安心して藪の始末ができるのです。落葉が終わると森の見通しがよくなって(ソヨゴ、カシなどの常緑樹やヤマコウバシ、一部のカシワ、クヌギの葉は残ります。)、新たな掛かり木や倒木が発見できます。集中豪雨や強風で、今年もあちこちで折れた大木が見られます。掛かり木の処理は大変危険なので、全てを始末することはできませんが、妻女山は一応観光地なので、訪れる人に危険のないように道路脇のものは徐々に始末しないといけません。先日は、道路上に落ちそうだった20m程の落葉松の掛かり木を落としました。

 森から緑が消えてもよく見ると冬芽がもう準備できています。夏グミは、新しい枝と若葉を出しています。空木も新しい枝が出ていました。夏の間は見かけることがなかった日本羚羊も度々見かけるようになりました。いつも見かけていたマダムは見なくなりましたが、その代わり成長した子供をよく見かけるようになりました。母親が子供にテリトリーを譲ったのでしょうか。日本羚羊には、そういう生態があるのか興味が湧きます。

 今日は雨、来週は雪になりそうです。本来なら上旬には月の輪熊も冬眠に入るのですが、今年はひょっとするとまだ活動しているかもしれません。そんな熊たちも眠る時間が徐々に増えて長い眠りにつきます。鬼の居いぬ間の選択ならぬ、熊のいぬ間の藪山探索とでもいいましょうか、この冬は鏡台山周辺の古道を探索してみようかとも思っています。

*朽葉色:日本の代表的な伝統色で、平安時代の貴族にもてはやされた 朽ちた落ち葉の色に似た褐色の黄橙色。黄色味が強い「黄朽葉」、赤色味の強い「赤朽葉」、青みの残る落ち葉を連想させる緑味がかった「青朽葉」などがあり、「朽葉四十八色」といわれるほど種類が多い。江戸時代の朽葉色は、ラセットブラウンやバーント・アンバー、バーントシェンナーの様な枯葉色ですが、平安時代の朽葉色は、もっと鮮やかな色といわれています。今回の場合は後者で、ややスモーキーな橙色という感じです。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、特殊な技法で作るパノラマ写真など。トレッキング・フォトルポにない写真もたくさんアップしました。

★きのこ料理は、MORI MORI RECIPE(モリモリ レシピ)をご覧ください。色々あります。
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世界一短い?御伽話と大爆笑の南米文学(妻女山里山通信)

2009-12-06 | アマゾン
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 経験者は分かると思いますが、幼児を寝かせつけるというのは結構大変なもので、御伽話(おとぎばなし)なんぞはいい題材なのですが、なにせこちらも疲れていたりすると、桃太郎の話に金太郎が出てきたり、桃太郎が鬼に負けてしまったり、挙げ句の果てには宇宙へ消えてしまったりと、途方もないものになったりしたものです。

 そして、もっともっとという際限のない要求にも参ったものですが、そんなとき便利なのがこのお話でした。二歳ぐらいでしたか、なぜかこの話を長男はえらく気に入ったようで、ある日電車の中で始めたそうです。
 「むかしむかしあところに、(るが言えない)おじいさんとおばあさんがいました……おしまい。」というものです。隣に座っていた女子大生とおぼしき女性が思わず吹き出してしまったそうです。

 そこで、吹き出しつながりで南米文学です。冬の夜長に久しぶりに読み始めました。著者は、元国際ペン会長、大統領候補、大爆笑、シネマ。なにか結びつかないような感じです。もう二十数年前のことです。みなそうするように私もよく通勤電車の中で本を読みました。あるとき買ったばかりの南米文学のハードバックを読んでいました。とにかく面白い本で、時折クスクスと笑いながら読んでいたのです。

 そして、ある部分にさしかかった時にこらえきれずにガハハハハッと大爆笑してしまったのです。周りの人はビックリですね。いや恥ずかしかったです。そんな面白い本はなに?って思った人もいるでしょう。さすがにそれ以降は読めなくなってしまいましたが、内心はああ読みたい!今すぐ読みたいと思っていました。

 ここまで読んで、あああれかと思った方はかなりの南米文学通? 本は、マリオ・ヴァルガス・リョサの『パンタレオン大尉と女たち』高見英一訳《新潮・現代文学の世界》です。原題は、PANTALEON Y LAS VISITADORASですから、パンタレオンと訪問者たち。英訳本は、CAPTAIN PANTOJA AND SPECIAL SERVICEです。これも意味深な、しかし意味が分かると爆笑もののタイトルです。

 この本は既に絶版になっていて古書店では定価より高い値段で売られているとか。シリーズものですから、大きな図書館ならあると思います。内容は、くそがつくほど生真面目なパンタレオン・パントハ大尉が極めて優れた事務処理能力を買われ、軍人のための慰安婦部隊を密林内部に設定するよう命じられて、アマゾンジャングルの奥地に赴くのです。彼はしごく真面目に任務を遂行し、やがて指揮する慰安婦部隊は国内最大の売春施設へと発展していくのですが…。あとは読むことをお勧めします。面白いだけでなく、強烈な風刺や人間観察の鋭さもあって充分読み応えがあります。アマゾンに行ったことがあれば更に数倍は楽しめるかもしれません。舞台はイキートスですが、私はかつて魔都と呼ばれたマナウスのジャングルと街を思い出します。

 ただ、文章は映画的手法が使われていて、突然場面が変わったり、インサートされたり飛んだりとするので、そのつもりで読んでいかないと、なにがなんだか分からなくなります。まるでヴアルガス・リョサは、これを映画化することを念頭において書いたかのようですが、実際に「囚われの女たち」という邦題でDVDにもなっています。これは、まだ観ていないのでぜひ手に入れて観たいと思っています。

 ヴアルガス・リョサ?知らないなあという方も、フジモリ氏と大統領選挙を戦って破れた人というと、ああそうかと思うかも知れません。もうひとりの南米文学の巨匠、ガルシア・マルケス(鞄じゃないですよ)とは、仲が悪いので有名? 私は両方読みますが…。ガルシア・マルケスの『百年の孤独』は、三ヶ月かかって読んだ記憶があります。圧倒的な孤独と魔術的リアリズムの世界を堪能できます。私は彼の短編集が好きです。『無垢なエレンディラと無情な祖母の悲惨な物語』は、その中でも特に好きな作品。映画化もされましたが、これも秀作でした。ビデオを買って何度も観ています。

 そのほかにも、ロザ・ドノーソ、マヌエル・プイグ、A・カンペティエール、ボルヘスなどなど、冬の夜長に南米文学。きっとはまります。

★【AMAZON.JP-アマゾンひとり旅-】をご覧ください。スリリングなアマゾンひとり旅のフォトエッセイです。
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妻女山から陣場平への行き方(妻女山里山通信)

2009-12-04 | 歴史・地理・雑学
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 冬休みになると、夏休みほどではないものの妻女山を訪れる人も増えます。歴女や歴史マニアの中には、妻女山だけでなく斎場山や陣場平、さらには鞍骨城まで足を伸ばす人もいます。今回は斎場山への長坂峠(東風越)分岐から、上杉謙信が陣城を築いたと伝わる「陣場平」までの行き方を紹介したいと思います。妻女山展望台から長坂峠までは、以前紹介した妻女山から斎場山への行き方を参照してください。

 夏場は、藪とオオスズメバチ、希に熊の出没もあり(猪、ニホンカモシカは通年)とても危険ですが、冬場はその心配もなく、落葉期は全体も見渡せるので見学にはお勧めです。陣場平については、上杉謙信が陣城を築いたと伝わる「陣場平」をご覧ください。

■写真一番上 妻女山展望台から南を見たところです。展望台に登るとみな北の川中島に目がいきますが、ぜひ南側の上杉謙信の布陣した山々も見てください。右手に斎場山、中央奥に陣場平の高原、左手奥に鞍骨城(高圧鉄塔の左)が見えます。

●1 妻女山展望台奥の駐車場から右の林道を15~20分登ると長坂峠(東風越)に着きます。右は2~3分で斎場山(旧妻女山)山頂。左のあんずの里ハイキングコースを進みます。

●2 陣場平下部の平坦地の林道を進みます。右手には樹間から本陣跡と伝わる斎場山が見えます。

●3 5、6分で陣馬平の台地が正面に見えてきます。突き当たりで林道は右に曲がります。

●4 突き当たりは、切岸状の崖になっていて、古い石垣の後も見えます。

●5 急坂を右に登ると、天城山・堂平大塚古墳のトーテムポールのような大きな標識があり、道は尾根に乗ります。この左に広がる平地が陣場平で、上杉謙信が陣城を築いたと伝わる場所です。そのまま林道を真っ直ぐ登ると15~30分で天城山(てしろやま)、さらに30~40分で鞍骨城です。

●6 陣場平は、100m四方はある平坦地ですが、落葉期以外は藪でその全貌は全く見えません。また、夏期はオオスズメバチが集まる樹液の出る木が何本もあるので要注意です。猪やニホンカモシカ、希に熊も出没します。冬は入れないことはありませんが、倒木や掛かり木が多く、道もなく迷いやすいので大変に危険です。また、この辺りの山は、いずれも私有地なので、マナーを守ってください。

 この陣場平、現在は木々に遮られて展望はありませんが、東には眼下に海津城がはっきりと見える位置です。養蚕が盛んな昭和30年代以前は、主に桑畑でした。その頃は海津城がよく見えたと思います。この尾根の南部の尾根や天城山山頂、及び西側の堂平には、積み石塚古墳群や円墳がたくさん残っています。
 古代には、陣場平にも古墳がたくさんあったのではないかと思われるのですが、戦乱の世に破壊され石垣に使われてしまったのかもしれません。その後は桑畑の土留めにも使われたので、古代の姿や戦国当時の姿がどれくらい残っているのかは、発掘調査もされていないので全く不明です。

 尚、陣場平までは、軽の四駆なら林道を登って行けないこともないのですが、相当の悪路です。
【陣場平全景】

★妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。武田別働隊の経路図、きつつき戦法の検証、上杉謙信斎場山布陣図などもご覧いただけます。

★武田別働隊のルートを訪ねて三滝山(戸神山?)から鏡台山、鏡台山から戸神山脈を妻女山まで辿ったトレッキングは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】をご覧ください。
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菅原道真の木像と、法華経妙荘蔵王品一基が所蔵されるあんずの里の岡地天満宮(妻女山里山通信)

2009-12-02 | 歴史・地理・雑学
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 あんずの里として全国に有名な信州は千曲市森の西北の外れに、岡地という小さな集落があります。有明山の麓にへばりつくようにある小さな山里は、西側に山があるため日の暮れるのが早く「半日村」などと呼ばれました。あんずが満開の時も訪れる人もほとんどなく、静かな花見ができる場所として隠れた撮影スポットとなっています。この地は古くは乙路県(おつじがた)、大穴郷(おうなごう)といい、尾根の向こうには初代科野国の大王の墓といわれる森将軍塚古墳があります。

 先日、その近くの伯父の家に採れ採れの野菜を届けたついでに、地元では御天神さんと親しまれている岡地天満宮に合格祈願のために参拝しました。ここに願掛けした人はみな合格したといいます。正式名称は「岡地天満大自在神社」といいます。一見すると、小さく地味な天満宮の末社のように見えますが、さにあらず。実に歴史ある奥深い神社なのです。

 伯父はその天満宮の歴史を調べ本を自費出版しているので、そこから引用させてもらいます。この神社には、菅原道真の木像と、法華経妙荘蔵王品一基が所蔵されていますが、菅丞相書『法華経並びに親作木像記』によると、どちらも菅原道真自作のものと伝えられています。

 岡地に安置されるようになった経緯は非常に複雑です。もともとの所有者は、江戸城を築城した太田道灌(「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞ哀しき」の逸話で有名)が足利学校で学んだ折りにもらい受けたとされています。ただし、道真公からどういう経緯を辿って足利学校に所蔵されるようになったかは不明です。
 第四次川中島合戦の折に、ここ岡地には観音堂の大伽藍があったそうですが、戦火のために焼失したと縁起には記されています。森の東の山陰殿入地区には戦火を唯一免れたという信濃国三十三番札所第六番観龍寺があります。詳しくは、春のあんずの里ルポをご覧ください。

 その後、湯島天満宮に納めようとしたのですが、不慮の変があり果たせず、徳川家康の手に渡り、三代将軍家光へ、さらに幕府の官医であった土岐長庵の手に渡ります。土岐長庵は松代藩の真田家と懇意だったようで、真田家の菩提寺の松代長国寺(曹洞宗)に遺贈されました。
 その後しばらくは、松代の長国寺にあり、長国寺十七世千丈寛厳和尚が千曲市森の岡地に華厳寺を開いて隠住したとき(1785年)に森の岡地に天満宮を造って安置したのが始まりということです。

 現在では華厳寺は檀家も途絶えて廃寺となり(母はここで演芸会をしたそうです)、天満宮だけがあります。天満宮には、かの米山一政氏が驚嘆したという平安末期-鎌倉初期の作といわれる一刀彫の像があります。さらには、幻の善光寺五重塔建立のための試作品とされる名工・立川和四郎富棟作の「惣金厨子」があります。
 またここ岡地には、正和2年(1313)3月に焼失した善光寺、金堂以下の諸堂再建工事の折、用材を伐採、「長さ十丈ばかり材木が空中を飛翔して、その工事を助けた、という「飛柱の異」という言い伝えがあります。

 初冬の信州にしては暖かな小春日和の午後。天満宮に参拝して東を望むと、森集落の向こうに大きくそびえる大峯山と手前に延びる倉科と森を分ける県山が。その左奥には、武田別働隊が越えたという戸神山脈が夕日をあびて輝いていました。

武田別働隊が辿ったとされる経路のひとつ、唐木堂越から妻女山への長~い長~い尾根を鏡台山から歩いたトレッキング・フォトルポをご覧ください。
★フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】には、斎場山、妻女山、天城山、鞍骨城、尼厳城、鷲尾城、葛尾城、唐崎城などのトレッキングルポがあります。
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