モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

古代科野の国と戦国時代への旅(妻女山里山通信)

2008-08-29 | 歴史・地理・雑学
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 夏休みに息子達と登った古代科野の国の大王の墓、森将軍塚古墳と渡来人の王家の谷、大室古墳群、そして斎場山(妻女山)のトレッキングの模様を、モリモリキッズでアップしました。ご笑覧ください。歴史好き、里山好きは必見です。

 妻女山の真実について、詳しくは、本当の妻女山について研究した私の特集ページ「妻女山の位置と名称について」をご覧ください。

 写真は、上が森将軍塚古墳で、下が妻女山展望台より見た眼下の長芋畑と川中島遠望です。松代の長芋は、大きく太く皮の色が濃く、味が濃いので有名です。

 続いて8月9日に登った烏帽子岳もアップしました。高山植物をたくさん紹介しています。アサギマダラやアキアカネの群舞も。ぜひご覧ください。
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ソフトバンクの新書に粘菌の写真が載りました(妻女山里山通信)

2008-08-25 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 ソフトバンクから出版された『カラー図解でわかる 光と色のしくみ』という新書に私の粘菌(変形菌)の写真が4枚掲載されました。なぜ空は青く二字は七色なのか? どうして花は彩り生物は光るのか?というキャッチが示す通り、光と色の不思議を写真や図を豊富に使って紐解いていくサイエンスの入門書です。

 私の写真が掲載されたのは、[第4部 生物の色、命の輝き]の[5 カラフルな粘菌]のページです。山梨県小菅村の大菩薩峠から東へ延びる牛ノ寝通りで撮影したススホコリ、タマツノホコリ、ムラサキホコリ、コマメホコリが載っています。

 生物は昔は動物と植物に分けられていました。現在は、動物界、植物界、菌界、プロチスタ界、モネラ界に分けられています。変形菌は動物学者は原生動物として、植物学者は菌類としていました。変形菌はプロチスタ界にむりやり入れられています。膜に包まれた細胞核を持っている真核生物です。体内には秒速1mmを越える原形質流動が起きており、肉眼では確認できないほどゆっくりと移動することができます。驚くべきことに変形菌には迷路を抜けられる能力があるといいます。

 70年代のアメリカのある街では、粘菌が町の至る所で大発生しました。得体の知れないネバネバした生物で、しかもゆっくりとですが成長し、動いていると大騒ぎになったのです。宇宙からの新略説まで出ましたが、研究者によって粘菌と判明して一件落着となったそうです。

 わが家では、国立科学博物館でモジホコリをいただき粘菌ペットとして飼育した経験があります。詳しくはこちらのリポートをご覧ください。なかなか可愛いものです。粘菌の作る小宇宙は、時に信じられないほど美しいものです。

 粘菌の写真は、MORI MORI KIDS Nature Photograph Galleryの粘菌のページをご覧ください。南方熊楠や昭和天皇が研究した粘菌、なかなか捨てがたい魅力があります。雨上がりの公園や雑木林の切り株や倒木にも見られます。その気になって探すと見えてきます。
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京都御所と松代藩とわが家の芝生(妻女山里山通信)

2008-08-25 | 歴史・地理・雑学
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 わが家の庭には、妙に丈の長い芝生がある。私が子供の頃は、奥の露地(日本庭園)の前一面が芝生で、よくそこで相撲を取ったものだ。その後長芋の生産が本格的になり、種芋を干すために石灰を使うため年々縮小し、現在は母屋角の水道の周りに僅かに残るだけとなっている。

 この芝生には幕末の激動期の歴史が詰まっている。戊辰戦争の頃らしいが、松代藩が京都御所の警護をしていたときに、わが家の祖先の妻の弟が松代藩に仕えていて京都御所から持ち帰ったと伝わる。なんでも家には大納言なにがしから拝領の書状もあったという。篤姫では、懐刀を持って輿入れした皇女和宮のことが予告されていたが、わが家に嫁いだ彼の姉が持ってきた懐刀が、今も残っている。武士の妻は、そういう覚悟で嫁いだということだろう。
 
 当時なぜ持ち帰ったものが芝生なのか、同じ芝生がまだ御所にもあるのか知らないが、妙に丈の長い芝生を見ていると、幕末期の激動の日本に生き、日本の将来を憂いながらも希望に満ちた人々の熱いエネルギーが静かに伝わってくるような気がする。
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後藤新平と松代と祖父(妻女山里山通信)

2008-08-20 | 歴史・地理・雑学
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 わが家に一枚の写真と「定慧」と書かれた額がある。写真は岩野の旧家の庭で、晩年政治の倫理化を唱えて全国を遊説中の後藤新平が写っている。松代のはずれの寒村になぜ彼がわざわざ来たのかは父も祖父から聞いたことはないそうだ。時は大正から昭和へ時代が移る頃。右から二番目が祖父である。

 後藤新平は、台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、東京市(現・東京都)第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長、東京放送局(のちのNHK)初代総裁、拓殖大学第3代学長を歴任した。関東大震災後の首都復興の計画のあまりの壮大さに「大風呂敷」などというあだ名までつけられたが、その先見の明は常人のそれをはるかに越えるものだった。
 新平が倒れる日に残した言葉は「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという逸話は有名だ。

 「定慧」というのは、禅の言葉だ。「定慧円明」といって、定は必ず慧を発し、慧は必ず定に基礎づけられ、打って一丸となった円かに融け合って明らかなものでなければならないという。完全に身・息・心が統一され、安定した状態を「定」といい、覚醒した状態から世界を照らし見る働きを「慧」という。難しい…。

 この書は、当時若い村会議員だった祖父ともうひとりに贈られたという。前途のある若かった祖父に、何か託するべきものを感じたのだろうか。この後、日本は戦争の時代へと突入していく。天国の彼は、その様を何を思い見下ろしていただろうか。

【1930年頃の日本】OLD JAPAN-1930s と 東京復興の父・後藤新平
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旅立ちの時

2008-08-08 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 朝7時半頃、ベランダに出た長男が、「あっ! 蝶が羽化している」とささやく。見ると羽化したばかりのコミスジが、アピオスの葉にぶらさがっている。コミスジは、ミスジチョウの中では小型で最も普通に見られる蝶。羽化したばかりではねが乾いていないらしく閉じたままじっとしている。

 羽ばたきと滑空を繰り返し、まるでワルツを踊るように軽やかに梢の間を飛んでいく。食草がマメ科の植物なのでアピオスに来たのだろう。去年も見かけた。よく見るとあっちにもこっちにも羽化した後のサナギの抜け殻がいくつもある。知らぬ間に何頭も旅立っていったようだ。

 1時間後、ようやくはねを動かし始めた。ゆっくりと閉じたり開いたりしてウォーミングアップをしている。そしてまた休む。何回か繰り返した後に初めての飛行。30センチほど飛んで別の葉に止まった。またウォーミングアップ。やがて北の空へ向かって飛び去った。幸あれ。
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