モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

仙川農産物直売マップ

2007-03-29 | アウトドア・ネイチャーフォト
次男と仙川の手作りマップを作りました。niwa-coyaと桐朋学園前バス停近くのTINY CAFEでA4サイズ1枚50円で販売しています。
仙川周辺で買える農産物直売所はもちろん、住民でも知らない人が多い道の名前や歴史ある石碑、小学生しか知らない抜け道や小さな公園、猫の集会所や蛇が見られるところまで。なかなかディープな内容です。
それから、わが家推薦のお店も載せました。この地図、なかなか評判はいいようです。なくなったら増刷します。
桜も咲いて散歩の季節。この地図を片手に武蔵野を歩いてみませんか。

仙川お役立ちマップ2008年版は、こちらから無料でダウンロードできます。但し、商用利用は不可です。その場合は使用料を頂きます。メールでご相談ください。
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春の野川はサラサラ行くよ

2007-03-22 | アウトドア・ネイチャーフォト
春の陽気に誘われて、腰のリハビリも兼ねて、受験も終わった長男と彼岸の墓参りを兼ねてサイクリングに出かけました。菜の花が咲き始めた野川を北上し、中央自動車道の先で左折、住宅街を抜けて天文台通りへ。味の素スタジアムと調布飛行場を左に見ながら、さらに北上。飛行場の北にある武蔵野の森公園でひと休み。

丘の上や展望台では、発着するセスナを家族連れが眺めています。この広々とした空間は本当に気持ちが良い。おすすめの公園です。その西には息子達が何度もサッカーの激戦を繰り広げた関東村運動公園が。今日もちびっ子達の歓声が挙がっていました。

公園を西へ抜け、外語大北の廃墟のある道を走ると、やがて西武多摩川線の多摩駅(旧多磨墓地前駅)に出ます。京王線の多磨霊園駅(旧多摩駅)と実に紛らわしい駅名です。外語大が移転してきたとき、学長は外語大前としたかったらしいのですが、墓石業者の猛反対にあい断念。しかし、榊原記念病院が移転してきたため、さすがに墓地前ではまずかろうと多摩駅となったようです。ここの商店街は、昭和が色濃く残っていて懐かしさに浸れます。昭和軒なんていうひなびた中華食堂もあります。東口の沖縄料理屋も評判がいいようです。

予想通り多磨霊園周辺は、彼岸参りの車で大渋滞。やはり自転車にして大正解でした。混雑する霊園内の周回道を走り、一昨年亡くなった長男の曾祖父、昨年亡くなった曾祖母の墓に高校合格の報告をしました。ソメイヨシノはまだでしたが、しだれ桜が満開で艶やかな花吹雪を辺り一面に散らせていました。しかし、あまりの線香の匂いに息子のくしゃみが止まらなくなり、私も気持ち悪くなってきたので、早々に退散。花粉も大量に飛散していました。

東八道路から武蔵野公園を抜けて野川沿いを「野川公園自然観察園」へ。桜がまだなので華やかさはありませんが、写真のような花が各所で咲き誇っていました。今週末は、桜も満開でしょう。野川では、夜桜のライトアップもあります。

ところでわが家の目の前にあった桜の老木が切られてしまいました。昨年もう一本が突然都道に倒れて大騒ぎになったので仕方がないのですが、すこし寂しい風景になりました。国分寺崖線の森にあった山桜も宅地開発で全部切られてしまいました。10年前は家の周りじゅうに山桜やアメリカハナミズキが溢れていたのが夢のようです。

去年の桜が満開の野川・野川公園のルポは、モリモリキッズの「野川・野川公園自然観察園」をご覧ください。
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「互」と「激闘!川中島合戦をたどる」

2007-03-11 | 歴史・地理・雑学
新酒の出回る季節です。そんな折り、信州から「互(ご)」という清酒が届きました。沓掛酒造の「あらばしり無濾過原酒生詰おりがらみ」と帯の入ったものです。菅平の清水で仕込まれた酒は、甘露甘露。さすが酒どころ信州。つまみは塩辛と手作りの蕗味噌。

そして届いたばかりの「激闘!川中島合戦をたどる」を読みながら。ちびりちびりと。この書は、先の「甲越信戦録」の訳者である岡澤由往氏の著書。川中島合戦の史跡が詳しく紹介されています。読み物としても面白いのですが、古戦場巡りのガイドブックとしては最適でしょう。これを携帯しながら妻女山や八幡原、山本勘助の墓などを巡ると、またひと味ちがった懐古の情が湧き出流ことでしょう。

「激闘!川中島合戦をたどる」は、「甲越信戦録」と同じく、長野の龍鳳書房のもの。このような地方出版社の本が欲しいときは、ネットが一番。二冊ともビーケーワンで買いましたが、書店で注文すると2週間ぐらい待たされるところ、24時間以内発送で3日ぐらいで届きますから、とても便利です。

今日は久しぶりの雨なので、雑用の合間に、またちびりちびりと「互」をやりながら続きを読みたいと思います。
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牡蠣のオリーブオイル煮

2007-03-08 | 男の料理・グルメ
ノロウィルスとかの風評被害で酷いめにあった牡蠣ですが、海のミルクといわれるようにミネラルが豊富で栄養豊かな食品です。良質のたんぱく質・鉄分・ビタミンB1・B2・B12・亜鉛・グリコーゲン・タウリン・ミネラルなどが含まれている極めてすぐれものの食材です。傷の治癒力を高めるのでスポーツ選手にも最適。亜鉛は味覚を感じるために必須の栄養です。シーズンが終了するまであとわずかですが、実は今頃の牡蠣が一番美味しいのです。

牡蠣好きのわが家は、定番の牡蠣フライはもちろん、「牡蠣と長芋の薩摩揚げ」「牡蠣とニラのオムレツ」「牡蠣をたっぷり入れた固焼きソバ」「牡蠣のピリ辛和えソバ」など色々と楽しみました。
今回は、オイルサーディンの調理法を応用して「牡蠣のオリーブオイル煮」を作ってみました。白ワイン、鯛ひしお、ニンニク醤油、ローズマリー、ニンニク、タカノツメ、塩コショウでマリネした牡蠣を低温のオリーブ油で10分ほど煮たものです。ふっくらとした牡蠣の美味しさは、絶品です。

とにかく美味しい。おつまみやオードブルはもちろん、オープンサンドやパスタ、オムレツ、ピザなどにも使えます。ふっくらとした牡蠣の美味しさが際立つ料理です。牡蠣はもちろん油も牡蠣の美味しさがうつって色々な料理に応用できます。辛いのが好きな方は、カイエンペッパーを加えたり、フレッシュペッパー(青コショウ)などを使うと、また変化が楽しめます。ハーブを替えても楽しい。冷えたシャルドネなんか飲みながらつまんだら最高でしょうね。

詳しいレシピは、MORI MORI RECIPE(モリモリ レシピ)牡蠣のオリーブオイル煮をご覧ください。
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むかし戦場になった村【妻女山里山通信】

2007-03-06 | 歴史・地理・雑学
 大河ドラマ「風林火山」がなかなかの評判をよんでいるようです。山本勘助が武田春信(信玄)と戦うという伝承にも史書にもない荒唐無稽な脚本はともかくとして、まあ、多少の歴史知識があれば、あれを史実として見てしまう人は少ないと思うのですが、そうだったんだあ!なんて思う人も少なからずいるのでしょうね。
しかし、大河ドラマが常に支配者の視点でしか描かれてこなかったのは事実です。

 封建的な価値観やジェンダーの伝統的な価値観を、感性に訴えて無意識のうちに押しつけていると見る学者もいるのは当然で、楽しみつつも批判的に見る視点も必要なのはいうまでもないことです。山本勘助になったつもりで「俺ならこう攻めるのになあ」なんて脳天気に見るのは楽しいですけれど…。

 そんな折りに見つけたのがこの本。前回紹介した「甲越信戦録」を訳された岡澤由往さんの「むかし戦場になった村」銀河書房刊です。この書は、川中島平を戦国時代から江戸時代へと描いたもので、戦や天変地異、地震や大洪水に苦しみつつも生き抜いてきた川中島の里人が主人公です。

 川中島の戦いにおいては、「ふみにじられた里人」という副題がついています。川中島が肥沃であるだけに、上杉謙信、武田信玄というよそ者に12年以上に渡り蹂躙(じゅうりん)され続けた里人の想像を絶する辛苦が描かれています。

 たとえば、川中島には地名と同じ性をもつ人がほとんどいません。もともとの領士たちはどちらかにつかねばならず、先兵をするしかなかったわけです。信玄・謙信ともに相手を逆徒とののしり、必滅をかかげて相手の領地であれば村や寺社にまで火を放ち、男は虐殺し、女子供は売り飛ばしたわけです。そんな中で、多くの元から居た領士や領民が川中島を捨てざるを得なかったわけです。
 そして、合戦が終わり武田の支配下になった川中島には、甲州から村人がそっくり移住させられてきたのです。

 また、後の秀吉の時代、上杉景勝が会津へ加増転封になった際には、川中島の地名を持つ土豪たちは、景勝の家来だったため家族家来共々この地を去って会津へ行ったのです。そのためこの地には、地名を名乗る姓を持った人がいないのです。清野に清野氏なし、寺尾に寺尾氏なしなどといいます。
 さらに江戸時代に入ると、三代将軍家光の時代に、腹違いの弟である伊那の高遠藩の保科正之がまた会津へ転封となり、また信州人が大勢移り住みます。我が一族の祖先がひとり、ついていっているそうです。四代目頃に商人になり会津藩を支えたそうです。会津は信州人が造った街ともいえるのです。

 江戸時代には、1742年に戌の満水の大洪水が起き(死者2800人以上)、幕府から一万両を借りて大規模な瀬直しを行い財政が悪化。天明(1782〜88)、天保(1833〜39)の大飢饉が襲います。そして1847年には善光寺大地震(死者8600人以上)と、それに伴う犀川の山崩れによる鉄砲水と大洪水。松代藩による重税と里人の辛苦は続きます。また、五代将軍綱吉による「生類憐みの令(1687〜1709)」に翻弄される様も描かれています。

 川中島の流れが確定したのは17世紀以降といわれています。千曲川に堤防ができたのが大正14年ごろ。それまでは、洪水の旅に村々は氾濫原の下に沈んでいたのです。
 いまでも世界の至る所で戦争が起きていますが、自分たちの身近なところにも戦場になった場所があるのだということを忘れてはいけないのだ、と思うのです。
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