モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

春の妖精、春の儚い命の節分草に会いに千曲市倉科の群生地へ。妻女山のダンコウバイも開花(妻女山里山通信)

2017-03-26 | アウトドア・ネイチャーフォト
 千曲市倉科の杉山にあるセツブンソウ(節分草)が開花という情報をネットで得たので訪れました。昨年は春の訪れが2週間も早く、月末に訪れた時にはほぼ咲き終わっていました。今年は例年並みです。群生地は、「倉科の自然を守る会」の方々が管理や保護活動を行っています。

 早春に咲き、2、3ヵ月でその年の生活サイクルを終え消えてしまう植物は、スプリング・エフェメラル(Spring Ephemeral、春の妖精、春の儚い命)と呼ばれます。セツブンソウの種は、アリが巣に運んで発芽する虫媒花。アリ散布植物です。石灰質の土壌を好み、晩秋から冬の間に、地中深くにある黒褐色の塊茎から発芽します。種子から開花まで3年以上かかるわけですから、林床の環境が良い状態で続かないと生育できません。昔は雑木林に入って草刈りや灌木の除伐や薪拾いをしたので、明るい林床にセツブンソウがたくさん咲いたのだとか。カタクリと同様、人の暮らしと密接な関係にある植物だったのです。ですから、盗掘や自生地の環境が破壊されると真っ先に消える植物です。(絶滅危惧植物II類)

 セツブンソウはキンポウゲ科セツブンソウ属で、本州の関東地方以西に分布する高さ5〜10センチほどの小さな多年生草本。花の直径は約2センチ。花びらに見えるのは萼です。先が黄色く見えるのが退化して蜜腺になった花びらです。東京調布市の野川自然公園観察園では、毎年1月末から節分の頃に咲いていましたが、信州では3月中旬から下旬に咲く花です。この倉科の群生地は信州の北限といわれていますが、私は実は全く知られていない群生地があるのではと思っています。

 この日は、夜間に降雪があり里山は真っ白になったので、2011年の様に雪を纏ったセツブンソウが撮れるかなと思ったのですが、昼近くには既に溶けていました。もっと早く来ればいいのですが、群生地は西向きのため、10時を過ぎないと日が当たらないのです。
雪中の節分草(妻女山里山通信) 2011年3月28日

 千曲市の群生地は、他に戸倉のものが有名で訪れる人も多いのですが、倉科の群生地は訪れる人も少なく静かに鑑賞や撮影ができます。

 セツブンソウで蜜を舐める昆虫を発見。形態からハエの仲間でしょう。3000種類もいるので同定はなかなか困難です。盛んに花から花へと飛び移って蜜を舐めていました。

 当日は昼頃になると寒風が吹き下ろし始め、セツブンソウは細かく揺れ始めました。寒風に震えるような感じでした。ブレて撮影もなかなか難しくなったので、三滝へ行くことにしました。

(左)逆光のセツブンソウ。(中)群生地の入り口。車は林道脇に止めます。(右)倉科のMさん手作りの標識。斎場山(旧妻女山)から天城山、鞍骨城跡などでもお馴染みです。

 三滝春景。(左)一の滝と上に二の滝。(中)二の滝の下にはダイナマイトで破壊されて落ちた岩石の山が。理由は下記の「倉科三滝の知られざる歴史」をお読みください。
(右)明治の倉科村村誌には「二の滝、高四丈三尺、幅一丈七尺、是に龍の劍摺石と唱うる石ありて、自然の穴七ツあり、俗に摺鉢と称す」と書いてあるのですが、「自然の穴七ツ」とは甌穴(おうけつ)のことで、河底や河岸の岩石面上にできた円形の穴のこと。瓶穴(かめあな)ともいいます。三滝の甌穴は岩石で埋まったと思っていたのですが、今回一の滝の上の平らな岩盤に土砂で埋まった様な甌穴ではないかと思われるものをいくつか発見しました。土砂を取り除けば全容が見られるかもしれません。水温が低すぎて入れませんが、夏になったら調べてみようと思います。といっても真夏でも水温は12度ぐらいですが。
倉科三滝の知られざる歴史(妻女山里山通信)


 拙書『信州の里山トレッキング 東北信編』の扉に使った三の滝。扉のカットは真夏で水量も多く緑濃い風景です。遊歩道もありますが、ご覧のように整備されているとはいい難く、岩もゴロゴロしているので、トレッキングシューズが必要です。また昨年は友人が子熊を目撃しているので熊鈴も必須です。

(左・中)セツブンソウが咲く頃に、妻女山のダンコウバイ(壇香梅)も咲くので寄ってみました。咲き始めでした。これから標高の高いところに向かって咲き上がっていきます。(右)斜面に白い花を発見。ヤマシャクヤクが今頃咲くはずはないしなんだろうと近づいて見ると、なんとクリスマスローズでした。もちろん園芸種です。困ったことですが、家で要らなくなった園芸種を捨てていく人がいるのです。以前は紫色のオダマキが咲いていました。いずれも状況を観ながら自然環境を破壊するほど繁殖することもないだろうと放置してあります。オオブタクサやヨウシュヤマゴボウ、セイヨウタンポポなどの帰化植物の方が余程大問題です。そして、それ以上に大問題なのが、放射能や農薬、排気ガスなのです。
 さて、里ではやっと白梅が咲き始めました。これから紅梅、杏、ソメイヨシノ、桃、林檎、山桜、レンギョウ、カスミザクラ、オオヤマザクラ、ウワミズザクラやズミと信州の春は駆け足でやってきます。
カタクリ、イカリソウ、クサボケ、モミジイチゴ、オオヤマザクラ、ズミが満開(妻女山里山通信)

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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出雲大社の系譜。諏訪立川流の諏訪大社秋宮と大隅流の春宮の宮彫探訪(妻女山里山通信)

2017-03-20 | 歴史・地理・雑学
 当ブログでは、諏訪立川流や大隅流の宮彫がある神社を紹介してきましたが、その代表作ともいえる諏訪大社下社の春宮と秋宮を載せていないということに気付き撮影にでかけました。三連休で参拝者も多いと思い9時半頃には秋宮に到着。参拝と撮影に勤しみました。諏訪大社下社は、春宮と秋宮の2社があり、秋と春に祭神を秋宮、春宮へ遷座することが通例となっています。
「諏訪藩主は大隈、立川の両者をよび、腕を競わせることになった。諏訪大社の下社を同じ規模、同じ期間で同時に二つの社を作るよう命じた。どちらも全力を注ぎ見事に完成した。大隅流の作った社を「春宮」、立川流の作った社を「秋宮」といい、現在もその当時の姿で下諏訪町に存在している。結果は立川流の評判が勝り、立川和四郎富棟の出世作となり、以後立川流は大隅流を圧倒し発展していった。」:立川流彫刻のサイトより引用。

(左)秋宮の鳥居前の手水舎。皆さんちゃんと作法を知っているのですね。彼女が彼氏にこうやるのよと教えているのも微笑ましい光景でした。「諏訪大社下社秋宮 境内ガイド」。(中)石造りの神橋を渡り境内へ。(右)神楽殿からは御祈祷(おはらい)の太鼓が。諏訪立川流の木彫が施された幣拝殿はこの後ろにあります。

 諏訪立川流和四郎富棟の名声を世に広めた幣拝殿。1781年(安永10年)建立。屋根が大きく下が小さな逆三角形の構図は、空(宇宙)に向かって飛び立つかの様な軽快感を覚えます。

 木彫は全体に施されていますが、目を引くのは幣拝殿最前部の柱に施された獅子と象の木彫です。立川流の特徴が凝縮された造作ともいえるものです。後に息子の富昌へとその技法は進化してゆき更に洗練されてゆきます。

 獅子のアップ。眼は翡翠がはめられているのでしょう。諏訪大社の祭神、建御名方命(たけみなかたのみこと)の母神である高志沼河姫の象徴。
『『万葉集』に詠まれた「渟名河(ぬなかは)の 底なる玉  求めて 得まし玉かも  拾ひて 得まし玉かも 惜(あたら)しき君が 老ゆらく惜(を)しも」(巻十三 三二四七 作者未詳) の歌において、「渟名河」は現在の姫川で、その名は奴奈川姫に由来し、「底なる玉」はヒスイ(翡翠)を指していると考えられ、沼河比売はこの地のヒスイを支配する祭祀女王であるとみられる[1]。天沼矛の名に見られるように古語の「ぬ」には宝玉の意味があり、「ぬなかわ」とは「玉の川」となる。』by ウィキペディア
 と書いたのですが、友人の宮彫研究家から、あれは銅板ですとのメールが来ました。緑色は緑青の様です。残念ですね。翡翠なら古代へのロマンへと繋がったのですが。

 獅子と対をなす象の木彫。獅子が怒りの象徴であるとすれば、象は喜びや笑いの象徴だったのでしょうか。象は貘である場合もあります。貘は鼻が同じ様に長いのですが、耳が立っていて体毛があります。

 同時代の葛飾北斎に影響されたという波の木彫。激流をものともせず遡る鯉が彫られている見事な木彫です。

 幣拝殿内部の両脇障子は竹に鶴。その上部にも鶴。両脇には獅子。ため息が出るような素晴らしい木彫です。

(左)家紋の五根梶。諏訪大社の神紋は、上社では四根の「諏訪梶」、下社は五根の「明神梶」とされているのですが、例外があり混在している様です。理由は武士が台頭した時代にありそうです。「諏訪氏 梶の葉紋」で検索を。(中)巫女さんがお守りを販売したり御祈祷の案内をしています。(右)数あるお守りで私が買い求めたのは、薙鎌守(なぎがままもり)。大国主命の福俵、母神沼河姫の翡翠、諏訪特産の黒曜石を組み合わせたお守りです。

 下諏訪を散策しながら春宮へ。(左)道路の真ん中にある春宮に神橋。(中)駐車場が狭く観光バスも来ないので静かな春宮。(右)高島藩御用の宮大工村田長左衛門矩重(ともしげ)作(大隅流)の幣拝殿。

 木鼻の唐獅子。その上部を飾る持送り牡丹。秋宮の獅子と象と波の木彫と見比べると、その違いが際立って興味深く観られます。当時の庶民には秋宮の立川流の方が評判が良かった様です。しかし、大隅流が常に劣っていたということではありません。このブログの二つ前の記事「名宮大工棟梁・大隅流柴宮長左衛門矩重の木彫が圧巻! 千曲市戸倉の水上布奈山神社」にある様に、ある程度抽象化された木彫は、現代美術にも通じる様なセンスとコンセプトを感じます。
 妻女山展望台で、大学でユダヤを研究していたという方と出会って話したときに、ユダヤ人の研究家を諏訪に案内したときに、諏訪大社の形態は古代ユダヤの神殿そのものだと言われたとか。また、守矢氏のことや纏わる話をすると、古代ユダヤ部族で11部族の失われたひとつが来たに間違いないと言われたとか。色々な名称や形態にその痕跡が見られるというのです。秦の始皇帝の時代に、不老不死の薬を求めて大勢の若者たちと来日し戻らなかったユダヤ系の大和朝廷の祖といわれる徐福を思い出します。全国に残る徐福伝説。秦氏、羽田氏、波多氏、畑氏、本田氏などが末裔といわれます。伊勢神宮にあるダビデの星。烏天狗など古代ユダヤにまつわるものがたくさんあるという事実。

 両社とも人のいないカットを撮影するのは非常に困難ですが、早朝から訪れることをお勧めします。凛とした空気の中で参拝や散策ができます。しかし、両社とも杉の大木に囲まれていて、花粉症でグズグズになりながらの撮影でした(涙)。ここまで来たら、次は出雲系の本社である出雲大社を参拝したいですね。大和系より先に来日した出雲系。春秋戦国時代の越に滅ぼされた呉のエリートの末裔ではないでしょうか。本殿の大国主命が西を向いているのは、故郷の呉の方向を向いているのではと私は考えています。北九州と瀬戸内に定着した彼ら。地名として呉(くれ)がそれではないでしょうか。呉服という言葉も残っています。その後入ってきた滅びた越のエリート達。いずれも故郷を失いました。越後の越がそれだと思われます。魏志倭人伝にある倭国大乱は、両者の殺し合いではないかと考えます。前述したように、その後秦の始皇帝を欺いて渡来した古代ユダヤの一部族といわれる徐福を長とした人々が渡来し全国に散らばります。大和王権の祖ともいわれます。伊勢神宮や他の神社などにもユダヤのダビデの印が見られます。

(左)春宮からはすぐに有名な万治の石仏へ浮島神社を経て行くことが出来ます。画家の岡本太郎氏が絶賛したことで有名になった石仏です。(中)正面の写真は溢れていますが後ろ姿は初めてではないでしょうか。こんなです。(右)ノミを突き刺して血が出たという痕。なんだかなあです。岡本太郎氏の発見がなければ世に出ることはなかったでしょう。

(左)撮影は午前中で終えたので下社下の山猫亭はなれへ。11時過ぎで一番乗りでした。かけ蕎麦とデザートのそばちちを注文。蕎麦はしっかり締まったもので汁はあっさりめ。(中)実は一日五食限定のデザートのそばちちが目当て。美味しかったです。鳥居前の本店よりはなれがお勧めかな。(右)花粉症が酷くなって松本へ。モンベルで買い物をして一路19号を長野へ。長男の所で次男の大学卒業祝いと就職祝いの宴会。メインは牡蠣とナメコと椎茸とネギの味噌鍋。これは絶品。後にスープを足して中華出汁を加え煮込み味噌ラーメンに。これも絶品。奄美黒糖焼酎のれんとのお湯割りを呑みながら色々な話に興じたのでした。

 最後に諏訪大社秋宮の近くの山王ホテルの脇にある春霞に煙る展望台からの諏訪湖。古代科野国の始まりがここで生まれたことを想像しながら花粉症の涙目で色々と想いをめぐらしたのでした。
諏訪大社上社の探訪記事は、『世界的に有名な建築家、藤森照信氏の神長官守矢史料館・高過庵・空飛ぶ泥舟と、諏訪大社上社前宮と本宮へ(妻女山里山通信)』をご覧ください。空飛ぶ茶室は必見ですし、高過庵は世界で最も危険な建築物10選に選ばれています。
 諏訪氏や諏訪大社、出雲氏、などについては、多くの記事を載せています。右上の検索に検索語を書き込み、ブログ内検索をプルダウンしてください。関連記事が表示されます。松代町岩野の会津比売神社も大国主命のひ孫と言われています。信州に出雲系の諏訪社が多い理由がここにあります。古代科野国は、出雲系と大和系の結婚により始まったのです。その痕跡が、千曲市森(杏の里)森にある、森将軍塚古墳(前方後円墳)と思われます。

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武田典厩信繁の墓と全国随一の大きさの閻魔大王像がある典厩寺探訪(妻女山里山通信)

2017-03-12 | 歴史・地理・雑学
 週末の午前中は、用事や買い物を済ませて武田の副将で、信玄の実弟・典厩信繁の墓と全国随一の大きさの閻魔大王像がある典厩寺(てんきゅうじ)へ。千曲川堤防の脇にあるため晴れていましたが寒風が厳しく春弥生というのに凍えながらの参拝と見学でした。

(左)松操山(しょうぞうさん)典厩寺山門と閻魔堂。(中)山門の額。拝観料200円を受付が無人なので皿に置いて中へ。(右)すぐ左手に閻魔堂。小学校低学年の遠足で訪れた時以来の訪問です。遠足の際は、そのあまりの大きさと怖さに泣き出した女子がいた記憶があります。
 頭部のみ千曲市稲荷山出身で後藤流の流れをくむ宮彫師・小林五藤(正名:小林佐太郎藤原茂高)の作。頭部のみという理由はこのの像を製作中に急逝したため。体は漆喰で、質感が異なります。また、造作も稚拙です。八代真田幸貫(ゆきつら)が川中島の戦いの8000人ともいわれる戦没者の供養のために建立したものです。宮彫師・小林五藤については、『北信濃寺社彫刻と宮彫師』の記事をお読みください。

 小林五藤制作の閻魔大王の頭部。子供が夜泣きしそうな迫力があります。閻魔は仏教、ヒンドゥー教における地獄、冥界の君主。冥界の王として十王とともに死者の生前の罪を裁く神。昔の子供たちは、嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるといわれたものです。悪いことをすると死んでから地獄に落とされるとも。

(左)左右から見るとそれぞれ表情に微妙な違いがあります。(右)天井には数多くの観音の絵。

(左)本堂。創建当時(1500年頃)は鶴巣寺(かくそうじ)と称し、合戦から60年後の承応3年(1654)に松代藩主の真田信之が武田典厩の名をとって寺号を典厩寺と改め、信繁の菩提と武田・上杉両軍の戦死者を弔ったといわれています。(中)信繁の首を洗ったという「首清め井戸」。(右)信繁の墓。真田昌幸は信繁の名を次男(真田幸村)に名付けました。

(左)枝垂れ桜のある境内。満開の際に訪れたいものです。奥に見えるのは奇妙山。(中)川中島合戦記念館。(右)入ってまず目を惹いたのは、狩野祐清の『大龍』。狩野祐清(狩野邦信)は、中橋狩野家十四代目。江戸生れ。初号は探秀のち祐清。狩野探牧守邦(鍛冶橋狩野六代目)の次男。のちに中橋狩野家十三代目永賢泰信の養子となる。天明7年12月13日生まれ。天保11年2月20日死去。54歳。号は探芳、祐清。朝鮮への贈呈屏風や江戸城西の丸の障壁画の制作などに参加。
 現在、日光東照宮の平成の大修理が行われていますが、宝暦の修理(1749~1753)に際して、それまであった牡丹唐草の絵を、狩野祐清が描き直した絵画が215年ぶりに公開されました。一般公開は未定。
日光東照宮「陽明門の壁面に宝暦年間の絵画出現」

 狩野祐清『大龍』部分図。

(左)信繁の着用した鎧の下着。(中)戦闘中に折れたという信繁の刀。(右)武田不動尊。

(左・中)信繁の鉄扇やら烏帽子やら。(右)上杉謙信の鉄扇。

(左)『甲陽軍鑑』大写とあるので木版本ではなく写本の様ですが、原本はなんなのでしょう。『甲陽軍鑑』の写本では、小幡勘兵衛が元和七年に筆写したという、「元和写本」が最も有名です。国語学者の酒井憲二氏がその研究の成果を『甲陽軍鑑大成』全七巻、汲古書院にしたためています。第四次川中島合戦の記述がある本文篇上と研究篇は、なかなか深く読み応えがあります。史料としての価値は低いという評価をくだされていたものは、主に何度も改変された江戸時代の木版本です。(中)山本勘助の宮(東福寺の小森地籍)とあります。ここは現在の南長野運動公園です。たしか敷地のどこかに現存するはずなので今度探してみましょう。(右)武田の火縄銃。長さ175センチ、重さ16キロとあります。

『永禄年間川中島大合戦之図』長野縣埴科郡松代町 調製者 佐藤袈裟治とあるのですが、いつ頃のどういう人か不明です。長野縣埴科郡は、1879年(明治12年)発足なので、それ以降のものでしょう。絵図では、武田別働隊が海津城から西条の入集落から唐木堂越を上り、鞍骨城の南を巻いて天城山方面から妻女山を攻撃した様子が描かれています。灰色が明治時代の千曲川の流路で、水色が戦国時代の推定流路です。結構的を得ていると思います。

 その妻女山の部分。右上が海津城。歴史的資料価値が高いものではありませんが、セロテープで貼り合わせて木ネジで板に止めてあるのはどうかと思います。民俗学的価値は高いので。他の展示品も玉石混交で随分と怪しいものもありますが、なにより保存状態が酷いのが気になります。真田宝物館とか歴史館とか専門の機関に移譲した方がいいのではないでしょうか。

 千曲川の堤防上から見る典厩寺全景。右奥に謙信、信玄ともに尊崇した飯綱権現の飯縄山。拙書『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林でもそのことを記しています。上杉謙信の兜の前立は飯縄権現の白虎に乗った烏天狗です。

 千曲川の堤防上から海津城(松代城)、謙信の陣所といわれる陣馬平。本陣といわれる斎場山、妻女山(旧赤坂山)方面のパノラマ写真。

(左)その陣馬平の貝母(編笠百合)も大きくなってきました。4月の中旬には咲き出すでしょう。薬草ですが毒草です。(中)林道にヌルデの虫こぶが落ちていました(左)。葉や葉軸にある種のアブラムシが寄生し、ヌルデミミフシやヌルデハイボケフシなどの虫癭(ちゅうえい)ができます。このコブを「五倍子(ふし)」といい、タンニンを多く含み、黒色染料の原料になります。お歯黒にも使われました。白く粉を吹いていますが、酸塩味があるため、信州ではこれを煮詰めて塩の代わりにした地域があるそうです。
「足柄の 吾を可鶏山(かけやま)の かづの木の 吾をかつさねも かづさかずとも」(万葉集:詠人知らず)
 かづの木(ヌルデ)を男性にたとえ、私を誘ってくださいという歌。信州の春も少しずつ訪れ始めました。

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名宮大工棟梁・大隅流柴宮長左衛門矩重の木彫が圧巻! 千曲市戸倉の水上布奈山神社(妻女山里山通信)

2017-03-05 | 歴史・地理・雑学
 最高気温が10度を超えてやっと春めいた土曜日。千曲市戸倉にある水上布奈山神社(みずかみふなやまじんじゃ)を訪れました。きっかけは、友人の宮彫研究家のブログ「北信濃寺社彫刻と宮彫師ー天賦の才でケヤキに命を吹き込んだ名人がいたー」の2017年1月30日の記事を見たことにあります。ぜひ現物をこの目で見たいと思ったわけです。買い物ついでに車を走らせました。本殿は国の重要文化財であり、諏訪大隅流柴宮長左衛門矩重 (しばみやちょうざえもんのりしげ)の見事な木彫が施されています。

 正午ちょうどに神社へ。朱塗りの鳥居越しに見る本殿が収納された覆屋。鳥居との間に神橋があります。
 その歴史ですが、1603年(慶長8年)北国街道の整備により下戸倉宿が置かれた。これに伴い、諏訪大社から建御名方神(たけみなかたのかみ:大国主命の子)を勧請し、諏訪社として創建された。1789年(寛政元年)現在の本殿が建立。1835年(天保6年)水上布奈山神社に改称。1839年(天保10年)境内に飯盛女52名による燈籠が奉納される。(by wikipedia)布奈山は、万葉仮名で現在は船山で残っており、戦国時代に名を馳せた舟山氏(船山氏)と深い関係にあります。以前、妻女山展望台で福島の船山氏と知り合ったことがありますが、先祖を調べていったら信州の船山と布奈山神社に辿り着いたと言っていました。

(左)本殿への右手、稲荷大明神の前にある燈籠は、下戸倉宿に働く飯盛女52名と旅籠屋主人が奉納したもので、台座に名前が刻まれています。飯盛女(食売女)とは宿場の宿で給仕や雑用をすると共に私娼として売春をも行っていた女性たち。(中)拝殿に参拝して裏の本殿へ向かいます。本殿は覆屋の中にあり、普段は施錠されていますが、隙間から見ることはできます。(右)本殿から拝殿方向。朱塗りの塀に囲まれています。

 覆屋の中に鎮座する一間社流造の本殿。見事な木彫が目を惹きます。

 両脇障子の上の見事な龍。(左)左の『下り龍』。(右)右の『上り龍』。諏訪立川流と比べると、堀が深く鋭く豪壮な感じで、写実性や具象性を残した立川流よりデザイン化されている意匠です。どちらも私は好きです。しかし、このインカ文明の遺物にも似たデザイン化、便化はどこでどうやって会得。あるいは創造したのでしょう。非常に興味があります。

 左右にある『海老虹梁』。非常にダイナミックな造形です。

 木鼻『獅子と獏』。獏は象だと思っていたのですが、最近これらには明確な違いがあることを知りました。鼻は双方とも長いのですが、目は象は三日月形で貘は丸く、象には体毛がなく貘にはカールした体毛があります。象の耳は垂れて大きく貘の耳は小さい。ただ当時ではどちらもほぼ想像の動物でしかなく、確実に分かって作り分けていたかは微妙なところです。

 本殿の正面。上には鳳凰。その下に二羽の鶴。

(左)左扉脇羽目の『拾得』。(右)右扉脇羽目の『寒山』。中国,唐代の隠者,詩人である寒山と拾得(じっとく)のことで、中国江蘇省蘇州市楓橋鎮にある臨済宗の寺・寒山寺に伝わる。
松岡正剛の千夜千冊『寒山拾得』久須本文雄寒山拾得は、日本人の琴線に触れるものがあるのでしょう。様々な絵師が描いています。
   一たび寒山に住みて 万事休す
   更に雑念の心頭に掛かることなし
   閑(しず)かに石壁に於いて詩句を題し
   任運なること還(ま)た 繋がざる舟に同じ(寒山)


 暖かな日で、境内では幼女が遊んでいました。二本の御柱が目を惹きます。後ろ髪を引かれつつ境内をあとにしました。

 翌日曜日は待ちに待った啓蟄(けいちつ)。土中や木の中の虫たちが這い出してくる季節の到来です。貝母の様子を見るために妻女山と天城山の中間にある陣馬平へ。(左)陣馬平の残雪もみな消えていました。(中)貝母(編笠百合)は平年並みの成長。昨年は2週間も早くゴールデン・ウィーク前に散ってしまいましたが、今年は4月20日頃に満開になると思います。(右)蕗もやっと出てきました。スギヨのビタミン竹輪とかき揚げにしましょう。

(左)陣馬平から下ろうとすると前方にニホンカモシカのシロがいました。拙書の85ページに彼女の夏毛の写真を載せていますが、まだ冬毛のままですね。最高気温が10度を越えるようになると冬毛がゴソッと抜けるので、今年は中旬頃でしょうか。(右)妻女山松代招魂社。ソメイヨシノの花芽がずいぶんと膨らんできました。黄色いダンコウバイが咲き始めると本格的な春の始まりです。

 妻女山展望台から望む善光寺平。曇っているのではなく春霞です。

 展望台から東の松代方面。確かひな祭りの人形の展示が街のあちこちで行われているはずです。あとひと月もすれば正面の奇妙山山麓の杏が咲き出します。そしてゴールデン・ウィーク頃にはあっという間に初夏へ。信州の春は短く駆け足で通り過ぎていきます。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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