モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

北アルプス大パノラマ(妻女山里山通信)

2010-01-29 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 上杉謙信が第四次川中島合戦で布陣したと伝わる妻女山(411m)。実は本名を赤坂山といいますが、その展望台からは北アルプス、戸隠連峰の大パノラマが望めます。ベストビューが得られるのは、晴天の午前中から午後一ぐらいまで。乾燥している日がベストです。ここは、江戸時代の「川中島八景」のひとつで、「妻女山秋月」といわれています。あと七つは、「茶臼山暮雪」、「猫ケ瀬落雁」、「千曲川帰帆」、「八幡原夕照」、「勘助塚夜雨」、「典厩寺晩鐘」、「海津城晴嵐」。帆船が通ることはないので、「千曲川帰帆」は、今は見られませんが…。今は、信州サンセットポイント百選に選ばれています。北アルプスが茜色に染まり、やがて群青のシルエットに変わっていく様は、一見の価値があります。桜の季節の暮色も捨てがたいものがあります。

 一番上の写真は、妻女山から天城山への途中。冬枯れの季節だけに見られる風景。西方向で、左から爺ケ岳・鹿島槍ヶ岳・五龍岳。猫の耳のような双耳峰の鹿島槍が特徴的。眼下に流れるのは、千曲川。左へ800mほど行くと雨宮の渡があります。そこが千曲川の旧流で、今よりずいぶんと南流していたことが分かります。一説には、1742(寛保2)年の戌の満水の時に、洪水の濁流が塩崎から真っ直ぐ笹崎に流れ、今の流路を作ってしまったともいわれています。

 次のカットは、清野氏の山城・鞍骨城跡(798m)からの展望。その北に連なる白馬三山。左から天狗ノ頭・鑓ヶ岳(尖った山)・杓子岳・白馬岳・小蓮華山です。一番右手前の大きな山は、神話の山・虫倉山。その手前の集落が見える丘陵は、茶臼山のある通称西山。一番手前の三角の山は、妻女山からの途中にある天城山(694.6m)です。

 三番目の写真は、鞍骨城跡東の岩場から北の展望。戸隠連峰の戸隠山・九頭竜岳・高妻山(別名戸隠富士)と右手前にどしりと大きな飯縄山(1917m)。眼下は川中島。今年の冬は雪が少な目です。日影以外ほとんど残雪は見られません。それでも1000m以上の尾根には30センチ以上の根雪があります。低山とはいえ信州の冬山には、それなりの準備が必要です。

 妻女山からの北アルプスや戸隠連峰パノラマ写真は、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】の北アルプス1をご覧ください。山座同定カットもあります。

 最後にサッカーネタをひとつ。オランダ指揮官の本音「我々にとって日本はやりやすい相手だ」は、必読。たった一試合で、サッカー日本代表の弱点を完全に見抜いています。このインタビューは、岡田監督も読んだでしょう。平山を入れ、小笠原を入れ、内田に代えて徳永を起用するのも、これを読んだからでしょうか。プレッシング・サッカーが90分続く、続けなければならないなどと思っている代表監督は、世界で岡田監督ひとりでしょう。アジア仕様から世界仕様にチームを作り替えなければいけないわけで、ベスト4などと法螺を吹いている場合ではないのです。リアリストにならなければ。
 いずれにしても、この四連戦がひとつのターニングポイントになると思います。例えば本田をトップ下で使い、中に入る癖のあるW中村(俊輔は下がる癖もあり遅攻になる)をはずして、小笠原を入れ、ボランチに遠藤と稲本か明神を入れる。実は代表で一番足の速い長谷部をサイドへ。トップは森本と平山。カメルーン相手には岡崎。欧州相手には森本。前半をしのいで後半勝負で、本名は後半投入。石川、松井も後半投入。一試合を14人で戦うという道しかないと思うのですが…。とりあえずベネズエラ戦に注目しましょう。

★妻女山については、本当の妻女山について研究した私の特集ページ「妻女山の位置と名称について」をご覧ください。
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春の兆し、日本羚羊と山蕗(妻女山里山通信)

2010-01-27 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 暖冬なのか例年なら2月の下旬以降に出る山蕗がなんと1月の下旬に出てしまいました。いくらなんでもこれは異常です。日本羚羊も暖かい日は穏やかな顔つきをしています。今年は芽吹きも早く、餌の確保も容易かもしれません。月の輪熊も例年より早めに冬ごもりから出てきそうです。

 この日本羚羊は、鞍骨城跡の主で去年も遇いました。一応こちらを警戒するのですが、話しかけながら近づくと逃げません。それでも限界距離を超えると逃げるのですが、同じ個体でも季節や状況でその距離が違います。経験上、冬はその距離が長く、初夏以降は短くなりますが、理由は不明です。また、餌を探して動き回っているときよりも、座って反芻している時の方が近くまで寄れます。

 ウシ科のせいか好奇心が強く、こちらが木の陰に隠れると覗き込んだりします。それが災いして狩りの獲物になり絶滅しかかったのです。ニクバカ、オドリジシなどという地方名は、それを端的に表現したものでしょう。縄文時代の遺跡からも骨が出るそうですから、昔から食糧としていたようです。基本的に単独で行動しますが、母子の場合は1~2年は、共に行動するようです。ただ、少しずつ別に行動するようになるらしく、単独で見かけることが多くなります。それでもたまに一緒にいることもあり、必ずしも子離れしたら絶対に会わないということでもないようです。単独で行動し始めたなと思っていた二年目の母子が、森の中で再び一緒にいるところを見たことがあります。

 今年はたぶんその子供は自分の縄張りを持つだろうと思います。一頭につき約10haの縄張りが必要だそうですから、恐らく向かいの尾根に移るのではないかと思われます。その向こうの尾根には既に別の個体がいるから無理でしょう。日本羚羊の一日はパターンがあり、朝は決まった糞場で糞をします。そして朝と夕方に餌を探し、日中はお気に入りの場所で食べたものを反芻しています。

 日本羚羊の地方名は60以上あるそうです。それだけ身近な動物だったのでしょう。それが銃による乱獲で絶滅が危惧され、特別天然記念物に指定されました。そして今では増えすぎて農林業に被害が出て困っているところもあります。そもそも自然を管理するということが不遜なんでしょうが、それでも微妙なバランスを見ながら共生の道を探っていかなければならないのでしょうね。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、地衣類、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、特殊な技法で作るパノラマ写真など。日本羚羊も。
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奇妙山バリエーションルート・アップ!(妻女山里山通信)

2010-01-24 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 清滝から奇妙山へのバリエーションルートを登ったトレッキングルポを、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にアップしました。こちらをクリックしてご覧下さい

 写真は、妻女山展望台(赤坂山)からの奇妙山です。849mの尾根の向こう側の谷を除いて、登ったルートがほぼ全て見えています。改めてとんでもないルートだったと思うばかりです。ルート・ファインディングが決め手なので、見通しのよい冬枯れの無雪期から芽吹き前までが最適でしょう。

 葉が茂ると見通しも悪くなるばかりか、藪で通れない箇所も出てきそうです。バラがある箇所もあります。また、月の輪熊の棲息地であり、目撃例も頻繁にあるので要注意。ガレ場には蝮(まむし)などの蛇もたくさんいそうです。今回は日本羚羊と猪の母子に出会いました。

 ポイントは、奇妙山下の尾根を回ってから5分のところにある階段状の崖を、鞍部目がけてひたすらよじ登ることです。ここしか取り付けるポイントはありません。

 帰りの南東尾根は、登っている人もかなりいるようで、崖にはトラロープが設置されていますが、神官像の崖はかなり高いので、初心者向きではありません。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、特殊な技法で作るパノラマ写真など。トレッキング・フォトルポにない写真もたくさんアップしました。
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清滝から奇妙山へ。悪戦苦闘の山行(妻女山里山通信)

2010-01-21 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 清滝観音堂は、信濃札所第十一番で、 仏智山 明真寺 (真言宗)より200mほど上にあります。山門を抜けて杉林を登ると観音堂が見えてきます。寺伝によると、天平年中(729~749)、聖武天皇の時代に奇妙山で霊感を受けた行基が千手観世音菩薩を掘り安置し、後に坂上田村麻呂が堂塔を創建したということです。大同年間(806~810)には、七堂伽藍が整い、二十六坊を有し繁栄したそうです。

 往古は清滝の上にあったといわれ、そのため清滝観音堂(養蚕観音)と呼ばれています。その後、滝下に移され、1822(文政五)年に現在地に建立。1837(天保八)年に焼失。1849(嘉永二)年に現在の御堂が建立されました。御詠歌は、「 清滝や 川瀬の波の 繁ければ 心静めて 頼む後の世」
 その観音堂から徒歩で15分ほど登ると清滝と阿弥陀堂があります。

 今回ここから奇妙山へ登ろうと思ったのは、往古観音堂があったという滝の上の谷を見てみたいということと、父から昭和初期に、郷土史の授業の遠足で奇妙山から清滝を巻いて下りてきたことがあると聞いたからです。実はそのルートは恐らく今回のルートとは全く別のものだろうと後で判明するのですが…。

 清滝から奇妙山への山行は、のっけからザレ場の急登で始まり、849m北の鞍部から尾根に乗ったのもつかの間、崖に阻まれます。尾根上は岩場で乗れないことが判明、延々と崖下の急斜面をトラバース(水平移動)するはめになり、山頂から延びる尾根にぶつかって行く手を阻まれた後は、40~50センチの積雪の谷を詰めることになりました。やっとの思いで谷の最上部まで行くと三方を崖に阻まれました。なんとか右手の尾根を越えると再び崖下のトラバース。高い崖がそそり立ち、主尾根にに登れそうな場所は全くありません。奇妙山山頂下を巻いて進むと、向こう側が崖の小尾根に着きました。やむなく50mほど下降して向こう側へ。登りながら横へ進むと、やがて階段状の崖場下に着きます。前方には再び高い崖。

 主尾根に取り付けそうな場所はここしかないと判断。見ると日本羚羊の足跡が上部へと続いています。ジグザグに登る日本羚羊の足跡を追いかけて崖を登ると、雪を被った主尾根が見えてきました。清滝から3時間20分あまりの悪戦苦闘の山行でした。急登と急斜面のトラバース続きでかなり脚が疲労。日溜まりの倒木に腰掛けておにぎりを食べていると、私が悪戦苦闘した崖を楽しそうに猪の母子が5、6頭ヒョコヒョコと登ってきました。あまり暖かい陽気なので、彼らも奇妙山遠足に来たのかなと思っていると私に気が付いて脱兎のごとく消えていきました。

 尾根について昼を食べて安心したのか山頂へ向かうはずが間違えて反対へ、コブ二つ目で気が付いて戻りました。山頂は、40センチほどの白銀の世界。北側の戸隠連峰、飯縄山、妙高山、斑尾山、高社山などが一望できました。帰路は南東尾根へ。雪のヤセ尾根を進むと狭い岩場へ。崖の先端に神官像が立っていますが、道はそこからトラロープを何度か使って急な崖を一気に下ります。岩の上の雪の下が凍っていて恐怖でした。ここは登りに使った方がよさそうです。

 1077mのコブで二回目のお昼。ここからは843mへ下る古いルートがあるようで、多分父が下りたのはこのコース。東豊林道で分断されてしまいましたが、昔は843の鞍部から清滝に下る山道があったのではないでしょうか。今回は、林道を調べるのも目的のひとつなので尾根を真っ直ぐ保基谷岳方面へ。やがて東豊林道の支線に出ます。あとは出発地点の清滝に向かって長い林道歩きをするだけ。林道は、清滝の反対側の山へと下りています。そこからは、歩いたルートが一望できますが、とんでもないコースであることは一目で分かります。どうりで「清滝 奇妙山」と検索をかけても、山行ルポがひとつも出てこないわけです。

 奇妙山は、行基が留錫(りゅうしゃく)した地で、臨死再生の修験の山なのです。古名を帰命山といい、一名を佛師嶽、佛師ケ嶽といいます。帰命とは、「仏の救いを信じ、身命を投げ出して従うこと。帰依」ということですね。奇妙な山ということではないのです。今回のルートは、まさにそれを感じさせるものでした。ただ、私が藪山やバリエーションルートを登るのは、藪山マニアではなく、ネイチャーフォトを撮影するためなのですが、今回はルートファインディングに忙しくそれどころではなかったのが残念でした。

★このトレッキングは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にアップしました。こちらをクリックしてご覧下さい

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、特殊な技法で作るパノラマ写真など。トレッキング・フォトルポにない写真もたくさんアップしました。
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そのあまりの美しさに誰もが振り返るという見返りの塔「国宝大法寺三重塔」(妻女山里山通信)

2010-01-19 | 歴史・地理・雑学
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 長野県上田市の塩田平から別所温泉にかけて、同じく国宝の安楽寺八角三重塔やや前山寺の未完成の重文三重塔ななど鎌倉時代の古い古刹が数多く残っています。この扇状地に二つもの国宝の塔があるのは驚きです。この地は、741(天平13)年、聖武天皇が諸国に国分寺を建立し仏教を広めた一環で、上田には信濃国分寺を建立しました。それ以前の古墳時代には、さらに北の埴科の地(森・雨宮・土口)に古代科野国がありましたが、古墳時代が終わると経済・文化の中心は上田・塩田平地域に移りました。それが自然災害によるものなのか、疫病や政変などによるものなのか、詳しくはまだ分かっていないようです。

 塩田平は平安時代までに新田開発が進み、鎌倉時代には米と麦の二毛作が行われ、相当に豊かだったようです。そして、北条氏の庇護を得てたくさんの寺院や塔が建立されました。今回訪れた「国宝大法寺三重塔」は、そんな鎌倉時代の栄華を残す名塔です。そのあまりの美しさに、誰もが思わず振り返ることから「見返りの塔」と呼ばれています。

 塔は、大正9年の解体修理の際に発見された墨書により、鎌倉時代滅亡の年である1333年(正慶二年)に建立されたことが分かっています。塔のある大法寺は、大宝年間(701~704)藤原鎌足の子上恵が開基し大宝寺と称したといわれ、平安初期の大同年間(801~810)に坂上田村麻呂の祈願で僧義真(初代天台座主)により再興されたと伝わっています。

 三重塔の構造は、天王寺から来た工匠により造営が行われたということで、当時の都の洗練された美しさを今に伝えています。三層の屋根は桧皮葺で、高さは18.56m。相輪を備え、天頂部には美しい水煙があります。初重の組物は二手先とし、裳階【もこし】(ひさしようなもの。あると四重の塔のように見える)がありません。裳階をつけずに初重内部を広くとるためだそうですが、そのため初層が大きく非常に安定感があり荘重、重厚な感じがあります。また、裳階がないためシルエットがシンプルで軽快感もあります。この造りは、他に奈良の興福寺三重塔(鎌倉時代初期)と石川県の那谷寺(なたでら)三重塔(江戸時代)だけといいます。内部には、金剛界大日如来坐像を安置しています。また、文化庁の調査の結果、国宝大法寺三重塔の一層内壁に壁画が描かれていたことが判明したそうです。これは興福寺の三重塔と同じです。

 背後の山手に登ると塔の全景が見えます。そこは北側になるので陽が差すとシルエットになり、塔の形の美しさが最も堪能できるビューポイントだといえるでしょう。そこから塩田の里を塔越しに見ると、遠い鎌倉時代の栄華が蘇ってくるような気がします。

 境内には根元から株立ちした大きな榧(カヤ)の巨樹があります。古名はカエで、転訛してカヤとなったそうです。榧の実は灰汁抜きして炒って食べられます。寺社に植えられているのも飢饉の備えという意味があったのかもしれません。また、碁盤や将棋盤といえば、榧材といわれるほど珍重されます。

 「見返りの塔」は、春夏秋冬、晴雨風雪、昼夜朝夕いずれもそれぞれの美しさがあると思います。

★「見返りの塔」を、フォトドキュメントの手法で綴るレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にアップしました。ご覧ください。
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倉科・三滝氷結(埴科里山通信)

2010-01-17 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 森と並んで杏の里として有名な千曲市倉科の奥に、三滝はあります。昨年は暖冬のため氷結しませんでしたが、今朝の最低気温はマイナス9度。三滝ではもっと下がったはずなので、これはしたかもしれないと出かけました。倉科の集落を過ぎて三滝方面へ。林道芝平樽滝線に入る手前でチェーンがかかり通行止め。ここに車を置いて歩きます。積雪はわずかですが、アイスバーンに足をとられないように登っていくと、15分ほどで三滝園地入口の広場に着きます。全面氷結とはいきませんでしたが、かなり見事に凍っていました。

 三滝は、明治の埴科郡誌に、「三瀧川は倉科村の三瀧山船ケ入に発源し御姫山より発する草山沢を合わせ倉科村を流るること一里三町にして沢山川に合す 三瀧一の瀧二の瀧三の瀧三階瀑布あり又南沢に樽瀧あり」とあります。鏡台山を水源とする三滝(みたき)は、一の滝(上段)・二の滝(中段)・三の滝(下段)で構成され、延長20mで、848mの周回遊歩道があります。一応ファミリー向けとなっていますが、高度差があり転落防止の柵もないので、幼児や老人は要注意です。また、単独や少人数のときは、冬季以外熊鈴が必携です。最近は暖冬続きで、年末まで熊が徘徊し、三月中旬には目撃例があります。冬ごもりが短くなっているようです。

 今回は、滝に沿って一番上まで登り、帰りは遊歩道を廻ってきました。積雪は10センチぐらい。氷結しているため、一の滝と三の滝は、滝の真下まで行くことができます。聞こえるのは氷の下を流れる清流の音のみ。閑寂とした清廉な雪景色の谷間で、なんとも美しい氷結の滝を存分に堪能できました。

 明治の倉科村誌には、「二の滝、高四丈三尺、幅一丈七尺、是に龍の劍摺石と唱うる石ありて、自然の穴七ツあり、俗に摺鉢と称す」とあります。川底に落ちた小石が川の流れで回転しながら川底に穴を開けた「おう穴」があったのでしょう。今は不明ですが、一の滝へのすぐ上に平らな場所があり、そこなのかなとも思えます。流れてきたゴミや石をどけると現れるかもしれません。

「三瀧山岩の苔間に住ながら思ひくらせし瀧の水かな」(西行) 
 此歌里俗の口碑にして、確乎たらず。(倉科村誌)

 三滝は、比較的水量の少ない滝なのですが、昨年の夏は多雨で、今まで見たこともないほどの水量でした。2009年8月12日の三滝・鏡台山トレッキングをご覧ください。

 帰りに、倉科入口の鷲尾城跡と倉科将軍塚古墳への登り口にある「大日堂園地」に立ち寄りました。この辺りの山に手作りの標識を立てておられる倉科のMさんから、園地に標識を立てましたという連絡をいただいたからです。ここには、万葉歌碑や舟繋ぎ石と呼ばれる、その昔に千曲川がこの辺りまで南流していた時に舟をつないだと伝わる石などがあります。山でお馴染みの標識がたくさん立っていました。全て手作りでボランティアで立てておられるのですが、鞍骨城跡などにもあり大変な作業だと思います。頭が下がります。御姫山や大嵐山に立てる際は、微力ですが手が足りなければお手伝いいたします。

★三滝から大峯山や鏡台山のトレッキングは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】でご覧ください。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、地衣類、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、特殊な技法で作るパノラマ写真など。三滝以外の滝はこちらで。
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今の代表にヒデがいたら…

2010-01-16 | サッカー
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 先日の名波選手の引退試合は、久しぶりにサッカーの楽しさを味合わせてくれたイベントでした。Jリーグの往年の名選手が一堂に会してのプレーの数々は、サッカーって見るのもやるのも本当に楽しいスポーツなんだなと再認識させてくれました。名波選手の浮き球のパスとか、ラボーナとか、オーバーヘッドにボレーシュート。魅せてくれました。本来サッカーは、play footboll,jogar futebolというようにplayもjogarも遊ぶという意味です。

 そんな中で、久しぶりに見た中田英寿のプレーは、往年のものとは違うとはいえ、今の日本代表に欠けているものを思い出させてくれました。久しぶりに彼のプレーが見たくなって探すとたくさんありました。そんなひとつがこれ。迫力のある力強いプレーに圧倒されます。スピードも結構あります。Hidetoshi Nakata in Serie A !
 忘れられないのは、ローマでスクデットを勝ち取るきっかけになった豪快なミドルシュート。

 彼の凄かったところは、その適応力。セリエA仕様に躰とプレースタイルを変えていったこと。彼は非常にインテリジェンスに溢れたプレーヤーで、Jリーグとのサッカーの違いを適格に見抜いて、躰やプレースタイルを変えました。その柔軟性は見事で、現在の欧州組で適応できないでいる選手を見ると、彼の凄さが分かると思います。今の欧州組で同じような片鱗を見せているとしたら、若くして渡欧した森本は別として長谷部があげられます。結局は、才能があれば後は適応力ということになるのでしょう。代表も同じで、チームとは別の適応力が求められるはずです。

 中田のプレーは、倒れない。たとえ倒れてもパス、シュートはする。プレスがきついからといってダラダラと下がってこない。不必要なバックパスはしない。トップスピードでドリブルしながら相手をかわせる。速く正確なパスを出せる。ミドルも果敢に狙う。常に周りを見るけれども、ひとりで勝負できるところはひとりで行く。南米すら欧州化した現在のプレースタイルではスピードとフィジカルは不可欠、判断の速さも必須。 
 彼の戦績はセリエAの歴代の名選手と比べてみても、下記のように全く見劣りしません。
ジダン    5seasons  151matchs  23goals
ベロン    9seasons  25matchs  28goals
ルイ・コスタ 11seasons 313matchs  42goals
中田英寿   7seasons  182matchs  24goals
 今現在の欧州組と比較すると、いまだに彼を抜いた選手はいないということがよく分かります。

 そんな訳で今の代表に彼がいたらと、ないものねだりをついしてしまう訳です。足元でこねくりまわすだけのプレイや、バックパスの連続、バイタルエリアの外でパス交換を延々とするサッカーでは世界に通用しないのは明白。彼なら森本や本田、長谷部達とならどんなサッカーをするんだろうと。どういう戦術が成り立つのだろうと想像してしまう訳です。森本や岡崎なら彼のキラーパスを受けられるのではないかと。当時は、彼だけ別次元にいました。それは試合を実際に見ていても感じました。これは無理だなと思ったものです。ピッチにいる他の代表選手は、それを肌で感じていたに違いありません。結果いじけてしまう選手が出てチームは空中分解。本来それをまとめるのが監督の役目なんですが、監督は若葉マーク。結果は見えていました。

 現在の代表を見ても、やはりアジア仕様の感は拭えません。現実的に下から数えた方が早い実力なんですから、それに見合ったメンバー構成とチーム作りをすべきだと思うのです。自分たちのサッカーを貫くなんていうのは強豪チームのみに許された言葉。善戦したなどという言葉のみの敗戦よりも、現実的対応であげた一勝の方が、後々のためになるでしょうし、記憶に残るでしょう。
 現代表の課題は、ワントップが機能したためしがないのによく使う。プレスが90分もたない。相手にプレスされると打つ手が無くなる。フリーでも(バック)パスを選ぶ。右サイドが確実に弱く狙われる。センターバックの足が遅い。バイタルエリアでもまずパスを選択する。相手チームが分析し、確実に狙ってくるだろう弱点に対して現実的な対応策と、そこから勝機を見出す策をたてて欲しい。

 中田の東京での代表の試合は、ほとんど見に行ったと思うのですが、複数の敵に囲まれながら脱出し、即座にピッチの対角線上にいるFWにロングパスを正確に出し、観客をオーッ!とどよめかせるようなプレイヤーは、今のところいませんね。観客はスタジアムの高いところから俯瞰して見ているわけですから、プレーヤーよりも全体が見えているわけです。その観客がどよめくのは、俯瞰しているにもかかわらず、パスを受けた選手をボールが行って始めてそこに味方がいることに気が付いたからなんですが、そのくらい視野が広かった。彼には自分の視野を高所から瞬間的に俯瞰して見る能力があるのではないかと思いました。こういう能力がどうやったら身に付くのか分かりませんが、通常のトレーニングとは違う方法が何かあるのではないかと思ったりします。

 昨今の各年代の成績やトップに上がってくる選手の層の薄さやタレント不足をみると、なにか育成方法が間違っているのではと思わずにはいられません。タレント(才能)の発掘にもっと優秀な人材を宛ててもいいんじゃないかと思います。そして圧倒的に足りないのは高レベルでの経験。文化や人種の問題にすり替えていては、日本サッカーに将来はないわけで、ブラフではなく本当にジュール・リメ杯を目指せる、獲得できるチームを本気で作って欲しいものです。生きているうちに日本のW杯優勝を見てみたい。それが日本の全サッカーサポーターの願いであるはずです。
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愛と魑魅魍魎の『新字鑑』

2010-01-14 | 歴史・地理・雑学
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 歴史を調べるときに、江戸時代や明治の古誌、古文書を調べることがよくあります。そんな時に必須なのがこの『新字鑑』です。初版は昭和14年。手持ちのものは17年刊です。編者は、漢学者の名門の家系に生まれた中国文学者、塩谷温(しおのやおん)。1878( 明治11)生-1962(昭和37)年没。東京帝国大学文学部教授を経て名誉教授に。号は節山。昔、叔父叔母が使って倉庫に眠っていたものを引っ張り出して私が使っています。かなり傷んでいますが非常に重宝しています。

 著書には、他に『支那文学概論講話』『国訳元曲選』『作詩便覧』『唐詩三百首新釈』『漢文講座』『朗吟詩選』『詩経講話』『興国詩選』『王道は東より』などがあり、中国近世の戯曲、小説を研究し、日本に紹介した人です。漢学者というと非常にお堅いイメージがありますが、彼にはこんな劇的な、エピソードがあります。

 昭和24年12月21日、「朝日新聞」夕刊に次のような見出しの記事が掲載されました。
「“古希の恋”実る塩谷温博士」「年齢こえた愛情で薄幸な元芸者と再婚」
 しかし、古希の恋には哀しい顛末が待っていました。
 昭和26年7月20日。
「塩谷夫人自殺か 散歩中急に消ゆ」
 彼が心境を詠んだうたがあります。
「君帰れ、海の中には鬼多し、とくとく来れわが懐に」
 詳しくは、こちらをお読みください。坂口安吾の『暗い哉 東洋よ』という題の文章です。いったいなにがあったのでしょう。言葉を無くします。

 本題に戻ります。明治の村誌などを読むときには、旧漢字が頻繁に出てきます。たとえば「舊跡なり」というのは「旧跡なり」ということですが、ひと文字読めないだけで全体の意味が分からなくなる場合もあるので、この『新字鑑』は、本当に役に立ちます。
 発刊時の時代を表すものとしては、附録の「支那語便覧」なるものがあります。人名の部では【勺旁】ショパン、地名の部では【亞馬孫】アマゾンなどというものです。草書便覧も崩し字辞典ほどではないものの役立ちます。

 困るのは、パソコンで変換できない文字の場合です。相互変換してくれるサイトがいくつかあるので、旧字体(旧漢字) ⇔ 新字体(新漢字)相互変換、これは 舊字體(舊漢字) ⇔ 新字體(新漢字)相互變換とできるのは便利なのですが、変換できないものもあります。手書き入力でなんとか出てくる漢字もありますが、どうやっても出てこないものもあります。こんな時はパーツを探してラスタライズ(テキストデータから画像に変換)して作字するしかありません。
 写真の鹽は塩の旧字でこれはなんとか変換できたのですが、温の旧字が出てきませんでした。よって作字しました。

 この『新字鑑』に載っている最も字画の多い漢字は、鹿3つ山形に並ぶ「あらい・そ」と読む漢字で、33画です。「一番画数の多い漢字」で検索すると、もっととんでもないものが出てきますが、実用に足るものはこの文字までなのでしょう。もっとも、鹿を三つも書くのは面倒なので通常は、麁の字で代用するそうですが……。魑魅魍魎や憂鬱、薔薇なども読めるけれどもなかなかさっと書けない漢字です。

 ちなみに木が二つで林。三つで森、四つで(林の上下に木)森と同じ意味。木が六つ、というより林が三つという字はあったようですが、意味不詳とか。林が四つ田の字に並んだ漢字もありますが、これも意味不詳だそうです。普通に考えたら「密林・ジャングル」でしょうね。国字では、雲三つの下に龍三つの「おとど」と読む84画の漢字がありますが、この要領ではいくらでも新漢字が作れます。口が八つという漢字があるそうですが、喧しいでしょうか、噂でしょうか。全く漢字の世界は、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)する妖しい世界です。

 この『新字鑑』ですが、ネットの古書店でもいくつか取り扱っています。
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奇怪な蔓植物の正体は?(妻女山里山通信)

2010-01-12 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 写真の大蛇が複雑に絡み合ったような奇怪な蔓(つる)植物がなんだか分かるでしょうか。太いものは根元が50センチもあります。見上げると太い枝から何本も絡み合った蔓が垂れ下がっています。幹に巻き付いて昇っていくのは分かるのですが、下から空中を伸びて行くはずもないので、どうやってあんな高いところから垂れ下がったのか不思議だと思いませんか。よく見ると蔓に蔓が絡み合っています。最初の蔓はどうやって高い枝に到達したのでしょうか。こんなになるまでには何十年もかかります。つまりその間全く手入れがされていなかったということです。

 この植物の正体は、山藤(ヤマフジ)です。ヤマフジは、山藤でマメ科フジ属。よく見られる藤棚の長い花穂(かすい)の藤は、ノダフジといってつるが右巻き。ヤマフジは左巻きです。ノダフジに比べて花穂が短いのが特徴ですが、5月に山で咲く美しさは格別のものがあります。ヤマフジは山菜で、新芽や若葉、花は天ぷらで食べられます。また、実は炒って食べられます。やや青臭いものの甘い甘い珍味です。

 ヤマフジが咲く5月の早朝に訪れると、樹上からヤマフジが吸い上げた水分が雨のようにポタポタと落ちてくるのが見られます。それほどに開花期は盛んに水分を吸い上げるのです。樹液はちょっと青臭い、けれども爽やかな香りがします。成長期には、つるは一日8センチも伸びます。

 ヤマフジは放っておくとどんどん太くなり、枝が増えて寄生した樹木を枯らしてしまいます。特に落葉松は、葉が小さく材も柔らかいので巻き付かれると、葉が隠れて光合成ができなくなり立ち枯れてしまいます。ヤマフジは、植林の有害樹なのです。手入れのされていない落葉松林で、樹上10数メートルのところで折れた落葉松を抱き込んでいるヤマフジをよく見かけます。樹上で切るのは危険なので根元を切りますが、いつ折れた太い枝と落ちてくるか予測できず、非常に危険です。わが家の山では赤テープを巻いて危険を知らせていますが、普通は切りっぱなしです。山菜採りなどでそういう風に切られたヤマフジを見つけたら要注意。

 とはいっても初夏に緑に染まった山に咲く白と藤色のヤマフジの花は本当に綺麗で、里山保全のためにどうしても伐採しなければならない時は、心が痛みます。しかし、ヤマフジやミツバアケビなどの蔓植物は、適度に刈り込んでやらないと健全な里山は維持できません。その加減が難しいところです。全てを切ってしまえばいいというものではありません。ヤマフジも大切な森の生物なのです。昔は木山で蔓を利用したので適度に除伐されて里山のバランスは保たれていました。
 ヤマフジが咲く5月が待ち遠しい寒い雪の信州です。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。山藤は樹木で。他にはキノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、特殊な技法で作るパノラマ写真など。動物には、猫やもぐら、ニホンカモシカの写真もあります。
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上杉景勝、直江兼続も登ったかもしれぬ古道で「鞍骨城」再び(妻女山里山通信)

2010-01-10 | 歴史・地理・雑学
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 新年最初の山歩きは、旧友N氏を伴って「鞍骨城跡」に再び登りました。ちょうど彼が手作りの醤油を持って行きたいというので、ではこちらは自家製の少納言小豆や父手作りの七味唐辛子を持って物々交換と。ついでに山でも登ろうかということになり、彼がまだ行ったことがないというので、旧埴科郡の山城の中で最大の「鞍骨城」へ行こうということになりました。

 年末は、林道倉科坂線から高圧線鉄塔巡視路を登りましたが、今回は1583(天正11)年に北条氏との決戦に備えて上杉景勝と直江兼続が陣取ったとされる赤坂山(妻女山)から鞍掛山(鞍骨山)へのルートを、斎場越などなるべく古道を辿って登ってみました。

 暖冬で林道はぬかるんでいましたが、北側はすっかり凍結しました。妻女山展望台への舗装路もカーブや日影は凍結しているので細心の注意が必要です。当日は猪狩りの猟師がたくさん入っていました。彼らが行くのは土口の蟹沢(がんざわ)方面。私達は尾根筋を行くので問題はないのですが、追われた猪が血相を変えて逃げてくることもあるので、これも要注意です。

 三つの深い掘切を超えると目の前に鞍骨城跡がそびえ立ちます。冬枯れの季節が最もその全貌を掴みやすいのでお勧めです。熊や蜂、蝮の心配もありません。積雪は10センチ弱。スパッツやアイゼンが要りませんが、雪に隠れた浮き石や、南面では厚く積もった柏の枯葉に滑らないよう要注意です。

 始めて訪れたN氏は、その山城の規模と険しさに圧倒されたようでした。また、ヤセ尾根からの展望の素晴らしさにも驚嘆していました。そこへ雨宮の唐崎城跡から登ってきたという方と遭遇。なんでも、途中で追いあげられた猪を見たそうです。下りてから猟師に聞くと逃げられて一頭も仕留められなかったとか。

 城跡の南面の帯郭でまったりと昼食の後、下山。往路に天城山の坂山古墳を見ましたが、帰路では清野古墳を見学。堂平大塚古墳のことを話すと見てみたいということで立ち寄りました。運良く古墳の持ち主のKさんが作業中でした。千曲川を見下ろすログハウスのデッキで、コーヒーをご馳走になりながらしばし歓談。山の手入れの話や古墳や歴史の話で楽しい一時を過ごさせてもらいました。

 クリスマスに鞍骨の近くで月の輪熊の足跡を見たことを話すと、去年の3月には二本松峠の先で親子連れの熊が目撃されたという情報を得ました。暖冬のためか熊の冬眠(正確には冬ごもり)が送れ、目覚めが早くなっているのではないかということが考えられます。鞍骨山に登りたいという方は、熊対策(熊鈴・笛・ラジオ・爆竹など)が必須です。鞍骨から天城山の尾根は熊の通り道で、目撃例は頻繁にあります。

 堂平大塚古墳の後は、斎場山古墳と御陵願平への斜面にある通称旗塚と呼ばれる塚を見学して下山しました。春にはY高校美術班の旧友を誘って、カタクリを愛でながら山城と古墳巡りの山行をしようと計画を立てました。

●1582年(天正10)6月、織田信長が京都で討死したため、上杉氏を攻めて、越後二本木まで侵攻していた森長可は、急遽兵をかえして、信長の弔合戦のため京へ向かいました。それを追って上杉景勝は北信濃に兵を進め、北信濃の諸士に服属を求めそれぞれの本領を安堵させます。
●海津城に入った景勝は、小県の真田昌幸や、筑摩の小笠原貞慶に備えて、陣中にあった村上源吾景国を海津城将にすえ北信濃四郡を統轄させることにし、埴科の諸士にもそれぞれ配備を行ないました。寺尾城は寺尾伝左衛門。西条城は西条治部。東条城は東条左衛門。大室城は大室弥治郎。屋代城は屋代秀正。猿ヶ馬場の竜王城は清野左衛門尉信昌にそれぞれ守らせました。
●1583年(天正11)7月、上野国から佐久郡を経て小県郡に侵入した北条氏直は、小県方面の諸士に服属を求めました。その勢の強大なのを見て、真田昌幸をはじめ祢津、望月氏など氏直に臣属を約しました。
●この時、武田氏の旧臣であった春日弾正忠は、先に上杉景勝に属して海津城将として在城していましたが、北条氏直の小県侵入によって、武田氏の旧臣の多くがこれに従ったので、真田昌幸と密かに通じ、氏直を川中島方面に引入れ景勝と戦わせ、自身は海津城から氏直に呼応して景勝に叛き、氏直に勝利を導こうとしましたた。しかし、これは事前に発覚して、弾正忠は捕えられ殺されました。このとき景勝は氏直の川中島出陣に備えて海津城を出て清野鞍掛山(鞍骨山)に陣取りし、麓の赤坂山(妻女山)にかけて御旗を立て兵を並べました。その様を見た北条軍は、驚いて一戦も交えることなく撤退したとも伝えられています。

★鞍骨城の清野氏については、「清野氏と戦国時代」をお読みください。

★このトレッキング・ルポを、【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にアップしました。
 古城巡りは、尼巌山城跡・狼煙山砦跡・鷲尾城跡・葛尾城跡・県山城跡・東山城跡などもあります。

●鞍骨城跡トレッキング・ルポ
■06/12/31 妻女山から陣場平、天城山、鞍骨城往復。
■08/12/30 象山から鞍骨城、斎場山、薬師山のルポ。
■09/01/18 鷲尾城跡から鞍骨城跡、御姫山、妻女山。
■09/03/01 倉科三滝から鏡台山、御姫山、鞍骨城跡、妻女山。別働隊のルート?
■09/04/12 妻女山から陣場平、天城山、鞍骨城、妻女山。
■09/12/25 千人窪・風雲寺・古峯神社・鞍骨城・松代城・埴科山脈パノラマ。

●古墳巡り
■08/12/13 堂平大塚古墳・斎場山古墳・土口将軍塚古墳ルポ
■08/08/10 森将軍塚古墳・大室古墳群ルポ

★また、川中島合戦と古代科野の国の重要な史蹟としての斎場山については、私の研究ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。
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真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その2(妻女山里山通信)

2010-01-08 | 歴史・地理・雑学
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その1からの続きです。

●1731 (享保16)年、松代藩士竹内軌定による真田氏史書『眞武内傳』編纂されました。

●1742(寛保2)年、5代藩主真田信安の時の大洪水「戌の満水」の後の大規模な瀬直しでは、幕府に城普請の許可を得るとともに、一万両の拝借金を許されました。そのことが松代藩の財政を逼迫させ、領民に多大な辛苦を強いることになりました。
1765(明和2)年、明和の洪水に見舞われます。
1770(明和7)年、花の丸に御殿を移します。
1783/84(天明3/4)年、浅間山大噴火。天明の大飢饉。天明山中騒動勃発。
1804(享和4/文化元)年、新堀普請。
1847(弘化4)年、善光寺御開帳の最中に善光寺大地震。犠牲者はおよそ8600人。妻女山展望台の後ろに慰霊碑があります。
1853(嘉永6)年、花の丸御殿焼失。1864(文久4/元治元)年、新御殿新築。

●幕末近くの8代藩主・真田幸貫(松平定信の次男で養子・幕府老中)は、佐久間象山などを起用して積極的な改革を行いました。黒船到来の折りには、小倉の小笠原とともに横浜の警護をまかされ、佐久間象山が赴いています。また、幕末の動乱期にはいちはやく勤皇方になり、奥州征伐などに奮戦。そのため新政府の受けがよく、明治政府で名をなした人が大勢出ました。信濃の士族で明治政府で成功した人が多いのは松代藩が第一で、次に高遠藩でした。

●1868(慶応4)年、鳥羽伏見の戦いから端を発した戊辰戦争は、信濃国飯山にも起こりました。旧徳川幕府の歩兵差図役頭の古屋佐久左衛門が、降伏に納得できず、開城に先立ち400人程の部下を率いて江戸を脱走、飯山藩に籠城。松代藩、上田藩、須坂藩、松本藩などと千曲川を挟んで戦闘となりました。飯山城下は7割が焼失したそうです。その後、信濃連合軍は、高田(新潟県上越市)の長州奇兵隊を主力とする軍、新井(新潟県新井市)の信濃連合軍、西大滝(長野県飯山市)の信濃連合軍の、合わせて3方向から北へ進撃し、長岡城の攻撃、会津若松城の攻撃などにも参加していきました。 会津若松城を大砲で攻撃したのは松代藩で、「薩長真田に大砲無くば…」と会津藩士を嘆かせた強大な軍事力でした。
 江戸時代前期に、保科正之(第二代将軍秀忠の四男・第四代将軍家綱の後見人)が第三代将軍の異母兄家光により信濃国高遠藩3万石から会津23万石に転封になり会津藩を隆盛させました。その時、信濃から家臣も会津にたくさん移っています。わが家のある祖先も同行し、後に子孫は商人となって会津藩を支えました。会津戦争は、ある面信州人同士の戦いでもあったのです。

●真田幸貫は、文武を奨励しました。佐久間象山等の進言に基づき、藩主の子弟に文武の道を奨励すべく藩校の建設を計画しましたが逝去しました。その意志を継ぎ、9代藩主幸教公が1855(安政2)年に開校したのが、この近くにある「文武学校」です。東序、西序、正堂、柔、剣、弓、槍術所などが備わり、 ここでは、武術のほか、西洋の軍学なども教えられており、極めて先進的な教育が行われていました。また、儒教を廃しており、そのため多くの藩校に見られるような孔子廟を設けていないのも特徴です。原形をとどめている藩校としては日本唯一であり、全国的にも稀に見る貴重な文化財です。

●戊辰戦争(1968年)当時、松代藩は日本有数の軍事力を持っていました。1872(明治5)年、上田城の東京鎮台第2分営より乃木希典少佐が、廃城の松代城と武器を受領すべく来迎。その時、「松代藩は大砲のみにて53門の多きに達し、他の10藩全部の兵器を合するといえども松代藩の足元にも及ばず」と言ったとされています。10代藩主・真田幸民と佐久間象山が最新の洋式装備化を進めたわけです(大砲の試し打ちで倉科の生萱から試射した弾が、一重山を超えて 満照寺まで飛んで大騒動)。しかし、戊辰戦争への参加で財政は悪化。財政再建のため、1869(明治2)年、「商法社」という会社を設立、生糸・蚕種の生産・販売、午札(紙幣)の発行を始めましたが失敗。その穴埋めをすべく増税したために民衆が決起して「松代騒動(午札騒動)」が勃発。幸民も謹慎処分になりました。その後伯爵になっています。

●1872(明治5)年に廃城となった松代城は、城内の土地・建物を順次払い下げられ、桑畑として開墾され、建物も取り壊されました。また御殿が存在した花の丸は、1873(明治6)年に焼失してしまいました。花街の人に買収された花の丸御殿が、貸座敷となるのを恥辱に思った藩士の放火ともいわれていますが不明です。松代城の建物で現存するのは、三の堀の外に建てられていた新御殿(真田邸)と、偶然にも放火前に町の有力者により移築された建物のみとなっています。
その後、本丸だけを真田家が買い取り、1904(明治37)年に公園となります。

●松代城と新御殿(真田邸)は、1981(昭和56)年4月11日に「史跡松代城跡附新御殿跡」として国史跡に指定されました。長野市では1995(平成7)年から松代城環境整備事業として、総合的な史跡環境の保全と活用を目指し、門の復元、石垣の修復、堀・土塁の再現等を実施しており、平成16年春より一般公開されています。また、新御殿も2004(平成16)年度から本格的な整備工事が開始されており、完成が待たれるところです。

●1926(昭和元)年に江戸時代に松代藩の藩庁となった建物が、神奈川県藤沢市の江ノ島の近く、龍口寺の大書院(通称:養蚕御殿)として移築されています。また、関東大震災にも無事であった江戸中屋敷が、長野県佐久市野沢の中島公園に移築されましたが、現在は県内丸子町のホテル天竜閣裏に移築されています。

●地元では、昔は松代城と呼ばずに長らく海津城と呼んでいました。城内にある大正10年建立の石碑にも「海津城址」と記されています。大正10年といえば、まだ幕末生まれの人もたくさんいました。もしかしたら、軍備増強に奔り、戊辰戦争への参戦で藩の財政は破綻寸前となり、結果として松代騒動の原因を作った真田幸教・幸民への反感もあったのかもしれません。今は、そんな慌ただしい明治維新が遠い幻のように思えるほど静かに佇んでいます。(『埴科郡誌』『清野小学校開校百年誌』等より引用編集)

 その1の前文とかぶる部分もありますが、もう少し詳しく。古名の海津の由来ですが、諸説あるそうです。津は港という意味ですが、海もないのになぜ海の港なのでしょうか。港はここが、千曲川の緩流域であり川船の港があったからということです。海は、大昔この善光寺平が海、あるいは大きな湖だったということからともいわれています。近隣の山には塩分を含んだ土や石を産するところがあります。
 また、別の説もあります。鎌倉時代に東條氏の御安御前が梅津という一女をもうけ、その梅津は須田氏の妻となり、須田氏が東條を継ぎました。その名にちなんで梅津の地名が生まれ、後に梅が転訛して海となり海津の地名となったともいわれています。近隣の寺社の縁起等に記されて伝承されているそうです。

 さらに古くは、「海津」という名称は、大国主命の子で諏訪大社の祭神・健御名方命(たけみなかたのみこと)の子で皆神神社の祭神・出速雄命(いづはやおのみこと)の「いづ」、あるいはその娘で、妻女山の麓にある会津比売神社の祭神・會津比賣命(あいづひめのみこと)の「あいづ」からきているという説があります。出速雄命の「いづ」は、当然出雲の「いづ」と関連があるのでしょうね。會津比賣命は、科野国造・建五百建命(たけいおたつのみこと)の妻です。『日本三代實錄』によると、會津比賣神は貞観八年(866)六月に従四位下を、出速雄神は貞観十四年(872)四月に従五位上を、元慶二年(878年)二月に正五位下を授くとなっています。娘の方が官位が高いのは、科野国造の妻となったからでしょう。父娘ともに、この地の産土神(うぶすながみ)といわれています。

 『松代町史』によると、貞観当時の埴科郡の大領は、諏訪系統の流れを汲む金刺舎人正長であったため、産土神としての両神社の叙位を申請したものと思われるということです。その金刺舎人正長は、貞観四年(862)に、埴科郡大領外従七位を授かっています。
 しかし、その後平安時代の延長5年(927年)に編纂された延喜式には、皆神神社、會津比賣神社共に載らない式外社となっています。金刺氏の権力の失墜や委譲に伴って神社の格式が落とされたのかもしれません。その後、戦国時代に皆神神社、會津比賣神社は上杉謙信の庇護の下にありましたが、本陣となった斎場山(御陵願平)にあったともいわれる會津比賣神社は、敵将武田信玄の兵火にあい、その後麓に小さく再建されたと伝わっています。

 松代という名称は、聖徳元年(1711)真田三代藩主幸道の時に松城が松代城と改名されてからですから、わずか300年ほど。それ以前に海津と呼ばれていた時代の方が、おそらくずっと長いのです。明治の廃藩置県の折には、町名を古名の海津に戻すべきだという意見もあったといいます。

 真田というと、世間ではいわゆる真田三代、幸隆、昌幸、幸村(信繁)を思い浮かべる人がほとんどだと思うのですが、昌幸の長男信之がいればこその真田松代藩といえるでしょう。今年は松代城開城450年祭が催されます。
 我が家の祖先は林太郎左衛門といい真田昌幸に使えた50騎ほどの騎馬隊を束ねる武将でした。息子は林源次郎寛高といい真田信繁(幸村)の7人の影武者のひとりで大阪夏の陣で討ち死にしたと伝えられています。その後生き残った7人で某所に林村を作ったとか(松本里山辺の林集落か。不明)。そのうちのひとり、林采女が真田の松代に移り住み帰農したと伝わっています。私がホームフィールドとしている川中島の戦いの舞台となった妻女山麓の集落は、そんな激動の戦乱を生き延びた家ばかりなのだろうと思います。川中島には、「七度の飢饉より一度の戦(いくさ)」という言葉が残っています。度重なる飢饉よりもたった一度の戦の方が嫌だという重い言葉です。戦争は絶対悪です。正しい戦争など絶対にありません。

★写真は、城内から見た戌亥隅櫓台と、櫓台の西向こうにそびえる上杉謙信の本陣と伝わる斎場山(旧妻女山:513m。現在の妻女山から右の林道を登って20分位)。妻女山(さいじょざん)は、本来は斎場山(さいじょうざん)といい、古代科野国の斎場(祭祀を行う神聖な場)であったといわれています。『信濃宝鑑』 には、妻女山を、まことは斎場山というと記されています。

武田別働隊が辿ったとされる経路のひとつ、唐木堂越から妻女山への長~い長~い尾根を鏡台山から歩いたトレッキング・フォトルポをご覧ください。物好きしか登らない戸神山(三滝山)も登っています。
★フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】には、斎場山、妻女山、天城山、鞍骨城、尼厳城、鷲尾城、葛尾城、唐崎城などのトレッキングルポがあります。
★妻女山の詳細は、妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。
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真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その1(妻女山里山通信)

2010-01-06 | 歴史・地理・雑学
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 まず、松代の古名である海津についてですが、『松代町史』(上巻)第二節には、この地の産土神(うぶすながみ)と伝わる皆神山にある皆神神社(熊野出速雄神社)の祭神で、諏訪の健御名方命の子でこの地の開拓を任じられた出速雄命(伊豆早雄)と、その御子である斎場山(旧妻女山)の麓にある会津比売神社の祭神・会津比売命(出速姫神)の、会津(あいづ)または出(いづ)が転訛して松代の古名である海津となったという説が記されています。
 会津とは、崇神天皇10年9月9日、崇神天皇の伯父大彦命(おおひこのみこと)を北陸道へ、その子武淳川別命(たけぬなかわ わけのみこと)を東海道へ遣わせた。日本海側を進んだ大彦命は越後から東に折れ、太平洋側を進んだ武淳川別命は南奥から西に折れた。二人の出会った所を相津(會津、会津)という。『日本書紀』
 相津と想定される会津坂下町青津。能登南部からの移住者を想定される弥生時代終末期の男壇遺跡・宮東遺跡があり、亀ヶ森古墳等がある。(会津学研究会サイトより引用)
 會津比賣神は、貞観八年六月に妹の草奈井比売命と共に従四位下を授かっています。
 その後、出速雄神は、貞観十四年(872年)四月に従五位上に、元慶二年(878年)二月に正五位下を授くとなっています。『日本三代實錄』


 松代城(海津城)お膝元の長野市松代町の小中学校では、運動会に「真田節」を踊ります。中学校の時も白い鉢巻をして白扇を持ち踊りました。真田まつりに訪れると城跡や街に「花な~らば~、花な~らば~」とか「仰ぐ不滅の至誠こそ 燃える真田の心意気」などという歌詞の真田節が流れ、踊りも見られます。

 その整備された松代城址ですが、昭和40年頃は海津城址と呼び石垣以外はなにもない寂れた古城でした。たしか城内に檻があって近隣の山で捕らえられた月の輪熊が一頭、手持ちぶさたにグルグルと狭い檻の中を廻っていました。フリークライミングよろしく石垣をよじ登って遊んだものです。

 海津城の起源については、清野村誌の記述により清野氏という説があります。
●清野屋敷・禽(とり)の倉屋敷
 村の北の方、字中沖にあり。往古本村領主清野氏数代之に居す。年月不詳。清野某海津に移り、該地に倉庫を建つ。此時より禽の倉屋敷と称す。天文、弘治中、清野山城守武田氏に敗られ、越後に逃走するに及び武田氏の有となり、天正十年三月武田勝頼滅び、織田信長の臣森長可の有となり、六月信長弑せされ長可西上するに至り、七月上杉景勝の所有となり、某幕下清野左衛門尉宗頼、該地に移り居住すと言ぅ。管窺武鑑に七月四郡(埴科・更級・水内・高井)上杉景勝の有となり、清野左衛門尉を、猿ケ馬場の隣地、竜王城に移とあり。一時此処に居せしか不詳。後真田氏領分の時に至り寛永中焼亡す。後真田氏の臣高久某此域に居住し、邸地に天満宮を観請す。弘化二乙己四月村民清野氏の碑を建つ。(清野村誌)

●清野氏について(清野氏については、「清野氏と戦国時代」をお読みください。)
 清和天皇の皇子貞純親王五代の後裔仲宗は京都の院の庁に仕え、殿上人として栄えていたが、白河上皇の関する事件で、仲宗は讃岐へ、子の惟清、顕清はそれぞれ伊豆、信濃に流された。顕清の弟盛清は惟清の養子となり、顕清の子の為国は信濃国村上郷に住み、為国の子惟国が清野に住み清野氏と称したという。(埴科郡誌)
 関東管領の職についた上杉憲実は伊豆にいたが、幕命によって鎌倉に入り、弟の清方と上杉持朝に命じて結城城攻撃に当らせ、自らも兵を率いて鎌倉を発した。
 憲実は信濃守護小笠原正透に陣中奉行を命じた。正透はこれにより信濃国中の諸士を三十番に分かち、陣中の取締りや矢倉の番をさせた。この中に、屋代、雨宮、生仁、関屋、寺尾、西条氏等があった。こうして正透らの攻撃により結城城は落城した。1441年(嘉士口元)のことであった。清野氏は永寿王を送り届けると、清野へ帰ったようであるが、その後の行動については詳らかでない。その頃の足利尊氏以来の年初恒例の射場始めの射手選びとか、諏訪社の流鏑馬や御射山頭役などに屋代氏、村上氏などが見えるが清野氏の名は見あたらない。
 1467年(応仁元)清野正衡は入道して徳寿軒といい鞍骨城を築き、後1510年(永正年間)頃同城の鬼門除けに離山神社を創建したという。
 1488年(長享2)清野氏(正衡の頃か)諏訪社の下社秋宮宝殿造営の郷と定められている。
 1495年(明応4)清野伊勢守長続(伊勢守国基か)の頃、英多庄(松代、東条、西条、豊栄)を支配していたことが記されている。16世紀のはじめ(国俊の頃か)節香徳忠和尚を請し森村に禅透院を建てた。
 1540年(天丈九)武田信虎は信濃国を攻略しょうと始めて佐久郡に攻め入り、小県郡毎野棟網を攻めた。海野氏は敗れて棟綱と子の幸隆は上野国に逃れ、関東管領上杉憲政に頼った。憲政は武田氏の勢力を佐久地方から排除し、海野氏を故地に還してやるために兵三千を率いて佐久に攻め入った。村上義清はこれを聞くと直ちに諏訪頼垂と武田暗信に急報し救援を求めた。諏訪頼重はさっそく兵を率いて小県郡に入り上杉陣に対した。しかし義清、晴信は頼重を助けようとしないので、頼重は単独に憲政と講和しそれぞれ領国に帰った。晴信は頼重が単独講和したことを怒り、諏訪郡に入り頼重を攻め滅し、続いて伊那、筑摩方面を攻めてこれを征服した。 (埴科郡誌)

●信州に進出した武田信玄は、上杉謙信の攻撃に備え、山本勘助に命じて1560(永禄3)年頃に「海津城」(後の松代城)を完成させたようです。『甲陽軍艦』には、1553(天文22)年に山本勘助が構築したとありますが、当時この辺りが武田氏の勢力下にあったことはなく、1555(弘治元)年影虎、晴信が長く対陣した際にもこの城を利用した記録はないそうです。ただこのすぐ後に、北信濃攻略の足がかりとして清野氏館跡に目をつけ「海津城」を築城したものと思われます。
信玄は重臣・高坂昌信(香坂弾正虎綱)を完成した「海津城」に置き、上杉謙信に対峙しました。第四次川中島合戦ではここに本陣を置き、有名な啄木鳥(きつつき)戦法で戦ったといわれています。啄木鳥戦法は、江戸時代の命名です。確認された史実ではありません。啄木鳥戦法については、「啄木鳥戦法の検証」をお読みください。
1578(天正6)年高坂昌信が没すると、春日信達が二代目の城将となります。

●武田氏滅亡後、1582(天正10)年、織田信長の部将・森長可が2ヶ月のみ在城。しかし、信長の急死(同年)により、芋川氏らの一揆により、京に逃げ帰らざるを得ず手放します。
本能寺の変後は上杉景勝の領するところとなりました。
上杉方の春日信達(武田氏の旧臣・春日弾正忠)が治めましたが、北条氏への内通の嫌疑を掛けられ上杉景勝に殺されました。
北条氏直の小県侵入で、武田氏の旧臣の多くがこれに従ったので、春日信達は真田昌幸と密かに通じ、氏直を川中島方面に引入れ景勝と戦わせ、自身は海津城から氏直に呼応して景勝に叛き、氏直に勝利を導こうとしました、しかしこれは事前に発覚し。弾正忠は捕えられ殺されました。このとき景勝は氏直の川中島出陣に備えて海津城を出て清野鞍掛山(鞍骨山)の麓赤坂山(妻女山)に陣したとも伝えられています。
すると上杉景勝は村上義清の子、国清(景国)に任せました。
しかし、1584(天正12)年に国清の副将屋代秀正が家康に内通して出奔したため罷免されます。
そして景勝の一族・上城宜春(義春・宣順)が入りました。
しかし、秀吉が景勝に人質を要求したため景勝は妹婿である上条義春の子を人質に出すことにし、その代りとして義春の諸役をゆるめ、海津城将としての勤務を免除しました。義春の後役として、景勝は越中国に在陣していた須田相模守満親を城将としました。
1585(天正13)年から入った須田満親は、1598(慶長3)年までと比較的長く治めます。

●1598(慶長3)年、上杉景勝が秀吉の命で会津移封となり、この地方が豊臣秀吉の蔵入地となると、田丸直昌が海津城主に封ぜられました。
このとき景勝の分国であった北信濃四郡には、海津城に須田相模守満親、長沼城に島津淡路守忠直、飯山城に岩井備中守信能、牧島城の芋川越前守親正らが在職していましたが、これらの諸将にはそれぞれ会津藩の新領地に配置を定め、その他の地士たちにも、謙信以来の勲功に報ゆるために、それぞれ高禄を給しました。
このとき海津城将だった須田満親には二万三千石、清野助次郎長範には一万四千石、その他西条氏、寺尾氏、大室氏らも優遇して禄を給せられています。 北信濃四郡からは、この地の地名を有する土豪とその家臣が全ていなくなりました。須田満親は、上杉氏とともに国替えで会津に行った後になぜか自害しています。

●豊臣秀吉から徳川家康へと政権が移り、家康は1600(慶長5)年に森長可の弟忠政を入れます。忠政は「海津城」を改修し、兄の長可が自分が来るのを待っただろうと「待城」と改名したのですが、領地に過酷な総検地を行ったため農民の恨みを買いました。度重なる出陣や城の改修で家臣への俸禄が充分に払えず、上田の陣では、足軽たちが暇を請うという事態に発展、家老・林為忠が自らの具足櫃から俸禄を出して引き留めたといいいます。(先代実録)
1603(慶長8)年、森忠政が美作へと加増転封されると、家康の六男・松平忠輝の領地となり、「松城」と改名されました。
1610(慶長15)年、花井吉成。1613(慶長18)年、花井義雄。1616(元和2)年、松平忠昌。1618(元和4)年、酒井忠勝。と城主が転々と代わります。
1622(元和8)年に徳川秀忠の命で上田城から真田信之が移封され、1711(宝永8/正徳元)年、孫の幸道のときに「松代城」と改名されました。以後明治まで10代真田氏十万石の領地となりました。真田信之の霊屋は、城の西方の長国寺にあり、破風の鶴は左甚五郎作と伝えられています。

★写真は、城内から見た太鼓門と太鼓門表門(橋詰門)から見た武田別働隊が越えたとされる戸神山脈。

その2へ続きます。江戸時代から明治へ。
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斎場山古墳(妻女山古墳)の謎(妻女山里山通信)

2010-01-03 | 歴史・地理・雑学
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 展望台や妻女山松代招魂社があり、国土地理院の地形図にも記載されている現在の妻女山(411m)は、地元の人も妻女山と呼んで久しいのですが、正しくは赤坂山といいます。暮れに鞍骨城跡に登った時に出会った清野の古老も、会話の中では赤坂山と呼んでいました。妻女山は、小字名です。

 では、本来の「妻女山」はというと展望台から左後方、南西に見える赤松の生える丸い頂なのです。但し、「妻女山」は江戸時代に作られた俗名で、本名は「斎場山」といい、山頂には二段の墳丘裾を持つ円墳があります。清野小学校百年誌では、「妻女山古墳」として下記のような説明があります。

 【妻女山古墳】
 土口将軍塚古墳東方五◯◯m余りの地、標高五一二mの山項にあって、山下の平地からの比高一五〇m余の高地にある円墳である。規模は径二五.六m、高さ五m余りの大円墳で、既に盗掘の簸にあったらしく墳墓の中心に南南東方向に、長さ五m、幅約二mの凹地ができていて、主体部の盗掘壙であることが明瞭である。墳丘裾は二段となり、周囲をめぐって設けられている。主体部の構造については不明であるが、盗掘壙の状況から察すると、縦長のもので、壁石の取りあげたものの散乱のないところから、粘土郭ではなかったかと考えられるが、詳細は不明という外ない。遺物については伝承もないので、これも全く不明である。
 里人伝えて「両眼塚」という。

 この斎場山山頂の標識には、「五量眼塚古墳」と書かれていますが、これは土口の俗称で、この山頂には他にも「御陵願塚」「竜顔塚」「両眼塚」「床几塚」「謙信台」などたくさんの俗称があります。「床几塚」と「謙信台」は、川中島合戦の折りに、この古墳の墳丘上に床几を据えて、海津城をはじめ武田方の動静を望見したと伝えられることからの呼び名です。古墳の西側には少しずつ小さくなって七基の塚が並んでいます。昔は48~49基の塚が確認されたようです。
 現在の妻女山にも、後記の土口村誌に「赤坂[祭場山北の一尾也]に在り。」とあるように、古墳があります。どちらも同じ「妻女山古墳」では混乱が生じます。そこでここは本来の山名から【斎場山古墳】と呼ぶのがいいだろうと思います。

 岩野村誌の記述。
【齋場山】祭祀壇凡四十九箇あり。皆円形なり。故に里俗伝に、此地は古昔国造(くにのみやつこ・こくぞう)の始まりより続き、埴科郡領の斎場祭壇を設けて、郡中一般袷祭したる所にして、旧跡多く遺る所の地なりと、確乎たらず。

 また、土口村誌の記述。
【齋場山】[又作祭場山、古志作西條山誤、近俗作妻女山尤も非なり。岩野村、清野村、本村に分属す]の山脊より東に並び、峯頭の古塚[或云ふ是塚にあらず、祭壇中の大なるものにて、主として崇祭たる神の祭壇ならんと云ふ]に至り、又東に連なり、南の尾根上を登り又東に折れて折れて清野村分界に止む。凡四十八個の圓形塚如きもの有り、俗に旗塚と云ふ。又四十八塚と云ふ是上古縣主郡司の諸神をこう祭したる斎場祭壇にして、之を掘て或は祭器、古鏃(やじり)等を獲るものあれども、遠く之を望めば累々と相連なり、其かづ数えふ可く、相距る事整々として離れず。必ず一時に築く所にして、墳墓の漸次員を増たるものにあらざるなり。是齋場山の名ある所以なり。
【古塚】村の北の方にあり。一は前條将軍塚(土口将軍塚古墳)の束数十間、北山の峯頭にあり。其ち圓にして裾二段級有り。其形山陵志に所謂、十代内の山陵に似て小なり。然れば前條の墓より尚古く、殆ど太古の者と云うべき歟(や・か)[或云ふ是は墓にあらず、祭壇場ならんやと云へり]此外に三塚有り。一は祭場山長尾根の道の左に有り。一は赤坂[祭場山北の一尾也]に在り。是も亦将軍塚と称す。一は祭場山の東南隅に在り。此二塚今清野村に属す。(注:古塚とは斎場山古墳のこと)

 「斎場山」は、袷祭の場として後に「祭場山」とも書かれたことが分かります。『甲陽軍鑑』の「西条山」は完全な誤り。これは松代藩の古誌にも見られます。また、松代藩が改名命名したと思われる「妻女山」は最も非なりと否定していますが、これは本来の意味とかけ離れてしまい読みも「さいじょうざん」と「さいじょざん」では違ってしまうからでしょう。

 この古墳の成立年代は7世紀頃といわれています。ちょうど百済が660年に滅びて、それ以前から多くの渡来人がこの北信濃にやってきた時代と重なります。斎場山の谷を挟んだ南には堂平古墳群という渡来人のものともいわれる積み石塚古墳群がありますが、それとは様式が異なっています。積み石塚古墳は、ツングース系の騎馬民族、高句麗様式といわれています。現在の半島の人とは人種が異なります。高句麗は紀元前100年頃にできて、何度も古代の中国に攻められ、688年に唐と新羅に滅ぼされました。そのため多くの豪族が来訪し帰化しました。4世紀中頃から、当地の古墳からは馬具が大量に出土し始めます。それは高句麗の人々が持ち込んだ文化なのです。大きな歴史のうねりを感じさせます。

 701年に大宝律令が制定されて中央から派遣された国司や郡司が政治の中心になり、地方豪族の国造りは祭祀専門の名誉職のようなものになります。古墳築造禁止令(薄葬令646年)もあって、古墳は造られなくなりました。斎場山古墳の西に連なる、いわゆる旗塚は薄葬令以降の県司、郡司の墳墓ではないかと私は考えています。
 斎場山古墳は、三世紀の古代科野国の大王の墳墓・森将軍塚古墳から五世紀中葉の土口将軍塚古墳の後の、この地の大和王朝から国造に任命された豪族の最後の古墳かもしれません。あるいは、粘土郭かもしれないとありますが、薄葬令によって築造中止になったのかもしれません。また、展望台奥の赤坂山古墳についても土口村誌以外に記述がなく、これも謎に包まれています。

★川中島合戦と古代科野国の重要な史蹟としての斎場山については、私の研究ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。

★古墳のルポは、【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にいくつかあります。

★古墳の写真は、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】の「信州の低山2」をご覧ください。
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謹みて新たな年を祝うべし(妻女山里山通信)

2010-01-01 | 歴史・地理・雑学
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 初詣に妻女山松代招魂社へ。麓の會津比賣神社には参拝者がたくさん訪れるのですが、赤坂山にある妻女山松代招魂社にはほとんど訪れる人がいません。それでも昨年は二年参りに息子達と訪れたところ、何組かの参拝者がいたのですが、今年は車の轍もなく足跡もなく、だれもいませんでした。こんなところでも明治は忘れ去られようとしています。

 下の12月21日の記事でも書いたように、明治の暁を見ることなく散った松代藩の男達52人が祀られています。同様にそれ以上の兵や民間人が会津などで犠牲になっています。その上に明治の暁が開けたわけです。さらには、日清日露戦争以降の戦没者も慰霊されているのですが、基本的に軍人のみで民間人は慰霊されていません。この辺りは靖国神社もそうですが、民間人も追悼の対象としていかなければ、自国の戦争を正当化するだけのものと言われても仕方がないわけで、藩や国境を越えた友好と和解の道は永遠に閉ざされたままになるでしょう。

 思想や宗教とは無関係の戦没者慰霊を考えていかなければ、ならない時期に来ているのでしょう。寂れていく妻女山松代招魂社は、そういう意味では極めて自然な成り行きなのかもしれません。世界平和が訪れることを祈り、再び子供達を戦地へ送ることなどないように、努めていかなければと思うのです。

 「白銀の 梢に消ゆる 志士の声」
 「寥亮(りょうりょう)と  積む雪に沁む 鵯(とり)の声」  林風

◆妻女山がいかに政治的軍事的に利用されてきたかを知るには、「妻女山:有名人訪問年表」をご覧ください。明治以降、実に多くの皇室関係者、軍関係者(「坂の上の雲」にも登場する伊藤博文、東郷平八郎や、後には後藤新平なども)、戦後は自衛隊などが訪れています。桜と夕日の名所で、春は近隣の小学生の遠足の目的地でもあります。

「新年は、天皇杯見てラディツキー行進曲かな」字余り
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