モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

散歩のついでに古本屋

2007-06-26 | 歴史・地理・雑学
日曜日、隣の駅まで息子達とラーメンを食べに行きました。帰りに国分寺崖線のところで、長男と別れて私と次男は買い物に商店街へ。雨模様にもかかわらず、結構な人出。買い物を済ませて帰ろうとして、思いついて馴染みの古本屋に寄りました。

いつ見ても顔色の悪い無愛想な兄ちゃんいる「ツヅキ堂書店」てんですが、なかなか面白い本が見つかることがあるのではずせないんです。出版不況で、駅前の大型書店や線路脇の古書店が次々と閉店する中、けなげに頑張っている今やヤンバルクイナぐらい貴重な店なのです。

場所柄、大江健三郎氏や文学者、作家などが多いせいか、かなりディープな本が並ぶこともあるのです。この頃私が行くのが、入って右側の奥まったところ、歴史コーナーです。今回ここで見つけたのが写真の「画報 近代百年史」なるもの。以前神保町で見たことはあるのですが、その時は生物学やアマゾンの本ばかりあさっていたのでさして気にも留めずにいました。

家族の歴史好きにつられて、あるいは大河ドラマの「新選組」や「風林火山」ブームで、遅まきながら私も歴史に興味を持つようになりました。神奈川、山梨、信州の低山トレッキングでも、歴史的遺構に接することが少なくないので、それも興味を持つきっかけになったと思われます。

さてその「画報 近代百年史」ですが、近代日本史研究会編集で(株)国際文化情報社により1956年刊行。いわゆる近代史の写真と絵図と記事をスクラップしたグラフ誌です。江戸末期、ペリー来航からの絵や写真が、レイアウトなんてものではなくゴチャゴチャと並べられていて、キャプションがふられているのです。

ペリーが、おもちゃの機関車を持ってきて、侍が嬉々としてそれに跨ってグルグルと回ったとか、ペリー一行が一番驚いたのは、日本の混浴だったとか、咸臨丸の福沢諭吉が、米国の写真館で美しい少女と記念写真をないしょで撮り、帰りの船中でみんなに披露して悔しがらせたとか、歴史の教科書には絶対に載らない面白い話が写真や絵と共に掲載されています。

もちろんそれだけではなく、戦争へと突き進んでいく日本の姿や、汚職まみれの日本の近代史も掲載されているわけで、そういう意味でも貴重なグラフ誌といえるでしょう。それと「上杉謙信」の本を買ってきました。長男の試験が終わったら、神保町巡りをしようかと計画しています。
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本当の妻女山と陣馬平(風林火山のブームの陰で)【妻女山里山通信】

2007-06-05 | 歴史・地理・雑学
大河ドラマ「風林火山」で再び脚光を浴びている川中島ですが、その地元、上杉謙信が布陣した妻女山の麓では、ちょっとした騒動が持ち上がっています。それは、招魂社のある標高411mの山が本来の妻女山ではないからです。国土地理院の地形図にもはっきりと妻女山と記載されているのですから、疑う人はまずいないでしょう。しかし、ここは本来赤坂山といい、妻女山ではないのです。

招魂社は、清野村誌には、「東西十四間五尺七寸、南北二十五間、村の西の方、妻女山の中腹にあり。岩野村に跨(またが)る。」とあります。つまりここは妻女山の頂上ではないわけです。正しくは、赤坂山なのです。
では、どこが本当の妻女山かというと、これより15分ほど登った土口が見える峠から、さらに西へ100mほど登った古代科野国の斎場山古墳がある標高512.8mの山を妻女山、あるいは斎場山と古来よりいいます(二段の墳丘裾がある円墳)。地元で上杉謙信の本陣と伝わるのは、この山頂なのです。

 このことは『信濃宝鑑』をはじめ、岩野村誌や土口村誌にも記述があります。古墳時代に神を斎(いつき)祀った処として斎場山→祭場山→妻女山となったという説もあります。第四次川中島合戦では、上杉謙信が古墳上に床几を敷き本陣としたことで、古来より地元では「床几塚」、「謙信台」とも呼ばれています。また、斎場山こそが本来の名前で、妻女山は俗称にすぎないということが村誌には書かれています。西条山という記述は、「甲陽軍鑑」によるものですが、これは斎場を西条と誤記したのでしょう。戦国時代において、口述筆記の際には読みが同じであれば、字の間違いはあまり気に留めなかったようです。地元では西条は、にしじょうと読みさいじょうと読むことはありません。また、清野氏のこの山を、配下の西条氏が治めたという記録もないと思います。

 ではいつなぜ「赤坂山」が「妻女山」と改称されたのでしょうか。これはあくまで私の推測ですが、招魂社の造営が関係しているのではないかと考えます。岩野と清野の村民にとって赤坂山を改称する必然性やメリットは全くなかったと思います。しかし、招魂社をここに建てた松代町にとっては、「赤坂山招魂社」ではなんとも格好がつかないと考えたのではないでしょうか。そこで歴史ある「妻女山(斎場山)」の名をとって「妻女山招魂社」としたのではないかと思うのです。案内には「ここ妻女山を赤坂山ともいう」という説明もありますが、これは逆で、赤坂山を妻女山と改称してしまったのです。

 松代藩主だった真田家の意向も働いたと思われます。当時は、民主主義ではありませんし、まだ武家政治のなごりもあり、殿様が伯爵となっても、その権威は地域にとって絶対的なものがあったと思われます。また、改称といっても悪意があってのことではないので、反対する理由も無かったでしょう。後に歴史的な考察に大混乱を引き起こすことなど考えられなかったのでしょう。真田伯爵は、清野小学校に多大な寄付をするなど、岩野、清野村民にとっても敬意を表すべき対象でした。赤坂山を妻女山としたところで、自分の土地が無くなるわけでもなく、反対する者はいなかったのではないでしょうか。

 しかし、ここを妻女山としたことで、いつしかここが第四次川中島合戦の本陣となり、陣馬平と呼ばれるようになってしまったのです。この山に土地を持つ岩野の旧家では、赤坂山と斎場山のことが語り継がれてきましたが、地元でも老人を除くと多くの人は、もはやこの事実をあまり知りません。ただ歴史家の中には、ここを赤坂山と気付いた人は少なからずいるようです。しかし、相変わらずここを陣馬平と記述していたりします。そうすると、つじつまの合わないことが起きてくるのです。こんな狭いところが陣馬平かと疑問を投げかける歴史家が多いのは当然です。ここは赤坂山であり、招魂社と今の駐車場ができる前は平地など無かったと聞いています。

 古文書を読むと、陣馬平の北西に本陣がありとか(山はありません。長芋畑の真ん中になってしまいます)、南西に兵を隠した千人窪がありとか(斎場山の東北の斜面で千人も隠れられる窪地はありません)などなどつじつまの合わないことだらけになってしまうのです。それを、地元で伝えられてきた陣馬平に当てはめると、全てが正しく符合するのです。地元で伝わる陣馬平は、招魂社より天城山(てしろやま)方面へ25分ほど登った標高500~530mの緩い傾斜地で、ゆうに100m四方の広さがあります。しかし、夏場になるとヤブになり、その全貌は見えなくなります。また熊が度々出没し、オオスズメバチの巣もたくさんあり危険なところです。「甲陽軍鑑」の編者といわれる小幡景憲は、この陣馬平とおぼしき場所に七棟の陣小屋がある絵図を残しており、東北大学の狩野文庫に所蔵されています。

 一番の原因は、昭和47年に国土地理院が地形図を改定した時に、妻女山の名称を本来の512.8mの円墳から赤坂山に持ってきてしまい、それが定着してしまったことです。地形図の三角点は、必ずしも地元でいう山頂にないことはよくあります。生坂村の大城は、地元でいう山頂の600m北に三角点があります。千曲市の一重山は、地元でいう矢代神社の上のピークではなく、地元では小島山と呼ぶ屋代城跡に三角点と名前が移ってしまいました。このように国土地理院や、申請した行政が勝手に地名や山名を改称してしまうことは、残念ながらよくあることです。私がよく登る山梨の山でも、行政が勝手に峠の名前を違う尾根に持って行ってしまい、地名が混乱している例があります。また、峠道を造った折りに県知事が勝手に峠の名前を付けて、さもそこが歴史的地名であるかのような誤解を招いている例もあります。町名もしかり。改称によって、歴史的事実や伝承が変えられてしまったり、途絶えてしまうことがあるのです。こういった行政の横暴は、悪意であれ善意であれ歴史の真実や住民の歴史までねじ曲げ、葬り去ってしまうことがあることを肝に銘じなければならないと思います。

 前述のように妻女山改称について悪意があったとは考えられませんが、以降の歴史検証に多大な誤解を招いたことは大問題です。いずれにしてもこの件の改称当時の事情をご存じの方が、岩野には既におられません。それが残念です。ただ親や祖父からこの話を聞いている人は何人もいます。この問題については、今後、岩野・清野・土口の古老の意見を聞き、旧家の古文書や村史を調べ、さらには松代町史をひもといてみる必要があると考えています。

 私の低山トレッキングルポ「モリモリキッズ」で「本当の妻女山フォトルポ」と、「清野氏の要害、鞍骨城についてのフォトルポ」をしており、詳しく説明していますので興味のある方はご覧になってください。また、2004年8月には、小笠原長時の金華山にある林城のフォトルポもあり、松代城の説明もあります。

 いずれにしましても、この機会に真実をつまびらかにしなければならないと考えています。

◉追記
「妻女山の位置と名称について」妻女山の真実「妻女山は往古赤坂山であった! 本当の妻女山は斎場山である」
 第四次川中島合戦の考察も。上杉謙信斎場山布陣図。武田別働隊経路図。啄木鳥戦法の考察など。
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